2026/06/12

<「『信じる』とは己れが己れ自身を永遠に疑うこと」なのか?>

<「『信じる』とは己れが己れ自身を永遠に疑うこと」なのか?>
①古田徹也著「いつもの言葉を哲学する」-氾濫する言葉に溺れないために-
20260611 国家(国民)の明日の行方を左右する政治家の間でもSNS,動画サイトが乱用されフェイクニュースが飛び交っている。国会答弁でも明らかに嘘と思しき答弁が飛び交っている、詭弁、強弁も当たり前だ。
 巷の「オレオレ詐欺」など霞んでしまう。そういえば我が家でも「私は大丈夫」と嘯いていた家内もあわやオレオレ詐欺寸前だった。腹を痛めたはずの息子の声も聴き間違えるらしい。どういうわけか用意したお金の受け取り場所に肝腎の受取人が現れなかった。お陰で難を逃れた。己れを騙したのは電話の向こうの他者か?それとも受話器を持つ己れ自身か?つまるところ他者に騙される前に、己れが己れに騙されているのだ。
 「自己責任」とは、小泉・竹中政権もうまい言葉を流行らせてくれたものだ。今となってはこれほど時宜を得た言葉は無い。騙されるのもすべては「自己の責任」と言っているのだから。
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 そういえば、1945年8月15日終戦のたった7日前、満州で現地召集され一度も鉄砲を担ぐこともなくシベリアへ抑留され、以後死ぬまで辛酸をなめた父親の口癖が、父親の生涯年齢を超えた今も、確かに耳に残っている。「決して人を騙してはいけない。しかし、騙す力を有たなければ騙される。騙す力を有って騙さない。ここが肝だ!」と。他者を超える騙す力があれば、自分以外に自分を騙すことはできない。まさに己れの思考力も自己言及性(Self-reference)の限界、盾と矛の絶対矛盾なのだろう。
 都心の書店の店頭は貴重で、有難い。時宜をえたタイトルの書籍が買えよ、買えよと誘っている。ここは騙される心配はない。すべてはレジへ持参した「自己の責任」だから。
 ①の表紙のカバーに「言葉は思考の基盤であり、豊かな表現。言葉はときに世界の見方を更新する。生きる糧にもなる。しかし一方で、それらは自分や他者を欺き、傷つけ、使い方次第で人の命を奪う凶器にもなりえる。「言葉とは何か、「対話」とは何かを哲学する。----------ありがちな表現に逃げずに、「しっくりくる言葉」を選び取るために。相手の言葉を待ち、尊重するために。」とある。
                 ②古田徹也著「懐疑論」-なぜ私たちは疑うのか?-
20260611_20260612140101 「懐疑論」の帯の裏に「人間の宿命に正面から向き合う」とある。そして「人間はつねに疑念を抱く生き物である。錯覚や幻覚、虚偽や真実、善や悪、陰謀論とどう付き合い、向き合うか。ヒントは古来、思想家たちが探求してきた懐疑=判断留保の哲学にある。------人間の思考の落とし穴を知り、心の平安にいたるための手引書」と記されている。
 著者のいう人間の宿命とは言葉を有ったことだ。人間に言葉といういのちが宿ったことによって、幕が開いた人生劇のすべてが自分では自由に選べない悲劇であり喜劇であるということなのかもしれない。
 悲劇であろうと喜劇であろうと、己れがその主役を演じ切るために思考力を鍛え続けることが必須なのだ。己れを騙し続けることが主役である己れを信じ、演じ切ることなのだろうから。
 親鸞上人は古今東西第一の思想家、宗教家の一人と言えると思う。「念仏を唱えれば必ず極楽へ往生できると、法然上人に教えられた。結果としてたとえ地獄へいても構わない、所詮己れは地獄へいく身だから」と言い切っている。
 個々一人ひとり己れが生きる世界という社会環境が想像を超えて激変しつつある現在、そして日本列島に生きる我々個々人一人ひとりにとっても日本社会という生きる場所も激変しつつある。個々一人ひとりが「如何に生きるか?」が激しく問われている。
 著者が「懐疑論」から導き出した一つの応えは「懐疑主義」。「『懐疑=判断留保』の生き方」だ。懐疑主義は英語では「Skepticism」と表記される。仏教は「Buddhism」、資本主義は「Capitaiism」だ。「[ism]を生き方と言語化すれば、仏教は「森羅万象のいのちの活き専一の生き方」、資本主義は「お金のいのちの活き専一の生き方」、とも言葉化できそうだ。
 とりあえず著者の導きに従って、“判断を留保しつつ”も、残りの人生は仏教的生き方を選択することにしようと思った。
 この「----ism」に視点置くと仏教の源流のヒンズー教、バラモン教は、Hinduism、Brahmanismと表記される。イラン高原からインドへ侵攻したアーリア人の宗教だ。イラン高原ではゾロアスター教が成立しその後ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と影響し合っている。それらの標記はそれぞれ、Zoroastrianism、Judaism Isiamismとなっている。「----ism」だ。「生き方」と言えそうだ。表記は同じismなのだから。しかしなぜかキリスト教だけは、「-----ism」ではなく、「Christanity」と表記される。なぜなのか?キリスト教だけは「生き方」というわけにはいかないなにか別格の存在なのだろうか?とりあえず著者に従って判断留保しておくことにしておこうか。相変わらずの優柔不断の己れがいる。(苦笑)

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2026/03/13

<朝ドラ「ばけばけ」から円城塔翻訳の「KWAIDAN」に辿り着く>

<朝ドラ「ばけばけ」から円城塔翻訳の「KWIDAN」そして「Self-Referenc ENGINE」に辿り着く>
20260313 久々にNHK朝ドラを見ている、欠かすことなく。毎朝の主題歌は「毎日難儀なことばかり、泣き疲れて眠るだけ、そんなじゃダメだと怒ったり、これでもいいかと思ったり」と始まる。
 二番も「日に日に世界が悪くなる、気のせいかそうじゃない、そんなじゃダメだと焦ったり、生活しなきゃと坐ったり」と、僕には、今の日本社会の世相にピッタリはまって聞こえてしまう。とはいえメロディーもドラマも暗いわけではない。朝ドラが暗くては一日がはじまらないから視聴率も落ちていまうだろうから当たり前か?。
 主人公ヘブン(L・ハーン)さん。今朝(3/12)、小泉八雲と改名し日本人になった。あらためて八雲の名前が「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに----」と須佐之男命の短歌由来と聞くとヘブンことラフカディオ・ハーンと出雲のそして日本との関わりの運命的なものを感じる。松江の小泉八雲記念館には三度訪れてはいるものの、今年訪れるときはまた違って見えるように思う。
 改めて怪談を読もう、折角だから新約でと、円城塔さんが2022年翻訳したものを手にした。まったくの偶然だがこれがよかった。
 初めては中学生の頃だったか、?。あの頃はたしか「耳なし芳一」だった。今回求めた円城塔本のタイトルは「ミミ・ナシ・ホーイチの物語」(The Story of Mimi-Nashi Hoichi)になっている。イギリス人の著者が英語で英語圏の人に語った物語だから直訳を心掛けたという。
 そしてL・ハーンは物語の最後をこう語っている。「彼は裕福な男となった・・・・しかし、あの事件以来、彼はその異名によって知られることとなったのである。ミミ・ナシ・ホーイチ。つまり『ホーイチ・ジ・イヤーレス』というのがそれであった。」と。
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 題名の「Mimi-Nashi Hoichi」では英語圏の読者にはなんのことか意味はわからない。最後に「Hoichi the Earless」と明かされる仕掛けだ。中学生だったか高校生の頃英語の授業で辞書を引き引き英文で読んだ記憶も微かに残っているけれど、雨の夜の平家の落人の鎧帷子の音、平家の怨霊の鬼火の舞、耳を引きちぎられ血だらけになりながら激痛をこらえて冥界へ引きずり込まれる難を逃れた場面だけが心に残っていた。
 最後に彼が「裕福になった」という場面はまったく記憶にはない。円城塔訳は角川文庫。新潮文庫の上田和夫訳にも「彼は金持ちになった。しかし、・・・・もっぱら『耳なし芳一』という呼び名で知られるようになった」と語っている。上田和夫訳は日本人向けに翻訳したのだろう、タイトルとのズレは読者には聞こえてこない。翻訳者円城塔の直訳ではホーイチ、シモノセキ、タイラ一族、ミナモト一族と地名も人の名もカタカナにしてある、この意味は深い。
 それにしてもなぜ阿弥陀寺の住職は芳一の全身に般若心経を書いたのだろうか?なぜ平家の怨霊に芳一は見えなかったのだろうか?盲目の芳一には怨霊も鬼火も見えないのは不思議ではないのだが、全身に般若心経を書かれる前の芳一は怨霊にはみえていたのだ。
 今回上田和夫訳を読み直してみて般若心経はなじみが深く「なぜ般若心経なのか?」と意味を問うことはなかった。
 翻訳者円城塔さんはL・ハーンが参照した般若心経はマックス・ミュラーの英訳本だったという、我々日本人が親しんでいる玄奘訳は「色不異空、空不意色」「色即是空、空即是色」と対になっている。その上日本人の間では親しみすぎていて、ついつい後ろの部分の「色即是空」が言の葉にのぼる。
 「色不異空、空不異色」・・・形は空虚であり空虚は形である」
 「色即是空、空即是色」・・・空虚は形と異なるものではなく、形は空虚と異なるものではない」玄奘訳はこの一対。
 L・ハーンが参照したM・ミュラーのサンスクリット語写本からの翻訳では、「形とは何か-----空虚である。空虚とはなにか-----形である」と三段になっている、と、円城塔さんは書いています。
20260313selfreference 「ハーンの見立てによれば、般若心経が空の思想を説いているがゆえに、ホーイチの体は目に見えなくなるのである。ホーイチは形であるが、形はまた空虚である。ホーイチの体に『この者は存在しない』と書かれているがゆえに、ホーイチの体は『見えない』のである」と。英語圏の読者には魔術的にも思えたであろう。
 M・ミュラーは法隆寺のサンスクリット語写本も参照して英訳したというのだから、翻訳によって微妙な差異が出る、というのも興味深い。「目の見えない男が、体に『見えない』と記されることにより、見えない者から見えなくなる話」が語られていることになる」と円城塔さんらしい“自己言及”(Self-reference)な語り口だ。
 芳一が琵琶の引き語りで語る平家物語は壇ノ浦に沈んだ安徳天皇をはじめ平家一門の怨霊も聞き惚れてしまった。「幼帝を胸に抱いて船端から跳んだニイ・ノ・アマ---のくだりに差し掛かると聴衆は-----深い哀しみの嘆きに身を震わせると、興奮しては涙を流し-----むせび泣きと嘆きのときは長く続いた。しかし嘆きの声は徐々に弱まり非常な静けさがあとには長く続いて---」とL・ハーンは語っている。平家の怨霊にとって鎮魂の刹那だったのだろう。
 平家物語は壇ノ浦に沈んでもなおこの世とあの世、色界と空界の“あわい”に彷徨う平家の怨霊の鎮魂の物語、芳一の琵琶の語りはきっとその役目を存分に果たしたのだ。
 そしてその噂を聞いた「貴族たちがアカマガセキまで彼の吟唱を聞きにでかけ、多くの謝礼が支払われた」とL・ハーンは結んでいる。
 平家の怨霊の鎮魂が「お金資本」(お金のいのちの活き)の浮遊霊性をも共に鎮魂し、芳一を裕福な男にしたのではないか、と想像するのはいかがだろうか。それゆえ「ホーイチ・ジ・イヤーレス」の異名によって語り継がれることあっても「金持ち芳一」の陰口で語り継がれることはなかったのではないか。
 現在も赤間神宮では5月には平家一門の追悼祭、7月15日には耳なし芳一琵琶供養祭も行われているという。赤間が関阿弥陀寺に祀られたはずの安徳幼帝と平家一門の霊が今は赤間神宮の祭神となって“祀り”が“祭り”として再生しているのを小泉八雲は冥土からどんな思いで見ているのだろう。これも明治政府の廃仏毀釈、神道による仏教の吸収併呑のなせる日本的珍事には違いない。どうも、日本の古来からの、神仏習合とはいささか形が違うような。
 朝ドラ「ばけばけ」から派生した作家円城塔さんとの出会いのもう一冊の著書がアマゾンから届いた。タイトルは「Self-Reference ENGINE]、「自己言及性駆動装置」とでも訳せばよいのだろうか?エンジンとは人間のことか?。
 言語、法、貨幣の自己言及性(Self-reference)のトライアングルでできた人間社会が“自己言及性”であるがゆえに新しい均衡へ向かって、激変しつつある。トランプ大統領は国際法を破り、日本国憲法も揺れている。通貨円も揺れている。円城塔の著書にそのヒントはあるのだろうか?朝ドラ「ばけばけ」から有難い一冊に遭遇した。
 自己言及性(Self-reference)とは何か?。日本の“原発安全神話”も“財政破綻は起きない”のも、“成長無くして分配は無い”のも、自己言及性の自ずから然しむところなのだろうから。

