2024/09/12

<「二元論対立」VS.「相対論対立」のゆくえ>

書 名「DD(どっちもどっち)論-解決できない問題」には理由がある-
著 者 橘玲
出版社 集英社
初版日 2024年8月31日
20240911dd 読み終えた結論は「『善悪二元論的対立』と『どっちもどっち論的対立』」の対立も「どっちもどっち」。それは「虚無(きょむ)主義」ではなく「虚無(こむ)主義」というのではなか、と。
 三木清は「人生論ノート」にこう著しています。「生命とは虚無を搔き集める力である。それは虚無からの形成である。虚無を搔き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のようにことなっている。しかし虚無は人間の条件である。」、「人間は虚栄によって生きるということこそ、彼の生活にとって智慧が必要であることを示すものである。人生の智慧はすべて虚無に到らねばならぬ。」と。
 善悪、好悪、損得などなど二元論対立の深まる末法の世を力強く生き抜く智慧が「虚無(こむ)」でありそれは「Dochi mo Dochi」という開き直りなのかもしれません。
 赤いちゃんちゃんこを着た頃一回り若いエネルギッシュなビジネスマンとの縁ができました。彼は会うたびに「ヴァーサス」という言葉を連発します。意味を聞くと「versus」と綴り「VS.」と書くのだと教えてくれました。
 30歳の頃先輩社員から「なにごとも“闘い”ではなく“棲み分け”で考えろ」と今西進化論の存在を示唆され、以来今西進化論信者で生きてきたので、なにごとも「VS.」と考える思考に辟易していたことを思いだします。今は巷に溢れている言葉ですがうかつにも60歳になるまで日常的に耳にすることも眼にすることも聞いたことなかった。
 今時、日本国内も世界を見わたしても圧倒的に「VS.思考」が幅を利かせているように思います。なにかと会話もぎすぎす、途切れがちになる己れがいます。(苦笑)
 先日都心の大型書店の店頭を渉猟していたら、「DD(どっちもどっち)論」というタイトルのいい加減さに魅かれて著者のお名前も確かめずに衝動買いしてしまいました。「犬も歩けば棒にあたる」式の衝動買いは時折思いがけない出会いがある、だからたまらなくうれしくもあり有難くもあります。
 「ロシア(プーチン)VS.ウクライナ(ゼレンスキー)」、「イスラエル(ネタニヤフ)VS.パレスチナ(ハマス)、「中国VS.台湾」、「保守(右)VS.リベラル(左)」、「富裕層VS.貧困層」、「加害者VS.被害者」などなど今国の内、外、日常の話題を見回してもこの善悪二元論の種は尽きません。
 趣味の山歩きでも近年高齢者の登山事故も軽い道迷いでも遭難、遭難と脅され非難されてしまいます。「そうはいうけど」と、「けど、けど」を連発する相対論者の僕は口をつぐむ他ありません。問答無用ですから。
 著者の橘玲さんは、すっきり「どっちもどっち」と言葉にしてくれました。今度「VS.」論者との会話でぜひ使ってみたいフレーズです。 
 だって、現世とか世間ともいう人間世界は元来猿が言葉を発するようになって始まった世界、言葉によって意識化された世界、言葉がなければ人間は生きものではあっても人間ではないのですから。いやいや丁寧にいえば“生きもの”でさえないのですから。
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 あえて言葉にすれば「無」、「有VS.無」の「無」ではなく西田語の「絶対の無」です。「絶対」という語を挿入しないと「相対」を語ることはできないのです。
 言葉にはことばより奥にはたどり着けない自己言及性という言葉の壁があります。与野党の総裁選でにわかに「選択的夫婦別姓」が掲げられていますが、「男と女」のあいだも「VS.」ではなく「と」という相対的存在の立場に立てば「どっちもどっち」だから「どっちでもいい」に決まっています。目くじら立てて日本国家が壊れるなんていうことではないのです。それほど日本という国はやわではないのですから政治家たるものもっと日本という有り様に自信をもって事に当たって欲しいと願うばかりです。
                           書 名「女と文明」
                           者 者 梅梅棹忠夫
                           出版社 中公文庫
                           初版日 2020年6月22日
                               (1988年11月中公叢書)
 先見力の人梅棹忠夫さんは今を去ること67年前、1957年の論文「女と文明」にこう著しています。20240911_20240911151601
 「人間は、もはやこのほこるべき伝統にかがやく一夫一妻的家族を解消するほかない。完全な男女同権へのつよい傾向は、必然的にわたしたちをそこへみちびいてゆくであろう。・・・・・男を主権者として、それに子どもを配する男家族と、女を主権者として、それに子どもを配する女家族とが、ときに応じていろいろな組みあわせによって臨時の結合をする、というようなことにでもなるのであろうか、」
 「現代の文明の傾向としては、世界じゅうが、厳格な、かつ永続的な一夫一妻的家族だけを目標にしてすすんでいるようだし、すべてのモラルも、それをかためる方向にばかり目標にしてすすんでいるようだけれど、それは見かけだけのことだ。じっさいには、むしろそういう家族の解体の方向にわれわれはすすみつつある、ということだけはいえるのではないだろうか。女の力は、そこまでこなくてはとまらない。」と
 今時の若い世代の非婚化は「妻無用論」か「夫無用論」かこれも「どっちもどっち」なのでしょう。
書 名「人生論ノート」
著 者 三木清
出版社 角川ソフィア文庫
初版日 2017年3月25日
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2024/08/08

<「生命一般(森羅万象)の存在の根拠」としての「いのちの活き」>

書 名 「あいだ」
著 者 木村敏
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 2005年9月5日(2017年10月10日)
Photo_20240808102001 2024年8月5日(月)待ち侘びていた秋田駒ケ岳の梅雨が明けた。慌ただしく登山口の国見温泉森山荘へ投宿。山の急斜面にしつらえた露天風呂に浸かりつつ持参した文庫本をめくる。
 精神科臨床医にして哲学の人木村敏著「あいだ」を初めてめくったのもたしか7年ほど前の白馬鑓温泉、斜面に穿った露天風呂の湯舟だった。
 木村敏さんはプロローグに本書の前提の仮説としてこう著している。「この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。」と。
 ここにいう「生命一般の存在の根拠」は、因果推論的に説明可能な眼に見える関係性との根拠ではない。「それ自体は対象になりえない」「客観化不可能な」、「窮極的な次元の」根拠関係だと著者は著している。
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 コロナ禍の4年を経た今、露天風呂に浸かりながら考えることは、この「窮極的な次元にある」「生命一般の根拠」をあえて言葉にするとしたら,なんと言葉にしたらよいのか?だ。「語りえぬものを語る」哲学者野矢茂樹さんは、なんと言葉にするだろうか?「絶対に語りえないこと」を語るために。
 「いのちの活き」(いのちの活いていること)と言葉にしてみた。さらにその「いのちの活き」を「資本」と言葉(意識)にすると。資本はお金のそれだけでなく、近頃企業経営においても頻繁に使われる人的資本も「人のいのちの活き」と、文化資本も「文化のいのちの活き」と、地域資本も「地域(場)のいのちの活き」と言葉にできる。
 森羅万象のすべての生命の存在の根拠は「いのちの活き」(資本)として意識のうちに入ってくるのではないだろうか。「みずからとおのずから」の「あいだ」(あわい)に。
 今世界は危機のさなかにあると思う。それは人間が人間である以前に個としての「生きもの」であることを忘れてしまった人間第一主義のなせる危機ではないかと、思う。
 SDGsと唱え、脱CO2と唱え、ビニール袋を有料にして最終生活者に押しつけ、それで地球温暖化を防止できると思っているその思い上がりこそ人間第一主義の驕りではないか。何の躊躇いもなく「地球にやさしく」と語って憚らない。
 盛岡駅で田沢湖線を待つあいだ、いつもの癖でスマホを開けると、日経平均三日続けての暴落と報じている。まさに お金資本の暴流だ。これもまた「お金のいのちの活き」の顕現なのだ。個としての「己れのいのちの活き」と同じなのだ、と思う。
 個としての生きものはひたすら主体的に他者、他物のすべて、己れの家族さえも環境(の変化)として適応して生きていく。その他者、他物、家族にとって、己れもまた、環境(の変化)なのだ。「いのちの活き」に(おのずから)包まれつつ主体的に(みずから)森羅万象の「いのちの活き」を包んでいる、関係性として。
 暴流のごときお金の「いのちの活き」自身も主体的に、己れ自身の環境として「包まれつつ、包んでいる」。主体的にすべてを己れ自身のこととして如何に受け入れ適応していくかが、今問われていると思う。That is the quetionと。
 映画「風と共に去りぬ」のラストシーンで炎に包まれ燃え盛る屋敷を前にスカーレット・オハラも「Tomorrow is another day」とつぶやく。己れも今日のところは、スカーレットにあやかって、つぶやいておくことにしよう、「明日のことは明日考えよう」と。

