2021/10/21

<「公助」と「分配」の勘違い>

「このままでは国家財政は破綻する」財務次官による"異例の寄稿"本当の狙い(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
<「公助」と「分配」の勘違い>
 縁者中野一宏さんからいただいた情報です。縁者が何故この小論を紹介してくれたのかは定かではありません。が、たまたま僕もこの小論が気になって読んでいました。日頃から、「情報は送り手の都合(勝っ手)、受け手の都合(勝っ手)」と、受発信していますので、この情報も、己れの都合(勝っ手)で受け止めてみました。(苦笑) 
 今回の衆議院議員選挙の公約では、いつも以上に与野党こぞって「分配」、「分配」と声高に叫んでいます。そして財務官僚のエリートは本小論でそれを「バラマキ」、「バラマチ」、「このままでは財政は破綻する」と財務省のいつもの持論を展開して、岸田文雄総理大臣の公約の火消しのアドバルーンを上げています。
 しかし本小論の著者の立論、与野党の公約の根っこにも、菅義偉前総理大臣の所信表明の「自助→互助→公助」、岸田文雄新総理大臣の「成長と分配」の公約と同じ言葉の勘違い(それとも隠された意図があるのか?)にもとづいているように思います。
1.「バラマキ」でも「分配」でもなく「公助」ではないか 
 掲載誌は日本のオピニオン・リーダー誌文藝春秋11月号です。書き手は現職の財務事務次官というエリート官僚です。そこには「わが国の財政赤字(「一般政府債務残高/GDP」)は256.2%と第二次大戦直後の状態を超えて過去最悪・・・・」と書かれています。
 さらに本小論には「バラマキ」なる言葉が乱発されています。国民は主人がばら撒くであろう餌を求めて、口をパクパクさせながら池の縁に集まる鯉の如くみえているのでしょうか。これが「心あるモノ言う犬」の言葉とは。「その心とは」。
 今回の衆議院議員選挙の与野党の公約も同工異曲、選挙民からその場限りの言葉だけ、手ばたきだけの餌もどきで一票を得るつもり、安倍政権下では「成長なくして分配無し」、「トリクルダウンで滴り落ちる、口を開けて待っていろ!」と。しかし足掛け9年余、意パン庶民には一滴たりとも滴り落ちることはありませんでした。   
 著者は、国民の医療、福祉、教育、そしてなによりコロナ禍の初手から困窮生活に陥ってしまった人びとへの税金投入を「バラマキ」「バラマキ」と連呼してあたかもGDPの2.6倍にのぼる借金の原因でもあるかのように書いています。
 しかし「バラマキ」「バラマキ」といっているもの、その中身、それは民主主義国家の国民に対する義務としての「公助」ではないかと僕は思います。
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2.「自助」「互助」「公助」は時間軸ではなく空間的有り様
 人間以外の生きものには自助も互助も当然、公助などありません。なぜ人間世界だけに「自助・互助・公助」が語られるのでしょうか。それは人間が言葉を操るようになって、自然界とは別の人間だけの棲息空間を意識下に置くようになったからです。
 自然界は偶然(ゆらぎ)という「縁」に支配されていますが、人間はそれを不平等、不公平、不条理と捉えます。「縁」に出会ったときそれを自助(己れの責任)だけでは避けられない、リカバリーしきれないからではないでしょうか。そこで「互助」としての家族を、部族を、民族をそしてなにより民主主義国家をつくってきたのではないか。