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2026/02/14

<「自己の責任で!」-自分の未来は自分でつくる外に道はない!->

2026年2月9日
 時代の転換の刹那の今を見ているのだきっと。1943年満州ハルピンに生まれ、母親に連れられ内地に辿り着いた。焦土と化した東京、焦土と化した下町板橋。紙一重、かろうじて残留孤児になることなく、かろうじて戦災孤児になることもなく、か細い曲りくねった道を一歩一歩、歩き「国力の盛衰80年」をなぞるように生きてきた。時の流れは不可逆だ。
 明日は今日になり、今日は昨日になる。こんなとき、M・トウェインの言葉を思い出す。「歴史は繰り返さない、が、”韻”を踏む、」と。戦前に戻るわけではないが今の日本社会は、まさに「韻」を踏んでいる。
 夢に出てきた杜子春の夢、地獄に落ちた自分が馬になって鞭打たれ使役されている。眼が覚めると確かに尻が痛い。頬をつねってみた、やっぱり痛い。
 ”結果”はいつも未来のどこかにある。自民党が歴史的大勝を果たした今回の衆院選の未来の”結果”はいかなる姿になるのだろうか?。
 個々の一人ひとり、想像をたくましくするしかない。未来にいって、「自己責任」と後ろから蹴飛ばされる前に、刹那の今「自己の責任で!」。
 冥土から「己れのいのちは己れで守る、外に道はない!」とシベリア抑留者の親父の声が聞こえてくる。空耳か?。
<日本社会のこれから-不可逆な時の流れの向こうに?->: ともだちの友達はともだちだ!
<日本の国力の盛衰80年と2025年以後の日本>: ともだちの友達はともだちだ!
202602142025






        20260214

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<第二次高市政権が誕生した!-責任とは?結果は未来のどこかで=>

2026年2月9日
 第二次高市政権が誕生した。選挙の前の公言が耳に残響している。
①「責任ある積極財政」、②「無責任な減税はしない」と。言葉は便利だ、発した言葉の奥には遡れないから。日本語も便利だ、主語が曖昧だから。
 ①の責任の主語は誰、②の責任の主語は誰。一人の口から発した責任だから主語を揃えて高市早苗総理大臣とすると。①は「私が責任をもって積極財政をおこなう」、②は「私の責任において減税はしない」と僕には聞こえる。
 そして時の流れは未来から過去へと流れているのだから”結果”はいつも未来のどこかにある。そこの場で”結果”を引き受けるのは未来の国民、個々別々の一人ひとりの国民だ。①と②の主語の人ではない。”結果”が現在になったとき、言葉はすでに過去のどこかに消えている。
 だから今、刹那の今、「To be or not to be that is the qestion」なのだろう。今の生き方を続けるのか?、今の生き方を変えるのか?、と。個々別々の一人ひとりが刹那の今問われている、と僕は思う。

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2025/12/11

<人的資本の最奥の”ミッシング・ピース”それが「哲学なのか?」>

2025年12月8日(月)日本経済新聞朝刊一面の記事に「倫理関連職5年で6倍」の文字が躍っている。
超知能 仕事再定義(1) AI時代の雇用「求む!哲学専攻」 「倫理」関連職、5年で6倍 開発レースで思想対立も - 日本経済新聞 
 「求む!哲学専攻」とある。人的資本経営が「人のいのちの活き第一」だとするなら、そしてその「人のいのちの活き」のミッシング・ピースに「哲学」が填るとするなら、幾ばくか次代に期待がもてそうな気もする。
 学生時代「哲学で飯が喰えるか!」とうそぶいていた。哲学講座の期末試験はたった一行「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」とあり名前だけ書いてそっと教室をでた。戦後最大の不況下「会計屋なら飯が喰えるかもしれない」と中小企業の経理マンになった。
 あれから60年余り、「梟が飛び立つ」気配はなかった、が、黄昏とはいえAIが成熟してミネルヴァの梟が飛び立つてくれるなら宗旨替えして足を掴んで冥土まで飛んでいきたいものだ。残りわずかな距離だから。(苦笑)
20251211










 

 

「資本主義の中で生きるということ」: ともだちの友達はともだちだ!
<M・ガブリエルさんは言う、「企業の目的は善行である」と。然らば「善行とは?」>: ともだちの友達はともだちだ!
<映画「八犬伝」を観て!>-”虚”と”実”のあわい-: ともだちの友達はともだちだ!
<「資本主義の中で生きるということ」-2>-自己疎外: ともだちの友達はともだちだ!

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2025/11/08

<日本社会のこれから-不可逆な時の流れの向こうに?->

書 名「略奪される企業価値」-「株主価値最大化」がイノベーションを衰退させる-
著 者 ウィリアム・ラゾニック/ヤンーソプ・シン
出版社 東洋経済新報社
初版日 2024年10月1日
20251107_20251108113901 帯には、「『企業が資金調達をする場所』ではなく『企業から資金を吸い上げる場所』と化した株式市場。」、「持続不可能な『略奪的価値抽出』の仕組みが企業を滅ぼす。」と。そして背表紙には「真犯人は『自社株買い』とあります。
 企業の内部留保は企業の明日のための研究科発、設備投資のため資本、それが自社株買いを通して株主(過去)へ還元されていく。そのための資本(未来のため)を借入金で調達するに至っては。株主(過去)のために企業のいのちの活き(未来)を吸い上げてしまう愚かさです。固定費の重要項目の人件費だって本来未来に向かって従業員(人的資本)を磨き育てていくエネルギー、それを削って利益を増やし株主(過去)へ吸い上げてしまうとしたら。それが日本企業の人件費分配率の継続的な低下の真の原因だとしたら。日本の株式市場が周回遅れで追随している株主主権主義の姿だとしたら。
 これがアベノミクスそれを継承するサナエノミクスの向かっている日本社会の不可逆な流れの方向かもしれません。念のため書店で背表紙、そして帯の裏表を確かめてみてはいかがでしょう。
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202511071.戦後80年は経済立国の盛衰か?対米従属の深化か? 
 長年、折に触れ「日本の国力の盛衰80年」と語ってきました。盛衰80年、それは1865年日米修好通商条約締結、西欧列強帝国主義国家との不平等条約締結に端を発しています。以後日本政府は西欧の植民地帝国主義に周回遅れで追随し軍事立国への道を邁進した挙句、アメリカに完膚なきまでに叩きのめされ日本列島を廃墟にして1945年8月軍事立国の終焉を迎えました。その廃墟から80年の今年、2025年敗戦の代償として追い求めてきた軽武装-経済立国の終焉を迎えています。
 1943年戸籍には今でも満州国と印字されている僕にとってこの80年余を思い返すと、経済立国の盛衰をなぞるように生きてきた記憶が走馬灯のように蘇ります。それはそのまま1945年8月のポツダム宣言受諾、無条件降伏の帰結である対米従属深化の歴史80年でもあります。とりわけ小泉政権誕生以後21世紀のこの四半世紀は対米従属の深化が露わになってきた四半世紀でもあったのではないかと、僕には思えるのです。
 ブッシュ大統領と小泉純一郎総理大臣とのキャッチボールの親しげな写真、トランプ大統領と安倍信三総理大臣とのゴルフカート上の写真、一押しの一枚は先日の横須賀港の原子力空母ジョージ・ワシントンの艦上で万雷の拍手の米海軍乗組員に向かって拳を天に突き上げて歓喜する高市早苗総理大臣の姿、これが「総理になっても靖国神社を参拝する!」と公言していた日本初の女性総理大臣の姿とは?
 80年余の対米従属の歴史をなぞるように生きてきた僕には対米従属ここに極まれり、80兆円の対米投資、防衛費増額も沖縄密約の姑息な再現のようにもみえます。あらためて坂口安吾の「堕落論」を読み返しておかねばと書棚を漁った、ポツダム宣言受諾の半年後の春、発表した「堕落論」を坂口安吾はこう結んでいます。
 「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできない。・・・・・人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならい。政治による救いなど上皮だけの愚にもつかない物である。」と。果たして日本人は、そして日本は「正しく堕ちきる」ことができたのだろうか、まだ落下のさ中にいるのだろうか?。
2.「資産運用立国の行く末は?
202511082025   そんな己れの感傷はともかく今朝(11月3日)の日経新聞朝刊二面に「『資産運用立国』岸田政権を継承」とあります。高市早苗新政権の経済政策のスタートの第一声が「資産運用立国」と。これは岸田政権の継承以前に第二次安倍政権の「バイ・マイ・アベノミクス」の継承でもあります。この標語の下に日本の証券市場の改革もニューヨーク市場に沿って行われています。いわゆるアメリカ型の株主主権主義の追従です。失われた30年の時を巻き戻すと、日本ではしきりに「企業はステーク・ホルダー型か?ストック・ホルダー型か?」と論じられていました。そのたびに、前者は日本型企業経営スタイル、後者はアメリカ型企業経営スタイル、そして日本経済の停滞はアメリカ型のストック・ホルダー型ではないからだ、との結論に至ります。
 日本型は一言でいえば近江商人の「三方良し」、「売り手よし、買い手よし、世間よし」です。決して「ウイン・ウイン・ウイン」ではありません。それは「部分最適」、三方良しは「全体最適」ですから。
 アメリカ型は一言でいえば、株主(ストックホルダー)主権論、「企業は株主(ストック・ホルダー)のもの」、株主専一主義、これこそ「部分最適」の極みです。その本質は企業の経営目的を価値創造(利他・未来)思考から株主価値最大化(自利・過去)思考への転換、それは企業経営を価値収奪の場と化してしまうことでもありまあす。
 若い頃から自称会計屋の僕は、標語の「資産運用立国」を複式簿記の借方(眼に見える“もの”)側ではなく、貸方(借方を成り立たせている眼に見えない“こと”)側の言葉「資本運用立国」と読み替えると“こと”の本質がみえてくるのではないかと思うのです。
 「資本とは借方を成り立たせている『何か』」、その「何か」を森羅万象のすべてを成り立たせている「いのちの活き」と言葉化すれば、「資産運用立国」とは、「お金のいのちの活き運用立国」と言葉化できます。
 今時の円安、インフレ下に、くだんの「バイ・マイ・サナエノミクス」をもしアメリカ、イギリスへ出向いて声高に説いたら諸外国の人々は何と聞くでしょうか?。自国の国土、国民、etc.日本のすべてを「貴国の『資本』(お金のいのちの活き)の傘下に治めてください。」と物乞いしているように聞こえるかもしれません。すでに都心のマンション、観光地のホテル、旅館、円安下の株高もその兆しかもしれません。
 戦後80年経済立国の盛衰の眼に見えないところで対米従属が深化し、表層化してきたことと同じくして、諸外国の「資本」(お金のいのちの活き」が日本列島を支配する帝国ネオが大手を振って表層化してくるのが2025年以後の日本社会の有り様かもしれない、と恐れるのです。
 平家物語に時の最高権力者白川法王が己れの思い通りにならないものとして「賀茂川の水・賽の目・荒法師」の三つを挙げたとあります。僧兵が担いで都を強訴した神輿のご神体は?。
 そしてこれからの日本の最高権力者にとっても思い通りにならないのは「気候変動」、「渾沌」そして「ファンドという神輿を担ぐ荒法師」。その神輿に乗っているのは世界の超富裕層というヒトか?それとも神格化された「お金のいちの活き」か?。神輿を担ぐ荒法師とは政、官、財、学を統べるエスタブリッシュメントはメリトクラシーを体現する次世代か?。帝国ネオが顕れつつあるのかもしれませんね。