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2024/07/18

<「ものとこと」の”あわい”>

20240607

1.「もの」と「こと」
 この頃50年余り連れ添ってきた老妻の朝の味噌汁の味、夕餉の煮物の味に変化がおきている。穏やかなまろやかな優しい味がします。今更にわかに料理が上手くなるとは考え難い。問い糺すとその秘密は縁者からいただいた「久原本家―茅乃舎のだし」だというのです。
 創業120年余の福岡の老舗醤油蔵久原本家の商品だという。インターネットで検索すると素晴らしい経営をしておられます。HPを開いてみると経営理念には「モノ言わぬモノにモノ言わすモノづくり」とあります。近年、流行の「コトづくり」と謳っていないところがとってもいいですね。物事は「物と事」、そして「もの即こと」、「こと」は「“もの”が活いている“こと”、変化してやまない“こと”ですから“こと”をつくることはできません。活きた「あご」(飛び魚)が原料になった(死んだ)とき、“モノ”になるのであり、“コト”は生きている“モノ”そのものの活きであり、「あご」の有っている“こと”をつくることはできません。だから理念も「モノ言わすモノづくり」、と締めているのでしょう。                                   
                               図1.「久原本家の理念」                                                          
20240607_20240718135301 「久原本家100の言葉」というものもあるそうです。新社会人向けに選んだ言葉がHPにあります。これを読むと残りの90も知りたくなります。
3.「ありがとうを毎日の習慣に」
7.「従業員は家族」
32.「感性を磨く」
36.「夢に日付を」
40.「自分の得意なものさしを見つけよ」
60.「家族の思い出や絆をつくる仕事」
77.「私がやらねば誰がやる」
88.「凡事徹底すべし」
98.「売上はお客様の喜びの数」
100.「利他」
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2.「ものづくり」か「ことづくり」か?
 仏師が原木を前にして鑿を振るうとき、原木の中にすでに仏がそなわっていて、それをひたすら取り出すだけで、そこに己れの創作の手柄はないという話を聞いたことがあります。凡人の僕は唯々想像するだけですが。
 原木も生きている「“こと”であり“もの”」、仏師も活いている{“こと“であり、”もの“}、互いに「もの即こと}の絶対矛盾的自己同一の個としての存在が、さらに一つになった全体として存在します。西田哲学に「物となって見、物となって考へ、物となって働く」ということばがあります。原木と向き合う仏師の心をいっているようにも思えます。
<図2.「あわい」と「あいだ」
  20240608“今ここ”で互いに物となるとき物と物の間の自他未分の絶対現在に一体となる。仏教にも自然法爾(あるがまま)とあります。
3.―“みずから”と“おのずから”のあわい-
 能、狂言の言葉に「あわい」があると、能楽師安田登さんはいいます。広辞苑を引くと「物と物、時と時のあいだ。すきま」とあります。「物と物」「時と時」の「あいだ」はスパッと切れた断絶のイメージがあります。
 安田登さんは著書「集中講義 平家物語-こうして時代は転換した-」の冒頭で、「あわい」についてこう著しています。「『あいだ』の語源は『空き処』で、AとBに挟まれた空間をいいます。それに対して、『あわい』は『合う』を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。」と。
 「あいだ」と「あわい」はそのイメージがまったく違うというのです。「あわい」は「淡い」でもあり杵つき餅のように伸びていく有り様で、ブツブツと、断絶していないというのです。
 広辞苑には「物と物、人と人との組み合わせ」とありますから、「あわい」はこのイメージが強いです。図にしてみました。
 図1.「あわい」と「あいだ」の右の図が「あいだ」のイメージです。「他と自」、「自然と人間」、「未来と過去」、ここにいう「と」は「あいだ」のことです。「と」は、言葉によって分断された言葉と言葉の間のことです。
 ですからもともと言葉以前には左の「あわい」の状態にあった“ものこと”を言葉にすることによって切れ切れに「あいだ」が生じるのです。「ものこと」の本来の有り様が「あわい」なのだと著者はいいます。
 そこは「いのちの活く」“場”であり、森羅万象のいのちがそこに活いています。「ゆらぎ」“場”であり、諸行無常(変化してやまない)の有り様をしています。
 著者は平家物語を「時と時」の間の貴族政治から武家政治への「あわいの時代」の物語だといいます。その「あわい」を生きている貴族、平家、源氏のそれぞれは「あわいの“場”の変化」(前適応型変化)を知ることはできない、といいます。ですから、平家物語も鎌倉幕府が成立し貴族政権から武家政権へ移行して後に平家一門の盛衰として語った物語です。
 能の舞台にしばしば平家の怨霊が現われます。平家の一門は「あわい」を生きていなかったのでしょう。“こと”としてすでに滅んでいるのに、“もの”は壇ノ浦という時空のはざまに沈んだまま怨霊として「あわい」を流離っています。
 能の舞台ではその「あわい」を流離う怨霊を鎮魂することで、「あわい」の不可逆な非連続の連続の流れを覚っていくのではないでしょうか。とはえい平家は桓武天皇、源氏は嵯峨天皇を始祖とする血脈の流れですから、政治権力そのものも「あいだ」ではなく、「あわい」の流れの渦中にある存在ではあったのです。
4.“もの”と“こと”
 西田哲学にいう「物となって見、物となって考へ、物となって働く」は「永遠の今の自己限定」ともいっています。
 久原本家茅乃舎の”だし”はとても美味しくて今では我が家の常備品になっています。ですがちょっと気になるところがあります。理念にある「モノ言わす」です。ここに自我、自利の匂いというか、強さを感じるのです。親鸞のいう自力のにおいが漂います。
 「モノ言わぬモノにモノ言わすモノづくり」が「モノがモノ言うモノづくり」と変じると、「みずからとおのずからのあわい」が、そして西田哲学にいう「物となって見、物となって考へ、物となって働く」の”活き”が活き活きとしてくるように思うのですが、いかがでしょうか?
 このところの円安、物価上昇も突然の「あいだ」の出来事ではなく、安倍・黒田ミクスの10年余りにわたる円の大増発、ゼロ金利の深層に流れていた流れが表層へ奔流になって表出した「あわい」の物語、そして今、あがる第二幕ははどんな物語になるのでしょうか。楽しみでもあり怖くもあります。両の手で眼を覆いながら指の間からかいま見るばかり恐々と。

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2024/06/24

<「カムイ伝講義」と都知事選と>

2024年6月23日東京新聞コラム「時代を読む」から
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 2008年10月出版の著書「カムイ伝講義」を手にして以来の田中優子さんフアン。冒頭を「折りたく柴の記」から語りはじめる短いコラムに極上の味と香りをぎっしり詰め込んだ重厚な幕の内弁当を味わった気分になり、思わずFBからシェアさせてもらいました。
 学生の頃月刊ガロに連載されていた白戸三平の「カムイ伝」。途切れ途切れに読んで貧乏学生故か深く己の価値観に沁み込んだ「カムイ伝」。それをベースに人間社会の統治の仕組み、人心、経済​、生態系などなどきわめて論理的でありながら生きものとしての人間の生き様を活き活きと描いています。このとき、学生時代にはできなかった大人買いで劇画「カムイ伝」も一気に読み返しました。(苦笑)
20240718 初版から16年余、今は「ちくま文庫」におさめられています。
 「カムイ伝講義」初版の帯には「いまの日本はカムイの時代とちっとも変っていない」「競争原理主義が生み出した新たな格差・差別構造を前に立ちすくむ日本人へ」とあります。
 出版から16年余り、格差化貧困化は目に見えない深層に深化しています。混迷を深める今の日本社会のこの混迷の道を如何に歩いていけばよいのか一筋の光が見えてくるかもしれません。
 それにしてもこのコラム「政治家とは?」理路整然と語ってくれています。

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2024/06/15

<映画「関心領域」を観て>

20240614 映画のタイトルの言葉が気がかりでヒューマントラストシネマ渋谷へ。いつもの癖で入り口でパンフレットを買い席につき、早速表紙を見ると「強制収容所という“鏡”が映す人間の本質」と印刷してあります。まさに映画のタイトルそのものです。“関心領域”とは。
 父親がシベリアの強制収容所からヨレヨレの戦闘帽をかぶり身一つで僕の前に立ち「父親だ」と名乗ったのは僕が5歳の頃でした。僕が「夜と霧」を手にした高校生の頃、表紙を見て父親がいったことを思い出します。己れが実体験したソ連の強制収容所とドイツのユダヤ人絶滅収容所の決定的な違いです。書物の表紙、パンフレットの表紙さえも、一人ひとりの人間にとっての“関心領域”なのです。その“内と外“。
 父親はいいます。シベリアの収容所は強制労働が目的だから目標(ノルマ)を達成すれば体力維持・回復に十分な食料が支給される、目標(ノルマ)を超えた成果を出せばその分加配もあったのだ、と。
 ドイツの絶滅収容所はユダヤ人の根絶が目的だから、所持品没収はもちろんのこと、人間の身体に残るエネルギーのすべてを強制労働で吸い尽くして後、ガス室へ送り焼却するのだ、エネルギー搾取の過程だから食事の支給も体力維持には及ばない。外観や噂からは似たようにみえる強制収容所と絶滅収容所も目的が違うと扱いもまったく異なるという、個々人の“関心領域”の内と外、そこに人間の本質がある。だから父親にとってはシベリア強制収容所ではなく、ソ連強制収容所だったのでしょう。そしてナチス強制収容所ではなくドイツ絶滅収容所。
  歴史小説家塩野七生さんは「ローマ人の物語(Ⅵ)-パクス・ロマーナ-」の冒頭で、カエサルの言葉に口寄せして語りかけています。「読者に」と。
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 「ユリウス・カエサルの言葉のなかで、私が最も好きなのは次の一句である。『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない』」と。1997年7月7日のことです。
 さらに2001年刊の著書「ルネサンスとは何であったのか」では先の一句に続けて「その例証としては適当かどうかわかりませんが、一般のドイツ人と強制収容所に送られて死んだユダヤ人を思い起こしてください。ドイツ人の多くは、強制収容所が存在することは知っていた。昨日まで親しくしていた友人が突然に姿を消したのにも気づかなかったはずはない。ただ、そういうことは見たくないし考えたくないと思い続けているうちに、実際に見えなくなり、考えなくなってしまったのです。戦争が終わったとき、ドイツ人は一様に言った。われわれは知らなかったのだ、と。これは、知りたくないと思いつづけたからにすぎません。」と。
 まさにこの映画の主題そのものであり、人間一人ひとり個々人の心(意識)の本性に潜む危うさでありおぞましさではないでしょうか。もちろんキーを叩いている己れ自身も、です。
 映画はアウシュビッツのユダヤ人絶滅収容所の内と外、壁によって切り分けられた内側に暮らす平和で幸せで豊かな家族の日常生活が描かれています。家族の住む家の窓外に拡がる壁の外の空に、濃く薄く立ち昇る黒い煙に青空はありません。その黒煙も、塀の外にこだまし塀の内へ漏れ出る悲鳴も、幸せな家族には見えることも、聞こえることも、知ることもないのです。
 描かれている幸せな家族はアウシュビッツ絶滅収容所の所長ルドルフ・ヘス一家、一家の幸せの源泉が塀の外から聞こえる只々の音、只々の煙、只々のにおい、それらは家族の五官ではとらえることもできません。
 人間の心(意識)の指向性の都合のいい狭隘さ、恐ろしさが映像から伝わってきます。字幕に「生産性」「効率」の文字が浮き上がってきます。新しい焼却炉の設計に生産性の向上が謳われ主人公のルドルフ・ヘスはそれよって出世し、単身赴任していきます。家族はアウシュビッツ絶滅収容所隣の内にある幸せを手放したくないというのです。ここでも「Why?」、「何のため?」という内への問いはありません。
 塩野七生さんはカエサルの言葉の「・・・・・多くの人は見たいと欲する現実しか見ない」の後を「こうは思いながらもカエサルは、指導層の中でも才能に恵まれた人々には、見たいと欲しない現実まで見せようと欲したのではなかったか。」、と結んでいます。カエサルを愛する塩野七生さんならではの表現です。
 映画監督ジョナサン・グレイザーもカエサルと同じ思いからこの映画を製作したのかもしれない、と思いつつ映画館を背に渋谷の交差点の雑踏へ、渋谷の高層ビル群が分かつ青空を見上げていました。
  映画の主役アウシュヴィッ絶滅収容所所長ルドルフ・ヘス、とその妻ヘートヴィヒの関心領域の内と外、“今ここ”の現在の日本人の関心領域の内と外、パレスチナの壁の内と外、ウクライナの国境の内と外と、どこが違ってどこが同じなのか、監督ジョナサン・グレイザーは、「みずから内なる己れに問え!」と語り掛けているように思います。
 超のつく円安、そして賃金、年金受給額の実質的目減り、消費税のおのずからなる負担増、日本のエスタブリッシュメントの“関心領域”では消費税ではあっても、生活者である国民にとっての“関心領域”では己れの生活に直接課税される生活税です。生活物価の上昇波は、そのまま消費(生活)税増と二重の波となって低所得層に襲い掛かっています。富裕層は資産インフレで一層豊かになり、それだけで格差は拡大しています。持たざる者にはもともと持たないが故に気づけない。
 余談ですが、日本のような資本主義社会で法的に保証しているはずの最低賃金は、国民の基本的人権を保証するに足る額を満たしているのでしょうか。非婚、少子化は何を発信しているのか?すべては”関心領域”の内と外?

