2024/02/17

<「語りえぬ”もの”を語る」(3)>                      -経営とは「いのちの活き」の全機現-

6.個と全体の二重性 
 個を全部足すと全部になりますが、全体にはなりません。とかく言葉の概念の違いを混同してしまいます。部品を全部集めれば機械は動きます。個は部品ではないから個を全部集めても全体にはなりません。戦前の日本の政治体制、ナチスのそれは、正しくは国民を部品として扱った全部主義といったほうが誤解が生じないと常々思っているのです。
 個と個は二元論では切り分けられない“こと”、個と個のあいだに言葉にできないゆらぎがあるからです。「場の思想」を提唱する哲学者清水博さんは卵のたとえ話をされます。生卵を三個割って一つの器に入れると白身は流れて繋がりますが黄身は個々別々に独立して盛り上がっています。黄身だけを集めても卵にはならない、と。
「全体」という言葉は図1.「語りえぬものを語る」の最下層の「⓪.絶対(永遠)に語りえぬ“こと”」を仮名(けみょう)して「①」の“もの”としたのではないでしょうか。
 俳人山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」があります。俳句の型を破って季語も五七五もない自由律で詩って、詩って詩っても詩い尽くせない「何か」とは。僕にはそれは「この世」、とも「人生」とも「大自然」とも思えるのですが。哲学者野矢茂樹さんにもきっと「語りえぬ“もの”」が残るのではないでしょうか。その「残る」ものも含めて全体は全体としてあるのだと思います。個と全体の絶対矛盾的自己同一として。
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7.「One for all -all for One」
図3.「家族のいのちの活き」
20240215  家族を構成する「夫・妻・子」個々の個としての命は家族という場の上で活いています。 清水博さんの「場の思想」を借りれば、三つの黄身を包む周囲の白身が家族という場であり、そこにも場としての「いのちの活き」があります。夫、妻、子の個としてのいのちは家族という全体のいのちの活きの上で個として活きつつ、同時にそれが家族という全体のいのちを活かせています。個は全体のいのちを活かせ、全体のいのちの活きによって活かされているという相互の有り様がメビウスの輪に象徴される”こと”であり、宇宙の有り様です。
 図3.家族の三つの個の重なった場の下層には言葉のいのちの活きの世間(現世)という場があります。「家族のいのちの活き」はその世間という名の場によって支えられ活かされています。それは、さらに下層の大自然(宇宙)のいのちの活きによって活かされています。メビウスの輪の象徴する「活かし活かされる」というの永遠の循環は、輪の真ん中の空間の宇宙の有り様を象徴した姿です。
 ラグビーにいわれる「One for all all -All for One」、「一人はみんなのために、みんなは全体のために」の初めの「One」は個、終わりの「One」は全体としての一という意味だと思います。試合の相手チームも、スタジアムの観客も、等々すべての「いのちの活き」のために最善を尽くす,ラグビー場が包む森羅万象のすべてが全体であり、宇宙のいのちの活きの顕現でありたいと。全体最適を目指すこと、禅語にいう「全機現」ということではないでしょうか。
8.経営とは「いのちの活き」の全機現
                            図4.「企業のいのちの活き」
 20240215_20240215202101企業を成り立たせている主な“もの”は図4.「企業のいのちの活き」、にあるように①.株主、②.経営者、③.従業員、④.顧客、⑤お金、⑥世間(言語世界)、⑦宇宙(森羅万象)、⑧商品・サービス、です。
 日本人の「商い」のあり方の姿とされる言葉に「売り手良し、買い手良し、世間良し」があります。近年若い経営学者の中にもそれを「ウィン、ウィン、ウィン」と言葉にする方がおられるので驚きです。言葉に潜む二元論の危うさに気づかず全体が見えない危うさです。
 「商い」の根源にある「利他≒お役立ち」そして「良し」を勝ち負けの「ウィン」といい、あまつさえ、全体概念の世間をも個として「個・個・個」と扱い、全体という概念が心(意識)の内にないのです。「心」こそ「いのちの活き」そのものです。「人間は見たいと欲する“もの”しか見ない」のです。野矢茂樹さんが「哲学への誘い」として「語りえぬ“もの”を語る」と著する所以もここにあると思うのです。経営学、経済学といったジャンルに携わる人こそ「哲学する」ことが求められるのではないか?と自戒を込めつつ思うのです。
 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”ここで忘れがちな“もの”が、④.顧客、⑤.お金、⑥.世間(現世)、⑦.宇宙(大自然)、⑧商品・サービスです。己れの都合でしか”もの”を見ていないと売上が立った刹那に④~⑧をすっかり忘れてしまいます。ダイハツは④も⑥⑧をも忘れ、ビックモーター、損保ジャパンは④、⑧のみならず目の前の街路樹という⑥も見えていなかったのです。環境破壊が叫ばれ、SDGsと叫んでも肝心の⑦の大自然はみえていません。
 そして意外に見えていないのが⑤.お金です。企業という「場」のいのちの活きの全体を活かしている「お金のいのちの活き」を表現している会計の基本の姿を多くの企業経営者が従業員に教えていないのです。
 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”は「“もの”即“こと”」のメビウスの輪の有り様として“こと”が「不一不二」として伴っています。それが“もの”を活かせている「いのちの活き」です。①~⑧のすべてが「場のいのちの上で活き、かつ場のいのちを活かせて」います。あらためて確認すると、図4.の真ん中、「いのちの活き」のすべてが重層的に重なったところがここにいう「企業のいのち」であり、重層的に個々のいのちが活いている「場」です。
9.経営に終わりはない
 禅語の「全機現」は「いのちの活き」がフルに発揮することです。経営とは図4.の中心の場としての企業のいのちの活きと場の上で活く、個のいのちの活き、メビウスの輪に象徴される絶対矛盾的自己同一を全機しつつ循環していく流れです。
図5.「経営に終わりはない」
20240215_20240217151901 日本人の哲学を世界に問うた哲学者西田幾多郎さんは著書「善の研究」に「全き善」として「自他相忘れ、主客相没するところ」と著しています。「ところ」は「場」のことであり、そこは言葉の二元論で、己れと他者、他物を分かつ前、主体と客体の分かれる刹那の今のところです。
「経営とは」、その「場」であり、刹那の今(時空)を「今→今→今→」と活きつつ循環していく“こと”、永遠の今を活いていく”こと”ではないかと想うのです。そんな想いを図.4「経営に終わりはない」と描いてみました。<続く>

 

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2024/02/11

<「語りえぬ”もの”を語る」(2)-「資本」の意味する”こと”->

4.人間社会(現世)は言葉が紡ぎ出す意識の世界
(図2)
20240205 当ブログで何度か図2生物的存在と社会的存在の絶対矛盾的自己同一を紹介してきました。経済学者岩井克人さんは著書「資本主義から市民主義へ」の中で人間は遺伝子によって継承される「生きもの的存在」と言語由来の「社会的存在」の二重性を生きる存在だ」と著しています。この二重性は二元論で切り分けることのできない絶対矛盾的自己同一の有り様をしています。詳細は下記ブログに譲り先へ進むことにします。
<生物的存在と社会的存在の二重性>
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
 著者野矢茂樹さんのこの本の帯には「哲学への誘い」とあります。下山路の道標に刻まれた傘寿の二文字を横目に通り過ぎた身が今さら知力を鍛えても、と思いつつも哲学志望の30代の若者の勧めのままに手元においた一冊です。「老いては若者に従え!」のことわざの通り、有難い一冊になりました。
 著者があとがきに「語ることには4つの層がある」と著していますが、言語由来の社会的存在が人間社会(現世)ですから4階層を下降していく過程(“こと”)が「Why」、「何のために」と人間の社会的存在を形成している言葉、論理を自己否定し続けることになるのでしょう。
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 哲学する“こと”と科学する“こと”が対になって問い続け、「⓪「永遠に語りえぬ“こと”」を言葉の力を借りて仮名(けみょう)しつつ「生きもの的存在」の「いのちの活き」さらにはその奥の大自然、宇宙といった「いのちの活き」の始源に思いを馳せ、「生きもの的存在」と「社会的存在」のはざまの絶対矛盾的自己同一という人間が負っている宿命を問い続けることなのかもしれません。
5.資本という言葉のもつ概念を広げると?
 書 名 「文化資本の経営」
                -これからの時代、企業と経営者が考えなくればならないこと-
著 者 福原義春+文化資本研究会
 出版社 ニューズビックス
 初 版 2023年12月26日(1999年初出版)
20240205_20240210142001 久々に都心の馴染みの書店の平済みの新刊書を渉猟しました。25年前にも一度手にしたはずの書の復刻版が出版されています。昨秋資生堂中興の祖といわれる福原義春さんが亡くなられた追悼の想いも込められているのでしょうか。当時は読み終えてもピンとこなかったし再読する気にもなれなかった本、タイトルの「文化」と「資本」がつながってこないのです。
 二つの言葉に抱いている己れの概念の狭さゆえだったのでしょう。矢野茂樹著「語りえぬ“もの”を語る」の存在を教えてくれた若い哲学探究者がこの時もう一人の哲学者山本哲士さんの存在を教えてくれていました。なんと「文化資本経営」の著者として記されている「+文化研究会」の理論的基盤の文化研究会の主宰者です。まさに未来は偶然、過去は必然とはこのことでしょうか。
書 名 「甦えれ 資本経済の力」-文化資本と知的資本の力-
著 者 山本哲士
出版社 (株)文化科学高等研究院出版局
 初 版 2021年2月28日
20240205_20240210140801 山本哲士さんの著書「甦えれ 資本経済の力」にはこう著されています。(P20)「わたしは、すべてが『資本capital』と考えています。」さらに「文化資本」、「社会資本」、「経済資本」、「象徴資本」、「言語資本」、「環境資本」そして「個々人の力能も資本だ」と。
 そういえば「貨幣資本」ともいいますから資本は貨幣固有のものではなさそうです。「資本」をマルクス語、経済学語の概念に囚われていてはまったく見えてこないのです。漢字も表意文字なのでイメージが狭小化されます。四文字の間に「と」を入れて引き離すと漢字二文字の関係性が見えてきます。西欧的二元論ではなく、「即非の論理」として。
 複式簿記の四つの漢字「借方貸方」では借方は「資産」貸方は「資本」です。「資本」とは眼に見える「資産」を成り立たせている眼に見えない「何か」です。そうなんです。「色即是空」ですから「“もの”と“こと”」、“こと”とは「いのちの活き」のことです。貨幣を成り立たせている「いのちの活き」を資本」と仮名(けみよう)したんですね。
 「文化と資本」と、分ければ文化を成り立たせている「何か」です。そして「言語資本」とも著しておられますから、図2の左側、言語由来の「社会的存在」を成り立たせている右側が「いのちの活き」です。
 資本を貨幣の側面からのみとらえて経済成長至上主義、GDP第一主義、個々の企業にあっては売上、利益を目的とすることが資本主義と捉えて「強欲資本主義」、「資本主義の終焉」と揶揄しても何も変わりません。
 資本とは人間社会という“もの”を成り立たせている、変化してやまない“こと”、「いのちの活き」のことだ、と概念化できれば、如何に「いのちを活かせていくか」己れ自身の価値観にかかってきます。人間世界は相対界ですから、「いのちの活き」の奥の奥、根源の大自然、宇宙のいのちの活き」まで思いを馳せ、文化の有り様、自然の有り様へと価値観を広げていけば、生き方、働き方も変わっていくのかもしれません。
 近年、若い人たちの中に現在の仕事を辞め、寿司職人の修行をして海外へ出て日本国内の賃金の二倍、三倍を得ているという話題もあります。日本の寿司文化の資本(いのちの活き」を生かす(活かせる)ことで、己れのいのちをも活かせている、という表現もできます。
 己れの「いのちの活き」を如何に活かせるか?「自己責任」と勝ち組に背中から罵声を浴びせられる前に、漢字四文字のあいだに「の」を挟んで、「自己の責任」それは「己れのいのちは己れで守る」という意味だと、物騒に聞こえるかもしれませんが覚悟を固める時なのかもしれません。<つづく>