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2025/10/07

<「生産性」という言葉の欺瞞>

<「生産性」という言葉の欺瞞>
1.「利益は過去最大」「労働分配率過去最低」の謎?
 己れが他者に向けて語る言葉、他者が他者に向けて語る言葉。人間社会とは人間が語る言葉によって成立している社会です。その言葉は概念ですから、同じ言葉でも個々人の受けとめ方は微妙に異なります。そして口から出た刹那に二度と口の中に戻ることのない不可逆性を帯び、あたかも生きもののように伝播し増殖していきます。
 しかし五感で捉えていても言葉にできない「何か?」があり、五感でも捉えることができない「何か?」もある。その「何か?」が言葉と言葉のあいだに蠢ています。それらのすべてが、人間社会を生きる生きものとしての人間個々人に具体的な悲喜交々が生じし続ける宿命があり運命があるのだと思います。 
<図1.「利益”過去最大”賃金に回らない>
20251007たまたま旅の途次(10月2日)旅館のテレビをスイッチすると「BS-TBS報道1930」の画面から一枚の図が眼に飛び込んできました。図1.「『利益“過去最大”も賃金にまわらない?』『ところが“労働分配率”は…‥』」とあります。
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 現下の日本経済はおよそ30年余り「『生産性』が低下している。構造改革が必須だ。!」と経済界からも経済学者、経営学者の間でもしばしば語られています。しかしそこでは「生産性」とは?」、「労働分配率とは?」は既知のこととして語られています。長年ここに言葉の巧みな欺瞞があるように思ってきました。言葉の本質にある自己循環性から抜けだせないのです。では「生産性とは何ぞや?」、「労働分配率とは何ぞや?」と。
2.「生産性とは?」「労働分配率とは?」
 ①「生産性」は「付加価値÷労働者数(又は労働時間)」と定義(概念化)され、
 ②「労働分配率」は「人件費÷付加価値」と概念化されています。
  ①は30年余り低下を続けていますが、その間も②は上昇し続けているというのです。
3.算数的計算式の言葉を整える
 ①と②は算数的には分子と分母を入れ替えただけではないのか?①の分母「労働者(又は労働時間)」は企業では従業員数のことですが労働者と言葉化することで働く人々を「量的なもの」に貶め、貴重な「質的なこと」を捨象し、無視しているのではないか、と思うのです。
 ①、の分子と②、の分母は同じ「付加価値」です。付加価値とは企業の労働者ではなく生身の人間である従業員が全体として創出したものです。ところが②の分子は生身の人間である従業員が受取る人件費です。計算式の言葉のまま「人件費分配率」と呼ぶべき計算式を「労働分配率」と呼称して人的資本(人のいのちの活き)を巧みに捨象(もの化)してしまうのです。
 ②.の計算式の分子と分母を入れ替えると「人件費生産性」となり、労働者と人件費と言葉は異なるものの、①.も②。も言葉の概念は同じ「生産性」ということになります。これを詭弁と言わずしてなんという言うべきか?。折れ線グラフの頭には象徴的に小泉純一郎元総理の大きな顔があります。2001年小泉・竹中政権の誕生です。以来労働(人件費)分配率は下がり続けている一方で。企業の利益留保である内部留保は増え続け637兆円と膨れ上がっているのです。企業の付加価値創出の成果を、企業を構成する枢要な要素である従業員(人的資本)に生産性向上の成果を25年もの長きにわたって配分することなく貯め込んできた結果が過去最大の内部留保の真の原因です。
 本来分けることのできない生活者を消費者・労働者と分断し言葉化し、本来生活税と呼ぶべきものを消費税と言う、そして労働者と概念化し個々人の本来の人間として有るべき尊厳を捨象してしまう詭弁です。
4.「時の流れ」は「エントロピー増大の流れ」
 「時」は「未来から過去へ」と流れています。それがエントロピー増大の流れです。人間はエントロピー増大の流れを「時」と言葉にしたのです。そして森羅万象すべての「生きもの」はこのエントロピー増大の流れに抗うことで生きている存在です。抗うことができなくなったとき、個体としての「生きもの」は消えていきます。エントロピー増大の流れに抗うためにはエネルギーが必須なのです。
 企業も生きものです。「生きもの」として生きるエネルギーが従業員(人的資本)のエネルギーです。それの言葉を変えれば人件費(お金のいのちの活き)です。
 ②.労働分配率の分母分子を入れ替えて「人件費生産性」としたとき、その人件費(お金のいのちの活き)が従業員の明日のエネルギーして燃えるとき、企業の明後日の「付加価値」が創出される、という不可逆の流れが維持され、企業という生きものの永遠のいのちの活きが約束されるのだと思うのです。
 図1.の象徴、小泉・竹中政権の非正規雇用の法制化、民営化という名の株式会社化の深化、それを引き継いだ安倍・竹中政権そして今次の麻生・高市政権へとそのバトンは引き継がれていきます。国民の生活に課税する消費税を、正しく生活税と言葉化すれば、逆進性が高いのは一目瞭です。
 具体的な個々の「生きもの」としての企業がエントロピー増大の流れに逆らって、永遠を生き続けていくには、具体的な個々人としての経営者が己れの心に、「鶏が先か卵が先か・卵が先か鶏が先か」、「『人件費(人的資本)』が先か付加価値が先か」を問い続けていく以外に道はないのではないかと思うのです。

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2025/06/15

<2025年6月15日「日経新聞朝刊「USスチール買収成立」の記事に驚く>

<2025年6月15日日本経済新聞朝刊一面に驚く!>
日鉄、USスチール買収成立 18日手続き完了へ 完全子会社化で決着 - 日本経済新聞 
 「日鉄、手続き完了へ、完全子会社化で決着」と報じています。「完全」とはどういう状態をいうのでしょうか?米国政府が保有する「黄金株」の存在に生殺与奪の権を委ねたまま「完全」と報じる真意がどこにあるかはみえません。
 「黄金株」とは「鉄は国家なり」の証し、「USS自立」の証し、それを認めたうえで「完全」と言葉化するのは「日本経済従属の証し」、「日本製鉄従属の証し」にはならないのでしょうか?。経済的価値(お金のいのちの活き)は無国籍、鵺のようなものですから、それ一択なら、軽々に「完全」と言葉化できるのでしょうが、日本国内には多様な「いのちの活き」が蠢いているのですから、残された多様な「いのちの活きにとっては「失われた30年」が「失われた80年」にならないことを祈るのみです。なにしろとりあえず2兆円さらに追加で、と、のめり込んでいくのですから。
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 長年2025年を「経済立国の終焉」ととらえてきました。しかしこの記事が象徴する事態は、後の世に「経済的対米従属の確立」した年と称されるようになるやもしれません。
 さすれば、1945年の「軍事立国の終焉」は「軍事的対米従属の確立」、1985年のプラザ合意は「経済立国の終わりの始まり」、ではなく「政治的対米従属の確立」と言葉化するほうがしっくりくるように思えます。
 日本の国力の盛衰は、80年を通して政治的対米従属化の流れの渦中の出来事、日本国内「森羅万象のいのちの活き」の全体にとっては取り戻すことのできない歴史の中の出来事として記憶されることになるのでしょう。 
 宇宙創成以来時空の流れは不可逆、「出口即入口」ですから、首を垂れて晩鐘ならぬ暮れ六つの鐘を静かに聞きましょうか、明け六つの鐘の鳴るのを信じて。

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2025/06/07

<日本の国力の盛衰80年と2025年以後の日本>

<図1.「円相中の夢」>
Photo_20250607131701 1.乙巳の年、転換の年
 今年の干支は巳年、死と再生の象徴の巳年、しかも60年周期の乙巳(きのとみ)の年でもあり、年賀状の図柄に図1.「円相中の夢」、メビウスの輪の中心に禅画「円相中の夢」を嵌め込んだ組み合わせを使いました。
 このメビウスの輪は25年余りのご縁、下関のものづくり企業の若い経営者から前触れもなく送られてきたものです。二つと無い手作りの逸品です。以来我が家の床の間に欠かせない調度品になっています。真ん中の禅画を時折何枚か取り換えては床の間に掛けてみるのですが、なんといってもこの一枚が似合っていて気に入っています。
 メビウスの輪は実験で作る際に長いテープを一ひねりして両端をつなぐので、一ひねりしたものが多いのですが、宇宙の象徴、不可逆な輪廻、陰陽循環の流れの象徴としてはこの形が最も相応しい。真ん中が宇宙であり「空」であり、空海曼荼羅の中心の大日如来、東大寺の毘盧遮那仏の鎮座するところ、眼に見える周囲の形が宇宙の有り様ですから全体として色即空、空即色そのもの表現でもあります。
 愚息と同世代の若い経営者からの有難い貴重な贈り物です。メビウスの輪と「円相中の夢」の意味についてはその詳細を下記ブログに記してあります。
2018/12/11<「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と>
「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と: ともだちの友達はともだちだ!
2023/3/4/6<メビウスの輪は宇宙の表象>
<メビウスの輪は宇宙の表象> 1.真ん中は「空」: ともだちの友達はともだちだ!
 今年、日本の政治では与党の過半数割れによる迷走、そして世界の政治・経済の場における、トランプ2.0の激震は日本社会の2025年乙巳の変の始まりに似つかわしい兆しではないかと妄想しています。
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2.終わりの年は始まりの年
 ペリーの砲艦外交に脅され徳川政権は1865年日米修好通商条約を締結しました。明治維新の契機となった対米不平等条約です。
 以後明治維新を経て1905年に日露戦争終結(けっして勝ったわけではない)、40年の頂点を迎えています。そしてさらにその40年後の1945年8月15日日本対中・米戦争は日本の無条件降伏によって終わります。
                        <図2.日本の近代化と国力の盛衰の80年>
Photo_20250607131702 図2.「日本近代化と国力の盛衰」それは明治維新以来の中央集権国家終焉であり西欧帝国主義への周回遅れの追随、軍事立国の終焉でもあります。
 敗戦の廃墟から立ち上がって以後1985年プラザ合意まで40年の頂点を経てさらに40年後の今年、名づけるとしたら経済立国の終焉ではないでしょうか。なんと1943年満州ハルピン生まれの己れ自身の人生は図2.「日本の近代化と国力の盛衰の80年」の第二波、経済立国80年の盛衰にすっぽり収まっています。あらためて図にして眺めると40歳以後人生の後半は経済立国の下山路を歩くという未曽有の幸運に恵まれていたことに気づかされます。
 近年言われる「失われた30年」もまさに経済立国の下山路だったのです。「失われた・・・・・」ではなくむしろ「経済立国の果実を享受した30年」という方が当たっているのではないでしょうか。山歩きを趣味にしてきた己れの下山路の楽しみは周囲の眺望もさることながら、下山口の日帰り温泉とささやかな一杯の生ビールでした。
 日本社会の経済立国終焉の今年、下山口に待っていたのはご褒美どころかトランプ2.0の嵐です。山歩きでは「下山口即登山口」です。老いた登山者が下山口をくぐると入れ替わりに登り始める若い登山者の姿があります。すれ違いに「いってらっしゃい」と声をかけると必ず「いってきます」と元気な声が返ってきます。ささやかですが何かバトンを託したほのぼの気分になります。「こんにちは」では駄目なんです。不思議です。(笑)
3.下山路で起きたこと
 1971年8月15日後に「ニクソンショック」と称される衝撃波が日本列島を襲いました。現役の企業人、政治家、知識人の多くは実体験していない衝撃波です。なぜか日本の敗戦の詔勅の日と同じ8月15日なのです。単なる偶然なのか?
  内容は、米ドルは必ず金と兌換するという約束の米ドル一極通貨体制、世にいうブレトンウッズ体制の終焉です。外貨準備資産として保有していた米ドルがなんの裏付けもない一片の紙切れになった瞬間でした。米ドルと金との兌換はブレトンウッズ体制という米国主導の約束上のこととはいえ、まさかたった一言の宣言で反故にされるとは想像を超える出来事でした。
 その後1973年のオイルショックを経由して超インフレを体験し当時新婚一か月という己れにとっては勤務先の企業が倒産するのではないか、と震え上がった記憶が蘇ってきます。
 「通貨は他者が受取るから通貨である」、「通貨とは人と人との関係性の存在」と語る、経済学者にして哲学の人岩井克人さんならきっと「このとき米ドルをはじめ世界各国の通貨は最純の通貨になった」というでしょう。狸の頭の上の木の葉のような存在になったのです。
 金の頸木から解き放たれた米ドルは以後大膨張を続けます。1985年9月、新自由主義を掲げるレーガン大統領の下で再び大幅な米ドル切り下げが強行されました。後に「プラザ合意」といわれています。
 ジャパン・アズ・ナンバーワンと称えられ輸出至上主義による経済立国を謳歌してきた日本にとっては頂門の一針、経済立国の終わりの始まりの出来事です。失われた30年とは経済立国からの転換を怠った結果ではなかったのか。
20251120