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2024/05/14

「語りえぬ”もの”を語る」(4)オートポイエーシスから自己言及性へ

「語りえの“もの”を語る」(4)
 -オートポイエーシスから自己言及性へ、そしてひとから人間へ-
1.自己言及性
書 名 「自己言及性について」-社会システム理論の全貌を見通す画期的著作―
著 者 ニクラス・ルーマン
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 2016年5月10日
20240514
 哲学者野矢茂樹さんの著書「語りえぬものを語る」に導かれて一枚のパワポ(図1)を描いてみました。パワポになると少し自分なりに見えてくるものがあります。著者は図1の④から①へと言葉を紡ぐことを通して「⓪永遠に語りえぬ“こと”」へ迫っていきます。哲学することとは言葉を紡ぐことであり言葉によって⓪へ肉薄することだ、と解いておられるように思えます。                  
          図1.「語りえぬ”もの”を語る」  
20240104_20240514154201

 

 

 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは、「人間とは“生きもの的存在”と“社会的存在”の二重性を生きる存在だ」といっています。図2のイメージです。ここにいう二重性とは“矛盾”ですが、へーゲル哲学にいう止揚する相対矛盾ではなく、西田哲学にいう絶対矛盾のことです。矛盾という言葉は文字通り“矛”と“盾”、あるがまま止揚することなく、同時存在のまま絡み合いながら、経巡り変化していく“こと”です。
 家族、国家、貨幣、倫理等々人間社会を規定する概念はすべて言葉由来ですから人間社会は言葉によって構造化された相対世界です。野矢哲学は④→①へ、と限りなく⓪に迫りつつ人間の社会的存在の有り様を語っているのでしょう。
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                           図2.「人間存在の二重性」
20240205_20240514135301 野矢哲学をもってしても基層にある⓪「永遠に語りえない“こと”」は語ることはできません。そこは言葉の及ばない世界ですから。それが言葉の本質に潜む自己言及性です。
 この自己言及性は「『クレタ人は嘘つきだ!』と、クレタ人は言った。この話は嘘か真か」というエピメニデスのパラドックスとして知られています。聖書にも言及されていると聞きました。
図6.「群盲象を評す」
Photo_20240514140501図6.「群盲象を評す」もこの自己言及性のことを譬えています。象の巨体にへばりついている人間には、象という巨体のすべてをみて、その全貌を言葉で語ることは誰にもできない、人間は全体でもありながら、全体(宇宙)に包まれている存在なのですから。
  いつだったか、「日本人には思想がない」と語る若きエリートと出会いました。これもまさに自己言及性です。思わず「あなたが日本人なら己れにも思想がない」と言っていることになるのでは?。「日本人には“無”の思想があると思うけど。」と問い返すと、くだんのエリートはキョトンとしていました。彼を批判しているのではなく、これが言葉の有つ自己言及性という病いです。空海は「言葉は器だ!」といったといいます。言葉を使うとき必ずその器から漏れるものがあるという戒めではないでしょうか。
 クレタ人や群盲にも譬えられる人間は言葉を使うとき、あらゆる論理、言説はすべからくこの法則に支配されていて、お釈迦様でさえ逃れることはできません。謙虚なお釈迦さまは弟子から「死後のこと」を問われたびに「知らん」と答えたそうです。だから己れが言葉を使うとき、己れはクレタ人の一人であり、群盲の一人だ、全体を俯瞰して語る絶対神の立ち位置からは何事をも語ることはできない。己れを自己言及性の呪縛から解き放つことはできないという自戒が必要なのだと思うのです。そういえば、GWの渋谷のスクランブル交差点の巨大看板に「人類よ、この惑星は猿のものだ」と警告が出ていました。 
                             図7.「鶏が先か?卵が先か?」
Photo_20240514144401 自己言及性をパワポにすると図7.「鶏が先か?卵が先か?」の自己循環になります。これは「卵が先か?鶏が先か?の終わりのない問い返しです。いやいや終わりはありますね。終わりは「絶対の神」か「絶対の無」か?そこはまた始源でもあります。
 経済学者岩井克人さんもいうように、「貨幣は他人が受取るから己れも受け取る」のであり、神は信じるから存在し、存在するから信じるのです。クレタ人の話は聖書にも記されているといいます。造物主としての神の実在を信じることは、森羅万象のすべては個としての実在だから、言葉の世界も個と個を分断する二元論にならざるをえません。男と女、善と悪、美と醜、敵か味方か、・・・・・。
 余談ですが、近年の日本社会の混迷もこの言葉の有つ本質である自己言及性にあるように思います。岸田首相ご自身が語る「聞く力」は掲げた手帳によって示されてます。「聞く耳」も確かに二つ確かめることはできます。それらは”もの”ですから。しかし岸田政権が「何のために、何を聞き、何をなすか?」はそのとき、国民の眼にははみえません。それは”こと”ですから。首相の「聞く力」も自己言及性の一つの有り様です。「聞く力があることはご自認することはできても他認はできないのです。たとえ首相の力をもってしても。
 政治資金にまつわる与・野党、マスコミ、国民を巻き込んだ言葉のキャッチボールも「善悪無記」、自己言及性の果てしない物語なのではないでしょうか。
 経営用語として頻繁に使われている効率、生産性、付加価値、利益といった言葉の有つ自己言及性も部分最適な概念であるがゆえに、全体最適を指向するはずの企業経営者の意思決定の混迷に深くかかわっています。 
 人間は言語というウィルスに罹患して遺伝子を書き換えられた猿なのでしょう。ウィルスはDNAを有たないのですから遺伝子を書き換えられた猿の自己増殖(オートポイエーシス)を通して人間そして人間社会の自己増殖が拡がってきたのかもしれません。
お金もいのちの活きを有った言語ウイルスの亜種ですから、効き目のいいワクチンは道元の言葉「不立文字」とか、親鸞の言葉「南無阿弥陀仏」でしょうか。「毒は毒をもって制す」といいます。自己言及性とはメビウスの輪に象徴される永遠の自己循環なのでしょう。
2.オートポイエーシス
書 名「知恵の樹」-生きている世界はどのようにして生まれるのか-
著 者 ウンベルト・マトラーナ&フランシスコ・バレーラ
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 1997年12月10日

20240514_20240514143901 N・ルーマンの「自己言及性について」は「第1章社会システムのオートポイエーシス」から始まります。
 「心的システムも、そして社会システムでさえも、生命システムであるということに問題はないように思える。生命を欠いた意識や社会システムがありうるだろうか。ありえないとすれば、そして生命がオートポイエーシスと定義されるならば、・・・・・オートポイエーシスと生命の密接な関係を保っておいたままこの概念をさらに心的システムおよび社会システムに適用することができる」と。
 自己言及性に先立ってオートポイエーシスがあるといっています。心的システムは言葉によって組成される意識システムであり、その意識システムから言葉によって自己言及的に社会システムも組成されていくといいます。
 図2.「人間存在の二重性」の右の「生きもの的存在」はオートポイエーシスの流れであり、左の社会的存在は自己言及性の流れ、二つの流れは別々のものではなく、同時存在の流れであり、人間の「いのちの活き」はこの二つの流れの絶対矛盾的自己同一の有り様だということです。
 オートポイエーシス(自己組織化)の流れは138億年前の宇宙創成から48億年前の地球創成へ、38億年前の生命の誕生へ、5万年前の生きものとしての人間への進化(変化)として流れています。そして5万年前、ひとは言語を操るようになって現生人類の流れを歩き始めたのです。
 物理学そして量子力学へという近代科学の流れは「量子→原子→分子→無機物→有機物→微生物→生物」の流れを実験を通して明らかにしています。その流れに活いている目に見えない流れをマトゥラーナ&バレーラはオートポイエーシと言葉にしています。
3.「いのちの活き」とは永遠の“→”
                       図8.オートポイエーシスから自己言及性へ

20240511  オートポイエーシスから自己言及性への流れを図8.「オートポイエーシス」にしてみました。オートポイエーシスの本質として、図8.右上に記した以下の4つをあげています。
①自律性(動的平衡)
②個体性
③境界の自己決定
④入力と出力の不在
 ここではオートポイエーシスの流れをイメージが湧くように「いのちの活き」と言葉にしてみました。人間のいのちの活きは自己言及性をも含むことになります。「いのちの活き」はエントロピー増大(無秩序化)の法則に逆らって秩序化し個体を形成していく方向性を有った流れです。エントロピー増大の法則によって細胞が破壊されるに先んじて自律的に細胞を破壊し再生しつつ個体を維持していく動的平衡な流れの存在です。
 個体としての己れの死も「いのちの活き」の断絶ではなく「いのちの活き」の流れの渦中にあり、死と再生のあいだに環境の変化に適応する契機があります。
 オートポイエーシスの本質の②個体性は③境界の自己決定を伴い、それは量子的存在を最小とし個体の自律性を高めていく流れです。それは言葉の自己言及性の流れにつながっていきます。図8.「オートポイエーシス」の下の個体の自律性の最小から最大への流れです。
 言葉を有つことによって猿と別れた人間は、他者と共に活きる仕組みを群れではなく、家族という言葉を、部族という言葉を、造語し国家という集団へと「いのちの活き」の活き易さを求めてきました。個体の活き易さを求める人間社会も個体の自律を求めるあまりに、逆説的に今、ウクライナの戦乱、ガザの虐殺を招き、日中対立の危機を招こうとしています。
 日本社会の非婚化、少子化、夫婦別姓、同性婚、多様性等々の諸問題も、この個体の自律の最大化への流れの渦中の有り様ではないでしょうか。さすれば問題解決のための「全体のいのちの活き」の最適化へ向けて新しい社会システム(言語由来)も生まれてくるであろうことを祈るのみです。N・ルーマン著「自己言及性について」の冒頭の「心的システムも社会システムも生命システムである」を信じて。
 4.「生と死」と「死と生」のあいだに
 いのちの活きは「生→死→生→死→」と永遠の循環の流れに活いている目に見えない“こと”として活いています。さらに、個体のいのちの活きは「生→死」の間の“→”に有り、「死→生」の間の“→”に「いのちの活き」の最も純なる“こと”、全体の「いのちの活き」が流れています。
 図1.の⓪絶対言葉にできない“こと”がその全体の「いのちの活き」の流れのことなのではないでしょうか。ですが、近代科学も哲学も言葉の自己言及性から脱がれることはできないのですからそれも①永遠に語りえぬ“もの”としての存在に留まらざるを得ないのでしょう。
<追伸>
 渋谷のスクランブル交差点の巨大看板(場所が場所ですから東急系の仕掛け?)は「猿の惑星ーキングダム」の宣伝でした。早速都心の音響も映像もダイナミックな大スクリーンの前方の席で鑑賞しました。いつもの老人割引より700円ほど高い料金でしたがその迫力の没入感にしびれました。ストーリは、人工ウィルスによって言葉を使うようになった猿と言葉を失った人間とのせめぎ合い、その惑星は猿のものでした。猿と人間は戦うことなく、言葉を取り戻した人間は地球へ帰還する物語、帰還する地球は大丈夫なのかと案じつつスクリーンを後にしました。
<参考>
図1.「語りえぬものを語る」
<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<「語りえぬ”もの”を語る」(2)-「資本」の意味する”こと”->: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<「語りえぬ”もの”を語る」(3)>                      -経営とは「いのちの活き」の全機現-: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図2.「人間存在の二重性」
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図7.「鶏が先か卵が先か」
<“サトシ・ナカモト”は“神”になるか?>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2024/02/17