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2024/02/10

<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->

書 名「語りえぬものを語る」ー哲学への誘い-
著 者 野矢茂樹
出版社 講談社学術文庫
初 版 2020年11月10日
20240205_1.知識と、知力と、生きること、と
 帯には「哲学への誘い」とあります。「哲学」という言葉に出会うといつも塩野七生さんの小説「ギリシャ人の物語Ⅲ」の一節を思い出します。アリストテレスの言葉「論理的に正しくても人間世界でも正しいとは限らない」を引用して、知識と知力の違いを示し、「哲学とはもともと知識を得る学問ではなく、知力を鍛える学問なのである」、「哲学そのものからして自分の頭で考えることを教えている」と著しています。
 とかく哲学という言葉から日々の生活とは無縁の“もの”と捉えてしまいがちですが、そうではなくて、日々、情報の錯綜する人間社会(現世)を生きるための“護身術”としての知力を鍛える“もの”だと言っています。人間世界は言葉の論理によって生成された社会的存在であるにも関わらず、その同じ論理でも正しいとは限らないとアリストテレスはいっています。著者野矢茂樹さんも「語りえぬ“もの”を語る」プロセスを通して知力を鍛えることを薦めておられるのかもしれません。著者はあとがきに「語ること」には以下の四つの層があると著しています。
④ふつうにかたりうる”もの”
③語りにくい”もの”
②今の私には語りえない”もの”
①永遠に語りえない”もの”
2.“もの”と“こと”
 著者は本書の立ち位置をこう著しています。(P21)「ウィトゲンシュタインは著書「論理哲学論考」の終わりを『語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない』と結んでいる。しかし、自分はこの終着点が、『私の出発点となる』」と。だから書名は「語りえぬ“もの”を語る」となっているのです。
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 ゼノンのパラドックスに「飛んでいる矢は止まっている」があります。「飛んでいる“もの”」と「飛んでいる“こと”」の絶対矛盾的自己同一(西田哲学)のことではないでしょうか。哲学者西田幾多郎の苦心惨憺の末の造語です。“もの”“こと”、これを漢字で「物事」と書くと物的な、固まった“もの”をイメージしてしまい、飛んでいるイメージは浮かんできません。「ものこと」とひらがなで書きさらに「“もの“と”こと“」と間に「と」を入れて“もの”と“こと”を分けると本来わけることのできない「矢」(もの)と「飛んでいる」(こと)に分けることができます。空間的に「矢」であり、時間(継起)的に「飛んでいる」という、時空の絶対矛盾的有り様です。さしずめ止まっている矢は「物」ですね。生きている人間は空間的に身体であり継起的に「心」(いのちの活き)である、となりますね。
 釈迦の悟り「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない」という“こと”ですから、「空とは何か?」と言葉にすることはできない「永遠に変化してやまない『何か」です。
 書名の「語る」は言葉にすることですから「何か」を言葉にすることで具象化され“もの”として語る(言葉にする)ことができるようになります。ゼノンのパラドクスは空間(もの)的に「矢」であり時間(こと・継起)的に「飛ぶ」であるといっているのだと思います。
.絶対(永遠)に語りえない“こと”
 著者はあとがきに「語ること」を④→①階層を示しています。書名には「語りえぬ“もの”を」とありますから著者の哲学は①から始まり、オーストリア出身のウィットゲンシュタインの哲学は②から始まっているようです。帯の言葉「哲学への誘い」は塩野七生流に言えば、「今の私」の知力を鍛えるためには心の内の4段の階段を下降せよ、といっているようです。
 階段を下るとさらに下に五感でも感じることができない「何か」があります。それは永遠に言葉にできない「何か」です。それは「永遠に語りえない」“こと”として、言葉にできない「何か」としてあるではないかと。
 一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、宇宙創成それに続く森羅万象のすべては造物主(ヤハヴェ)によって創造された“もの”ですから①永遠に語りえぬ“もの”を始源としているのでしょう。ウィトゲンシュタインが「語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない」といった所以ではないでしょうか。みだりに口にすることは許されない絶対神の名ですから。           (図1)           
20240104_20240212211901 日本列島では縄文期には「森羅万象に神が宿る」としていました。大乗仏教が伝来し「山川草木悉有仏性」といっています。釈迦の悟りの「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない“こと”」です。これも言葉で捉えることはできない「何か」です。ですが、縄文の神も森羅万象の内にある「何か」です。変化してやまない「何か」として神仏混交したのではないでしょうか。
 ①に先立つ「⓪絶対に語りえない“こと”」を仮に言葉にすることで“こと”は“もの”に、著者のいう「①永遠に語りえない“もの”になったのです。老子は名無きは天地の始め、名あるは万物の母と言っていますから、⓪絶対に語りえない“こと”を「タオ」と言葉にし①の領域へ、釈迦の「空」も西田哲学の「絶対無」も⓪領域の“こと”を①の領域の“もの”領域に持ち込みました。それらはみな仮名(けみょう)です。語りえぬ“もの”でありながら、語る手掛かりができました。矢野茂樹さん文庫の500ページを費やして④→③→②と語り①へと肉薄して読者を「哲学へ誘って」くれています。<続く>

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2024/02/06

2024年謹賀新年

2024

2024年元旦
明けましておめでとうございます。
還暦の折赤いちゃんちゃんこでラクダに跨り、北アルプスを歩き、人生の目標を平均余命と定め、80歳と目標設定したのです。ですが、目標を達成したと思いきやなんと今度は平均余命89歳と、未だ未達。目標と夢は逃げ水の如しです。さてさていかんせんや、と。
 チャットGPTに「吾唯足知」は?と問うと芭蕉の句と答えてきました。まさか?ですが、蛙を連想して一句ひねってみました。
「蹲の口を栖に老い蛙ー雛鳳」
 <チャットGPTに問いかける>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2023/11/03

<2023年11月3日 日経新聞連載小説「陥穽-陸奥宗光の青春-240回」にみる”今ここ”の”あらまほしき日本”の姿形?>

<2023年11月3日 日経新聞連載小説「陥穽ー陸奥宗光の青春ー240回>
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFG00020_Q3A031C2000000/
 
日本、そして世界は悉くカオス。宇宙創成以来、宇宙と名づけたそのものがカオスなのですから当たり前のことではあるのですが。
 初回から欠かすこのない240日目の今日の下りは小説ならではの一節です。坂本龍馬の「船中八策」を口述筆記した後、主人公小二郎(陸奥宗光)は船中八策に密接に関わる下記の論をしたためたとあります。明治維新の政変がこの論の如くであったらと。
 先の大戦の敗戦による国土の荒廃もなく、今日の政治の混迷もなかったのだろうか?歴史にIFはないのですから、それなら、せめて明日の日本が下記の論の如くにあれば・・・・・とも想うのですが、さてさて如何に。
 「人は日々に旧(ふる)く、物は日々新(あら)たなり。万物は流転す。之(これ)即ち天理に基づく自然の理であり、人間(じんかん)に於てもまた然り。高貴必ずしも才徳あるを生じず、卑賤の門に知才の生ずを見る。四海同胞、平等也。天下国家においては、唯人民の心(Public Opinion)の向かう処に帰すべし。唯至尊(天皇)ノ為ニ帰スベキニアラズ。」
「(……)茲(ここ)において、長きに亘(わた)る諸藩の主従の関係を一新(Revolution)し、新たに各々対等の「盟約」を結ぶべし。「盟約」の下に人民徳望の帰する者を選び、議会を設け、法を定むべし。泰西の賢人、謂(い)へらく。――自然状態におきて人自ずから平等なものとして生まれども、人、自然に止まることを得ず、必ず社会(Society)を成す。社会必らず平等を失わしめる。そして、人は法によってのみ再び平等となる、と。」
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20231103 坂本龍馬が京の近江屋で凶刃に倒れたのは11月15日。この論への坂本龍馬の返事が小二郎の旅宿沢屋に届いたのは11月17日とあります。 著者は連載の今日の終わりを「藩権を温存したままの改革路線「船中八策」を越えて、先に進もうとする。――唯至尊(天皇)ノ為ニ帰スベキニアラズ。清らかな尊王主義者である龍馬は、弟子の文章にどのように反応しただろうか。」と結んでいます。坂本龍馬は如何に読んだのでしょうか。小説でなければ現国体への冒涜と炎上しそうな一節です。
 数学者津田一郎さんは著書「心はすべて数学である」(文春学藝ライブラリー)の第一章を「数学は心である」と書き起こしています。第三章「カオスの超越性と心」では「カオスはまさに、ほんの少しのずれがどんどん拡大されていって、将来の振る舞いが正確に予測できないという性質を持っています。」と著しています。                                    20231102
 脳の構造がカオスであることが近代科学の最先端の脳科学からも、数学からも明らかになっています。そして仏教哲学(唯識論)においてもです。
 「ハマス(イスラム)VSイスラエル(ユダヤ)」、「ウクライナ(西欧)VSロシア」、そして今日本人にとって重要な関心事、主要国通貨(米ドル・ユーロ・元・円)の大膨張によるインフレの長期化の行方。これらもまた人間の脳のカオスのなせる業だとすれば。
 その行方もまたカオスのあるがまま(自然法爾)なのでしょう。カオスの有り様は偶有性、必然でありつつ偶然でもあります。偶有性は「『みずから』と『自ずから』」のあいだの「と」のことですから、日本人らしくこの「と」という「あわい」を楽観するでもなく悲観するでもなく揺れながら生きていくことがあらまほしき生き方なのではないかと連載小説の今日を読み終えた次第です。