図3.「金一gで通貨(米ドル・日本円)を買うとすれば」を見ると今日の日本社会の混迷の一端を垣間見ることができるのではないでしょうか。
 米ドルと日本円との為替変動は相対的で必ずしも経済実態を反映したものとはなっていません。図3.「金一gで米ドル・日本円を買うとすれば」は1971年8月15日以前の金為替本位制に遡って金一gを基準として測った米ドルと日本円の推移です。
<2006/3/6ブログ「輸出至上主義を捨てる」>
輸出至上主義を捨てる: ともだちの友達はともだちだ!
 ニクソンショック以前米ドルは金一gで1.13米ドルと交換する約束でした。現在(2025年4月)はなんと94倍の106米ドルと交換できます。日本円では金一gを405円と交換していたものが現在は40倍の16千円としか交換できません。米ドルと同じ交換レートなら37千円のはずです。米ドルをはじめ世界各国の通貨が何の裏付けもない純粋紙切れになって54年、通貨でみれば日本経済は米国経済とくらべ2.3倍強くなっていても不思議はないともいえるのです。金価格が上がったのではなく通貨という紙切れが劣化した、それも米ドルは日本円の2.3倍も劣化したのです。
 日本の経済立国(輸出第一主義)の下山路での対米貿易黒字は日本人の人的資本の活きをひたすら米ドルという純粋紙切れと交換し失ってきた証しともいえるのではないでしょうか。
 その上2012年末以後のアベ・クロノミクスの日本円大増刷の低金利で米国のファンドは日本円を借りて日本企業を買収し傘下に収め、アジアの超富裕層まで、日本の観光地、都心のタワーマンションを買うという日本人にとっては本末転倒の事態が失われた30年の帰結といえそうです。
               <図4.「日本の国力の盛衰80年と2025年以後の日本?」>
Photo_202506071401014.資産と資本の意味
 観光資源、自然遺産、世界遺産などなど資源、資産という言葉が連呼され観光立国と叫びます。資源、資産は複式簿記では左側の借方(資産の部)の存在です。複式ですから右側に同額の貸方(資本の部)があります。複式簿記をも循環的にみることができれば、貸方(資本)とは借方(資産)を成り立たせて(活かして)いる姿も形もない眼にも見えない「何か?」です。鈴木大拙の即非の論理に倣えば「資産即資本」です。資本とは資産(もの)を成り立たせている眼に見えない「何か?」、それが「いのちの活き」、資本とは身体(もの)を活かせている「いのちの活き」です。丁寧に資本主義とは「お金のいのちの活き第一主義」と言葉にすれば今まで見えていなかった“ものこと”もみえてくるものがあるように思います。
 ですから観光資産、自然遺産、世界遺産ではなく、観光資本、自然資本、歴史資本と言葉にできれば、その意味、活きもみえてくるのではないでしょうか。
 岸田文雄元首相が声高に語る「資産立国」、小池百合子都知事が語る金融立国など以ての外です。日本列島は頭のてっぺんからつま先まで、資産(もの)としてファンド、SPC、株式等々蠢く金融資本(お金のいのちの活き)によって囲い込まれてしまいます。世界の超々富裕層による第二のエンクロージャーが現出し日本の極々一部の超富裕層を除き大多数の日本人はニュールンペン・プロレタリア化して、二度と這い上がれない格差の無間地獄へ突き落されてしまいます。
 図4.にみるファンド(お金のいのちの活き)・封建制の確立です。経済価値至上主義で「お金のいのちの活き」を己れが活かせていると信じている超々富裕層の人々も逆さまから見れば「お金のいのちの活き」という浮遊霊の自己増殖パワ-の家令や執事にすぎません。地球は映画「猿の惑星」が予言した、「ファンドの惑星」そしてジョージ・オーウェルの予言した小説「1984年」のデストピアの世界へ変貌しつつあるように思います。
5.日本文化資本立国へ
 2025年そしてトランプ2.0は、日本人にとっては、価値観転換の大いなる機会です。経済、経済、輸出、輸出、成長、成長、自由、自由(レッセ・フェール)と明治維新以来の西欧至上主義、過去の延長で未来を思考する直線的価値観ではなく、宇宙はメビウスの輪、という循環的価値観から「出口即入口」と思考して、2025年を経済立国の終焉ととらえることができれば、トランプ2.0の通商慣行の破壊は新しい時代の入り口の出来事ととらえることもできるように思います。
 とはいえ東京五輪招致の折の「お・・・も・・・て・・・な・・・し」「お・も・て・な・し」と言葉化して観光立国へ道を邁進すれば現在の観光地に暮らす観光業と無縁の住民も日本の観光客も大迷惑、観光資源を“お金化”し、終わった後はオーバーツーリズムの惨状、ぺんぺん草も生えない荒れ地と化すのは必定です。
 日本文化資本立国を掲げるということは日本列島の森羅万象の資本(いのちの活き)が生きて活くことであり、消費して消耗することではないのです。観光立国を唱え「おもてなし」と唱え外国人との接点に生きる人々のいのちの活きを費消し消耗することではないと思うのです。 日本の自然資本、歴史資本、食文化資本、醸造文化資本、発酵文化資本、“生かす”とは“活かす”ことです。それらのすべては日本列島に生きる人々の生の営み、人々のいのちの活きです。それには伊勢神宮の20年、出雲大社の60年の式年遷宮という営みが根付いています。日本の神社仏閣もこの循環再生によって遺産という廃墟となることなく活きています。ご朱印帖、お守り、御神籤、拝観料etc.それらは“儲け“ではなく、みんな式年遷宮の基金、お金のいのちの活きの賜物です。
6.未来から現在を
 未来とは人間にとってはいつも不確実であり不条理です。それは未来志向を現在から未来を思考しているからではないでしょうか。いくら言葉で多様性を唱えても多様性はみえてきません。多様性は言葉と言葉のあいだにあるものへの気づき、個々人の価値観が広がったときみえてくるものではないかと思うのです。経済立国とは日本人の価値観が「お金のいのちの活き」一択に収斂し、すべてが都市へ、都市へ、過疎へ、過疎へと収斂された時代です。その過程でお金以外の「いのちの活き」は死に至る病に侵され日本列島を覆い尽くしてきました。
 その象徴的な現象が、古古米,古古古米に群がる群衆、してやったりとにんまり顔の小泉農水相の姿、そして想定を超える少子化ではないかと僕には思えます。
 変動しているように見える米ドル、日本円の相対価値も本質的には無価値な金一gという視点からみたように、経済価値(お金のいのちの活き)を相対化して、己れの価値観を身の回りの森羅万象のいのちの活きに広げることがこれから起きるであろう「ファンド・封建制」下の不条理を生き延びる唯一の術(すべ)ではないかと思うのですが、さてさて。 

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2025/03/10

<「ゼノンのパラドックス」と「いのちの活き」と>(2) -会社もテセウスの船?-

.会社とは醜悪な生きもの
<図1.会社の「いのちの活き」>
20250309 図1のように企業も①~➈の多様ないのちの活きの関係性によって成り立っています。図の真ん中の中心が会社固有のいのちの活きです。本来法人という法の下の“モノ”でしかない存在でありながら、中心を経営者に託すことによって固有のいのちの活きを生きていきます。単なるモノではないないのです。構成する多様な関係性を巧みに入れ替えつつ永遠の生を求めていく極めて醜悪な鵺のような生きものです。
 なんとなれば個物としての個々の人間は己れが死することで、世代交代によって環境の変化に適応していく存在です。テセウスの船も一代限り、次代は新しい船を建造し新たな航海を初めていくのですから。会社という生きものがいかに醜悪な生きものであるかは想像に難くありません。
5.株主第一(主権)主義の危うさ
 コロナ禍以前はストック・フォルダー(株主)資本主義は間違っている、ステーク・フォルダー(利害関係者)資本主義であるべきだ、との批判の声もまだ大きかったように思います。当然己れもその一人。
 今はすっかりその言葉は消え株式市場では株主第一主義一色になりつつあります。経営者へのストック・オプションは当たり前、政府は従業員にもストック・オプション付与を認めようとしています。株主のいのちの活きと会社全体のいのちの活きの全体最適との二律背反の危うさが見る見る膨張していきます。これは株主第一主義ですらなく株価第一主義になっていくようにみえます。神テセウスは消え失せマストには株券を掲げ、理念どころか目的も目標も見失って、あてのない航海を続けているように見えます。

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20250304 “ものこと”は空間的に“もの”、時間的に“こと”です。時間と空間は同じものではないが別のものでもないという「即非」のあり様、「空間即時間・時間即空間」という絶対矛盾的自己同一の有り様をしています。二元論で“もの”と“こと”に切り分けることのできないあり様です。
 夏の北アルプスで池塘に映るブルームーンの美しさに魅入られしばし池塘の傍らで添い寝をしたのを思いだします。南アの山頂で雲を断ち切る気か?と思わせるほど鋭利な半月刀も又冷たく美しい光を放っています。月は欠けてはいきますが、また満ちるはずという安心感があります。愛でているのは“こと”でもあり“もの”でもあります。
 会計(貨幣価値)的に企業業績をみるために複式簿記で作成する貸借対照表(B/S)があり損益計算書(P/L)があります。この二つはゼノンのパラドックスに譬えると空間的にB/Sであり、時間的にP/Lだ、となります。
 複式簿記では貨幣価値の関係性の変化を流れとして追い(記帳し)ながら、飛んでいる矢を3月31日に止まっていると仮定してB/S、P/Lに表現しているのです。
 飛んでいるのは365日、B/Sであって,P/Lは実体のない眼にもみえない過去の軌跡に過ぎません。見えているのもB/Sであり、飛んでいるのもB/Sです。もし貨幣価値の視点から美醜を論じるならB/Sをみなければならないはずです。
 五輪の体操競技でも着地した瞬間の姿勢の美しさが評価されます。B/Sの借方(左)の資産が“もの”貸方(右)の資本が“こと”であり「もの即こと」のあり様をしています。資本、眼に見えない“こと”とは身体を活かしている「いのちの活き」のこと、矢を飛ばしているのも矢のいのちの活きのこと、ゼノンのパラドックスは矢を飛ばしているのは眼に見えない矢のいのちの活かきだといっているのではないでしょうか?
7.経営者はテセウスの神か?
 株主第一主義を標榜しているといつの間にか株価を上げつづけなければならない、という自己循環に陥ることになります。そして自社株買いを実行します。B/S借方(左)の現金で自社株を買うと貸方の資本が同額減少することになります。それは会社の身体の眼に見えない「いのちの活き」を毀損することになります。過大な株式配当も同じです。あたかもブラックホールへ吸い込まれていく星のように見えませんか?。
 勢い経営計画は売上、利益、生産性向上、ムリ・ムラ・ムダの排除と過去の軌跡をつくることにすぎない利益計画(P/L)重視の経営に陥りB/Sの毀損、身心の弱体化に陥ってしまいます。
 ゼノンのパラドックス、テセウスのパラドックスは生きものが生きている“こと”の生死のあいだの絶対矛盾であり逆説であり戒めでもあるのかもしれません。
 生きものにとって生き続けることは、「生きる目的は生きること」、というトートロジーであり、経営者が会社も固有のいのちを有った生きものという価値観に目覚めることができたらこの絶対矛盾この逆説を超え、あくまでも全体最適を追い求めていく道も見えてくるのではないか、と思うのですが。さてさて日本はそして人間世界は何処へ向かっているのでしょうか。? 