<「語りえぬ”もの”を語る」(3)>                      -経営とは「いのちの活き」の全機現-

6.個と全体の二重性 
 個を全部足すと全部になりますが、全体にはなりません。とかく言葉の概念の違いを混同してしまいます。部品を全部集めれば機械は動きます。個は部品ではないから個を全部集めても全体にはなりません。戦前の日本の政治体制、ナチスのそれは、正しくは国民を部品として扱った全部主義といったほうが誤解が生じないと常々思っているのです。
 個と個は二元論では切り分けられない“こと”、個と個のあいだに言葉にできないゆらぎがあるからです。「場の思想」を提唱する哲学者清水博さんは卵のたとえ話をされます。生卵を三個割って一つの器に入れると白身は流れて繋がりますが黄身は個々別々に独立して盛り上がっています。黄身だけを集めても卵にはならない、と。
「全体」という言葉は図1.「語りえぬものを語る」の最下層の「⓪.絶対(永遠)に語りえぬ“こと”」を仮名(けみょう)して「①」の“もの”としたのではないでしょうか。
 俳人山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」があります。俳句の型を破って季語も五七五もない自由律で詩って、詩って詩っても詩い尽くせない「何か」とは。僕にはそれは「この世」、とも「人生」とも「大自然」とも思えるのですが。哲学者野矢茂樹さんにもきっと「語りえぬ“もの”」が残るのではないでしょうか。その「残る」ものも含めて全体は全体としてあるのだと思います。個と全体の絶対矛盾的自己同一として。
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7.「One for all -all for One」
図3.「家族のいのちの活き」
20240215  家族を構成する「夫・妻・子」個々の個としての命は家族という場の上で活いています。 清水博さんの「場の思想」を借りれば、三つの黄身を包む周囲の白身が家族という場であり、そこにも場としての「いのちの活き」があります。夫、妻、子の個としてのいのちは家族という全体のいのちの活きの上で個として活きつつ、同時にそれが家族という全体のいのちを活かせています。個は全体のいのちを活かせ、全体のいのちの活きによって活かされているという相互の有り様がメビウスの輪に象徴される”こと”であり、宇宙の有り様です。
 図3.家族の三つの個の重なった場の下層には言葉のいのちの活きの世間(現世)という場があります。「家族のいのちの活き」はその世間という名の場によって支えられ活かされています。それは、さらに下層の大自然(宇宙)のいのちの活きによって活かされています。メビウスの輪の象徴する「活かし活かされる」というの永遠の循環は、輪の真ん中の空間の宇宙の有り様を象徴した姿です。
 ラグビーにいわれる「One for all all -All for One」、「一人はみんなのために、みんなは全体のために」の初めの「One」は個、終わりの「One」は全体としての一という意味だと思います。試合の相手チームも、スタジアムの観客も、等々すべての「いのちの活き」のために最善を尽くす,ラグビー場が包む森羅万象のすべてが全体であり、宇宙のいのちの活きの顕現でありたいと。全体最適を目指すこと、禅語にいう「全機現」ということではないでしょうか。
8.経営とは「いのちの活き」の全機現
                            図4.「企業のいのちの活き」
 20240215_20240215202101企業を成り立たせている主な“もの”は図4.「企業のいのちの活き」、にあるように①.株主、②.経営者、③.従業員、④.顧客、⑤お金、⑥世間(言語世界)、⑦宇宙(森羅万象)、⑧商品・サービス、です。
 日本人の「商い」のあり方の姿とされる言葉に「売り手良し、買い手良し、世間良し」があります。近年若い経営学者の中にもそれを「ウィン、ウィン、ウィン」と言葉にする方がおられるので驚きです。言葉に潜む二元論の危うさに気づかず全体が見えない危うさです。
 「商い」の根源にある「利他≒お役立ち」そして「良し」を勝ち負けの「ウィン」といい、あまつさえ、全体概念の世間をも個として「個・個・個」と扱い、全体という概念が心(意識)の内にないのです。「心」こそ「いのちの活き」そのものです。「人間は見たいと欲する“もの”しか見ない」のです。野矢茂樹さんが「哲学への誘い」として「語りえぬ“もの”を語る」と著する所以もここにあると思うのです。経営学、経済学といったジャンルに携わる人こそ「哲学する」ことが求められるのではないか?と自戒を込めつつ思うのです。
 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”ここで忘れがちな“もの”が、④.顧客、⑤.お金、⑥.世間(現世)、⑦.宇宙(大自然)、⑧商品・サービスです。己れの都合でしか”もの”を見ていないと売上が立った刹那に④~⑧をすっかり忘れてしまいます。ダイハツは④も⑥⑧をも忘れ、ビックモーター、損保ジャパンは④、⑧のみならず目の前の街路樹という⑥も見えていなかったのです。環境破壊が叫ばれ、SDGsと叫んでも肝心の⑦の大自然はみえていません。
 そして意外に見えていないのが⑤.お金です。企業という「場」のいのちの活きの全体を活かしている「お金のいのちの活き」を表現している会計の基本の姿を多くの企業経営者が従業員に教えていないのです。
 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”は「“もの”即“こと”」のメビウスの輪の有り様として“こと”が「不一不二」として伴っています。それが“もの”を活かせている「いのちの活き」です。①~⑧のすべてが「場のいのちの上で活き、かつ場のいのちを活かせて」います。あらためて確認すると、図4.の真ん中、「いのちの活き」のすべてが重層的に重なったところがここにいう「企業のいのち」であり、重層的に個々のいのちが活いている「場」です。
9.経営に終わりはない
 禅語の「全機現」は「いのちの活き」がフルに発揮することです。経営とは図4.の中心の場としての企業のいのちの活きと場の上で活く、個のいのちの活き、メビウスの輪に象徴される絶対矛盾的自己同一を全機しつつ循環していく流れです。
図5.「経営に終わりはない」
20240215_20240217151901 日本人の哲学を世界に問うた哲学者西田幾多郎さんは著書「善の研究」に「全き善」として「自他相忘れ、主客相没するところ」と著しています。「ところ」は「場」のことであり、そこは言葉の二元論で、己れと他者、他物を分かつ前、主体と客体の分かれる刹那の今のところです。
「経営とは」、その「場」であり、刹那の今(時空)を「今→今→今→」と活きつつ循環していく“こと”、永遠の今を活いていく”こと”ではないかと想うのです。そんな想いを図.4「経営に終わりはない」と描いてみました。<続く>

 

 

 

図3.「家族のいのちの活き」
映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「いのちの居場所・居場所のいのち」書名「場の思想」清水博著を読む: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「居場所つくり」書名「もしイノ」岩崎夏海著を読む: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図4.「企業のいのちの活き」
「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2): ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<「資本主義の修理法―目的は金もうけじゃなくていい-」>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図5.「経営に終わりはない」
経営に終わりはない: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「いのちの居場所・居場所のいのち」書名「場の思想」清水博著を読む: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「居場所つくり」書名「もしイノ」岩崎夏海著を読む: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2): ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<資本論(虚)と貨幣論(実)>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる!「イデオロギー生起の前に考えること」>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)


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2024/02/11

<「語りえぬ”もの”を語る」(2)-「資本」の意味する”こと”->

4.人間社会(現世)は言葉が紡ぎ出す意識の世界
(図2)
20240205 当ブログで何度か図2生物的存在と社会的存在の絶対矛盾的自己同一を紹介してきました。経済学者岩井克人さんは著書「資本主義から市民主義へ」の中で人間は遺伝子によって継承される「生きもの的存在」と言語由来の「社会的存在」の二重性を生きる存在だ」と著しています。この二重性は二元論で切り分けることのできない絶対矛盾的自己同一の有り様をしています。詳細は下記ブログに譲り先へ進むことにします。
<生物的存在と社会的存在の二重性>
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
 著者野矢茂樹さんのこの本の帯には「哲学への誘い」とあります。下山路の道標に刻まれた傘寿の二文字を横目に通り過ぎた身が今さら知力を鍛えても、と思いつつも哲学志望の30代の若者の勧めのままに手元においた一冊です。「老いては若者に従え!」のことわざの通り、有難い一冊になりました。
 著者があとがきに「語ることには4つの層がある」と著していますが、言語由来の社会的存在が人間社会(現世)ですから4階層を下降していく過程(“こと”)が「Why」、「何のために」と人間の社会的存在を形成している言葉、論理を自己否定し続けることになるのでしょう。
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 哲学する“こと”と科学する“こと”が対になって問い続け、「⓪「永遠に語りえぬ“こと”」を言葉の力を借りて仮名(けみょう)しつつ「生きもの的存在」の「いのちの活き」さらにはその奥の大自然、宇宙といった「いのちの活き」の始源に思いを馳せ、「生きもの的存在」と「社会的存在」のはざまの絶対矛盾的自己同一という人間が負っている宿命を問い続けることなのかもしれません。
5.資本という言葉のもつ概念を広げると?
 書 名 「文化資本の経営」
                -これからの時代、企業と経営者が考えなくればならないこと-
著 者 福原義春+文化資本研究会
 出版社 ニューズビックス
 初 版 2023年12月26日(1999年初出版)
20240205_20240210142001 久々に都心の馴染みの書店の平済みの新刊書を渉猟しました。25年前にも一度手にしたはずの書の復刻版が出版されています。昨秋資生堂中興の祖といわれる福原義春さんが亡くなられた追悼の想いも込められているのでしょうか。当時は読み終えてもピンとこなかったし再読する気にもなれなかった本、タイトルの「文化」と「資本」がつながってこないのです。
 二つの言葉に抱いている己れの概念の狭さゆえだったのでしょう。矢野茂樹著「語りえぬ“もの”を語る」の存在を教えてくれた若い哲学探究者がこの時もう一人の哲学者山本哲士さんの存在を教えてくれていました。なんと「文化資本経営」の著者として記されている「+文化研究会」の理論的基盤の文化研究会の主宰者です。まさに未来は偶然、過去は必然とはこのことでしょうか。
書 名 「甦えれ 資本経済の力」-文化資本と知的資本の力-
著 者 山本哲士
出版社 (株)文化科学高等研究院出版局
 初 版 2021年2月28日
20240205_20240210140801 山本哲士さんの著書「甦えれ 資本経済の力」にはこう著されています。(P20)「わたしは、すべてが『資本capital』と考えています。」さらに「文化資本」、「社会資本」、「経済資本」、「象徴資本」、「言語資本」、「環境資本」そして「個々人の力能も資本だ」と。
 そういえば「貨幣資本」ともいいますから資本は貨幣固有のものではなさそうです。「資本」をマルクス語、経済学語の概念に囚われていてはまったく見えてこないのです。漢字も表意文字なのでイメージが狭小化されます。四文字の間に「と」を入れて引き離すと漢字二文字の関係性が見えてきます。西欧的二元論ではなく、「即非の論理」として。
 複式簿記の四つの漢字「借方貸方」では借方は「資産」貸方は「資本」です。「資本」とは眼に見える「資産」を成り立たせている眼に見えない「何か」です。そうなんです。「色即是空」ですから「“もの”と“こと”」、“こと”とは「いのちの活き」のことです。貨幣を成り立たせている「いのちの活き」を資本」と仮名(けみよう)したんですね。
 「文化と資本」と、分ければ文化を成り立たせている「何か」です。そして「言語資本」とも著しておられますから、図2の左側、言語由来の「社会的存在」を成り立たせている右側が「いのちの活き」です。
 資本を貨幣の側面からのみとらえて経済成長至上主義、GDP第一主義、個々の企業にあっては売上、利益を目的とすることが資本主義と捉えて「強欲資本主義」、「資本主義の終焉」と揶揄しても何も変わりません。
 資本とは人間社会という“もの”を成り立たせている、変化してやまない“こと”、「いのちの活き」のことだ、と概念化できれば、如何に「いのちを活かせていくか」己れ自身の価値観にかかってきます。人間世界は相対界ですから、「いのちの活き」の奥の奥、根源の大自然、宇宙のいのちの活き」まで思いを馳せ、文化の有り様、自然の有り様へと価値観を広げていけば、生き方、働き方も変わっていくのかもしれません。
 近年、若い人たちの中に現在の仕事を辞め、寿司職人の修行をして海外へ出て日本国内の賃金の二倍、三倍を得ているという話題もあります。日本の寿司文化の資本(いのちの活き」を生かす(活かせる)ことで、己れのいのちをも活かせている、という表現もできます。
 己れの「いのちの活き」を如何に活かせるか?「自己責任」と勝ち組に背中から罵声を浴びせられる前に、漢字四文字のあいだに「の」を挟んで、「自己の責任」それは「己れのいのちは己れで守る」という意味だと、物騒に聞こえるかもしれませんが覚悟を固める時なのかもしれません。<つづく>