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2023/10/05

<ジャニーズ事務所の社名変更の是非>                  -会社(ヒトとモノ)の二重性-

 巷ではジャニーズ事務所の社名変更を求める声が圧倒的に多いように思います。早速株式会社ジャニーズ事務所は社名をスマイルアップに変更し、新社名の会社が被害者のための補償を責任をもっておこなっていくと報道していますが。
 未だ被害者の人数も確定していない、補償も始まっていないうちから、法人という会社の再生が当然のように優先され再出発の話題が飛び交っています。ジャニーズ事務所という会社を会社を再生する意味は、社会的意義は何処にありや、と。
 個人としての人間だったら、罪を犯し刑期を終えて出所しても、名前を変えたり戸籍を変えて出直すことはできません。それが「人」としての個人のゆるぎない尊厳でもあります。それを逆手に世間(ヒト)は「一生かけて罪を償え!」と口々に声高に語ります。それなのに法人という会社(ヒト)には再生のために社名という名前はさっさと変え、法人も新しくして“出直せ”といいます。どこかで気づかない内に視点がすり替わってしまっているのではないでしょうか?どこかに「見ざる・聞かざる・言わざる」、「見たくない・聞きたくない・考えたくない」の三猿が潜んでいるのでは?と。
1_20231005080101 会社(ヒトとモノ)を清算してまず資産(モノ)を被害者(人)の補償に充てて、しかる後、残余資産(モノ)を自由にするというのが「人」としての罪の償いではないかと思うのですが。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは著書「経済学の宇宙」P284にこう著しています。「法人とは、本来ヒトではないのに、法律上ヒトして扱われるモノである」と。
 ここに法人という会社(ヒトとモノ)の無謬性、経営者(ヒト)の無謬性、株主(ヒト)の無謬性が潜んでいるように思います。原発事故における東電然り、過去の数々の会社の不祥事もまた然りです。罪を犯したジャニーズ喜多川(人)さんはすでにこの世に無く、残る法人としての会社「ヒトとモノ」の二重性を如何にしたらよいのか?
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 今回のジャニーズ性加害の問題は、岩井克人さんの「法人論」に傾聴し、法人企業の“無謬性”の問題提起を考える契機に、ひいてはこれからの資本主義の行く末を反省を込めて考える契機にもなるように思います。なんとなれば資本家という概念も「人」ではなく、「お金のいのちの活き」(資本)の人格(「ヒト)化した概念だからです。この、言葉の有つ自己言及性という本質に潜む自己循環論の絶対矛盾の現れが資本主義の破壊力だと思うからです。
 「見ざる・言わざる・聞かざる・せざる」の四猿は英国のBBCがこの問題を報道する以前の日本社会の様相を暗喩しているように思えます。三猿はマスコミを含む世間(ヒト)、そして第四の猿はジャニー喜多川(人)さんご自身の暗喩です。
 この暗喩が具象化した現在、ジャニーズ事務所という会社(ヒトとモノ)、前経営者(ヒト)であり、株主(ヒト)としての藤島ジュリー景子さん、新たに会社(ヒトとモノ)を代表する経営者(ヒト)となった東山紀之さん、井ノ原快彦さんも人格を有った「人」として「人」である多くの被害者(「人」であるからこそ周囲に多くの家族、縁者も被害者として存在する)の取り戻すことも、償うこともできない人生の過去を精一杯補償し、被害者の方々のこれからの人生にいささかの安らぎを保証していただきたいと世間の一人の「ヒト」ではなく、一人の「人」として願うばかりです。
2 写真の四猿は20年余り前アンコールワットの夜店で見つけたもの。五猿は同じ頃、仏道修行し得度した縁者からいただいたものです。ですが、この五猿をみずからつくる心境とは、果たして縁者の得度のほどは如何に?。(苦笑)
 安倍政権、菅政権、岸田政権の歴代総理をはじめとして、今日の日本社会に言葉だけが空疎に経巡る有り様がいささかなりとも変わるためには、個々人が「見よう・聞こう・語り合おう・考えよう・行動しよう」の五猿に変わる一歩を踏み出すことが必要に思います。しかし、これも言葉の自己循環に過ぎませんが、他に道はなのですから。不可逆な道を一歩一歩と、自戒を込めて。
 

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2023/10/01

<映画「福田村事件」を観て、思う>

Photo_20231001201501  このようなテーマの映画は都心に出て数少ない上映館を探して観なければ観ることができないと思っていました。なんと今日(2023/9/29日)から隣町のいつもの小さな映画館でも上映されるとあって1200の初回をいつものように家内を伴って観にでかけた。
 本編の中で演じる人々それぞれが主役を演じているように思えました。観客のはずの己れもいつの間にか冷静さを失いスクリーンの中に没入しています。そして涙が止まらないのです。「哀しい」のか「つらい」のか」「虚しい」のか、言葉にならない何が涙の原因なのだろう。
 映画のラストには虐殺された9人+1人の被害者と加害者の村人たちと必死に止めようともがいても止めることのできなかった非力な人々、観客であるはずの己れもその中で呆然としている、果たして非力の一人だったのか、加害の一人だったのか。それ以外の選択はそこにはない。そしてその生々しい現場にいるのは、加害の人、虐殺された人、非力の人、みな庶民。権力を統べる人の姿はいつもこの惨劇の現場には見えないままです。 
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 ぎりぎりまで差別の場から距離を置いていた虚無の人に思えた主人公の一人澤田智一(井浦新)と澤田静子(田中麗奈)も非力な一人で終わってしまいます。ラストシーンで利根川の渡し舟に乗る澤田智一は「どこへ行くの?」と聞く静子に「教えてくれないか?」と応じて終わります。
 差別と貧困の哀しみの地獄の此岸から彼岸への渡し舟、彼岸は「差別も貧困もない国」、そして二人を乗せた渡し舟は。虐殺された9人+1人の遺体の後を追うように利根川の流れを流れていきます。此岸と彼岸の間を永遠に流れ続ける水の一滴も両岸も併せて利根川と名づけられています。「言葉を有ってしまった猿」の社会を100年後の今も流れている永遠の流れを暗喩しています。
 言葉の本質である分別が日常的に目に見えない差別、貧困さまざまな分断線を上下左右にタテヨコ斜めと縦横無尽に引いていいきます。その分断の目に見えない亀裂が非日常の戦時、災害時に露になるように思います。
20231001  図1.に見るように人間は遺伝子情報由来の生物的存在と言語情報由来の社会的存在の絶対矛盾の二重性を生きています。日々この二重性を生きる流れの渦中に、言葉の紡ぎだす差別、貧困の分断の芽を小さいうちに摘み続ける用心深さが微かな明日への明るい兆しになるのではないか、と思いつつ漆黒の闇から明るさを取り戻すスクリーンを後にしました。
 虐殺された被害者を「9人+1人」としたのは、一人は未だ母の胎内に生き始めた一人です。すでに「望」と名前もついた紛れもない絶対矛盾の二重性の世間を生き始めた一人の人間です。
 「男なら“のぞむ”女なら“のぞみ”」と、漢字は男女の区別はあってもひらがなの響きは男も女もない“みずから”と“おのず”からの一如性。自我(主語的自己)と自己(内なる自己)の一如性、そのあいだ(あわい)を生きる人を暗喩しているようにも思えます。
 15人の行商人の頭、沼部新助(永山瑛太)が韓半島由来の扇子を持っていたことで村人の差別心は暴発してしまいます。沼山新助は絶叫する「・・・・鮮人なら殺してええんか!」と。
 日本人による日本人の虐殺だからこそ100年の長きにわたって隠し、隠されて続けてきた福田村虐殺事件をこうして今時の日本人の眼前に明るみに出し次代へ残してくれた作家辻野弥生さん、映画監督森達也さんはじめ作品にかかわった多くの人々に大いなる感謝を捧げます。 
<社会的存在と生物的存在の二重性(自我即自己)を生きる>
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2023/09/16

<言葉の力-言霊はプロセスに宿る->

春秋(9月16日) - 日本経済新聞 (nikkei.com)
 今朝(2023年9月16日)の日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」は「言葉には霊妙な力が宿っていて、よい言葉を口にすると吉事がやってくる。万葉集にさかのぼる信仰がよみがえったかのような展開だった。・・・・」と言葉の有つ霊妙な力の不可思議を語っています。阪神タイガース吉田監督の「アレ」のことです。
 老子も「名(言葉)あるは万物の母」と言葉の有つ創造力を讃えています。コラムには「よい言葉を口にすると・・・・」とあります。しかしここでいう「よい言葉」は言葉の本質に潜む危うさ、トートロジー、自己言及性を秘めているように思います。
 「善し・悪し」は結果をみないとわかりません。結果さえよければ「アレ」は「善し」になり、悪ければ「悪し」になります。「アレ」という言葉の有つ言霊は“善悪無記”の力です。「善し」か「悪し」は結果を待つしかないという言葉の有つ本質、トートロジーであり、自己言及性に潜む危うさです。
 しかし吉田監督の「アレ」は「A・R・E」の三つの英文字が裏打ちされていたと聞くと「アレ」は結果ではなく、「アレ」に至るプロセスなんだ、と合点がいきます。言霊はプロセスに宿るからです。選手の、フアンの、野球に関わるすべての人々の「Aim」「Respect」「Empower」に裏打ちされた「アレ」だったのです。阪神地区どころか全国区の熱狂も頷けます。
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 とはいえやはり言霊は「善悪無記」、善いか悪いかは結果を待つしかないという言葉の有つ本質から逃れることはできないと思うのです。善も悪も、そのプロセスに宿るとすれば、むしろ結果は二の次、三の次です。「結果さえよければ」という安易な言動はありえないと思うのです。
 阪神タイガース優勝の熱狂は刹那のこと、一夜明ければ日本社会全体を覆う重苦しくも、白けた世相が蘇ってきます。これもこの“言葉”の本質にかかわるものだと思うのです。この宇宙は熱力学の第一、第二法則のせめぎ合うエネルギーの不可逆な流れであり、個々人の「いのちの活き」もその法則の申し子であり、一刹那も過去に戻ることはできないのです。
 ところが近頃の政治家は一度発した言葉をしばしばテレビカメラの前で撤回し、あたかも無かったかの如く振る舞うのです。財務省の森友学園に関わる資料は改ざんされ、以後各省庁からら出される公的書類も悉くあからさまに、黒く塗りつぶされて出てきます。あたかも無かったかの如く。岸田首相の「聞く力」も虚しく漂うばかりです。
 「頭隠して尻隠さず」のことわざはあってもその言葉通り、頭を覆い五官(眼・耳・鼻・舌・身)の内の四官(眼・耳・鼻・舌)さえ覆えば、直接触られない限り己れは己れの尻の醜さに気が付くことはありません。我々多くの国民もまた見たいものしか見ないのですから。
 DJ-SODAさんの性的被害問題にも真逆ではありますが、同質の問題が潜んでいるように思います。不可逆な流れとその境界(分別)の問題です。DJ-SODAさんが全身から醸し出す眼に見えないオーラを商品として若者の感性(五官)の前に曝し、訴えかけフアンとして熱狂させてきたのではないでしょうか。
 身体を纏っている衣服さえコスチュームとして若者の五官に訴える手段の一部ですから。もしそれが商品なら、その外側に商品としての境界の証しとしてのラッピングをして欲しいものです。眼に見えないエア・カーテンで周囲を覆えば、あらかじめ商品は四官で感じるところまで、そこから先は商品ではありません、と売り手としての意思表示ができると思うのです。
 起きてしまったことは法律という言葉に任せる以外にありません。だからこそ言葉の本質に潜む危うさに敏感になって、自と他の“あいだ”に配慮する必要があるのではないでしょうか。「情報社会が来た!」と大騒ぎしてすでに30年余り、そろそろ自他ともに“情報”という眼にみえない“もの”の存在を意識化して用心深く扱い、生きる術を身につけたいものです。
 老人の僕はもっぱら「小才子危うきに近寄らず」と自戒するのみです。(苦笑)