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<「ゼノンのパラドックス」と「いのちの活き」と>(1) -「飛んでいる矢は止まっている」という矛盾とは?-

1.飛んでいる“こと”と止まっている“もの”
<図1.「飛んでいる矢は止まっている」>
20250304古代ギリシャの哲学者ゼノンはいくつかの運動のパラドックスを残しています。ウサギと亀のパラドックスもよく知られています。「飛んでいる矢は止まっている」というパラドックスがあります。
 パワポで図(図1.「飛んでいる矢は止まっている」)にしてみました。人は時空を言葉にするとき時間的な“こと” と空間的な“もの”を同時に言葉で表現することはできません。時間は刹那も留まることのない流れですから言葉で捉えることはできないのですね。言葉にした刹那に流れは止まり、“もの”になってしまうからです。
 人は言葉を使うようになって、今こここの刹那の場を己れと他者(他物)を分かつとき、空間(三次元)という概念(言葉)が生じたのです。そして今この刹那の瞬間を過去と未来とに分かつとき時間(四次元)という概念(言葉)が生じたのです。そしてその過去と未来の間の刹那の場を現在としたのです。
 時間の渦中の“流れ”の中にある“こと”を言葉にした刹那に止まってしまい“もの”になってしまいます。「飛んでいる“何か”」は言葉で捉えた刹那に“矢という”モノ“になってしまうという矛盾(パラドックス)を孕んだあり様をしているのだ、というのがゼノンのパラドックスです。言葉のもつ根源的な矛盾ではないでしょうかね。
 人という生きものは言葉を使いはじめたときからこの矛盾の下に生きているとうい自戒が必要なのです。己れ自身が「生きている己れは死んでいる」という矛盾の下に生きているのです。もちろん止まっている矢は飛んでいないのですから、死んだ己れが生き返ることはありません。時の流れは不可逆なのです。
 子供の頃授業中に黒板の前の先生の目を盗んで教科書の隅に矢印を書いてパラパラめくると矢印が回って見えるのを密かに楽しんだことを思いだします。絵心が無かったのでもっぱら矢印でしたね。(苦笑)今にして思えばパラパラ漫画の原理ですね。********************************************************************
2.テセウスの船のパラドックス
 生物学者の今西錦司さんは著書「生物とは何か」の中で「生きものとは空間的に身体(構造)的であり、時間的に継起(機能)的な存在である。」と著しています。そして「大は太陽系から小は原子にいたるまで、いやしくも構造の認められるものというものはかならず単なる構造だけの存在ではなくして、そこにその構造に即した活動を伴っている」と。
  生きものとは「構造即機能」の存在なのです。構造として矢であり、機能として飛んでいるというのです。飛んでいることとは生きていることなのです。
 生物学者の福岡伸一さんは著書「動的平衡」の中で「生命とは動的平衡にある流れ」と著しています。生きものはエントロピー増大(熱力学)の法則によって細胞が破壊される前にみずから己れの細胞を破壊し再生することで生きているのだ、と。そのあり様を動的平衡と名づけています。みずからおのれを先んじて破壊することによっていのちを活かせている存在といえます。
 ギリシャ神話に「テセウスのパラドックス」があります。ギリシャの神テセウスの乗っている木造船は修理のたびに部材を張り替えています。いつの間にか新造船のときの木材は一つもの残っていなくなってしまったのです。この船は果たしてテセウスの船といえるのか?というパラドックスです。我々人間の身体も生まれたときの細胞は動的平衡の流れのなかで、取り換えられ再生され足の先から脳細胞まで一年ほどすべては入れ替わってしまうのだそうです。それでも生まれたときに戸籍に登録され同じ個人として扱われ、己れもその己れだと思っています。生きものとはテセウスの船というパラドックスなあり様を生きています。
 聖武天皇の御代に国家の安寧を願って創建された東大寺の大仏は1180年平家によって焼かれ、1567年には松永弾正によって焼かれてしまいました。江戸時代の再建時には創建当時のものは台座しか残っていなかったそうです。それでも今でも奈良の大仏として親しまれ、日本を代表する大乗仏教の中心にあります。
 奈良の大仏は太陽の象徴であり、生きとし生けるものを救済する華厳経を象徴する仏です。まさに森羅万象の「いのちの活き」の象徴もテセウスの船として動的平衡の流れを生き続けています。
3.行く河のながれは絶えずして
 方丈記の冒頭の一節は「行く河の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず・・・・・」と始まります。謳われている河とは河を成り立たせている、河岸から河底、流れる水、そこに生きている生きとし、生ける“ものこと”の総称です。そして河は流れの渦中で溶かし込んだエントロピーのすべてとともに海に流れ込むとき「いのちの活き」を海に託して死を迎えるのだといえるのかもしれません。
 しかしそこで太陽の注ぐ光のエネルギーを精一杯吸収し、エントロピーのすべてを落として空へ昇り新たな一滴の水となって循環していきます。冒頭の一節は「人と栖とまたかくの如し」と結んでいます。ここに謳われている河も森羅万象の「いのちの活き」すべてを譬えているのではないかと思うのです。
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<続く>
<会社もテセウスの船か?>
<「ゼノンのパラドックス」と「いのちの活き」と>(2) -会社もテセウスの船?か-: ともだちの友達はともだちだ!

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2025/03/01

<日産とホンダの統合破談劇にみる企業固有の「いのちの活き」の行方>

1.万物流転の法則を免れる
20250220 1986年10月本田技研の共同創業経営者藤沢武夫さんの著書が出版されています。タイトルには「経営に終わりはない」とあります。今は文春文庫に収められ静かに読み継がれるロングセラーになっています。
 あとがきには「初代の経営者の役割の一つは後継者に元本をしっかり受け渡すこと・・・・彼らが仕事をしやすいように、経営のタテ糸をこわさずに伝えることは、創業者のつとめ・・・・・・次代の人が経営しやすいように配慮しなければならない・・・・・本田技研は万物流転のさだめを免れることができる」と著されています。
  企業も「生きもの」です。生きものは生々流転の法則から逃れることができるはずはありません。しかし本書には本田技研のみならず、企業固有の「いのち」が万物流転のさだめを免れるためのたった一つのそして確かなタテ糸が著されてます。
 40年前己れ自身の人生の転機とも重なって、読み終えてしばし心が痺れたのを今でも鮮やかに思いだします。以来今日まで「経営に終わりはない」が口癖になっています。20年余り前に始めたブログの書き初めも本書の感想から始めています。
2004/9/20経営に終わりはない: ともだちの友達はともだちだ!
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20250218 
日産固有のいのちの活きは1999年3月深刻な業績不振から40%を超える株主資本(いのちの活き)をフランスルノーに入れ替え、中心を担う経営者をC・ゴーンさんに代えることで万物流転の法則から免れました。本来法人というモノでありながら構成する株主、経営者の「いのちの活き」を入れ替えることで不滅なのです。あたかも巨人軍のように。
 C・ゴーンさんは我々日本人に向かって高らかに「他に選択肢はありません」と宣言しました。多くの日本人はあの時C・ゴーンさんを救世主の如く讃嘆したのです。その奥には国家としてのフランスの「いのちの活き」も見え隠れしていたのですが。あの時、図1.の⑧にあった日本国のいのちの活き」はあたかも無かったかの如く取り換えられていたのです。
  グローバリズムを象徴する出来事です。その後③~⑦の「いのちの活き」に如何なる試練が襲ったかはすでに記憶のかなたです。2018年11月のブログにC・カルロスさんの逃亡劇によせて企業には企業を構成する「多様ないのちの活き」があることをブログに書きました。
2018/11/24「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題: ともだちの友達はともだちだ!
2018/12/03「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2): ともだちの友達はともだちだ!
3.「たいまつは自分で持て」
 本田技研の共同創業者藤沢武夫さんは著書(P173)に本田・藤沢が灯した創業理念を「たいまつは自分で持て!」と次代へ託しています。1949年自転車にモーターをつけた通称“バタバタ“は68年後の2017年ホンダジェット機としてアメリカの空を飛びました。ホンダジェット機の機首にはホンダの松明が赤々と燃えているに違いありません。松明とは創業理念の象徴であり、企業固有のいのちの活きの象徴であり、赤々と燃えて尽きない焔です。
 1999年当時の日産の経営者は自ら経営改革を断行することなく、自ら松明を放棄し、企業固有のいのちの活きを支配株主のルノーそしてC・ゴーンさんに手渡していたのです。
 2018年C・ゴーンさんは鮮やかに日本から逃亡することで日産固有のいのちの活きを引き継いでいなかったことを証明しました。社長就任時すでに日産の松明は消えていたのです。とすればゴーン改革と一体何だったのしょうか。
 そして、それから7年再び日産の業績不振を契機にホンダとの統合が俎上にあがりました。がしかし一瞬にして破談に終わりました。それは自明のことです。松明は一本でなければならないからです。
 1999年から25年余り日産の経営は今回も自ら松明に火を点し、経営改革を行う様子はみえません。2018年のC・ゴーンさんの逃亡の機会も生かすことはできなかったのです。
 企業という名の生きものは法の下でモノとして生まれ、経営者という生身のヒトのもとでヒトとして生きていきます。しかし企業という生きものは一度誕生すると構成する多様ないのちの活き、経営者、株主、従業員のそれをとっかえひっかえ、やすやすと国家の枠組みさえ超えて、生きていく醜悪な生きものです。その企業という生きものの醜悪さを制御する「何か?」それが松明であり理念なのです。
4.資本とは「いのちの活き」のこと
 複式簿記では貸借対照表(B/S)の借方(左)に資産、貸方(右)に資本が記載されています。借方の資産には実体がありますが、貸方には実体はありません。資産を成り立たせている「眼に見えない何か」を資本と言葉にしているのです。人間に譬えれば身体とそれを活かしている「何か」です。その何かは「身心一如」といいますから「心」といってもいいのですが、資本と呼んでもいいのです。資本とは森羅万象の「いのちの活き」のことであり、貨幣資本専らのことだけではないのです。
 今いう資本主義は正確には貨幣資本主義と丁寧に言葉にした方がいいと思うのです。さすれば、近頃にわかに「人的資本経営」と喧伝されている言葉も「ひとのいのちの活き」を活かすことであり、人的資本という言葉が、いかにピントがずれているかもあきらかです。
 会計は企業を構成する多様ないのちの活きのたったひとつの要素である「お金のいのちの活き」を制御する経営術に過ぎません。売上といい、利益といい、能率・効率・生産性といい、「いのちの活き」のすべてを会計(経済)言葉に集約してしまう愚かさがしばしば、松明の火を消し、企業固有のいのちの活きの迷走の契機をもたらしてしまいます。
 企業を成り立たせている多様ないのちの活きの全体最適を永遠に求めていく“術”が経営なのです。だからこそ「経営に終わりはない」のだと思うのです。醜悪なる生きもの、日産固有のいのちの活きは何処へむかうのでしょうか?。

