「語りえの“もの”を語る」(4)
-オートポイエーシスから自己言及性へ、そしてひとから人間へ-
1.自己言及性
書 名 「自己言及性について」-社会システム理論の全貌を見通す画期的著作―
著 者 ニクラス・ルーマン
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 2016年5月10日
哲学者野矢茂樹さんの著書「語りえぬものを語る」に導かれて一枚のパワポ(図1)を描いてみました。パワポになると少し自分なりに見えてくるものがあります。著者は図1の④から①へと言葉を紡ぐことを通して「⓪永遠に語りえぬ“こと”」へ迫っていきます。哲学することとは言葉を紡ぐことであり言葉によって⓪へ肉薄することだ、と解いておられるように思えます。
図1.「語りえぬ”もの”を語る」
経済学者にして哲学の人岩井克人さんは、「人間とは“生きもの的存在”と“社会的存在”の二重性を生きる存在だ」といっています。図2のイメージです。ここにいう二重性とは“矛盾”ですが、へーゲル哲学にいう止揚する相対矛盾ではなく、西田哲学にいう絶対矛盾のことです。矛盾という言葉は文字通り“矛”と“盾”、あるがまま止揚することなく、同時存在のまま絡み合いながら、経巡り変化していく“こと”です。
家族、国家、貨幣、倫理等々人間社会を規定する概念はすべて言葉由来ですから人間社会は言葉によって構造化された相対世界です。野矢哲学は④→①へ、と限りなく⓪に迫りつつ人間の社会的存在の有り様を語っているのでしょう。
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図2.「人間存在の二重性」
野矢哲学をもってしても基層にある⓪「永遠に語りえない“こと”」は語ることはできません。そこは言葉の及ばない世界ですから。それが言葉の本質に潜む自己言及性です。
この自己言及性は「『クレタ人は嘘つきだ!』と、クレタ人は言った。この話は嘘か真か」というエピメニデスのパラドックスとして知られています。聖書にも言及されていると聞きました。
図6.「群盲象を評す」
図6.「群盲象を評す」もこの自己言及性のことを譬えています。象の巨体にへばりついている人間には、象という巨体のすべてをみて、その全貌を言葉で語ることは誰にもできない、人間は全体でもありながら、全体(宇宙)に包まれている存在なのですから。
いつだったか、「日本人には思想がない」と語る若きエリートと出会いました。これもまさに自己言及性です。思わず「あなたが日本人なら己れにも思想がない」と言っていることになるのでは?。「日本人には“無”の思想があると思うけど。」と問い返すと、くだんのエリートはキョトンとしていました。彼を批判しているのではなく、これが言葉の有つ自己言及性という病いです。空海は「言葉は器だ!」といったといいます。言葉を使うとき必ずその器から漏れるものがあるという戒めではないでしょうか。
クレタ人や群盲にも譬えられる人間は言葉を使うとき、あらゆる論理、言説はすべからくこの法則に支配されていて、お釈迦様でさえ逃れることはできません。謙虚なお釈迦さまは弟子から「死後のこと」を問われたびに「知らん」と答えたそうです。だから己れが言葉を使うとき、己れはクレタ人の一人であり、群盲の一人だ、全体を俯瞰して語る絶対神の立ち位置からは何事をも語ることはできない。己れを自己言及性の呪縛から解き放つことはできないという自戒が必要なのだと思うのです。そういえば、GWの渋谷のスクランブル交差点の巨大看板に「人類よ、この惑星は猿のものだ」と警告が出ていました。
図7.「鶏が先か?卵が先か?」
自己言及性をパワポにすると図7.「鶏が先か?卵が先か?」の自己循環になります。これは「卵が先か?鶏が先か?の終わりのない問い返しです。いやいや終わりはありますね。終わりは「絶対の神」か「絶対の無」か?そこはまた始源でもあります。
経済学者岩井克人さんもいうように、「貨幣は他人が受取るから己れも受け取る」のであり、神は信じるから存在し、存在するから信じるのです。クレタ人の話は聖書にも記されているといいます。造物主としての神の実在を信じることは、森羅万象のすべては個としての実在だから、言葉の世界も個と個を分断する二元論にならざるをえません。男と女、善と悪、美と醜、敵か味方か、・・・・・。
余談ですが、近年の日本社会の混迷もこの言葉の有つ本質である自己言及性にあるように思います。岸田首相ご自身が語る「聞く力」は掲げた手帳によって示されてます。「聞く耳」も確かに二つ確かめることはできます。それらは”もの”ですから。しかし岸田政権が「何のために、何を聞き、何をなすか?」はそのとき、国民の眼にははみえません。それは”こと”ですから。首相の「聞く力」も自己言及性の一つの有り様です。「聞く力があることはご自認することはできても他認はできないのです。たとえ首相の力をもってしても。
政治資金にまつわる与・野党、マスコミ、国民を巻き込んだ言葉のキャッチボールも「善悪無記」、自己言及性の果てしない物語なのではないでしょうか。
経営用語として頻繁に使われている効率、生産性、付加価値、利益といった言葉の有つ自己言及性も部分最適な概念であるがゆえに、全体最適を指向するはずの企業経営者の意思決定の混迷に深くかかわっています。
人間は言語というウィルスに罹患して遺伝子を書き換えられた猿なのでしょう。ウィルスはDNAを有たないのですから遺伝子を書き換えられた猿の自己増殖(オートポイエーシス)を通して人間そして人間社会の自己増殖が拡がってきたのかもしれません。
お金もいのちの活きを有った言語ウイルスの亜種ですから、効き目のいいワクチンは道元の言葉「不立文字」とか、親鸞の言葉「南無阿弥陀仏」でしょうか。「毒は毒をもって制す」といいます。自己言及性とはメビウスの輪に象徴される永遠の自己循環なのでしょう。
2.オートポイエーシス
書 名「知恵の樹」-生きている世界はどのようにして生まれるのか-
著 者 ウンベルト・マトラーナ&フランシスコ・バレーラ
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 1997年12月10日