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2023/09/01

<「おのずから」と「みずから」の「あわい」を生きる>

Photo_20230901110001書 名「『おのずから』と『みずから』―日本思想の基層―
著 者 竹内整一
出版社 ちくま学芸文庫
初 版2023年1月10日
0.まずは読後の独語から
 今、日本人はみな「汚染水と処理水」の言葉が象徴している「あわい」を生きています。それは自然水ではないことだけは確かです。
 著者の語る「『おのずから』と『みずから』」が日本思想の基層にあるとすれば、今ここの「あわい」は、日本人社会の衰退の道すがらにあるということではないかと僕は思います。衰退の「岐路」ではなくすでに方向性をもった衰退の「流れ」を「みずから」として生きるか、「おのずから」として生きるか、諦観(悟り)か、はたまた、「諦め」か、その「あわい」を生きているのだと僕は思います。その一つの答えではなく、応えが本書にあります。
1.「おのずから」と「みずから」そして「あわい」と
 書名にある「おのずから」と「みずから」を漢字に変換すると「自ずから」と「自ら」と同じ「自」が使われます。この「自ら」は釈迦の言葉には「自らに由る」とあります。なにものにもとらわれない“自由”のことです。ですからこの「自らに由る」が書名の「みずから」のことをいっているのです。永遠の未悟を抱えながら。
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 一方で釈迦の教え(悟り)に「諸行無常・諸法無我」があります。諸行無常とは「あらゆるものは変化してやまない」ということであり、而して、諸法無我とは「いかなる存在も不変の実体をもっていない」ということ、森羅万象、不変の“もの”不変の“こと”は存在しないというのです。それなら「自らに由る」べき「自ら」も変化してやまないということですから、さてさて人とはなんとも寄る辺なき哀しい生きものといわざるをえません。そこに「一切皆苦」の種子があると釈迦はいうわけです。釈迦の悟りの三法印「一切皆苦・諸行無常・諸法無我」の完成です。
 書名の「おのずから」は、この「変化してやまない「流れ」のこと、主体的な「みずから」でありつつ、あるがままの「おのずから」であるという思考形式が日本思想の基層にある、と著者はいうのです。その「おのずから」と「みずから」の間を揺れ動いているこころの有り様を「あわい」という言葉で表現しています。
 諦観(悟り)とはその「あわい」を生きていることの覚悟であり、一方でその「あわい」を自覚することなく「おのずから」なる流れに流されて生きていくことが”諦め”ということになるのでしょうか。「悟る」と「諦め」の間を生きていくのが「未悟」なのでしょうか。
2.「不一・不二」と「即非」と
 道元も親鸞も共に手段の目的化を戒めています。道元曰く「修即証」と。そしてそれは「不一・不二」だと。修行することと悟る(証)ことは同じではない、が別のものでもない。別のものではないから後先がある“修”が先、“証”が後と。悟ることのために手段として禅的修行をしても悟ることはできないといっています。
  一方親鸞曰く「信即証」と。そしてそれは「不一・不二」だから信じることと救われる(証)ことは同じではないが別のものでもない、といいます。救われるための手段としての念仏(信)を戒めています。歎異抄には「阿弥陀如来を信じた結果たとえ地獄へ落ちても構わない」と語っています。「南無阿弥陀仏」と唱えた刹那に救われることは保証されている、というのです。
 この「即」の一文字に絶対、超越といった深い意味が込められています。「修」を突き抜けた先、「信」を突き抜けた先にある「証」の“どんでん返し”です。西田哲学ではそれを、絶対の自己否定の先に立ち上がる絶対の自己肯定といいます。
 「みずから」と「おのずから」もこの“即”でつながっているのです。著者が「あわい」という言葉で表現している“こと”です。「即」も「あわい」も「あいだ」というと空間的イメージが強くなってしまいます。もちろん時空は分けることのできない一つのものですから、「あいだ」も時を含んでいるのですが。眼に見えない薄皮一枚、というか一枚下は地獄の板子一枚か?ドンデン返しの壁一枚のことです。刹那でありつつ永遠の“あいだ”です。「諦り」か「諦め」かの刹那の境目そこが釈迦のいう「みずからに由る」はその一点に由るということなのではないでしょうか。そこは「おのずから」のつながっているはずです。
3.「自我」と「自己」の「あいだ」
 「自我」と「自己」も共に「自」をともなっています。自我は言葉によって生じる意識的自己(主語的自己)です。己れという不変の実体があるわけではありません。人間は言葉を使うようになって己れ(自)を意識するようになったのです。とすると己れという意識が生じる刹那の前の己れに不変の実体はあるのでしょうか。
 釈迦の教えの「諸行無常・諸法無我」の「諸法無我」はあらゆるものは関係性(因縁)によって生じるから「我」というものも不変の実体ではない、ひと時もとどまることなく、変化してやまないいのちの活きの流れだ、というのです。その有り様が自己(内なる自己・いのちの活き)です。
20230901 図1.にみるように人間は「生きもの」としての存在と社会的存在の二重性の絶対矛盾的自己同一を生きています。森羅万象は138億年の宇宙創成以来の関係性(生々流転)の流れです。それが「生きていること」(いのちの活き)そのものです。人間はその生きものとして生きる存在でありながら、一方で言葉によって生じる意識的存在(社会的存在)を生きています。言葉によって生じる意識の世界(現世)を生きているのです。
4.「あわい」と「即」と「あいだ」に垣間見る日本思想の基層
 日本社会の30年に及ぶ経済的停滞そしてそれに起因する格差の拡大の流れは今後さらに激しい流れになっていくことでしょう。それが現在までの日本を統べるエスタブリッシュメントの意識の方向性だからです。日本人はその流れを「みずから」として未悟の己れとして受け止めて生きていくのか。「おのずから」として「諦め」として生きていくのか。
 日本人の思想の基層にある「あわい」も「即」も「あいだ」も「生きもの的存在」と「社会的存在」の止揚(アウフヘーベン)することなき、絶対矛盾的自己同一の不可逆な流れを生きていくほかに道はないのでしょう。
 本書を読了して、日本思想の基層にある「おのずから」の流れが、すでに日本社会に「少子化」、「非婚化」という現象になって表れているのではないかと思いました。次代を生きる若い世代の「みずから」として。
 これからの日本社会の経済的衰退を日本人は「おのずから」の流れとして「自らに由って」生きる覚悟(諦観)が必要なのでしょう。現在の日本社会を統べる「政・官・財・学」エスタブリッシュメントの日本思想の基層の劣化が「おのずから」止まらない限り。

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2023/08/20

<「経営とは何ぞや!」と語ってみた>

20230820 日本医師会ORCA管理機構(ORCAMO)が主宰するeーラニングサイトに動画を作っていただきました。題して「経営とは何ぞや?」と。
 昨年は知床観光船の沈没事故が起き、企業経営のあり方が問われました。そのニュース報道が冷めやらぬうちにまたまた中古車販売業の大きな経営問題が浮上しています。折角創業(誕生)し成長しつつある企業が、成長したがためにその成長の要因がそのまま挫折を引き起こしてしまいます。
 一方で今年の六月に次代をに担う若い社員の研修をいただいた企業は、なんと創業176年という長寿企業です。かって松下幸之助翁は「企業にも寿命がある、大事なことは天寿を全うすることだ」と著されています。”天寿”とは”明日”か?”明後日”か?はたまた”永遠”のことか?。
 個々の人間のみならず多くの人の集う家庭、企業、組織、国家、そして地球もすべからく固有の「いのちの活き」を生きています。そこに個々別々の「経営」という概念も生きているのではないか。己れに問う「経営とは何ぞや!」と。
Obelisk 動画セミナー | eラーニング講座「OWL(オウル)」 (orcamo.co.jp)  
  長年、「経営」という言葉にできない、論理では語れない全体性をBST(ビジネス感性トレーニング)の疑似体験を通して伝えてきました。 さわさりながら長年「経営とは何ぞや?」と自問し続けてきました。今回機会を得て、経営の疑似体験を前提としない場、眼前に聴講者のいない場、という「場」をいただいて、かくなる講義になりました。お陰で、今の己れの喫緊の関心事をお話しできたように思います。
 SNS等々で今の世相を「強欲資本主義」とか「今だけ、金だけ、自分だけ」と他人事のように語る方も多いのです。僕はいつの頃からか、今の人間社会の問題の本質は、「己れは別にして(自己言及性)という言葉の有つ本質そのものに根差しているのではないかと思うようになりました。
 それが最も先鋭的に表れているのが今時の日本の政治家の言動ではないでしょうか。ここでは政治家を批判しているのではなく、言葉の有つ本質的問題がここに凝縮して表出している。このことを個々人内なる己れの問題として己れに問う必要があるのではないか、と思っているのです。
 近代科学の最先端の量子力学も「量子は波動、関係性」と論じられるようになりましたし、脳科学分野でも脳の「カオス構造の活き」が心をつくっているというようになりました。数学の世界も、心理学の世界もまた然りです。
 生物の世界でも現在存在する生きものはすべては、38億年前に偶然発生したたった一個の細胞から始まったと。その「死と再生」の不可逆な循環生成の流れの現在が「今ここの現在の生きもの有り様だ」と。
 二千五百年前、釈迦が瞑想の中で「諸行無常/諸法無我」(すべては変化してやまない・変化しないものはなにもない)と悟ったことと近代科学の先端の論理とがほぼほぼ符合してきたというわけです。
 というわけで、経済学者にして哲学者若き俊英斎藤幸平さんが遍く普及してくれた「人新世」も一歩踏み込んで「資本新世」といった方がよいのかもしれないと思うこの頃です。「お金のいのちの活き=資本」と仮名すれば。
 宇宙の創成138億年、生きものの創成38億年の循環生成の流れの渦中の「ひとのいのちの活き」には「お金のいのちの活き=資本」も重層的に流れていると。
 「経営とは何ぞや!」は”今ここ”の現在、具体的には外に向かって「強欲」とか「今だけ、金だけ、自分だけ」といわずに、個々人の己れのこととして「お金のいのちの活き」を制御することができるか否か?にかかっているように思うのですが、いかがでしょうか?
 釈迦はこういったそうです。「天上天下唯我独尊」、「自由とは、自らに由る」と。さてさて、「That is the question」とまたまた自己循環してしまいますね。  