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2025/02/16

<「資本主義の中で生きるということ」-2>-自己疎外

<「資本主義の中で生きるということ」-2>-自己疎外-
-「映画「敵」を観た。ー敵は「老い」か「疎外」か-
1.「生きもの」(自)と「人間」(他)の“あいだ”
20250216 老いたせいか近頃一人ひとりの個々人は、人間である以前に「生きもの」であることに気付かなければいけないのではないか?と思うようになった。「自」と「他」の「あいだ」(あわい)に。もちろん現実に気づことはできないのだが。
 己れは、母体のなかで「生きもの」として“生”じ、その刹那の後人間として“生”き、そして人間として“死”に、その刹那の後に「生きもの」として“滅”する。「生きもの」の“生滅”の刹那の“あいだ”に人間の“生死”がある。いってみれば人間とは「生きもの」の刹那という極薄の一枚の布に覆われている外側の存在だ。そして極薄の布の両面は己れを映す鏡張りになっている。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは、人間世界は「他者が言葉を語り、他者が法に従い、他者が貨幣を受け取る」という自己言及性(自己循環)によって成り立っている世界だ、と語る。人間世界は他者しか存在しない、「己れ」の居場所はない、他者にとっても「己れ」は他者という自己言及性の世界だ。そして「言語、法、貨幣」の存在しない場は「生きもの」さえ存在しないのかもしれない、わからない。
 「生きもの」としての己れにとって、己れ以外はすべて他者だからすべては環境、他者の変化はすべて環境の変化だ。生きものはただひたすら環境の変化に適応する以外に生きる術はない。
*********************************************************20241212_20250216194501
 岩井克人さんは著書「資本主義の中で生きるということ」P21に「人間は自己疎外されざるをえない存在であるという認識を出発点としなければならない・・・・」と著している。刹那の生滅の内側の人間の生死のあいだは「自己疎外」の場だ、と。
2.映画「敵」を観た!「敵」とは老いか?、疎外か?
 館内の暗闇の中のスクリーン上も又全編モノクロの映像が映し出されている。それもそのはず物語のすべては主人公渡辺儀助(長塚京三)のモノローグなのだ。ようやく館内が明るくなると隣に50余年連れ添った妻という名の他者がいた。(苦笑)
 202502162映画「敵」の原作は筒井康隆著小説「敵」、原作を未だ読んでいない(早速スマホから注文した)ので著者の描く「敵」が何かは僕には未だわからない。映画監督(吉田大八)の描く「敵」も何かは僕にはわからない、すべて他者は己れを映す鏡だから。
 今己れがスクリーン上に観ている「敵」が描かれた「敵」なのだろう。それにしても主人公渡辺儀助も演じる長塚京三も77歳と聞くと一瞬ドキッとする己れがいる。「これが『老い』なのか?」と。そして原作者が、監督が描く「敵」の正体なのか?、と。すでに己れは、お二人の5年も先を歩いている。
 僕はこの映画のテーマの「敵」とは「自己疎外」「人間疎外」ではないかと思った。主人公儀助が映画の早い段階で語っている。
 「毎月の支出から年金とわずかな原稿料を引いて、その差額で貯金の総額を割ればわかるじゃない、いつゼロになるか。そこがXデイってこと。」、「残高に似合わない長生きは悲惨だから。」と。 
スクリーン上で儀助は自殺を試みるが未遂に終わる。Xデイは自殺ではない。スクリーン上にかって大学教授だたころの教え子だった若い女性も、すでに他界している妻もその頃の姿で出てくる。学費未納で退学を迫られているという女子大生に学費を用立てもする。Xディは早まるというのに。女性も己れもモノクロだからモノローグ、己れも込々のすべては他者の世界。映画のラストは当然Xデイで終わる、しかし貯金の残高がゼロであったか、死が自死であったか否かはスクリーン上にはない。自殺ではないことは確かだ。生きものとしての”滅”に入ったのだろう。そこが内なる自己の生の場、生滅の循環する絶対無の場だから。
 人間疎外とは己れが意識として気づくことのできない他者の世界のことであり、その他者世界に生きることそのものが自己疎外、映画の主題「敵」とは他者のこと、自己疎外のことではないかと思った。
 若い頃から何度もヘーゲルを齧りマルクスを齧ってきた。いつも生噛りで言葉では分かっても腑に堕ちてはいなかった。が、儀助のいう「いつゼロになるか。そこがXデイっていうこと」。そうだ「金の切れ目が縁の切れ目」そこが貨幣からの自己疎外、「人間世界との縁の切れ目」だ。しかし自己言及性(自己循環)の人間世界はそこからはじまるという。「自己疎外」から。
 映画館で求めたパンフレットの一ページには「人生は恐ろしく、美しい」とある。アマゾンから著者筒井康隆からの応えも届いた。さてさて「『自己疎外』とは」、「『敵』とは」、これも永遠の自己言及性なのかもしれない。
 「資本主義の中を生きるということ」とは「生きもの」としての己れが人間社会から疎外される「自己疎外」を生きることなのだろう。
 ガザの惨状もパレスチナの今もそして3.11の福島の惨状も80年前の日本列島の惨状も「生きもの」と「人間」のあわいを生きるがゆえの惨状なのだろうか。
「資本主義の中で生きるということ」: ともだちの友達はともだちだ!  
<M・ガブリエルさんは言う、「企業の目的は善行である」と。然らば「善行とは?」>: ともだちの友達はともだちだ!
<映画「八犬伝」を観て!>-”虚”と”実”のあわい-: ともだちの友達はともだちだ!            

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2025/01/01

2025年元旦

2025年元旦
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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   巳年の元旦は愛嬌のある巳が日本列島を飛び交っています。我が家からも一匹が。20250101_20250101070801
  「己れは己れであることによって已に巳である」と読むのだそうです。 大口を開けた己れが口を閉じた巳になっているはずなのに“已に”といいつつ半ば口を開けた己れがいます。(苦笑)
 己れ、己れと塒(とぐろ)を巻いて鎌首をもたげている巳。塒の中心は空っぽの無です。未だ半ば口を開けたままの巳ですが、この塒の中心に倫理を抱き込む始まりの元日になりますように、自戒を込めて.

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2024/12/12

「資本主義の中で生きるということ」

書 名「資本主義の中で生きるということ」
著 者 岩井克人
出版社 筑摩書房
初版日 2024年9月20日

202412121.最悪のシステム、だが!
 とかくこの世は「今だけ、カネだけ、自分だけ」と嘆き、強欲資本主義と罵り、果ては資本主義の危機、資本主義の終焉といいます。今時の世相の渦中に生きていると、ついうなづきたくなる己れがいます。でも半分頷いたところで、まてよと。それらの言説のどこか他人事に聞こえないか?、と。
 長年読み学んできた経済学者にして哲学のひと岩井克人さんの著作を思い起こします。今秋出版の著書。まさに岩井克人さんの長年の思索に似つかわしいタイトルです。他に選択肢はないと。
 あとがきにはこう著しています。「私はあのウィンストン・チャーチルが『民主主義』について述べた言葉を『資本主義』ついても繰り返さざるをえなくなっているのです。『資本主義とは最悪の経済形態である。ただし、これまで存在したすべてのシステムを除いて』。」と。
 1991年のソ連崩壊とともに社会主義体制も崩壊し、今のところ残された最悪な経済システムの資本主義の中を修理しながら生きていくために「“倫理”が必須だ!」と著者はいいます。だからこそ哲学のひとなのですが。
 「資本主義の中で生きるということ」と著者が思いを定めた思索の道を著者の導きでたどる一冊です。
*****************************************************************************2.自己言及性のパラドクス(矛盾) 
 どうして自分もどっぷり浸かっていているはずの世界を「終焉」「危機」、「今だけ、金だけ、自分だけ」と言い放ってしまうのでしょうか?。ここに言葉の本質に潜む危うさがあります。
 古代クレタ人哲学者エピメニデスの残したパラドックスに「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った。この話は嘘か真か?」があります。一人のクレタ人がクレタ島の外の超越した場(絶対神)で語らない限りこの「嘘か真か?」は永遠に循環するパラドックスです。
 言葉の世界は「自分は別にして・・・・」とならざるを得ないという本質的危うさを孕んでいます。「鶏が先か卵が先か?」、日本政府のいう「成長が先か分配が先か」も同じです。
 メビウスの輪そして一匹の蛇が己れの尻尾を咥えているウロボロスもこの自己言及性(自己循環論法)の永遠の循環を象徴する姿です。そして大事なことはそれが不可逆な循環であることです。20241212_20241212184901
  著者は、人間が人間である所以は言語・法・貨幣を使う生きものだ、といいます。そして、言語とは他者が言語として使うから言語であり、法は他者が従うから法であり、貨幣は他者が受取るから貨幣である、と。されば、性善説とは他者が性善説だから性善説であり、利他の心もまた然りです。
 己れとは、生き物として生まれ人間として生き、生きものとして死する、ウロボロス的存在だということなのでしょう。
3.資本主義における論理と倫理
「売れなければならない」は資本主義下の「論理」です。ですが、一方で「売れればいいというものではない」というのが資本主義下の「倫理」だ、と著者はいいます。論理と倫理のウロボロス。
 今年、日本資本主義の父と称される渋沢栄一翁が一万円札に刷り込まれました。ということは、一万円札も論語と算盤の象徴になったということではないでしょうか?。さすれば一万円札の表が算盤、裏が論語ということになります。これもウロボロス。
 著者の覚悟「資本主義の中を生きるということ」は一万円札を受け取るとき、そして使うとき、“表”を見て、“裏”を見て、も一度“表”を見て使いましょう、ということでしょう。そして右手に算盤、左手に論語、両の手を活かせる「己れの心に倫理」を、といっているのではないでしょうか。
4.最悪の中を生きるということ
 「生きる」とは人それぞれ個々別々のこと、そして己れの心も個々別々。チャーチルが過去最悪の政治形態と語った民主主義は1991年12月社会主義というカウンターパート失い独善化し最悪度は一層深化しています。
 そして岩井克人さんが語る最悪の経済形態の資本主義も時を同じくして新自由主義の世界への浸透を通じて、最悪度を深めています。その不可逆的に深化していく最悪の中を一人ひとり個々別々の心を頼りに生きていくのです。「倫理とは他者が倫理だから倫理である」の自己言及性(自己循環論)の下で、最悪は方向転換して善い方向へむかうのでしょうか?心もとない限りです。
5.虚にいて実をおこなうべし
 小泉・竹中政権が新自由主義を掲げ現在の格差社会への道を切り開きました。竹中平蔵さんは平然と格差に沈むのは「自己責任だ!」と強烈な一言です。自己責任は正確には「自己の責任」のことです。政権発足時に「自己責任」と旗を掲げてくれたら弱者の我々も少しは用心したのですが、これも自由放任すれば「神の見えざる手」が働くという自己言及性(自己循環)のなせる欺瞞ですです。
 自己責任は正確には「自己の責任」のこと。「己れのいのちは己れで守る」という意味です。そして釈迦の遺言の「自由」とは?、「自らに由る」です。禅的仏教を欧米に伝導した鈴木大拙師はそれを「Self-reliance」と訳しています。freedom でも libertyでもありません。
 芭蕉が「実に居て虚に遊ぶ事はかたし」、「虚に居て実をおこなうべし」といったと聞きました。岩井克人さんのいう「論理」は「実」、「倫理」は「虚」。渋沢栄一翁の「算盤」は「実」、「論語」は「虚」です。
 編集工学の始祖松岡正剛さんは、松岡正剛・田中優子著「昭和問答」の中で「芭蕉の虚に居て実をおこなうべし」を「幻想の領域を最大限に大きくとらえておいて、そこからリアルの戻るべきである」と解いています。 
                       <生きもの的存在と社会的存在のウロボロス>                     20241212_20241212161601
 岩井克人さんの「資本主義の中で生きるということ」とは「心に虚(倫理) 
の領域を最大限に大きくとらえておいて、そこから実(論理)に戻って生きる“こと”」だ、と言っているように聞こえてきました。
 「『生きること』とは何か?」ずばり一言「・・・・中で生きること」なんですね。「外ではなく」。それは「生きもの的存在と社会的存在のウロボロス」
<M・ガブリエルさんは言う、「企業の目的は善行である」と。然らば「善行とは?」>: ともだちの友達はともだちだ!