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2024/02/10

<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->

書 名「語りえぬものを語る」ー哲学への誘い-
著 者 野矢茂樹
出版社 講談社学術文庫
初 版 2020年11月10日
20240205_1.知識と、知力と、生きること、と
 帯には「哲学への誘い」とあります。「哲学」という言葉に出会うといつも塩野七生さんの小説「ギリシャ人の物語Ⅲ」の一節を思い出します。アリストテレスの言葉「論理的に正しくても人間世界でも正しいとは限らない」を引用して、知識と知力の違いを示し、「哲学とはもともと知識を得る学問ではなく、知力を鍛える学問なのである」、「哲学そのものからして自分の頭で考えることを教えている」と著しています。
 とかく哲学という言葉から日々の生活とは無縁の“もの”と捉えてしまいがちですが、そうではなくて、日々、情報の錯綜する人間社会(現世)を生きるための“護身術”としての知力を鍛える“もの”だと言っています。人間世界は言葉の論理によって生成された社会的存在であるにも関わらず、その同じ論理でも正しいとは限らないとアリストテレスはいっています。著者野矢茂樹さんも「語りえぬ“もの”を語る」プロセスを通して知力を鍛えることを薦めておられるのかもしれません。著者はあとがきに「語ること」には以下の四つの層があると著しています。
④ふつうにかたりうる”もの”
③語りにくい”もの”
②今の私には語りえない”もの”
①永遠に語りえない”もの”
2.“もの”と“こと”
 著者は本書の立ち位置をこう著しています。(P21)「ウィトゲンシュタインは著書「論理哲学論考」の終わりを『語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない』と結んでいる。しかし、自分はこの終着点が、『私の出発点となる』」と。だから書名は「語りえぬ“もの”を語る」となっているのです。
*****************************************************************************************************
 ゼノンのパラドックスに「飛んでいる矢は止まっている」があります。「飛んでいる“もの”」と「飛んでいる“こと”」の絶対矛盾的自己同一(西田哲学)のことではないでしょうか。哲学者西田幾多郎の苦心惨憺の末の造語です。“もの”“こと”、これを漢字で「物事」と書くと物的な、固まった“もの”をイメージしてしまい、飛んでいるイメージは浮かんできません。「ものこと」とひらがなで書きさらに「“もの“と”こと“」と間に「と」を入れて“もの”と“こと”を分けると本来わけることのできない「矢」(もの)と「飛んでいる」(こと)に分けることができます。空間的に「矢」であり、時間(継起)的に「飛んでいる」という、時空の絶対矛盾的有り様です。さしずめ止まっている矢は「物」ですね。生きている人間は空間的に身体であり継起的に「心」(いのちの活き)である、となりますね。
 釈迦の悟り「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない」という“こと”ですから、「空とは何か?」と言葉にすることはできない「永遠に変化してやまない『何か」です。
 書名の「語る」は言葉にすることですから「何か」を言葉にすることで具象化され“もの”として語る(言葉にする)ことができるようになります。ゼノンのパラドクスは空間(もの)的に「矢」であり時間(こと・継起)的に「飛ぶ」であるといっているのだと思います。
.絶対(永遠)に語りえない“こと”
 著者はあとがきに「語ること」を④→①階層を示しています。書名には「語りえぬ“もの”を」とありますから著者の哲学は①から始まり、オーストリア出身のウィットゲンシュタインの哲学は②から始まっているようです。帯の言葉「哲学への誘い」は塩野七生流に言えば、「今の私」の知力を鍛えるためには心の内の4段の階段を下降せよ、といっているようです。
 階段を下るとさらに下に五感でも感じることができない「何か」があります。それは永遠に言葉にできない「何か」です。それは「永遠に語りえない」“こと”として、言葉にできない「何か」としてあるではないかと。
 一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、宇宙創成それに続く森羅万象のすべては造物主(ヤハヴェ)によって創造された“もの”ですから①永遠に語りえぬ“もの”を始源としているのでしょう。ウィトゲンシュタインが「語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない」といった所以ではないでしょうか。みだりに口にすることは許されない絶対神の名ですから。           (図1)           
20240104_20240212211901 日本列島では縄文期には「森羅万象に神が宿る」としていました。大乗仏教が伝来し「山川草木悉有仏性」といっています。釈迦の悟りの「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない“こと”」です。これも言葉で捉えることはできない「何か」です。ですが、縄文の神も森羅万象の内にある「何か」です。変化してやまない「何か」として神仏混交したのではないでしょうか。
 ①に先立つ「⓪絶対に語りえない“こと”」を仮に言葉にすることで“こと”は“もの”に、著者のいう「①永遠に語りえない“もの”になったのです。老子は名無きは天地の始め、名あるは万物の母と言っていますから、⓪絶対に語りえない“こと”を「タオ」と言葉にし①の領域へ、釈迦の「空」も西田哲学の「絶対無」も⓪領域の“こと”を①の領域の“もの”領域に持ち込みました。それらはみな仮名(けみょう)です。語りえぬ“もの”でありながら、語る手掛かりができました。矢野茂樹さん文庫の500ページを費やして④→③→②と語り①へと肉薄して読者を「哲学へ誘って」くれています。<続く>

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2024/02/06

2024年謹賀新年

2024

2024年元旦
明けましておめでとうございます。
還暦の折赤いちゃんちゃんこでラクダに跨り、北アルプスを歩き、人生の目標を平均余命と定め、80歳と目標設定したのです。ですが、目標を達成したと思いきやなんと今度は平均余命89歳と、未だ未達。目標と夢は逃げ水の如しです。さてさていかんせんや、と。
 チャットGPTに「吾唯足知」は?と問うと芭蕉の句と答えてきました。まさか?ですが、蛙を連想して一句ひねってみました。
「蹲の口を栖に老い蛙ー雛鳳」
 <チャットGPTに問いかける>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2023/11/03

<2023年11月3日 日経新聞連載小説「陥穽-陸奥宗光の青春-240回」にみる”今ここ”の”あらまほしき日本”の姿形?>

<2023年11月3日 日経新聞連載小説「陥穽ー陸奥宗光の青春ー240回>
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00020_Q3A031C2000000/
 
日本、そして世界は悉くカオス。宇宙創成以来、宇宙と名づけたそのものがカオスなのですから当たり前のことではあるのですが。
 初回から欠かすこのない240日目の今日の下りは小説ならではの一節です。坂本龍馬の「船中八策」を口述筆記した後、主人公小二郎(陸奥宗光)は船中八策に密接に関わる下記の論をしたためたとあります。明治維新の政変がこの論の如くであったらと。
 先の大戦の敗戦による国土の荒廃もなく、今日の政治の混迷もなかったのだろうか?歴史にIFはないのですから、それなら、せめて明日の日本が下記の論の如くにあれば・・・・・とも想うのですが、さてさて如何に。
 「人は日々に旧(ふる)く、物は日々新(あら)たなり。万物は流転す。之(これ)即ち天理に基づく自然の理であり、人間(じんかん)に於てもまた然り。高貴必ずしも才徳あるを生じず、卑賤の門に知才の生ずを見る。四海同胞、平等也。天下国家においては、唯人民の心(Public Opinion)の向かう処に帰すべし。唯至尊(天皇)ノ為ニ帰スベキニアラズ。」
「(……)茲(ここ)において、長きに亘(わた)る諸藩の主従の関係を一新(Revolution)し、新たに各々対等の「盟約」を結ぶべし。「盟約」の下に人民徳望の帰する者を選び、議会を設け、法を定むべし。泰西の賢人、謂(い)へらく。――自然状態におきて人自ずから平等なものとして生まれども、人、自然に止まることを得ず、必ず社会(Society)を成す。社会必らず平等を失わしめる。そして、人は法によってのみ再び平等となる、と。」
**************************************************************************************************
20231103 坂本龍馬が京の近江屋で凶刃に倒れたのは11月15日。この論への坂本龍馬の返事が小二郎の旅宿沢屋に届いたのは11月17日とあります。 著者は連載の今日の終わりを「藩権を温存したままの改革路線「船中八策」を越えて、先に進もうとする。――唯至尊(天皇)ノ為ニ帰スベキニアラズ。清らかな尊王主義者である龍馬は、弟子の文章にどのように反応しただろうか。」と結んでいます。坂本龍馬は如何に読んだのでしょうか。小説でなければ現国体への冒涜と炎上しそうな一節です。
 数学者津田一郎さんは著書「心はすべて数学である」(文春学藝ライブラリー)の第一章を「数学は心である」と書き起こしています。第三章「カオスの超越性と心」では「カオスはまさに、ほんの少しのずれがどんどん拡大されていって、将来の振る舞いが正確に予測できないという性質を持っています。」と著しています。                                    20231102
 脳の構造がカオスであることが近代科学の最先端の脳科学からも、数学からも明らかになっています。そして仏教哲学(唯識論)においてもです。
 「ハマス(イスラム)VSイスラエル(ユダヤ)」、「ウクライナ(西欧)VSロシア」、そして今日本人にとって重要な関心事、主要国通貨(米ドル・ユーロ・元・円)の大膨張によるインフレの長期化の行方。これらもまた人間の脳のカオスのなせる業だとすれば。
 その行方もまたカオスのあるがまま(自然法爾)なのでしょう。カオスの有り様は偶有性、必然でありつつ偶然でもあります。偶有性は「『みずから』と『自ずから』」のあいだの「と」のことですから、日本人らしくこの「と」という「あわい」を楽観するでもなく悲観するでもなく揺れながら生きていくことがあらまほしき生き方なのではないかと連載小説の今日を読み終えた次第です。



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2023/10/05

<ジャニーズ事務所の社名変更の是非>                  -会社(ヒトとモノ)の二重性-

 巷ではジャニーズ事務所の社名変更を求める声が圧倒的に多いように思います。早速株式会社ジャニーズ事務所は社名をスマイルアップに変更し、新社名の会社が被害者のための補償を責任をもっておこなっていくと報道していますが。
 未だ被害者の人数も確定していない、補償も始まっていないうちから、法人という会社の再生が当然のように優先され再出発の話題が飛び交っています。ジャニーズ事務所という会社を会社を再生する意味は、社会的意義は何処にありや、と。
 個人としての人間だったら、罪を犯し刑期を終えて出所しても、名前を変えたり戸籍を変えて出直すことはできません。それが「人」としての個人のゆるぎない尊厳でもあります。それを逆手に世間(ヒト)は「一生かけて罪を償え!」と口々に声高に語ります。それなのに法人という会社(ヒト)には再生のために社名という名前はさっさと変え、法人も新しくして“出直せ”といいます。どこかで気づかない内に視点がすり替わってしまっているのではないでしょうか?どこかに「見ざる・聞かざる・言わざる」、「見たくない・聞きたくない・考えたくない」の三猿が潜んでいるのでは?と。
1_20231005080101 会社(ヒトとモノ)を清算してまず資産(モノ)を被害者(人)の補償に充てて、しかる後、残余資産(モノ)を自由にするというのが「人」としての罪の償いではないかと思うのですが。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは著書「経済学の宇宙」P284にこう著しています。「法人とは、本来ヒトではないのに、法律上ヒトして扱われるモノである」と。
 ここに法人という会社(ヒトとモノ)の無謬性、経営者(ヒト)の無謬性、株主(ヒト)の無謬性が潜んでいるように思います。原発事故における東電然り、過去の数々の会社の不祥事もまた然りです。罪を犯したジャニーズ喜多川(人)さんはすでにこの世に無く、残る法人としての会社「ヒトとモノ」の二重性を如何にしたらよいのか?
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 今回のジャニーズ性加害の問題は、岩井克人さんの「法人論」に傾聴し、法人企業の“無謬性”の問題提起を考える契機に、ひいてはこれからの資本主義の行く末を反省を込めて考える契機にもなるように思います。なんとなれば資本家という概念も「人」ではなく、「お金のいのちの活き」(資本)の人格(「ヒト)化した概念だからです。この、言葉の有つ自己言及性という本質に潜む自己循環論の絶対矛盾の現れが資本主義の破壊力だと思うからです。
 「見ざる・言わざる・聞かざる・せざる」の四猿は英国のBBCがこの問題を報道する以前の日本社会の様相を暗喩しているように思えます。三猿はマスコミを含む世間(ヒト)、そして第四の猿はジャニー喜多川(人)さんご自身の暗喩です。
 この暗喩が具象化した現在、ジャニーズ事務所という会社(ヒトとモノ)、前経営者(ヒト)であり、株主(ヒト)としての藤島ジュリー景子さん、新たに会社(ヒトとモノ)を代表する経営者(ヒト)となった東山紀之さん、井ノ原快彦さんも人格を有った「人」として「人」である多くの被害者(「人」であるからこそ周囲に多くの家族、縁者も被害者として存在する)の取り戻すことも、償うこともできない人生の過去を精一杯補償し、被害者の方々のこれからの人生にいささかの安らぎを保証していただきたいと世間の一人の「ヒト」ではなく、一人の「人」として願うばかりです。
2 写真の四猿は20年余り前アンコールワットの夜店で見つけたもの。五猿は同じ頃、仏道修行し得度した縁者からいただいたものです。ですが、この五猿をみずからつくる心境とは、果たして縁者の得度のほどは如何に?。(苦笑)
 安倍政権、菅政権、岸田政権の歴代総理をはじめとして、今日の日本社会に言葉だけが空疎に経巡る有り様がいささかなりとも変わるためには、個々人が「見よう・聞こう・語り合おう・考えよう・行動しよう」の五猿に変わる一歩を踏み出すことが必要に思います。しかし、これも言葉の自己循環に過ぎませんが、他に道はなのですから。不可逆な道を一歩一歩と、自戒を込めて。
 