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2023/07/29

<映画「山女」を観て(2)-「自助・互助・公助」は””今ここ”の現在に同時存在->

<映画「山女」を観て(2)-「自助・互助・公助」は“今ここ”の現在に同時存在->
 20230730 この映画のストーリーはそのまま現在の日本の有り様だ。さすれば現在の日本の延長は次代の格差と貧困の深化であることは間違いなさそだ。されば如何にせんや、と。
.概念としての空間と時間
 人間は5万年前に述語言語を使うようになったらしい。ニコラス・ウェイドは著書「5万年前」に著している。主語と述語から「自」と「他」を分かち空間概念をつくった。主語としての己れの立ち位置、「刹那の今」を過去と未来とに分かち現在とし、「過去→現在→未来」という流れる時間概念をつくった。
 ここに人間には人間以外の生きものとは異なる現世という言葉の世界が出現し、生物的存在と社会的存在の絶対矛盾的自己同一の場を生きることになった。そこに生きものとしての人間に利他のこころが芽生える契機があったのではないだろうか。
2.自利(利己・自助)と利他(互助)
 宇宙創成から138億年、地球創成から48億年、生命誕生から38億年を経過しているという。その悠久の流れの中で、生きとし生けるものは、個体の「いのちの活き」を全機現することで、生成、進化(変化)の循環を繰り返し増殖してきた。
 それは個の「いのちの活き」(関係性)の有つ根源的利己(自利)だ。いかなる大自然の変動、天変地異をも与件として、己れの進化(変化)によって受け入れてきた歴史でもある。
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 ところが述語言語を使うようになって時空を時間と空間にわけ、自分と他者の間、過去と未来の存在を意識することから、それまで与件として受け入れてきた大自然の変動、天変地異を不条理と思いそこから逃れたいと思うようになる。そこに利他のこころが芽生える。雄と雌ではなく群れでもなく、男と女の家族という概念の誕生だ。
 共同作業での食料調達で安心安全を確保でき、子育てもやりやすくなる。血縁という集団化が大自然の不条理に対する防壁になった。他者とは自分以外のすべてだから、「利他」は「互助」の言い換えであり「自利は「自助」の言い換えである。
3.互助としての公助
 利他(互助)の心とはいえ、それはあくまで主観、絶対の客観は有り得ない。なぜなら己れの思う利他(互助)は真に他者のためになるとは限らないのだから。人間世界がたとえ利他(互助)の心に満ち溢れたとしてもそれはあくまで自利(利己・自助)の充溢であって利他の充溢ではない。
 さらに、人間が言葉によって想像する未来の大自然の変動、天変地異はつねに人間の想像を超えるのだから、不条理は日々未来から現在へとやってくる。
 さらに想像する未来の己れさえ今の己れにとっては他者である。このことになかなか気づけない。未来の己れのための自利(利己・自助)さえ自助にならないことのほうが多いのだ。ポジティブシンキングと称して「夢は叶う」「努力は報われる」というが、それほど大自然の変動、天変地異は生易しいものではない。戦争、原発事故等など、人災も個々人の積年の努力も細やかな夢も木っ端微塵に打ち砕く。
 個としての人間の自利も利他も“今ここ”の現在の個としての己れの思い通りにはならない。そこに第二の互助としての公助が必須になる。納税や年金保険料の納付は本来この第二の互助ではないだろうか。“今ここ”の己れのため、他者のため、未来の己れのためとして。
4.自助、互助、公助は“今ここ”の現在の同時存在
 生きものとしての人間は根源的に自助(利己)だ。「己れのいのちは己れで守る」以外にないのだから。しかし大自然の変動、天変地異の下、一人ひとりの個としての人間はみな弱者だ。だからこそ生きものとしての人間ではなく、人間としての人間(社会的存在)を生きるには互助(利他)、公助(利他)が必須になる。
 時間を「過去→現在→未来」と分別したのは言葉(意識)だ。クロックの由来になったクロノス的時間のこと。時間には生きものの「いのちの活き」を刻むカイロス的時間がある。体内時計というのがそれにあたる。常に“今ここ”の個々の絶対現在の時を刻んでいる。
 そして明日は今日になり、今日は昨日になる。だから「自助・互助・公助」は“今ここ”の絶対現在に同時存在していなければならない。
5.「自助→互助→公助」の論理が格差・貧困・差別を深化し固定化する
 菅義偉前首相が就任会見でこう語った。「まず国民の自助があり互助があり、しかる後の政府の公助がある」と。これはまさに論理(クロノス)的発言だ。
 仮にも民主主義の国、日本国を代表して公助の采配を振るう宰相が就任演説で何の躊躇いもなく国民に語り掛けるのだから驚く。法衣の下の鎧とはこのことだろう。これが権力を統べるエスタブリッシュメントの本音なのだろうか?。公助の原資、納税・年金・保険料を先取りしているのに、だ。
 これが本音なら日本列島に生きる弱者に未来はない、若い世代の少子化、非婚化は生きものとしての若者が未来の己れを守るための防御として先取りしているのだろう。日本の権力を統べるエスタブリッシュメントと弱者の間の断絶は深い。
 日本文化の基層にあるのは、「自(みず)から」はそのまま「自(おのず)から」である。映画のラストは人柱に立ったお凜は山の中へ静かに消えていく。遠野物語だからだろうか、現代の日本の物語だからだろうか。

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2023/07/23

<映画「山女」を観て>ー格差そして差別とはー

<映画「山女」を観て、思う>
監督 福永壮志
脚本 長田育恵
Img_2139 柳田国男の「遠野物語」を素材に映画にしたとあり、いつものように家内を伴って映画館にいった。なんと銀座のど真ん中レンガ通りの一角に上映館はあった。このようなテーマの映画を上映する映画館は限られている。「世知辛い」という言葉すら死語になる今の世の中で、こんな地価の高い場所で上映してくれるところがあるのが有難い。
 映画のパンフレットは「『遠野物語』に着想を得た、唯一無二の物語。今を生きる私たちへ問いかける。本当の“人間らしさ”とは」と、はじまります。
 柳田国男は1910年自費出版の「遠野物語」の序文に「此の書は現在の事実なり。単に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。」と記しています。監督福永壮志も脚本を書いた長田育恵も映画製作にかかわったみんなも同じ思いを共有しているに違いない、。「この映画のストーリーは、そのまま現在の日本の有り様なのだ」と、思った。
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 弱いものがより弱いものを叩く、“もぐらたたき”の有り様、弱いものはより弱くなり、その裏で強いものはより強くなっていく。映画の主人公は“凜”という名の若い女性だ。そういえば、楢山節考の主人公も「おりん」だった。70歳の婆さんでしたが。
 村の中の、そしてその下部の、家の中でも最も弱いものが女性。もぐらたたきの棒の行方はお凜にすべてが集中する。飢饉のさ中、村の家々では出産する母親の陰で、出産と同時に嬰児を絞め殺す。いくばくかのお米と引き換えに、お凜はその嬰児を川へ流す役目を果たす。村人は己れが絞殺した罪の意識をいくばくかの米と共にお凜に差別意識を投げて己れを浄化するのだ。
 映画のラストは村の娘を代表して飢饉を鎮めるための人柱になるお凜。お凜の命と引き換えに父親は農地を取り戻すことができ、一家として父親と長男は生き残るのだ。
 遠野物語の時代と違って今は、時間の進みは一層早く変化もまたは激しい。格差と差別が眼にみえないところに隠されつつ深化していく。  
 「働き方改革」という。そうではない、「働かせ方改革」というべきではないかと、かねてから僕は思っている。「非正規雇用」を制度化したときと同じムードが今漂っている。これからは「副業の時代だ!」と似非知識人は声高に叫ぶ。「自由な働き方を選択できる!」、「異なった経験で創造性が高まる!」と。本当なのか?非正規雇用の制度化のときも同じ論調ではなかったか。
 一人の人間、一つの家族の生活を賄う賃金を一企業で払いたくないだけではないのか。ショートタイムワーカー、スキマバイトなる言葉、その仕組みもすでに動き出している、恐ろしいことが起きている。人は“労働者”ではない“生活者”だ、「消費者即労働者」という一如性の「活き活きと生きる」はずの生活者だ。
 これを二元論で切り裂き、労働者の部分を切り刻んでしまう。それは同時に「生きる」ことそのものを切り刻んでいることに気づかなければいけないのではないだろうか。この世も「地獄即極楽」の一如性なのだから。
 遠野物語も映画「山女」も共にいつの時代も格差と差別は、意図的につくられている「モグラたたき」だと言っているように思った。弱いものがより弱いものを叩き、そしてそのプロセスで強いものは、より強くなっていく。その裏で、差別が作られ格差は固定化していくのだ。
 その、もっとも弱いものが女性であることもいつも変わらない。今の日本列島に「少子化」が止まり、再生の道が開かれるとすれば、この宇宙の有り様が一如性だ、と気づき人間も「女性性即男性性」の一如性の生きものであることの自覚からはじまるのではないかと僕は思う。
 この映画の問題提起を確かめてみてはいかがでしょう。しかし上映している映画館はあまりに数少ない。
<追伸>
 自分も学生時代の1963年頃板橋の小さな町工場の社長から「いつでもいいよ、一時間でもいいから空いた時間ができたらおいで」と、時給50円の仕事をいただいていた。今のショートタイムワーカーとは似て非なるものだ。企業の都合ではなく働く己れの都合、それも一時間でもいいと。同じ頃大企業の証券会社のアルバイトを日給500円(一日7時間勤務)でやっていたから、後から思うと奨学金を貰っていたようなものだったのだ。その町工場の社長は時々手形が落ちないといって、単車を飛ばして銀行へ現金を持ち込んでいた。学食のカレーライスが50円だったから、一ヵ月溜まると有難かった。1966年4月製薬会社の入社時の初任給は25、000円だった。