 <「オートポイエーシスから自己言及性へ」>

「オートポイエーシスから自己言及性へ」
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/.../05/post-9880f4.html
<「資本論(虚)と貨幣論(実)」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/.../07/post-9a42ce.html
岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」

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2024/11/12

<映画「八犬伝」を観て!>-”虚”と”実”のあわい-

書 名「昭和問答」-昭和の深層に、少しでも、眼をとどかせたいー
著 者 松岡正剛・田中優子
出版社 岩波新種 新赤版2039
初版日 2024年10月18日
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1.馬琴と北斎の”実”と”虚”
 2024年11月6日映画「八犬伝」を観た。都心に出る時間が惜しくせめてさいたま新都心で、と。
 迂闊にも途中まで山田風太郎著「八犬伝」の映画化だと気づかないまま観ていた。馬琴はあらすじを語り、北斎は挿絵を描きながらそれを聞いている、日常のやり取りが実に面白い。その合間に”虚”の物語南総里見八犬伝が流れていく。
 馬琴は”実”に居続けて物語として”虚”の世界を描き、一方北斎は”実”の世界を旅して”虚”としての富嶽三十六景を描いている。互いに”実”に居て“虚”を描きながら、一人は時間的であり、一人は空間的という違いも興味深いものがある。
 馬琴と北斎の実の世界と八犬伝の虚の世界が虚実綯い交ぜにスクリーンに映じていく。
 なんと、その虚実のあわいを暗闇の中で観ている己れも”虚”の渦中に引き込まれている、胡蝶の夢とはこのことか、と。
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2.虚に居て実をおこなうべし
 たまたま先月手にした「昭和問答」(松岡正剛・田中優子著)の最後の項「昭和に欠かせない見解」に芭蕉の「虚に居て実をおこなふべし」を引いている。そして「実に居て虚にあそぶはかたし」と。
 20241106 松岡正剛さんは「リアルな世界にいながらバーチャルな幻想に遊ぶのではなくて、幻想の領域を最大限に大きくとらえておいて、そこからリアルに戻るべきである」と。そして 紫式部も「『いずれの御時にか』と虚をつくりながら実を描いている」、と。  
 この「昭和問答」のあとがきを残して松岡正剛さんは慌ただしく虚の世界へ消えてしまった。共著者の田中優子さんは帯に「・・・・・けれども、松岡さんは、突然攫われてしまった」と記している。思い返せば、同年の己れは長きにわたって松岡正剛さんに導かれて後ろを歩いてきたように思う、あと少し残された著書を頼りに歩こう。
3.南北の”虚”と馬琴の”実”
 映画の原作者山田風太郎さんは「馬琴は地上にうずくまる虎だ。北斎は天翔ける竜だ。がそれでも二人は同じ天地に住んでいるといえる。これに対して鶴屋南北は、実に彼らとは反世界の住民ともいうべき存在であった」、「まさしく江戸爛熟期化政の三巨人であった。」と著している。
20241111_20241112112801 馬琴は30年余り半生の時間軸、”虚”の世界を描きつづけ、北斎も卒寿で没するまで空間軸の”虚”を描き続けた。映画の後半この二人と歌舞伎演目の作者鶴屋南北との虚実の対話も秀逸だ。
 北斎は問う「曲亭さんの怪談は面白いが、南北さんの怪談はほんとうにこわい」と。馬琴は”虚”の世界で善因善果、悪因悪果の勧善懲悪(実)を描いているからか妖怪が出てきても恐ろしくはない。”虚”の内に”実”をみるからだろう。
 ところが、南北の歌舞伎は一つの演目の流れに”善”の極忠臣蔵と”悪”の極四谷怪談が綯い交ぜに演じられるのだ。南北は言う、四谷怪談の”悪”(虚)を忠臣蔵の”善”(実)で包んで演じるのだ、と。
 そして南北は「あたしの怪談がほんとうにこわいなら・・・・・あれ(四谷怪談)が実の世界をかいたものだからでございましょう。あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでつじつまの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで」という。
 著者が「南北は反世界の住人」という所以だ。三人が舞台の奈落で対話している、南北が一人逆立ちしている姿も著者の仕掛けの妙だ。地獄と極楽浮世の見方が逆さまなのだ。馬琴と北斎は「実→虚」、南北は「虚→実」と。三巨人の対話の場所も地獄とお膳立ても極めつきだ。
 そういえば聖徳太子が言ったという「世間虚仮唯仏是真」も逆さまだ。でも地獄とは言っていない。松岡正剛さんは「これも日本の哲学だ」というだろうか。「仏性の領域を最大限に大きくとらえておいて、そこから虚仮に戻れ」と。
 さて総選挙後の日本の有り様、大統領選挙後のアメリカそしてガザの惨劇、ウクライナの無惨を思うとき、「浮世は悪因善果の怪談だらけの世の中だ」、南北の声に深く頷く己れがいる。映画館を後に怪談だらけの虚仮の街へ。
 大拙大乗の唱道者鈴木大拙ならここでも「善即悪」「悪即善」というに違いない。”虚”の領域を最大限に広げるために。人間は生きものでありかつ人間という存在、”虚”と”実”のあわい、関係性のあり様だから。
 そして生きものとしての己れもあと少しあと少しと「地獄即極楽」の世界を生きていくにちがいない、即非、即非と念じながら。
 淀川長治さんの言葉を借りて「やっぱり映画っていいですね。」

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2024/10/28

<M・ガブリエルさんは言う、「企業の目的は善行である」と。然らば「善行とは?」>

「哲学界のロックスター」ドイツ哲学者マルクス・ガブリエルさん 批判こそ真理に至る道 NIKKEI The STYLE 「My Story」 - 日本経済新聞
2024年10月27日(日)
今朝の日経新聞朝刊なんと見開き2ペーにドイツ人哲学者M・ガブリエルさんの特集。ご自身の哲学「新実在論」は京都学派に極めて近いと自認しておられます。僕も2018年の「なぜ世界は存在しないのか」以来、大のフアンです。
 今年6月刊の「倫理資本主義の時代」では、資本主義の終焉ではなく、方向転換を提唱しています。書き出しが「企業の目的は善行である」から始まるのですから、確かに近いはずです、京都学派に。
M 京都学派の源流の始原の一滴が西田幾多郎著「善の研究」です。その「善の研究」の第十三章は「完全なる善行」と題して次のように書き起こされています。
 「善とは一言でいえば、人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らなねばならぬ。・・・・小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発展に到ってその頂点に達するのである。」、と。
 倫理という言葉も概念に過ぎません、言葉ですから。しかし”善”を「自他相忘れ、主客相没するところ」と定義して、企業目的に据えることができれば、貨幣資本(お金のいのちの活き)が暴威を振るう現在の資本主義に轡をはめ、乗りこなすことができるかもしれません。
 Photo_20241028150801 とはいえ現実に轡をはめるのは資本主義という概念ではなく、個々別々の人間にです。「小は個人性の発展」から始まる以外にないのでしょう。 
 今年新札に渋沢栄一翁がデザインされ、にわかに「論語と算盤」が言葉の上だけで語られています。経営理念は「理即念」右手の”理”に算盤、左手の”念”に論語ということになるのでしょうか。
 己れの右手と左手を操るのは己れですから、個々人が「自他相忘れ、主客相没」という「即非の論理」の認識論に立つことがM・ガブリエルさんのいう”倫理資本主義”の一丁目一番地になるのでしょう、著者もそれを意識して「企業目的は善行」から書き起こしているのでしょうね。 
  果たして己れが己れに轡をはめることができるのか?まずはデカルト的二元論から離れ鈴木大拙的仏教哲学の「即非」の認識論に立つことから始まるのではないかと思うのです。

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2024/09/12

<「二元論対立」VS.「相対論対立」のゆくえ>

書 名「DD(どっちもどっち)論-解決できない問題」には理由がある-
著 者 橘玲
出版社 集英社
初版日 2024年8月31日
20240911dd 読み終えた結論は「『善悪二元論的対立』と『どっちもどっち論的対立』」の対立も「どっちもどっち」。それは「虚無(きょむ)主義」ではなく「虚無(こむ)主義」というのではなか、と。
 三木清は「人生論ノート」にこう著しています。「生命とは虚無を搔き集める力である。それは虚無からの形成である。虚無を搔き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のようにことなっている。しかし虚無は人間の条件である。」、「人間は虚栄によって生きるということこそ、彼の生活にとって智慧が必要であることを示すものである。人生の智慧はすべて虚無に到らねばならぬ。」と。
 善悪、好悪、損得などなど二元論対立の深まる末法の世を力強く生き抜く智慧が「虚無(こむ)」でありそれは「Dochi mo Dochi」という開き直りなのかもしれません。
 赤いちゃんちゃんこを着た頃一回り若いエネルギッシュなビジネスマンとの縁ができました。彼は会うたびに「ヴァーサス」という言葉を連発します。意味を聞くと「versus」と綴り「VS.」と書くのだと教えてくれました。
 30歳の頃先輩社員から「なにごとも“闘い”ではなく“棲み分け”で考えろ」と今西進化論の存在を示唆され、以来今西進化論信者で生きてきたので、なにごとも「VS.」と考える思考に辟易していたことを思いだします。今は巷に溢れている言葉ですがうかつにも60歳になるまで日常的に耳にすることも眼にすることも聞いたことなかった。
 今時、日本国内も世界を見わたしても圧倒的に「VS.思考」が幅を利かせているように思います。なにかと会話もぎすぎす、途切れがちになる己れがいます。(苦笑)
 先日都心の大型書店の店頭を渉猟していたら、「DD(どっちもどっち)論」というタイトルのいい加減さに魅かれて著者のお名前も確かめずに衝動買いしてしまいました。「犬も歩けば棒にあたる」式の衝動買いは時折思いがけない出会いがある、だからたまらなくうれしくもあり有難くもあります。
 「ロシア(プーチン)VS.ウクライナ(ゼレンスキー)」、「イスラエル(ネタニヤフ)VS.パレスチナ(ハマス)、「中国VS.台湾」、「保守(右)VS.リベラル(左)」、「富裕層VS.貧困層」、「加害者VS.被害者」などなど今国の内、外、日常の話題を見回してもこの善悪二元論の種は尽きません。
 趣味の山歩きでも近年高齢者の登山事故も軽い道迷いでも遭難、遭難と脅され非難されてしまいます。「そうはいうけど」と、「けど、けど」を連発する相対論者の僕は口をつぐむ他ありません。問答無用ですから。
 著者の橘玲さんは、すっきり「どっちもどっち」と言葉にしてくれました。今度「VS.」論者との会話でぜひ使ってみたいフレーズです。 
 だって、現世とか世間ともいう人間世界は元来猿が言葉を発するようになって始まった世界、言葉によって意識化された世界、言葉がなければ人間は生きものではあっても人間ではないのですから。いやいや丁寧にいえば“生きもの”でさえないのですから。
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 あえて言葉にすれば「無」、「有VS.無」の「無」ではなく西田語の「絶対の無」です。「絶対」という語を挿入しないと「相対」を語ることはできないのです。
 言葉にはことばより奥にはたどり着けない自己言及性という言葉の壁があります。与野党の総裁選でにわかに「選択的夫婦別姓」が掲げられていますが、「男と女」のあいだも「VS.」ではなく「と」という相対的存在の立場に立てば「どっちもどっち」だから「どっちでもいい」に決まっています。目くじら立てて日本国家が壊れるなんていうことではないのです。それほど日本という国はやわではないのですから政治家たるものもっと日本という有り様に自信をもって事に当たって欲しいと願うばかりです。
                           書 名「女と文明」
                           者 者 梅梅棹忠夫
                           出版社 中公文庫
                           初版日 2020年6月22日
                               (1988年11月中公叢書)
 先見力の人梅棹忠夫さんは今を去ること67年前、1957年の論文「女と文明」にこう著しています。20240911_20240911151601
 「人間は、もはやこのほこるべき伝統にかがやく一夫一妻的家族を解消するほかない。完全な男女同権へのつよい傾向は、必然的にわたしたちをそこへみちびいてゆくであろう。・・・・・男を主権者として、それに子どもを配する男家族と、女を主権者として、それに子どもを配する女家族とが、ときに応じていろいろな組みあわせによって臨時の結合をする、というようなことにでもなるのであろうか、」
 「現代の文明の傾向としては、世界じゅうが、厳格な、かつ永続的な一夫一妻的家族だけを目標にしてすすんでいるようだし、すべてのモラルも、それをかためる方向にばかり目標にしてすすんでいるようだけれど、それは見かけだけのことだ。じっさいには、むしろそういう家族の解体の方向にわれわれはすすみつつある、ということだけはいえるのではないだろうか。女の力は、そこまでこなくてはとまらない。」と
 今時の若い世代の非婚化は「妻無用論」か「夫無用論」かこれも「どっちもどっち」なのでしょう。
書 名「人生論ノート」
著 者 三木清
出版社 角川ソフィア文庫
初版日 2017年3月25日
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2024/08/08