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2023/10/01

<映画「福田村事件」を観て、思う>

Photo_20231001201501  このようなテーマの映画は都心に出て数少ない上映館を探して観なければ観ることができないと思っていました。なんと今日(2023/9/29日)から隣町のいつもの小さな映画館でも上映されるとあって1200の初回をいつものように家内を伴って観にでかけた。
 本編の中で演じる人々それぞれが主役を演じているように思えました。観客のはずの己れもいつの間にか冷静さを失いスクリーンの中に没入しています。そして涙が止まらないのです。「哀しい」のか「つらい」のか」「虚しい」のか、言葉にならない何が涙の原因なのだろう。
 映画のラストには虐殺された9人+1人の被害者と加害者の村人たちと必死に止めようともがいても止めることのできなかった非力な人々、観客であるはずの己れもその中で呆然としている、果たして非力の一人だったのか、加害の一人だったのか。それ以外の選択はそこにはない。そしてその生々しい現場にいるのは、加害の人、虐殺された人、非力の人、みな庶民。権力を統べる人の姿はいつもこの惨劇の現場には見えないままです。 
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 ぎりぎりまで差別の場から距離を置いていた虚無の人に思えた主人公の一人澤田智一(井浦新)と澤田静子(田中麗奈)も非力な一人で終わってしまいます。ラストシーンで利根川の渡し舟に乗る澤田智一は「どこへ行くの?」と聞く静子に「教えてくれないか?」と応じて終わります。
 差別と貧困の哀しみの地獄の此岸から彼岸への渡し舟、彼岸は「差別も貧困もない国」、そして二人を乗せた渡し舟は。虐殺された9人+1人の遺体の後を追うように利根川の流れを流れていきます。此岸と彼岸の間を永遠に流れ続ける水の一滴も両岸も併せて利根川と名づけられています。「言葉を有ってしまった猿」の社会を100年後の今も流れている永遠の流れを暗喩しています。
 言葉の本質である分別が日常的に目に見えない差別、貧困さまざまな分断線を上下左右にタテヨコ斜めと縦横無尽に引いていいきます。その分断の目に見えない亀裂が非日常の戦時、災害時に露になるように思います。
20231001  図1.に見るように人間は遺伝子情報由来の生物的存在と言語情報由来の社会的存在の絶対矛盾の二重性を生きています。日々この二重性を生きる流れの渦中に、言葉の紡ぎだす差別、貧困の分断の芽を小さいうちに摘み続ける用心深さが微かな明日への明るい兆しになるのではないか、と思いつつ漆黒の闇から明るさを取り戻すスクリーンを後にしました。
 虐殺された被害者を「9人+1人」としたのは、一人は未だ母の胎内に生き始めた一人です。すでに「望」と名前もついた紛れもない絶対矛盾の二重性の世間を生き始めた一人の人間です。
 「男なら“のぞむ”女なら“のぞみ”」と、漢字は男女の区別はあってもひらがなの響きは男も女もない“みずから”と“おのず”からの一如性。自我(主語的自己)と自己(内なる自己)の一如性、そのあいだ(あわい)を生きる人を暗喩しているようにも思えます。
 15人の行商人の頭、沼部新助(永山瑛太)が韓半島由来の扇子を持っていたことで村人の差別心は暴発してしまいます。沼山新助は絶叫する「・・・・鮮人なら殺してええんか!」と。
 日本人による日本人の虐殺だからこそ100年の長きにわたって隠し、隠されて続けてきた福田村虐殺事件をこうして今時の日本人の眼前に明るみに出し次代へ残してくれた作家辻野弥生さん、映画監督森達也さんはじめ作品にかかわった多くの人々に大いなる感謝を捧げます。 
<社会的存在と生物的存在の二重性(自我即自己)を生きる>
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2023/09/16

<言葉の力-言霊はプロセスに宿る->

春秋(9月16日) - 日本経済新聞 (nikkei.com)
 今朝(2023年9月16日)の日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」は「言葉には霊妙な力が宿っていて、よい言葉を口にすると吉事がやってくる。万葉集にさかのぼる信仰がよみがえったかのような展開だった。・・・・」と言葉の有つ霊妙な力の不可思議を語っています。阪神タイガース吉田監督の「アレ」のことです。
 老子も「名(言葉)あるは万物の母」と言葉の有つ創造力を讃えています。コラムには「よい言葉を口にすると・・・・」とあります。しかしここでいう「よい言葉」は言葉の本質に潜む危うさ、トートロジー、自己言及性を秘めているように思います。
 「善し・悪し」は結果をみないとわかりません。結果さえよければ「アレ」は「善し」になり、悪ければ「悪し」になります。「アレ」という言葉の有つ言霊は“善悪無記”の力です。「善し」か「悪し」は結果を待つしかないという言葉の有つ本質、トートロジーであり、自己言及性に潜む危うさです。
 しかし吉田監督の「アレ」は「A・R・E」の三つの英文字が裏打ちされていたと聞くと「アレ」は結果ではなく、「アレ」に至るプロセスなんだ、と合点がいきます。言霊はプロセスに宿るからです。選手の、フアンの、野球に関わるすべての人々の「Aim」「Respect」「Empower」に裏打ちされた「アレ」だったのです。阪神地区どころか全国区の熱狂も頷けます。
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 とはいえやはり言霊は「善悪無記」、善いか悪いかは結果を待つしかないという言葉の有つ本質から逃れることはできないと思うのです。善も悪も、そのプロセスに宿るとすれば、むしろ結果は二の次、三の次です。「結果さえよければ」という安易な言動はありえないと思うのです。
 阪神タイガース優勝の熱狂は刹那のこと、一夜明ければ日本社会全体を覆う重苦しくも、白けた世相が蘇ってきます。これもこの“言葉”の本質にかかわるものだと思うのです。この宇宙は熱力学の第一、第二法則のせめぎ合うエネルギーの不可逆な流れであり、個々人の「いのちの活き」もその法則の申し子であり、一刹那も過去に戻ることはできないのです。
 ところが近頃の政治家は一度発した言葉をしばしばテレビカメラの前で撤回し、あたかも無かったかの如く振る舞うのです。財務省の森友学園に関わる資料は改ざんされ、以後各省庁からら出される公的書類も悉くあからさまに、黒く塗りつぶされて出てきます。あたかも無かったかの如く。岸田首相の「聞く力」も虚しく漂うばかりです。
 「頭隠して尻隠さず」のことわざはあってもその言葉通り、頭を覆い五官(眼・耳・鼻・舌・身)の内の四官(眼・耳・鼻・舌)さえ覆えば、直接触られない限り己れは己れの尻の醜さに気が付くことはありません。我々多くの国民もまた見たいものしか見ないのですから。
 DJ-SODAさんの性的被害問題にも真逆ではありますが、同質の問題が潜んでいるように思います。不可逆な流れとその境界(分別)の問題です。DJ-SODAさんが全身から醸し出す眼に見えないオーラを商品として若者の感性(五官)の前に曝し、訴えかけフアンとして熱狂させてきたのではないでしょうか。
 身体を纏っている衣服さえコスチュームとして若者の五官に訴える手段の一部ですから。もしそれが商品なら、その外側に商品としての境界の証しとしてのラッピングをして欲しいものです。眼に見えないエア・カーテンで周囲を覆えば、あらかじめ商品は四官で感じるところまで、そこから先は商品ではありません、と売り手としての意思表示ができると思うのです。
 起きてしまったことは法律という言葉に任せる以外にありません。だからこそ言葉の本質に潜む危うさに敏感になって、自と他の“あいだ”に配慮する必要があるのではないでしょうか。「情報社会が来た!」と大騒ぎしてすでに30年余り、そろそろ自他ともに“情報”という眼にみえない“もの”の存在を意識化して用心深く扱い、生きる術を身につけたいものです。
 老人の僕はもっぱら「小才子危うきに近寄らず」と自戒するのみです。(苦笑)