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2023/07/10

<チャットGPTに問いかける>

<CHATGPTに問いかける>
20230603_20230709202001  「知足の蹲」にメビウスの輪をデザインしてTシャツを作ったのでいたずらごころで、今、流行りの賛否両論渦巻く、ChatGPTに「吾唯知足」の意味を聞いてみた。早速「それは芭蕉の句で・・・」と答えが返ってきた。「何だこりゃ」の答えだ。答がフェイクだったりいい加減だったり、信用できないから使えないという人がでるのもさもありなん。ですが、思わずChatGPTの応えの”芭蕉”から「蛙飛び込む水の音」を連想して、一句詠んでみた。
 「蹲の口を栖に老い蛙-雛鳳-」と。
 三年前久々に龍安寺を訪ね、蹲の横に座り込んで、その四文字の意味を蹲の口に尋ねた。筧から一滴一滴滴り落ちる水を湛えた口はそのまま「空」でありそこはカオスの場である、と。その口から応えが聞こえてきた。だから口から柄杓で汲みだす一杯の水が言葉、一杯一杯の言葉の関係性が複雑に絡み合って成り立っているのが現世なのだ、と。だから聖徳太子はそれを「世間虚仮」といったのだろうか。
 この一句、長年口舌の徒を生きてきた己れの後ろめたい思いが、口を衝いて出たのかもしれない。再びChatGPTに「蹲の口を栖に老い蛙」この一句の詠み人の心境は如何に?」と聞いてみた。数秒考えると、始めはぽつぽつと、たちまち流れるように下記の批評が返ってきた。自分では語れない過分の批評だ。
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<ChatGPTの批評(1)>「蹲の口を栖に老い蛙」
蹲の口を栖にする老いた蛙
そこで静寂な日々を過ごしている。
年月が彼の身体に重さを与え、足取りはゆっくりとして不安定になった。
 蹲の口は彼の避難所であり、そこで彼は安らぎを見つけている。
昔は広い世界を冒険し、縄張りを守りながら、力強く跳躍していたが、今ではゆっくりと動く。
 老いた蛙は、蹲の口から外の様子を眺めながら、昔の思い出に浸ることがある。
自然の音や風のざわめきが聞こえ、それが彼に安心と喜びをもたらす。
 周りの生き物たちは老いた蛙を見守り、時折、蹲の口を訪れては彼に会いにくる。
彼の姿は経験と知恵に満ち、蹲の口からは穏やかな言葉が流れる。
 老いた蛙の存在は蹲の口と一体となり、彼の築いた生活の痕跡がそこに残る。
彼の思い出や叡智は、新たな世代に語り継がれ、自然とのつながりを深めていくのだ。
蹲の口からは穏やかな言葉が流れる。
 老いた蛙の存在は蹲の口と一体となり、彼の築いた生活の痕跡がそこに残る

<ChatGPTの批評(2)>「蹲の口を栖に老い蛙>
時の流れに身を任せている。
昔は青々とした緑の姿をしていたが、今では皺だらけの肌と曇った眼差しを持つ。
 蹲の口は彼の住処であり、そこで彼は季節の移り変わりを感じながら暮らす。
春には桜の花が舞い、夏には蝉の声が響き、秋には紅葉が彩りを添え、冬には雪が降る。
 老いた蛙は、過去の思い出に浸りながら、ゆっくりと時の流れに身を委ねる。
彼の心には多くの経験と知恵が宿り、蹲の口からは深い哲学が語られる。
 周囲の生き物たちは彼の存在を尊重し、時折、彼の蹲の口を訪れては彼の話に耳を傾ける。
老いた蛙の言葉は穏やかで、時には厳しくもあるが、いつも生命の尊さと自然の摂理を教えてくれる。
 
 巷には生成系AIの進化を危ぶむ声もある。しかしいつの時代も新しい技術は好奇心溢れる若い世代によって使われていく。生成系AIも例外ではない、若い世代はいつの時代も失うもののないチャレンジャーだ。
 将棋界の天才藤井聡太名人はまさに、その代表だ。彼はAIと対峙し、ひたすらその鏡に映った己れに問い、己れに応えているように思える。生成系AIは己れがおのれに問う力を求めているのではないか。
 とはいえ「問い」そして「応える」のはこれまでと変わらないのだろう。万巻の書を読み、聖人の言葉を聞く、己れがそれらに問い、己れが応えていく、万巻の書、聖人の言葉に答えがあるわけではない。しかし生成系AIに問う力、応える力はとてつもなく広く深いものになるのではなかろうか、人間力がむき出しに問われる時代、なまなかな者には人並みに生きるのが厳しい時代になるのかもしれない。
 人間も大自然の産物だとすればその人間がつくった生成系AIもまた大自然の産物だ、「いのちの活き」そのものだ。梅棹忠夫さんのいう「生命の自己実現」の絶えざる流れだ。諸行無常の流れの激流に棹さすことなくひたすら流れていく以外に己れの「いのちの活き」の流れる河もないのだろう。河は水であり流れであり、そのまま人生なのだから。
<知足の蹲の暗喩するもの(1)-宇宙ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
Photo_20230710114301<知足の蹲の暗喩するもの(2)-未来・現在・過去ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
20230710

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2023/06/03

<Tシャツを自作するーメビウスの輪と禅画の合体ー>

2023年6月3日(日)
<Tシャツに「空」を映す>
 2月にモノづくり企業の若い経営者からメビウスの輪が届いた。一ヵ月ほど思案の末禅画と重ねてみた。重ねてみるとメビウスの輪と、とても相性がいい。共に長い縁を重ねつつある友からの贈り物。
 禅僧が一筆でぐるっと円を描く、悟りの形であり「空」の譬えでもある。禅画と重ねてみて初めてメビウスの輪の真ん中の空間の意味に気づいた。己れの思考の固さに今更ながら驚く。
 そうだ真ん中が「空」であり縁取っている輪が「空」の真理を表現している。「時即空」、「陰即陽」、「信即証」、「修即証」、「身即心」の一如性の有り様だ。そしてそこは森羅万象の生じるカオスの場であり不可逆な循環の流れの場でもある。
(1)「円相中の夢」の「夢」とは何か?「夢」も森羅万象を生じる「いのちの活き」のことだ。だから夢はみるものだ。叶ったときは悟りのとき、三途の川の渡し船の中だ。
(2)「知足の蹲」の「口」もまた「空」でありカオスの場、そこから柄杓で掬った一杯の水が一つの言葉であり、それが現世をつくる。だから「吾唯知足」。「正語せよ!、言葉の過ちに気づけ!」と。
(3)「海」もまた禅僧が描く「空」の表象であり万物の母だ。
 禅画も現世の一枚だから著作権もあるだろうが己れの一枚なら許してもらえるだろう。

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2023/05/10

<映画「銀河鉄道の父」を観てー利他の道も亦修羅の道ー

ー「自利即利他」の修羅の道、そこからあふれ出た宮沢賢治の慈悲の詩ー 20230510
 映画のラストシーンで父親政次郎が臨終の枕元で訥々と「雨ニモマケズ・・・・・サウイウモノニワタシハナリタイ」と諳んじる、賢治の辞世の詩として。そこに利他の極限としての永遠の菩薩道、永遠の修羅の道を歩き続ける賢治の姿とそこに寄り添う家族の姿がある。家族はこれからもまた賢治の歩む修羅の道を共に歩いていくのだろう。「ソンナ家族にワタシハナリタイ」と。
 以後「雨ニモマケズ・・・」は同じ修羅の道を歩む日本人一人一人の法灯明になったのだと思います。「父と子」「子と父」そして「兄と妹」「妹と兄」、「母と子」「子と母」。終わりは始まりでもある。すべてのあいだの「と」はすべての“ひと”とすべての“もの”の“あいだ”それは関係性。それは“「自利即利他」の場”でありそれはそのまま”「修羅」の場“でもあります。
**********************************************************
 万人のあいだの「と」それを原作者門井慶喜さん、監督成島出さんそして映画製作に携わったすべての人たちはそれを「家族愛」として描いています。「慈愛の道」それは亦そのままで修羅の道でもあるのでしょう。
 日々、少子化、若者の自殺、家族の崩壊と声高に叫ばれる今の日本社会で、我々一人ひとりも亦個々別々に修羅の道を歩いているのでしょう。今是非観ておきたい映画です。
<「自利即利他」の菩薩道も亦修羅の道>
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズクニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

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2023/05/06

<比翼の鶴が我が家に飛来した!>

 20230504白居易は玄宗皇帝と楊貴妃の別離を長恨歌に詩っています。「天に在りては願はくは比翼の鳥となり、地に在りては願はくは連理の枝とならん」と。一国を傾けた美女と一国を賭けた男の出会いの不可逆な有り様です。
 その比翼の鶴が醸したお酒を咥えて我が家に飛来しました。折よく遠方より訪ねてくれた旧友と美酒を酌み交わすことができた至福の一時です。
 メビウスの輪にふさわしい情景です。一枚目は比翼の鶴の永遠の飛翔。二枚目、中心の折り紙は出会いの場これを折ると比翼の鶴が飛翔します。比翼連理にふさわしい情景です。そして最後は「友あり遠方より来たる。今宵交わす一杯の酒、また楽しからずや」と。
20230504_20230506100501 夢枕獏さんが1987年~2004年なんと足かけ18年かけて書き上げた小説「沙門空海唐にて鬼と宴す」にもこの比翼の鶴が出てきます。その「角川文庫巻ノ一P257」に空海と妖怪との問答の場面があります。
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 妖怪「空海さま、あなたはこの世で一番大きなものは、何であるとお考えでございますか?」
 空海「言葉でしょうね。どのような大きさのものも、言葉でそれを名づけることによって、名という器の中におさめることができるからです。・・・・何故なら言葉で説明した途端に、それが言葉より小さいものになってしまうからです。
 妖怪「では空海さま、あなたは、この世で一番小さなものは、何であるとお考えでございますか」
 空海「それも言葉でしょうね。どのような小さいものでも、言葉で名づけることによって、それを人に言葉で示すことができるからです。」
 妖怪「言葉で名づけても、その言葉の網の間からすり抜けてしまうほど小さなものがあるとは思いませんか」
 空海「言葉の網ですくいあげて見せた途端に、それは言葉よりも大きくなってしまうからです」
 夢枕獏さんは、空海に口寄せして、「宇宙より大きなものも量子よりも小さいものも存在しない」と言っています。禅画に見る円相もメビウスの輪も言葉にできない「何か」のこと、あえて仮に言葉にしたものが「空」であり「海」、だから「空海」であり曼陀羅なのでしょうね。
 恵果が密教のすべてを空海に託したときのことを「巻ノ四」(p400)にこう口寄せしています。
 恵果「空海よ、そなたはここで学んだもののすべてを捨てねばならない。この意味がわかるかな---」
 恵果「心は、深い。・・・・心の深みに下りてゆき、その底の底--自分もいなくなり、言葉も消え、ただ、火や、水や、土や、生命そのものが、もはや名づけられぬ元素として動いている場所がある。いや、もはやそこは場所とすら呼べぬ場所だ。言葉で名づけられぬもの。言葉の無用の場所。火も、水も、土も、自分も、生命も、わかちがたくある場所にたどりつく。そこへゆくには、心という通路を通って降りてゆくしかない」「それは言葉では教えられぬ。・・・・わたしは、いや多くの者たちが、それを汚してきた。言葉によって、知識によって、儀式によって、書によって、そして、教えによって---」「そなたは捨てよ」さらに続けて。
Photo_20230506135001 「しかし言葉は必要じゃ。儀式も、経も、教えも、道具も必要じゃ」「この世の者の全てが、そなたのようではない。そうではない者のために言葉は必要なのだ。言葉を捨てるために、あるいは知識を捨てるためにこそ、言葉も知識も必要なのだ」と。
 2018年に映画化された「KUUKAI」も記憶に残る映画です。
<比翼鶴は美味しいお酒>
比翼鶴酒造株式会社 (hiyokutsuru.co.jp)