<「生命一般(森羅万象)の存在の根拠」としての「いのちの活き」>

書 名 「あいだ」
著 者 木村敏
出版社 ちくま学芸文庫
初版日 2005年9月5日(2017年10月10日)
Photo_20240808102001 2024年8月5日(月)待ち侘びていた秋田駒ケ岳の梅雨が明けた。慌ただしく登山口の国見温泉森山荘へ投宿。山の急斜面にしつらえた露天風呂に浸かりつつ持参した文庫本をめくる。
 精神科臨床医にして哲学の人木村敏著「あいだ」を初めてめくったのもたしか7年ほど前の白馬鑓温泉、斜面に穿った露天風呂の湯舟だった。
 木村敏さんはプロローグに本書の前提の仮説としてこう著している。「この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。」と。
 ここにいう「生命一般の存在の根拠」は、因果推論的に説明可能な眼に見える関係性との根拠ではない。「それ自体は対象になりえない」「客観化不可能な」、「窮極的な次元の」根拠関係だと著者は著している。
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 コロナ禍の4年を経た今、露天風呂に浸かりながら考えることは、この「窮極的な次元にある」「生命一般の根拠」をあえて言葉にするとしたら,なんと言葉にしたらよいのか?だ。「語りえぬものを語る」哲学者野矢茂樹さんは、なんと言葉にするだろうか?「絶対に語りえないこと」を語るために。
 「いのちの活き」(いのちの活いていること)と言葉にしてみた。さらにその「いのちの活き」を「資本」と言葉(意識)にすると。資本はお金のそれだけでなく、近頃企業経営においても頻繁に使われる人的資本も「人のいのちの活き」と、文化資本も「文化のいのちの活き」と、地域資本も「地域(場)のいのちの活き」と言葉にできる。
 森羅万象のすべての生命の存在の根拠は「いのちの活き」(資本)として意識のうちに入ってくるのではないだろうか。「みずからとおのずから」の「あいだ」(あわい)に。
 今世界は危機のさなかにあると思う。それは人間が人間である以前に個としての「生きもの」であることを忘れてしまった人間第一主義のなせる危機ではないかと、思う。
 SDGsと唱え、脱CO2と唱え、ビニール袋を有料にして最終生活者に押しつけ、それで地球温暖化を防止できると思っているその思い上がりこそ人間第一主義の驕りではないか。何の躊躇いもなく「地球にやさしく」と語って憚らない。
 盛岡駅で田沢湖線を待つあいだ、いつもの癖でスマホを開けると、日経平均三日続けての暴落と報じている。まさに お金資本の暴流だ。これもまた「お金のいのちの活き」の顕現なのだ。個としての「己れのいのちの活き」と同じなのだ、と思う。
 個としての生きものはひたすら主体的に他者、他物のすべて、己れの家族さえも環境(の変化)として適応して生きていく。その他者、他物、家族にとって、己れもまた、環境(の変化)なのだ。「いのちの活き」に(おのずから)包まれつつ主体的に(みずから)森羅万象の「いのちの活き」を包んでいる、関係性として。
 暴流のごときお金の「いのちの活き」自身も主体的に、己れ自身の環境として「包まれつつ、包んでいる」。主体的にすべてを己れ自身のこととして如何に受け入れ適応していくかが、今問われていると思う。That is the quetionと。
 映画「風と共に去りぬ」のラストシーンで炎に包まれ燃え盛る屋敷を前にスカーレット・オハラも「Tomorrow is another day」とつぶやく。己れも今日のところは、スカーレットにあやかって、つぶやいておくことにしよう、「明日のことは明日考えよう」と。

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2024/07/18

<「ものとこと」の”あわい”>

20240607

1.「もの」と「こと」
 この頃50年余り連れ添ってきた老妻の朝の味噌汁の味、夕餉の煮物の味に変化がおきている。穏やかなまろやかな優しい味がします。今更にわかに料理が上手くなるとは考え難い。問い糺すとその秘密は縁者からいただいた「久原本家―茅乃舎のだし」だというのです。
 創業120年余の福岡の老舗醤油蔵久原本家の商品だという。インターネットで検索すると素晴らしい経営をしておられます。HPを開いてみると経営理念には「モノ言わぬモノにモノ言わすモノづくり」とあります。近年、流行の「コトづくり」と謳っていないところがとってもいいですね。物事は「物と事」、そして「もの即こと」、「こと」は「“もの”が活いている“こと”、変化してやまない“こと”ですから“こと”をつくることはできません。活きた「あご」(飛び魚)が原料になった(死んだ)とき、“モノ”になるのであり、“コト”は生きている“モノ”そのものの活きであり、「あご」の有っている“こと”をつくることはできません。だから理念も「モノ言わすモノづくり」、と締めているのでしょう。                                   
                               図1.「久原本家の理念」                                                          
20240607_20240718135301 「久原本家100の言葉」というものもあるそうです。新社会人向けに選んだ言葉がHPにあります。これを読むと残りの90も知りたくなります。
3.「ありがとうを毎日の習慣に」
7.「従業員は家族」
32.「感性を磨く」
36.「夢に日付を」
40.「自分の得意なものさしを見つけよ」
60.「家族の思い出や絆をつくる仕事」
77.「私がやらねば誰がやる」
88.「凡事徹底すべし」
98.「売上はお客様の喜びの数」
100.「利他」
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2.「ものづくり」か「ことづくり」か?
 仏師が原木を前にして鑿を振るうとき、原木の中にすでに仏がそなわっていて、それをひたすら取り出すだけで、そこに己れの創作の手柄はないという話を聞いたことがあります。凡人の僕は唯々想像するだけですが。
 原木も生きている「“こと”であり“もの”」、仏師も活いている{“こと“であり、”もの“}、互いに「もの即こと}の絶対矛盾的自己同一の個としての存在が、さらに一つになった全体として存在します。西田哲学に「物となって見、物となって考へ、物となって働く」ということばがあります。原木と向き合う仏師の心をいっているようにも思えます。
<図2.「あわい」と「あいだ」
  20240608“今ここ”で互いに物となるとき物と物の間の自他未分の絶対現在に一体となる。仏教にも自然法爾(あるがまま)とあります。
3.―“みずから”と“おのずから”のあわい-
 能、狂言の言葉に「あわい」があると、能楽師安田登さんはいいます。広辞苑を引くと「物と物、時と時のあいだ。すきま」とあります。「物と物」「時と時」の「あいだ」はスパッと切れた断絶のイメージがあります。
 安田登さんは著書「集中講義 平家物語-こうして時代は転換した-」の冒頭で、「あわい」についてこう著しています。「『あいだ』の語源は『空き処』で、AとBに挟まれた空間をいいます。それに対して、『あわい』は『合う』を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。」と。
 「あいだ」と「あわい」はそのイメージがまったく違うというのです。「あわい」は「淡い」でもあり杵つき餅のように伸びていく有り様で、ブツブツと、断絶していないというのです。
 広辞苑には「物と物、人と人との組み合わせ」とありますから、「あわい」はこのイメージが強いです。図にしてみました。
 図1.「あわい」と「あいだ」の右の図が「あいだ」のイメージです。「他と自」、「自然と人間」、「未来と過去」、ここにいう「と」は「あいだ」のことです。「と」は、言葉によって分断された言葉と言葉の間のことです。
 ですからもともと言葉以前には左の「あわい」の状態にあった“ものこと”を言葉にすることによって切れ切れに「あいだ」が生じるのです。「ものこと」の本来の有り様が「あわい」なのだと著者はいいます。
 そこは「いのちの活く」“場”であり、森羅万象のいのちがそこに活いています。「ゆらぎ」“場”であり、諸行無常(変化してやまない)の有り様をしています。
 著者は平家物語を「時と時」の間の貴族政治から武家政治への「あわいの時代」の物語だといいます。その「あわい」を生きている貴族、平家、源氏のそれぞれは「あわいの“場”の変化」(前適応型変化)を知ることはできない、といいます。ですから、平家物語も鎌倉幕府が成立し貴族政権から武家政権へ移行して後に平家一門の盛衰として語った物語です。
 能の舞台にしばしば平家の怨霊が現われます。平家の一門は「あわい」を生きていなかったのでしょう。“こと”としてすでに滅んでいるのに、“もの”は壇ノ浦という時空のはざまに沈んだまま怨霊として「あわい」を流離っています。
 能の舞台ではその「あわい」を流離う怨霊を鎮魂することで、「あわい」の不可逆な非連続の連続の流れを覚っていくのではないでしょうか。とはえい平家は桓武天皇、源氏は嵯峨天皇を始祖とする血脈の流れですから、政治権力そのものも「あいだ」ではなく、「あわい」の流れの渦中にある存在ではあったのです。
4.“もの”と“こと”
 西田哲学にいう「物となって見、物となって考へ、物となって働く」は「永遠の今の自己限定」ともいっています。
 久原本家茅乃舎の”だし”はとても美味しくて今では我が家の常備品になっています。ですがちょっと気になるところがあります。理念にある「モノ言わす」です。ここに自我、自利の匂いというか、強さを感じるのです。親鸞のいう自力のにおいが漂います。
 「モノ言わぬモノにモノ言わすモノづくり」が「モノがモノ言うモノづくり」と変じると、「みずからとおのずからのあわい」が、そして西田哲学にいう「物となって見、物となって考へ、物となって働く」の”活き”が活き活きとしてくるように思うのですが、いかがでしょうか?
 このところの円安、物価上昇も突然の「あいだ」の出来事ではなく、安倍・黒田ミクスの10年余りにわたる円の大増発、ゼロ金利の深層に流れていた流れが表層へ奔流になって表出した「あわい」の物語、そして今、あがる第二幕ははどんな物語になるのでしょうか。楽しみでもあり怖くもあります。両の手で眼を覆いながら指の間からかいま見るばかり恐々と。

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