 さらに「自助」、「互助」の網目から漏れてしまう人間の個としての「いのちの活き」を支えるのが「公助」。したがって菅義偉前総理大臣が所信表明演説で、「自助」あっての「互助」、「互助」あっての「公助」と、時系列に語ったのは「時空」の一如性を失念した論理的な間違いではなかったか。“今ここ”の現在の絶対空間に「自助・互助・公助」が同時存在でなければ人間世界は格差は拡大し崩れていきます。時系列に扱う限り、「縁」に出会うたびに、強いものはより強く、弱いものはより弱くと、格差の地獄は深まるばかりです。
3.「公助」は「分配」ではない
 人間の生活空間である実体経済の場に必須の「自助と互助」では「縁」によって零れ落ちてしまう「ものこと」を修復することはできません。実体経済の場は「分配」の場ではないからです。
 経済学的、企業会計的にも労働者の賃金は企業が支払うコスト(削減の対象)ではあっても、剰余価値(≒付加価値)分配の対象ではないのです。同じ企業活動に従事する人間でありながら経営者の報酬は、剰余価値(≒付加価値)分配なのです。それは役員報酬が税引き後利益から支払われるという企業会計の流れにも現れていることです。
 たとえ岸田文雄総理大臣が「成長と分配」を声高に語っても企業は分配できない、成長と分配は「場」が異なるのです。賃金は「実体経済(剰余価値生産)の場」、分配は「虚体経済(金融経済)の場」の有り様なのですから。
4.国家債務は簿記の貸方、貸方は「いのちの活き」のこと
 ことあるごとに、日本国家の借金がGDPの2.6倍になっていることが喧伝され「このままでは財政破綻する」と多くの経済学者が語り、財務省もいつもいつも「健全財政」を喧伝しています。本小論もそのいつもの一つです。「モノ申す」とか「心ある犬」というほど大袈裟な発現ではないと僕は思います。中学生の頃でしたか、授業で「国家は”出ずる”を計って”入る”を制す」「家庭は”入る”を計って”出ずる”を制す」と習ったのを思いだします。
 複式簿記では借方と貸方は「一つの如し」、「身心一如」と同じ「一如性」のもの。そしてここにいう「心」は著者のいう「心ある犬」の「心」ではなく、「いのちの活き」のことです。借方の「身」は資産のこと、日本国の私有・公有の資産との一如性という有り様をしているのだと思います。破綻するとすればそのとき、その分だけ国民全体の資産が大きく既存するだけです。著者のいう「第二次大戦直後を超えて最悪」、その事態を招いたのは誰、その後始末をさせられたのは誰なのか。?国体を護持した人びとではなく、戦争の悲惨を身をもって体験させられ「いのちの活き」を脅かされた一般の国民、個々の一人一人です。
 麻生前財務大臣は昨年のコロナ給付金10万円が国民の預貯金で残っていて無意味だった、と語りますが、複式簿記の原理を理解しておられないのでしょうか。借方貸方が同額増えているのですから問題はないはず。むしろ給付金を得た国民の「身」に「いのちの活き」が漲ったのですから、それだけでも免疫力は上がるはずですから。いやいや財務大臣を長年務めた方が、複式簿記を知らない、そんなはずありませんから、きっと給付金はお上からの下々への下賜金と思っておられるに違いありません。
 日本国が仮初めにも主権在民の民主主義国家であるなら、国家の貸方としての義務は国民の「いのちの活き」を守ることです。それは「公助」であって「分配」ではないと僕は思います。「公助」の原資は成長の果実ではなく、もっぱら徴税にあり、それを司っているのが財務省ではないかと僕は思います。「成長と分配」ではなく、「公助のための徴税権」を委ねるのが民主主義国家の選挙であり、貴重な一票ではないかと。
 先の大戦敗戦の債務処理をも国民に負わせた後、再び国家破産を危惧するほどの国家債務を積み上げてきた、とすればそれはもっぱら“徴税のあり方”、“財政支出のあり方”に問題があったのではないか。
 何時、誰が、誰のために使い、何処(誰の借方)へ流れていったのか?。そこから立論していただきたいものです。それを司ってきたのが財務省でありそのトップエリートが著者なのですから。 