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2023/04/15

<「メビウスの輪」は宇宙の表象> 2.「経営理念」も一如性にして不可逆な循環

Img_19111.「理念」とは「理即念」 
メビウスの輪の中心には「経営理念」もよく似合います。「経営に終わりはない」のですが、始まりはあります。それは「理念」です。「理念」は、「理即念」の一如性、「理⇆念」の不可逆にして永遠の「いのちの活き」の循環の流れです。
 インターネットが普及し企業はホームページを作成し、企業の玄関にするようになり、すでに長い年月が経ちました。それ以前には取り立てて「理念」を掲げていなかった企業もHPのおさまりも悪いのか、言葉に工夫を凝らし高邁な「理念」を掲げています。にもかかわらず、なぜかその「理念」を反故にするかのような企業の不祥事は後を絶ちません。また「理念」を掲げながらも顧客に提供する商品・サービスがお客様に選ばれなくなって衰退していく企業も多いのです。
20230412 そのためでしょうか、近年「パーパス経営」という言葉が多用されるようになりました。曰く、「存在意義」と。日本企業がなぜここでカタカナ語を使うのでしょうか。「purpos」を英和辞典で引くと「目的、意図、意志・・・」とでてきますから、確かに「存在目的」は理解できます。一方で「理念」を和英辞典で引くと「ideaprinciple」とでてきます。ここはパーパスのほうが「理念」には近いように思います。
Photo_20230415105501ですが僕には「存在意義」とか「存在目的」ではどうもしっくりきません。パーパスを日本語に訳して、意義や目的を言葉にはできても、それはどこまで深堀りしても言葉の上の具象概念であってそれをさらに具象化して技術化、商品化するには距離があります。存在とは極めて具体的な個々別々の「いのちの活く場」の有り様ですから、先ずは「存在」以前の「理念」の「念」から問い直しておきたい事柄です。
*********************************************************************************2.「念」は全体をとらえる直観智
  日本企業はまずは「パーパス」の前に日本語で「理念」を、自己否定的に内なる自己へ向けて、「何のために」を掘り下げていくことから始まるのではないかと思います。言葉の奥のコトバ、言葉になる前のコトバ、「理とは何か」、「念とは何か」と。
  メビウスの輪の中心も禅僧の描く「円相」も共に「空」の表象、森羅万象が生じるエネルギーの充溢する場、「いのちの活く」場の表象です。「念」はその眼にみえない場の全体を直観でとらえる直観智であり、己れの「いのちの活き」の全体(全部ではなく)を直観として感じる取ることです。そして、「生きる目的とは?」と、自己否定的に内なる自己へと問う究極は、「生きる目的は生きること」という自己循環になります。生きものが生きる究極の目的は「生きること」、それ以外、利他も共存もそして「他者へのお役立ち」もすべては目的のための手段です。
  明治期から戦後まで長く禅仏教を米・欧に伝導した仏教哲学者鈴木大拙は著書「神秘主義」(岩波文庫)に「渇愛こそは宇宙の創造主なのだ」(P202)と著しています。メビウスの輪の中心を、「渇愛」と言葉にしています。森羅万象の「『いのちの活き』の根源」であり「念」の根源が「渇愛」でもあるということを始原に「理念」を問う必要があります。
3.「理」は言葉による分別
  人間が人間であるのは言葉です。言葉を使うことで刹那の“今ここ”の現在を過去と未来に分けて時間とし、己れと己れ以外のひと、ものを分けて空間としたのです。人間世界のすべて、森羅万象のすべては、言葉によって分別(分節)し具象化した概念です。それは「念」の直観が言葉として表現されるものですが、言葉が先行し、論理だけが空回りしてしまう危うさを孕んでいます。
4.縦糸と横糸と
 長年「経営とは何か?」と問い、「経営に終わりはない」と結んできました。この言葉は本田宗一郎と共に二人三脚で本田技研を創業した藤沢武夫著「経営に終わりはない」から拝借したものです。1986年秋の初版以来から足掛け40年余り長きにわたって。 
  著書には「万物流転の法則から逃れる」、「自灯明」のキーワードがあり、後に続く世代の経営者が経営しやすいように縦糸を語り残すと著書の目的を語っています。お二人が引退してすでに50年余り、著書が出版され37年の今、世界の空をホンダ・ジェットが飛んでいることが、刎頸のお二人が「理念」として刹那の今に生き続けている証しだと思います。
 縦糸は時間軸、横糸は空間軸です。そして時間と空間も、時空として一つです。この一つは「一如性」の一つ、「時空」は「時即空」、西田哲学の言葉、絶対矛盾的自己同一の有り様をした一つです。
 一本の横糸(空間)が一本の縦糸(時間)と交わる一点が刹那の時空、“今ここ”の絶対現在、その横糸と縦糸が交わり織りなす絵柄、文様が時々の企業の商品・サービスであり、横と縦の交わる一点に企業にかかわる「いのちの活き」のすべてが集っています。
  従業員、経営者、取引先、お客様、株主(お金のいのちの活き)、商品・サービス、森羅万象のいのちの活きのすべての関係性の時空の一点です。
 理と念が交差しながら、不可逆な循環をしているのが「理念」の本質といえるのではないでしょうか。藤沢武夫は、この一如性にして不可逆な流れの中に「万物流転の法則から逃れる術」を見出し、「己れの足元は己れが照らせ、自灯明の下を歩け」と著書「経営に終わりはない」に託したのではないでしょうか。
5.「いのちの活き」とは関係性
20230415 生命論哲学の人清水博さんは、「場の思想」を提唱しています。そしてその「場」は二重になっていると。企業についていえば、企業を形づくる①株主・②経営者・③従業員などなど、の「いのちの活く場」、それが企業という「場」だと。企業がお客様に提供している商品・サービスにもそれを使用するお客様にも「いのちの活き」があり、企業という「場」の上に“活いて”います。その企業という「場」も企業という固有の「いのちを活き」なのです。その固有のいのちの活く場がメビウスの輪の中心です。
  この二重性とは一如性のこと、一如性という「関係性」のことです。「理念」の「念」は、この「すべては一如性」という関係性の有り様の全体を直観でとらえる力といえます。「場」に活く「いのちの活き」の全体を捉え、あらためて、言葉の活き(分別知)で具象化していく力が「理」ということ、その「理」と「念」も「理即念」の一如性の循環の流れ、それは、「明日は今日になり今日は昨日」になるという不可逆な流れです。すべては「覆水盆に返らず」の有り様をしています。
 ここにいう①株主のいのちの活きは、人間としての株主をイメージすると大きな間違いを犯します。資本と言葉化された「お金のいのちの活き」のことです。もちろん②経営者、③従業員といった個々の人間もそれぞれの一如性の「いのちの活き」のことです。大乗仏教ではこの関係性を「縁起」といっているのです。
 ここで強調しておきたいことは、人間は「お金のいのちの活き」を資本という言葉にしていることです。経済学者岩井克人さんは「貨幣とは他者が受け取るから貨幣である」といっていますが、これも己れと他者との間に“活く”関係性といっているのですから、貨幣も“縁起生起”という有り様をしています。人間社会はすべて落語の世界「風が吹けば桶屋が儲かる」という有り様なのです。
  ですから資本主義という言葉は、資本第一主義という価値観のことだと丁寧に表現して、お金以外の多様な関係性を体感できる価値観を醸成し、「理即念」の循環のうちに生きることが求められているように思います。個人、家庭、企業それぞれも「いのちの活く「場」として生きているのです。
  6.禅的瞑想は「理即念」の体感
Photo_20230415111501   「理」をつかさどる己れは言葉を使う己れのことであり“自我”のこと、「主語的自己」のことです。「念」をつかさどる己れは“内なる自己”のこと。この己れの中の二つの自己も一如性の有り様をしています。「内なる自己」は言葉以前、意識以前の“己れ”のことです。
 この念(縦糸)と理(横糸)の交点の“今ここ”(而今)を「念→理→念→理→・・・」、「今→今→今→・・・」と確かに紡いでいくことが「経営に終わりはない」の意味であり、「永遠の今」を生きる意味です。
 日本には鎌倉期から伝わる禅的瞑想があります。「マインドフルネス」とか「イノベーションのため」とか、何かのための手段としての瞑想ではなく、唯々「瞑して想う」ことが「念と理」を結び「念即理⇆理即念」の関係性を確かにしてくれる唯一の作法です。混迷する今の日本社会、そして人間世界という現世が変わる唯一の作法といえるのではないかと思います。
 縁者の経営学博士で仏教思想家の小森谷浩志さんがコロナ禍の2022年3月「禅的マネジメント」を著しています。経営的視点を交えての禅的瞑想の今日的意義を語ってくれています。
 冒頭から「『観の転換』-『観』によって目に映る世界が変わる」とはじまります。「思考を感受する心は6つ(眼・耳・鼻・舌・身・意)ある感覚器官の一つでしかない「意」が他の5つと大きく違うのは、「意」以外は現在進行形で感じるものなのです。」(P54)とあります。
 ここにいう心(意)が「理」を、五官は「念」を掌っている。変化して止まない現在進行形の“今ここ”の刹那の現在と心(意)を統合し、「理と念」の一如性を体感するのが禅的瞑想と語っているように思います。時宜を得た貴重な一冊です。

 