N・ルーマンの「自己言及性について」は「第1章社会システムのオートポイエーシス」から始まります。
「心的システムも、そして社会システムでさえも、生命システムであるということに問題はないように思える。生命を欠いた意識や社会システムがありうるだろうか。ありえないとすれば、そして生命がオートポイエーシスと定義されるならば、・・・・・オートポイエーシスと生命の密接な関係を保っておいたままこの概念をさらに心的システムおよび社会システムに適用することができる」と。
自己言及性に先立ってオートポイエーシスがあるといっています。心的システムは言葉によって組成される意識システムであり、その意識システムから言葉によって自己言及的に社会システムも組成されていくといいます。
図2.「人間存在の二重性」の右の「生きもの的存在」はオートポイエーシスの流れであり、左の社会的存在は自己言及性の流れ、二つの流れは別々のものではなく、同時存在の流れであり、人間の「いのちの活き」はこの二つの流れの絶対矛盾的自己同一の有り様だということです。
オートポイエーシス(自己組織化)の流れは138億年前の宇宙創成から48億年前の地球創成へ、38億年前の生命の誕生へ、5万年前の生きものとしての人間への進化(変化)として流れています。そして5万年前、ひとは言語を操るようになって現生人類の流れを歩き始めたのです。
物理学そして量子力学へという近代科学の流れは「量子→原子→分子→無機物→有機物→微生物→生物」の流れを実験を通して明らかにしています。その流れに活いている目に見えない流れをマトゥラーナ&バレーラはオートポイエーシと言葉にしています。
3.「いのちの活き」とは永遠の“→”
図8.オートポイエーシスから自己言及性へ
オートポイエーシスから自己言及性への流れを図8.「オートポイエーシス」にしてみました。オートポイエーシスの本質として、図8.右上に記した以下の4つをあげています。
①自律性(動的平衡)
②個体性
③境界の自己決定
④入力と出力の不在
ここではオートポイエーシスの流れをイメージが湧くように「いのちの活き」と言葉にしてみました。人間のいのちの活きは自己言及性をも含むことになります。「いのちの活き」はエントロピー増大(無秩序化)の法則に逆らって秩序化し個体を形成していく方向性を有った流れです。エントロピー増大の法則によって細胞が破壊されるに先んじて自律的に細胞を破壊し再生しつつ個体を維持していく動的平衡な流れの存在です。
個体としての己れの死も「いのちの活き」の断絶ではなく「いのちの活き」の流れの渦中にあり、死と再生のあいだに環境の変化に適応する契機があります。
オートポイエーシスの本質の②個体性は③境界の自己決定を伴い、それは量子的存在を最小とし個体の自律性を高めていく流れです。それは言葉の自己言及性の流れにつながっていきます。図8.「オートポイエーシス」の下の個体の自律性の最小から最大への流れです。
言葉を有つことによって猿と別れた人間は、他者と共に活きる仕組みを群れではなく、家族という言葉を、部族という言葉を、造語し国家という集団へと「いのちの活き」の活き易さを求めてきました。個体の活き易さを求める人間社会も個体の自律を求めるあまりに、逆説的に今、ウクライナの戦乱、ガザの虐殺を招き、日中対立の危機を招こうとしています。
日本社会の非婚化、少子化、夫婦別姓、同性婚、多様性等々の諸問題も、この個体の自律の最大化への流れの渦中の有り様ではないでしょうか。さすれば問題解決のための「全体のいのちの活き」の最適化へ向けて新しい社会システム(言語由来)も生まれてくるであろうことを祈るのみです。N・ルーマン著「自己言及性について」の冒頭の「心的システムも社会システムも生命システムである」を信じて。
4.「生と死」と「死と生」のあいだに
いのちの活きは「生→死→生→死→」と永遠の循環の流れに活いている目に見えない“こと”として活いています。さらに、個体のいのちの活きは「生→死」の間の“→”に有り、「死→生」の間の“→”に「いのちの活き」の最も純なる“こと”、全体の「いのちの活き」が流れています。
図1.の⓪絶対言葉にできない“こと”がその全体の「いのちの活き」の流れのことなのではないでしょうか。ですが、近代科学も哲学も言葉の自己言及性から脱がれることはできないのですからそれも①永遠に語りえぬ“もの”としての存在に留まらざるを得ないのでしょう。
<追伸>
渋谷のスクランブル交差点の巨大看板(場所が場所ですから東急系の仕掛け?)は「猿の惑星ーキングダム」の宣伝でした。早速都心の音響も映像もダイナミックな大スクリーンの前方の席で鑑賞しました。いつもの老人割引より700円ほど高い料金でしたがその迫力の没入感にしびれました。ストーリは、人工ウィルスによって言葉を使うようになった猿と言葉を失った人間とのせめぎ合い、その惑星は猿のものでした。猿と人間は戦うことなく、言葉を取り戻した人間は地球へ帰還する物語、帰還する地球は大丈夫なのかと案じつつスクリーンを後にしました。
<参考>
図1.「語りえぬものを語る」
<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<「語りえぬ”もの”を語る」(2)-「資本」の意味する”こと”->: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<「語りえぬ”もの”を語る」(3)> -経営とは「いのちの活き」の全機現-: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図2.「人間存在の二重性」
そこはかといない不安はどこから、?: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
図7.「鶏が先か卵が先か」
<“サトシ・ナカモト”は“神”になるか?>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
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