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2023/09/01

<「おのずから」と「みずから」の「あわい」を生きる>

Photo_20230901110001書 名「『おのずから』と『みずから』―日本思想の基層―
著 者 竹内整一
出版社 ちくま学芸文庫
初 版2023年1月10日
0.まずは読後の独語から
 今、日本人はみな「汚染水と処理水」の言葉が象徴している「あわい」を生きています。それは自然水ではないことだけは確かです。
 著者の語る「『おのずから』と『みずから』」が日本思想の基層にあるとすれば、今ここの「あわい」は、日本人社会の衰退の道すがらにあるということではないかと僕は思います。衰退の「岐路」ではなくすでに方向性をもった衰退の「流れ」を「みずから」として生きるか、「おのずから」として生きるか、諦観(悟り)か、はたまた、「諦め」か、その「あわい」を生きているのだと僕は思います。その一つの答えではなく、応えが本書にあります。
1.「おのずから」と「みずから」そして「あわい」と
 書名にある「おのずから」と「みずから」を漢字に変換すると「自ずから」と「自ら」と同じ「自」が使われます。この「自ら」は釈迦の言葉には「自らに由る」とあります。なにものにもとらわれない“自由”のことです。ですからこの「自らに由る」が書名の「みずから」のことをいっているのです。永遠の未悟を抱えながら。
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 一方で釈迦の教え(悟り)に「諸行無常・諸法無我」があります。諸行無常とは「あらゆるものは変化してやまない」ということであり、而して、諸法無我とは「いかなる存在も不変の実体をもっていない」ということ、森羅万象、不変の“もの”不変の“こと”は存在しないというのです。それなら「自らに由る」べき「自ら」も変化してやまないということですから、さてさて人とはなんとも寄る辺なき哀しい生きものといわざるをえません。そこに「一切皆苦」の種子があると釈迦はいうわけです。釈迦の悟りの三法印「一切皆苦・諸行無常・諸法無我」の完成です。
 書名の「おのずから」は、この「変化してやまない「流れ」のこと、主体的な「みずから」でありつつ、あるがままの「おのずから」であるという思考形式が日本思想の基層にある、と著者はいうのです。その「おのずから」と「みずから」の間を揺れ動いているこころの有り様を「あわい」という言葉で表現しています。
 諦観(悟り)とはその「あわい」を生きていることの覚悟であり、一方でその「あわい」を自覚することなく「おのずから」なる流れに流されて生きていくことが”諦め”ということになるのでしょうか。「悟る」と「諦め」の間を生きていくのが「未悟」なのでしょうか。
2.「不一・不二」と「即非」と
 道元も親鸞も共に手段の目的化を戒めています。道元曰く「修即証」と。そしてそれは「不一・不二」だと。修行することと悟る(証)ことは同じではない、が別のものでもない。別のものではないから後先がある“修”が先、“証”が後と。悟ることのために手段として禅的修行をしても悟ることはできないといっています。
  一方親鸞曰く「信即証」と。そしてそれは「不一・不二」だから信じることと救われる(証)ことは同じではないが別のものでもない、といいます。救われるための手段としての念仏(信)を戒めています。歎異抄には「阿弥陀如来を信じた結果たとえ地獄へ落ちても構わない」と語っています。「南無阿弥陀仏」と唱えた刹那に救われることは保証されている、というのです。
 この「即」の一文字に絶対、超越といった深い意味が込められています。「修」を突き抜けた先、「信」を突き抜けた先にある「証」の“どんでん返し”です。西田哲学ではそれを、絶対の自己否定の先に立ち上がる絶対の自己肯定といいます。
 「みずから」と「おのずから」もこの“即”でつながっているのです。著者が「あわい」という言葉で表現している“こと”です。「即」も「あわい」も「あいだ」というと空間的イメージが強くなってしまいます。もちろん時空は分けることのできない一つのものですから、「あいだ」も時を含んでいるのですが。眼に見えない薄皮一枚、というか一枚下は地獄の板子一枚か?ドンデン返しの壁一枚のことです。刹那でありつつ永遠の“あいだ”です。「諦り」か「諦め」かの刹那の境目そこが釈迦のいう「みずからに由る」はその一点に由るということなのではないでしょうか。そこは「おのずから」のつながっているはずです。
3.「自我」と「自己」の「あいだ」
 「自我」と「自己」も共に「自」をともなっています。自我は言葉によって生じる意識的自己(主語的自己)です。己れという不変の実体があるわけではありません。人間は言葉を使うようになって己れ(自)を意識するようになったのです。とすると己れという意識が生じる刹那の前の己れに不変の実体はあるのでしょうか。
 釈迦の教えの「諸行無常・諸法無我」の「諸法無我」はあらゆるものは関係性(因縁)によって生じるから「我」というものも不変の実体ではない、ひと時もとどまることなく、変化してやまないいのちの活きの流れだ、というのです。その有り様が自己(内なる自己・いのちの活き)です。
20230901 図1.にみるように人間は「生きもの」としての存在と社会的存在の二重性の絶対矛盾的自己同一を生きています。森羅万象は138億年の宇宙創成以来の関係性(生々流転)の流れです。それが「生きていること」(いのちの活き)そのものです。人間はその生きものとして生きる存在でありながら、一方で言葉によって生じる意識的存在(社会的存在)を生きています。言葉によって生じる意識の世界(現世)を生きているのです。
4.「あわい」と「即」と「あいだ」に垣間見る日本思想の基層
 日本社会の30年に及ぶ経済的停滞そしてそれに起因する格差の拡大の流れは今後さらに激しい流れになっていくことでしょう。それが現在までの日本を統べるエスタブリッシュメントの意識の方向性だからです。日本人はその流れを「みずから」として未悟の己れとして受け止めて生きていくのか。「おのずから」として「諦め」として生きていくのか。
 日本人の思想の基層にある「あわい」も「即」も「あいだ」も「生きもの的存在」と「社会的存在」の止揚(アウフヘーベン)することなき、絶対矛盾的自己同一の不可逆な流れを生きていくほかに道はないのでしょう。
 本書を読了して、日本思想の基層にある「おのずから」の流れが、すでに日本社会に「少子化」、「非婚化」という現象になって表れているのではないかと思いました。次代を生きる若い世代の「みずから」として。
 これからの日本社会の経済的衰退を日本人は「おのずから」の流れとして「自らに由って」生きる覚悟(諦観)が必要なのでしょう。現在の日本社会を統べる「政・官・財・学」エスタブリッシュメントの日本思想の基層の劣化が「おのずから」止まらない限り。

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2023/08/20

<「経営とは何ぞや!」と語ってみた>

20230820 日本医師会ORCA管理機構(ORCAMO)が主宰するeーラニングサイトに動画を作っていただきました。題して「経営とは何ぞや?」と。
 昨年は知床観光船の沈没事故が起き、企業経営のあり方が問われました。そのニュース報道が冷めやらぬうちにまたまた中古車販売業の大きな経営問題が浮上しています。折角創業(誕生)し成長しつつある企業が、成長したがためにその成長の要因がそのまま挫折を引き起こしてしまいます。
 一方で今年の六月に次代をに担う若い社員の研修をいただいた企業は、なんと創業176年という長寿企業です。かって松下幸之助翁は「企業にも寿命がある、大事なことは天寿を全うすることだ」と著されています。”天寿”とは”明日”か?”明後日”か?はたまた”永遠”のことか?。
 個々の人間のみならず多くの人の集う家庭、企業、組織、国家、そして地球もすべからく固有の「いのちの活き」を生きています。そこに個々別々の「経営」という概念も生きているのではないか。己れに問う「経営とは何ぞや!」と。
Obelisk 動画セミナー | eラーニング講座「OWL(オウル)」 (orcamo.co.jp)  
  長年、「経営」という言葉にできない、論理では語れない全体性をBST(ビジネス感性トレーニング)の疑似体験を通して伝えてきました。 さわさりながら長年「経営とは何ぞや?」と自問し続けてきました。今回機会を得て、経営の疑似体験を前提としない場、眼前に聴講者のいない場、という「場」をいただいて、かくなる講義になりました。お陰で、今の己れの喫緊の関心事をお話しできたように思います。
 SNS等々で今の世相を「強欲資本主義」とか「今だけ、金だけ、自分だけ」と他人事のように語る方も多いのです。僕はいつの頃からか、今の人間社会の問題の本質は、「己れは別にして(自己言及性)という言葉の有つ本質そのものに根差しているのではないかと思うようになりました。
 それが最も先鋭的に表れているのが今時の日本の政治家の言動ではないでしょうか。ここでは政治家を批判しているのではなく、言葉の有つ本質的問題がここに凝縮して表出している。このことを個々人内なる己れの問題として己れに問う必要があるのではないか、と思っているのです。
 近代科学の最先端の量子力学も「量子は波動、関係性」と論じられるようになりましたし、脳科学分野でも脳の「カオス構造の活き」が心をつくっているというようになりました。数学の世界も、心理学の世界もまた然りです。
 生物の世界でも現在存在する生きものはすべては、38億年前に偶然発生したたった一個の細胞から始まったと。その「死と再生」の不可逆な循環生成の流れの現在が「今ここの現在の生きもの有り様だ」と。
 二千五百年前、釈迦が瞑想の中で「諸行無常/諸法無我」(すべては変化してやまない・変化しないものはなにもない)と悟ったことと近代科学の先端の論理とがほぼほぼ符合してきたというわけです。
 というわけで、経済学者にして哲学者若き俊英斎藤幸平さんが遍く普及してくれた「人新世」も一歩踏み込んで「資本新世」といった方がよいのかもしれないと思うこの頃です。「お金のいのちの活き=資本」と仮名すれば。
 宇宙の創成138億年、生きものの創成38億年の循環生成の流れの渦中の「ひとのいのちの活き」には「お金のいのちの活き=資本」も重層的に流れていると。
 「経営とは何ぞや!」は”今ここ”の現在、具体的には外に向かって「強欲」とか「今だけ、金だけ、自分だけ」といわずに、個々人の己れのこととして「お金のいのちの活き」を制御することができるか否か?にかかっているように思うのですが、いかがでしょうか?
 釈迦はこういったそうです。「天上天下唯我独尊」、「自由とは、自らに由る」と。さてさて、「That is the question」とまたまた自己循環してしまいますね。  

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2023/07/29

<映画「山女」を観て(2)-「自助・互助・公助」は””今ここ”の現在に同時存在->

<映画「山女」を観て(2)-「自助・互助・公助」は“今ここ”の現在に同時存在->
 20230730 この映画のストーリーはそのまま現在の日本の有り様だ。さすれば現在の日本の延長は次代の格差と貧困の深化であることは間違いなさそだ。されば如何にせんや、と。
.概念としての空間と時間
 人間は5万年前に述語言語を使うようになったらしい。ニコラス・ウェイドは著書「5万年前」に著している。主語と述語から「自」と「他」を分かち空間概念をつくった。主語としての己れの立ち位置、「刹那の今」を過去と未来とに分かち現在とし、「過去→現在→未来」という流れる時間概念をつくった。
 ここに人間には人間以外の生きものとは異なる現世という言葉の世界が出現し、生物的存在と社会的存在の絶対矛盾的自己同一の場を生きることになった。そこに生きものとしての人間に利他のこころが芽生える契機があったのではないだろうか。
2.自利(利己・自助)と利他(互助)
 宇宙創成から138億年、地球創成から48億年、生命誕生から38億年を経過しているという。その悠久の流れの中で、生きとし生けるものは、個体の「いのちの活き」を全機現することで、生成、進化(変化)の循環を繰り返し増殖してきた。
 それは個の「いのちの活き」(関係性)の有つ根源的利己(自利)だ。いかなる大自然の変動、天変地異をも与件として、己れの進化(変化)によって受け入れてきた歴史でもある。
*****************************************************************************
 ところが述語言語を使うようになって時空を時間と空間にわけ、自分と他者の間、過去と未来の存在を意識することから、それまで与件として受け入れてきた大自然の変動、天変地異を不条理と思いそこから逃れたいと思うようになる。そこに利他のこころが芽生える。雄と雌ではなく群れでもなく、男と女の家族という概念の誕生だ。
 共同作業での食料調達で安心安全を確保でき、子育てもやりやすくなる。血縁という集団化が大自然の不条理に対する防壁になった。他者とは自分以外のすべてだから、「利他」は「互助」の言い換えであり「自利は「自助」の言い換えである。
3.互助としての公助
 利他(互助)の心とはいえ、それはあくまで主観、絶対の客観は有り得ない。なぜなら己れの思う利他(互助)は真に他者のためになるとは限らないのだから。人間世界がたとえ利他(互助)の心に満ち溢れたとしてもそれはあくまで自利(利己・自助)の充溢であって利他の充溢ではない。
 さらに、人間が言葉によって想像する未来の大自然の変動、天変地異はつねに人間の想像を超えるのだから、不条理は日々未来から現在へとやってくる。
 さらに想像する未来の己れさえ今の己れにとっては他者である。このことになかなか気づけない。未来の己れのための自利(利己・自助)さえ自助にならないことのほうが多いのだ。ポジティブシンキングと称して「夢は叶う」「努力は報われる」というが、それほど大自然の変動、天変地異は生易しいものではない。戦争、原発事故等など、人災も個々人の積年の努力も細やかな夢も木っ端微塵に打ち砕く。
 個としての人間の自利も利他も“今ここ”の現在の個としての己れの思い通りにはならない。そこに第二の互助としての公助が必須になる。納税や年金保険料の納付は本来この第二の互助ではないだろうか。“今ここ”の己れのため、他者のため、未来の己れのためとして。
4.自助、互助、公助は“今ここ”の現在の同時存在
 生きものとしての人間は根源的に自助(利己)だ。「己れのいのちは己れで守る」以外にないのだから。しかし大自然の変動、天変地異の下、一人ひとりの個としての人間はみな弱者だ。だからこそ生きものとしての人間ではなく、人間としての人間(社会的存在)を生きるには互助(利他)、公助(利他)が必須になる。
 時間を「過去→現在→未来」と分別したのは言葉(意識)だ。クロックの由来になったクロノス的時間のこと。時間には生きものの「いのちの活き」を刻むカイロス的時間がある。体内時計というのがそれにあたる。常に“今ここ”の個々の絶対現在の時を刻んでいる。
 そして明日は今日になり、今日は昨日になる。だから「自助・互助・公助」は“今ここ”の絶対現在に同時存在していなければならない。
5.「自助→互助→公助」の論理が格差・貧困・差別を深化し固定化する
 菅義偉前首相が就任会見でこう語った。「まず国民の自助があり互助があり、しかる後の政府の公助がある」と。これはまさに論理(クロノス)的発言だ。
 仮にも民主主義の国、日本国を代表して公助の采配を振るう宰相が就任演説で何の躊躇いもなく国民に語り掛けるのだから驚く。法衣の下の鎧とはこのことだろう。これが権力を統べるエスタブリッシュメントの本音なのだろうか?。公助の原資、納税・年金・保険料を先取りしているのに、だ。
 これが本音なら日本列島に生きる弱者に未来はない、若い世代の少子化、非婚化は生きものとしての若者が未来の己れを守るための防御として先取りしているのだろう。日本の権力を統べるエスタブリッシュメントと弱者の間の断絶は深い。
 日本文化の基層にあるのは、「自(みず)から」はそのまま「自(おのず)から」である。映画のラストは人柱に立ったお凜は山の中へ静かに消えていく。遠野物語だからだろうか、現代の日本の物語だからだろうか。