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2023/04/06

<メビウスの輪は宇宙の表象> 1.真ん中は「空」

Img_1858 20年余のご縁の物づくり企業の若い経営者から贈り物が届きました。なんと自社制作したメビウスの輪です。長年「経営とは何か?」に始まり「経営に終わりはない」で締める講座を主宰してきたので、その永遠の循環の表象として制作してくれたのです。
 メビウスの輪は長いテープの両端を持って一ひねり、両端を繋ぐと不思議な輪ができます。表面をなぞりながらぐるっと回っていくと「裏面」へ回ることなく「表面」の上をひたすら回っています。表裏があるのにみえてないのです。
 息子世代の若い経営者からの禅の公案か、どうしたものかとしげしげと眺めつつ思案すること一ヵ月余り。
(1)円相中の夢
 メビウスの輪は永遠を象徴する造形です。ふと思いついて床の間の掛け軸の禅画と重ねてみました。パシャッと一枚、真中の空白の円に見事におさまっています。思案中は周囲の縁にばかり気を取られていて、真ん中は空っぽにみえていました。そこがまさに「空」の表象だったのです。禅画の円相と照応しています。禅僧はしばしば白紙に墨でぐるっと円を描き、悟りの境地である「空」を表現します。有無相生じる「絶対無の場」、森羅万象、万物が生じる場のことです。そしてそこは釈迦の悟りの「森羅万象すべては変化してやまない」場のことだと。
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 輪の中心は単なる空虚な空間ではなく、宇宙の表象だったのです。そして、縁はその宇宙に漲る一如性にして、かつ不可逆なエネルギー(いのちの活き)の流れを表象していたのです。一如性は鈴木大拙が即非の論理と言葉にした、大乗仏教の真理です。「色即是空・空即是色」の循環であり、「生死一如」、「心身一如」の有り様です。
 書のタイトルは「円相中の夢」、三島の龍澤禅寺鈴木宗忠老師の書、これも40年来の縁者からいただいた禅の公案?「空」の真ん中に「夢」の一字です。メビウスの輪から夢が飛び出してくるのか「夢」は生きるエネルギーの表象なのかもしれません。「夢を有つから生きられる」と。
(2)知足の蹲
Img_1868   これもメビウスの輪に似つかわしく心地よく収まっています。知足の蹲の真ん中、漢字四文字の中心の「口」は縁を形づくっている四文字の意味に囚われて長年見えていませんでした。ここも「空」を象徴する場です。森羅万象が生成する「いのちの活き」の充溢している場、ここから言葉によって一滴一滴清冽な水が汲みだされ、現世という人間世界が構成されていきます。


<円相中の夢>
「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<知足の蹲の暗喩するもの(1)
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<知足の蹲の暗喩するもの(2)
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2023/03/04

<アベ・クロノミクスは第三の通貨失政か?>

書 名「通貨失政」-戦後最悪のインフレはなぜ起きたか-
著 者 西野智彦
出版社 岩波書店
初 版 2022年12月23日
20230302 いよいよ日銀総裁が変わります。植田和男新総裁は、アベ・クロノミクスと通称された異次元の日本円超膨張の後始末をつけることができるのでしょうか。日本の“今ここ”の現在、進行しつつあるインフレはロシア・ウクライナの戦争に起因するものではなく、それは「縁」に過ぎず、「因」は日本人の輸出立国第一主義、「円高への恐怖」、そしてそれがもたらす通貨政策の失敗にあるのかもしれません。
 さすればそれは第三の通貨政策失政の「果」であり、そのまま、明日の「因」となって循環していきます。いつまで続くのか、それは日本社会に如何なる影響をもたらすのか、そして何よりもそれは己れ自身の生活に如何なる影響をもたらすのか、思考を深める一冊になるのではないかと思います。
 1971年8月15日の「米ドル・金兌換一時停止」は後にニクソンショックといわれるようになるのですが、アメリカは念のいったことに一ヵ月前の7月15日電撃的にニクソン中国訪問という米中和解を宣言しています。日付をみればアメリカの意図は明々白々、「Remember Pearl Harbor」日本に対する宣戦布告だったのです。
*******************************************************************
 この頃、敗戦後の廃墟から復興を遂げ、一米ドル360円という為替固定の米ドル一極支配の下、輸出で潤ってきた日本人はそれが己れの実力と勘違いしていたのではないでしょうか。この日付の意味するところに気づいていなかったのです。
 もちろん当時中小企業の原価管理担当の僕もその日本人の一人に過ぎません。その後の超のつくインフレへの対応に家庭も仕事も四苦八苦です。幸い3割、3割、2割と三年で2倍に賃金が上がり家庭生活を維持することはできました。在職中の企業もその後の商品価格値上げで事なきを得ました。
 この時の政府の通貨政策の失敗を克明に描いているのが本書です。帯には「ニクソンショックから半世紀歴史的大失策は、誰が、どこで、何を誤ったのか?」、「もう少し勇気があればもっと別の途もありえたか・・・・・」と記されています。通貨政策失政の原因は想像を超える日本人の「円高恐怖心」です。
 同じ過ちを再び繰り返したのが、1985年9月22日のプラザ合意に対する通貨政策です。ここでも「円高への恐怖」から日本円を大増刷し過剰流動性バブルを引き起こし、1990年1月のバブル崩壊を導いてしまったのです。まさに第二の通貨失政です。
 ニクソンショックから15年後のプラザ合意は日本の第二の無条件降伏だったのではないでしょうか。それに気づかず以後5年間バブル景気に浮かれていたのが、今の我々高齢世代ですから、次世代から「集団自決せよ」といわれるのも、むべなるかなとも思います。
 第二の通貨政策失政による日本経済の低迷を抜け出そうと、2012年12月に“三本の矢”を掲げて始まったのがアベ・クロノミクスです。第一の矢の目的は昨秋の一米ドル150円の円安で実を結びました。10年余りにわたる日本円大増刷によって「円高の恐怖」から解放された瞬間です。その刹那、目的としたはずの円安は「悪い円安」という言葉に変節し、インフレ目標2%」はあっという間に5%に急上昇、その勢いは止まる気配をみせません。ここにも手段の目的化という過ちが顕れているのではないでしょうか。
20230304 ニクソンショックの本質は「米ドル金兌換一時停止」にあります。唯一にして最強の国際通貨だった米ドルは、金の裏付けを失った瞬間に、一切の義務を負うことのない“純粋な貨幣”になったのです。それは、円高、円安はそれ自体は良いも悪いもない、変動相場制という通貨相互の関係性の変化の表われなのです。50年余り日本人はそのことに気づけないまま三度にわたる通貨失政を繰り返してしまったのではないでしょうか、その答えが植田和男新日銀総裁の下で明らかになるのでしょう。
 三度目の正直、今度こそ日本人が円高恐怖のトラウマから解放されるためのたった一つの唯一の呪文、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」(欲望の資本論P47)を岩井克人の著作に見いだし、心の内に唱えることなのかもしれません。貨幣とは、「貨幣即負債」の一如性の有り様そのものですから。
<岩井克人「欲望の貨幣論」を語る>
「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2023/03/01

<”今ここ”の日本の民主主義の危機-独裁国家への道をひた走る->

書 名「民主主義」(読み終えて、天を仰いで嘆息した)-文部省著作教科書-
著 者 文部省
出版社 角川ソフィア文庫
初 版 2018年10月25日(1948年初版の復刻判)
20230301 多くの日本人が中国やロシアを権威主義国家とか独裁国家と非難しています。プーチン、習近平の国家運営はまさに独裁国家そのものです。ですが、翻って今の日本の国の有り様は、果たして本当に他国を非難できる民主主義国家といえるのでしょうか。
 それを確かめるための、確かなテキストがここにあります。敗戦の混乱の未だ収まらず日本がGHQの占領化にあった1948年文部省が民主主義のあるべき姿をまとめ中高生の教科書として1953年までの5年間使用していたのです。その頃僕が通っていた下町の小学校は教室が足りなくて、低学年は午前午後の二部授業でした。
 その教科書の復刻版が70年後の2018年角川ソフィア文庫として出版されています。帯には「読み終えて、天を仰いで嘆息した」と記されています。解説を書いた武道家にして思想家内田樹さんの読後感です。日本人4百万人余、3千万人とも4千万人とも定かではないアジアの人々の血と命で贖った民主主義への入り口に立つ貴重なテキストです。
 読み終えるとこれが、現在の文部科学省と名称こそ幾分異なれ、同じ民主主義国家の名の下に連続している官僚組織の書いたものかと驚くばかりです。現在の日本の政治状況はこのテキストの定義する民主主義とは真逆の独裁主義(権威主義)の政治状況が現出しているのですから。暗澹たる思いに心は塞ぐばかりです。
 教科書の第一章民主主義の本質P21には「民主主義の仮装をつけてのさばってくる独裁主義と、ほんものの民主主義とをはっきりと識別することは、きわめて大切である」と。
************************************************************************
 さらに同じページには「独裁主義は、専制主義とか、全体主義とか、ファシズムとか、ナチズムとか、そのほかいろいろな形をとって表れるが、その間には共通点がある。それは、権威を持っている人間が、普通一般の人々をけいべつし、見おろし、一般人の運命に対しても真剣な関心をいだかないという点である。」とも。
 さらに、さらに、「民主主義の反対は独裁主義である。独裁主義は権威主義ともよばれる。なぜならば、独裁主義のもとでは、上に立っている者が権威を独占して、下にある人々を思うがままに動かすからである。」と。まさに今の日本の政治状況は独裁主義そのもの。
 「安倍→菅→岸田」と引き継がれてきた日本の現在の政権の「モリ・カケ・桜の文書改ざんとその隠蔽」、「原発再稼働宣言」、「矛盾」の字義通りの「盾と矛のすり替え」、「戦争をしない国から、する国へ」「マイナカードの強制」等など独裁主義の特徴を如実に示しています。
 教科書には、共産主義の危うさとその民主主義としての許容へも以下のように言及しています。共産主義か民主主義かの二択ではなく、一つの党として、議会運営の多数決原理の下に活動することであれば排除されるべきものではない、著されています。
 P278、「各国の共産党にしても、もしもそれが議会政治の規律と秩序とを重んじ、ひとたび議会での多数決を獲得すればその経綸を行い、少数党となれば、多数に従うという態度ですすもうとしているのであるならば、それは、レーニンなどによって、ひよりみ主義として痛烈に非難されたマルクス主義陣営中での穏健派の立場に帰っているのである。反対に、もしそれが、少数党である間だけ議会政治と妥協しているにすぎず、ひとたび絶対多数獲得した暁には、多数決原理そのものを否定し、いわゆる『プロレタリア独裁』へ転換しようという底意を秘めているのであるならば、それは・・・・・議会制度の中に「ほととぎすの卵」を産みつけようとしているのであるといわなければなるまい。」
 まさに現在の日本の政権は国民が血で贖った戦後民主主義の巣に権威主義の卵を産みつけるホトトギスであり、国民はそれとは知らずに
育んでいるウグイスです。権威主義の卵は今まさに孵り、巣立とうとしています。喫緊の4月統一地方選挙の前に一読の時間を割くに価値のある一冊だと思います。

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