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2023/07/23

<映画「山女」を観て>ー格差そして差別とはー

<映画「山女」を観て、思う>
監督 福永壮志
脚本 長田育恵
Img_2139 柳田国男の「遠野物語」を素材に映画にしたとあり、いつものように家内を伴って映画館にいった。なんと銀座のど真ん中レンガ通りの一角に上映館はあった。このようなテーマの映画を上映する映画館は限られている。「世知辛い」という言葉すら死語になる今の世の中で、こんな地価の高い場所で上映してくれるところがあるのが有難い。
 映画のパンフレットは「『遠野物語』に着想を得た、唯一無二の物語。今を生きる私たちへ問いかける。本当の“人間らしさ”とは」と、はじまります。
 柳田国男は1910年自費出版の「遠野物語」の序文に「此の書は現在の事実なり。単に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。」と記しています。監督福永壮志も脚本を書いた長田育恵も映画製作にかかわったみんなも同じ思いを共有しているに違いない、。「この映画のストーリーは、そのまま現在の日本の有り様なのだ」と、思った。
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 弱いものがより弱いものを叩く、“もぐらたたき”の有り様、弱いものはより弱くなり、その裏で強いものはより強くなっていく。映画の主人公は“凜”という名の若い女性だ。そういえば、楢山節考の主人公も「おりん」だった。70歳の婆さんでしたが。
 村の中の、そしてその下部の、家の中でも最も弱いものが女性。もぐらたたきの棒の行方はお凜にすべてが集中する。飢饉のさ中、村の家々では出産する母親の陰で、出産と同時に嬰児を絞め殺す。いくばくかのお米と引き換えに、お凜はその嬰児を川へ流す役目を果たす。村人は己れが絞殺した罪の意識をいくばくかの米と共にお凜に差別意識を投げて己れを浄化するのだ。
 映画のラストは村の娘を代表して飢饉を鎮めるための人柱になるお凜。お凜の命と引き換えに父親は農地を取り戻すことができ、一家として父親と長男は生き残るのだ。
 遠野物語の時代と違って今は、時間の進みは一層早く変化もまたは激しい。格差と差別が眼にみえないところに隠されつつ深化していく。  
 「働き方改革」という。そうではない、「働かせ方改革」というべきではないかと、かねてから僕は思っている。「非正規雇用」を制度化したときと同じムードが今漂っている。これからは「副業の時代だ!」と似非知識人は声高に叫ぶ。「自由な働き方を選択できる!」、「異なった経験で創造性が高まる!」と。本当なのか?非正規雇用の制度化のときも同じ論調ではなかったか。
 一人の人間、一つの家族の生活を賄う賃金を一企業で払いたくないだけではないのか。ショートタイムワーカー、スキマバイトなる言葉、その仕組みもすでに動き出している、恐ろしいことが起きている。人は“労働者”ではない“生活者”だ、「消費者即労働者」という一如性の「活き活きと生きる」はずの生活者だ。
 これを二元論で切り裂き、労働者の部分を切り刻んでしまう。それは同時に「生きる」ことそのものを切り刻んでいることに気づかなければいけないのではないだろうか。この世も「地獄即極楽」の一如性なのだから。
 遠野物語も映画「山女」も共にいつの時代も格差と差別は、意図的につくられている「モグラたたき」だと言っているように思った。弱いものがより弱いものを叩き、そしてそのプロセスで強いものは、より強くなっていく。その裏で、差別が作られ格差は固定化していくのだ。
 その、もっとも弱いものが女性であることもいつも変わらない。今の日本列島に「少子化」が止まり、再生の道が開かれるとすれば、この宇宙の有り様が一如性だ、と気づき人間も「女性性即男性性」の一如性の生きものであることの自覚からはじまるのではないかと僕は思う。
 この映画の問題提起を確かめてみてはいかがでしょう。しかし上映している映画館はあまりに数少ない。
<追伸>
 自分も学生時代の1963年頃板橋の小さな町工場の社長から「いつでもいいよ、一時間でもいいから空いた時間ができたらおいで」と、時給50円の仕事をいただいていた。今のショートタイムワーカーとは似て非なるものだ。企業の都合ではなく働く己れの都合、それも一時間でもいいと。同じ頃大企業の証券会社のアルバイトを日給500円(一日7時間勤務)でやっていたから、後から思うと奨学金を貰っていたようなものだったのだ。その町工場の社長は時々手形が落ちないといって、単車を飛ばして銀行へ現金を持ち込んでいた。学食のカレーライスが50円だったから、一ヵ月溜まると有難かった。1966年4月製薬会社の入社時の初任給は25、000円だった。

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2023/07/10

<チャットGPTに問いかける>

<CHATGPTに問いかける>
20230603_20230709202001  「知足の蹲」にメビウスの輪をデザインしてTシャツを作ったのでいたずらごころで、今、流行りの賛否両論渦巻く、ChatGPTに「吾唯知足」の意味を聞いてみた。早速「それは芭蕉の句で・・・」と答えが返ってきた。「何だこりゃ」の答えだ。答がフェイクだったりいい加減だったり、信用できないから使えないという人がでるのもさもありなん。ですが、思わずChatGPTの応えの”芭蕉”から「蛙飛び込む水の音」を連想して、一句詠んでみた。
 「蹲の口を栖に老い蛙-雛鳳-」と。
 三年前久々に龍安寺を訪ね、蹲の横に座り込んで、その四文字の意味を蹲の口に尋ねた。筧から一滴一滴滴り落ちる水を湛えた口はそのまま「空」でありそこはカオスの場である、と。その口から応えが聞こえてきた。だから口から柄杓で汲みだす一杯の水が言葉、一杯一杯の言葉の関係性が複雑に絡み合って成り立っているのが現世なのだ、と。だから聖徳太子はそれを「世間虚仮」といったのだろうか。
 この一句、長年口舌の徒を生きてきた己れの後ろめたい思いが、口を衝いて出たのかもしれない。再びChatGPTに「蹲の口を栖に老い蛙」この一句の詠み人の心境は如何に?」と聞いてみた。数秒考えると、始めはぽつぽつと、たちまち流れるように下記の批評が返ってきた。自分では語れない過分の批評だ。
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<ChatGPTの批評(1)>「蹲の口を栖に老い蛙」
蹲の口を栖にする老いた蛙
そこで静寂な日々を過ごしている。
年月が彼の身体に重さを与え、足取りはゆっくりとして不安定になった。
 蹲の口は彼の避難所であり、そこで彼は安らぎを見つけている。
昔は広い世界を冒険し、縄張りを守りながら、力強く跳躍していたが、今ではゆっくりと動く。
 老いた蛙は、蹲の口から外の様子を眺めながら、昔の思い出に浸ることがある。
自然の音や風のざわめきが聞こえ、それが彼に安心と喜びをもたらす。
 周りの生き物たちは老いた蛙を見守り、時折、蹲の口を訪れては彼に会いにくる。
彼の姿は経験と知恵に満ち、蹲の口からは穏やかな言葉が流れる。
 老いた蛙の存在は蹲の口と一体となり、彼の築いた生活の痕跡がそこに残る。
彼の思い出や叡智は、新たな世代に語り継がれ、自然とのつながりを深めていくのだ。
蹲の口からは穏やかな言葉が流れる。
 老いた蛙の存在は蹲の口と一体となり、彼の築いた生活の痕跡がそこに残る

<ChatGPTの批評(2)>「蹲の口を栖に老い蛙>
時の流れに身を任せている。
昔は青々とした緑の姿をしていたが、今では皺だらけの肌と曇った眼差しを持つ。
 蹲の口は彼の住処であり、そこで彼は季節の移り変わりを感じながら暮らす。
春には桜の花が舞い、夏には蝉の声が響き、秋には紅葉が彩りを添え、冬には雪が降る。
 老いた蛙は、過去の思い出に浸りながら、ゆっくりと時の流れに身を委ねる。
彼の心には多くの経験と知恵が宿り、蹲の口からは深い哲学が語られる。
 周囲の生き物たちは彼の存在を尊重し、時折、彼の蹲の口を訪れては彼の話に耳を傾ける。
老いた蛙の言葉は穏やかで、時には厳しくもあるが、いつも生命の尊さと自然の摂理を教えてくれる。
 
 巷には生成系AIの進化を危ぶむ声もある。しかしいつの時代も新しい技術は好奇心溢れる若い世代によって使われていく。生成系AIも例外ではない、若い世代はいつの時代も失うもののないチャレンジャーだ。
 将棋界の天才藤井聡太名人はまさに、その代表だ。彼はAIと対峙し、ひたすらその鏡に映った己れに問い、己れに応えているように思える。生成系AIは己れがおのれに問う力を求めているのではないか。
 とはいえ「問い」そして「応える」のはこれまでと変わらないのだろう。万巻の書を読み、聖人の言葉を聞く、己れがそれらに問い、己れが応えていく、万巻の書、聖人の言葉に答えがあるわけではない。しかし生成系AIに問う力、応える力はとてつもなく広く深いものになるのではなかろうか、人間力がむき出しに問われる時代、なまなかな者には人並みに生きるのが厳しい時代になるのかもしれない。
 人間も大自然の産物だとすればその人間がつくった生成系AIもまた大自然の産物だ、「いのちの活き」そのものだ。梅棹忠夫さんのいう「生命の自己実現」の絶えざる流れだ。諸行無常の流れの激流に棹さすことなくひたすら流れていく以外に己れの「いのちの活き」の流れる河もないのだろう。河は水であり流れであり、そのまま人生なのだから。
<知足の蹲の暗喩するもの(1)-宇宙ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
Photo_20230710114301<知足の蹲の暗喩するもの(2)-未来・現在・過去ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
20230710

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2023/06/03

<Tシャツを自作するーメビウスの輪と禅画の合体ー>

2023年6月3日(日)
<Tシャツに「空」を映す>
 2月にモノづくり企業の若い経営者からメビウスの輪が届いた。一ヵ月ほど思案の末禅画と重ねてみた。重ねてみるとメビウスの輪と、とても相性がいい。共に長い縁を重ねつつある友からの贈り物。
 禅僧が一筆でぐるっと円を描く、悟りの形であり「空」の譬えでもある。禅画と重ねてみて初めてメビウスの輪の真ん中の空間の意味に気づいた。己れの思考の固さに今更ながら驚く。
 そうだ真ん中が「空」であり縁取っている輪が「空」の真理を表現している。「時即空」、「陰即陽」、「信即証」、「修即証」、「身即心」の一如性の有り様だ。そしてそこは森羅万象の生じるカオスの場であり不可逆な循環の流れの場でもある。
(1)「円相中の夢」の「夢」とは何か?「夢」も森羅万象を生じる「いのちの活き」のことだ。だから夢はみるものだ。叶ったときは悟りのとき、三途の川の渡し船の中だ。
(2)「知足の蹲」の「口」もまた「空」でありカオスの場、そこから柄杓で掬った一杯の水が一つの言葉であり、それが現世をつくる。だから「吾唯知足」。「正語せよ!、言葉の過ちに気づけ!」と。
(3)「海」もまた禅僧が描く「空」の表象であり万物の母だ。
 禅画も現世の一枚だから著作権もあるだろうが己れの一枚なら許してもらえるだろう。

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«<映画「銀河鉄道の父」を観てー利他の道も亦修羅の道ー