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2021/09/19

<「ウイズ・コロナ」は”いのちの活き”と”いのちの活き”の共生>

書 名「大洪水の前に」―マルクスと惑星の物質代謝-
著 者 斎藤幸平
出版社 堀之内出版
初 版 2019年4月25日
202109141.共生
 コロナパンデミックの昨年の早い時期に「ウイズ・コロナ」と高らかに宣言したのは小池百合子都知事でしたか。その後の為政者のコロナ対策は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」など勇ましい進軍ラッパ、「ウィズ」、「共生」ではなく「ゼロ・コロナ」コロナとの闘いの明け暮れです。その経過は第五波の波に打ちのめされた日本社会の現状に明らかです。第五波の波の引き波は、総裁選に続く衆院選の後の第六波のエネルギーを蓄えているようにもみえます。
 人間の身体そのものが生命誕生以来、過去のウィルス、細菌、気候変動とのひたすらの「共生」の証しなのですから。そろそろ闘いの矛を収めて、「共生」の道を探ったほうが賢明だと思うのです。「共生」も字面とは異なり極めて厳しいものです。アフリカのサバンナでライオンがシマウマを襲う映像を見て「弱肉強食」と言葉にするのは人間の驕り、あれもシマウマが草を食む姿も必死の共生(食物連鎖)の一断面なのですから。
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2.いのちの活きの流れ
 137億年前宇宙(大自然)を創成したビクバンの創造のエネルギー、というよりこの創造のエネルギーそのものを宇宙とか大自然と言葉にしたのではないでしょうか。それは48億年前に地球を創成し、38億年前の生命の誕生へ連綿とつながっている「いのちの活き」の流れです。
 その流れの先端に存在するのが人間という生きものです。個々の人間もその38億年の流れを母体に育まれつつ走馬灯の如く、十月十日で追体験してこの世に生を受けています。38億年、いや138億年の生死の循環の流れ(いのちの活き)の最先端にいるといえるのです。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは著書「資本主義から市民主義へ」」に「人間は“生物的実体”と“社会的実体”の二重性を生きている」と著しています。生物的実体は遺伝子情報に刻まれた「いのちの活き」の流れ。社会的実体は、人間が言語を使い始めて以来、人間社会に継承されてきた、文化、文明、家族、国家、法、貨幣、等々言語による概念によって構成された“もの”で生物的実体に関わりなく、過去から現在そして未来へと継承されていきます。
20210918_20210920142701  「もの“と”こと」でいえば社会的実体は「もの」、生物的実体は「生きている“こと”」、「いのちが活いている“こと”といいいかえることができます。
 「もの“と”こと」の二重性これは二元論ではなく、大乗仏教の般若心経の表現「色即是空」を借りるなら「もの即こと」「こと即もの」となります。「生物的実体“即”社会的実体」、「社会的実体即生物的実体」という止揚することなき絶対矛盾的循環です。
20210919_4.物質代謝とは「いのちの活き」のこと
 若き俊英、斎藤幸平さんの「人新生の資本論」が昨秋(2020年9月22日)出版されベストセラーになっています。そのベースになっているのが、俊英を俊英、たらしめた著書「大洪水の前に」です。サブタイトルに「マルクスと惑星の物質代謝」とあります。
 マルクスが「資本論」に描き込まないまま終わった後期マルクスの学究の後を渉猟し資本主義と自然破壊の関係に警鐘を鳴らしています。「SDGsは大衆の阿片だ」と。
 物質代謝はエネルギー代謝のことでもあります。38億年の「いのちの活き」の流れを維持し、進化(変化)させてきた“こと”と、このエネルギー代謝の循環と相即の関係にあります。
 人間の生物的実体の流れを支えているものは、食物連鎖と言い換えたりします。それは大自然の物質代謝(エネルギー代謝)の循環の流れであり、人間自身がその流れのなかで生死している「いのちの活き」そのものなのです。
コロナウィルスとの“共生”は、まずは、コロナウィルスのいのちの活きと人間の生物的実体としてのいのちの活きとの応酬、ウィルスの進化(変異)との落としどころを求める応酬、それは否応のない、大自然の進化(変化)の流れの有り様そのものです。
5.社会的実体の物質代謝
 20210918_20210920144001 面倒なことに人間は他の生きものとは異なり言語を使い概念という「ものこと」を生滅させ、社会的実体を生み出してしまいました。そして個々人の善悪好悪に関わりなく、人間自らを、その二つの実体の不即不離を生きる存在にしてしまったのです。生物的実体の物質代謝とは別に不即不離の関係で存在し続ける、社会的実体のいのちの活きとしての物質代謝の流れが存在します。
 それが、マルクスが「資本論」で資本主義の本質として明らかにした「労働力の商品化」と「剰余価値の無限の自己増殖」です。そして強調しておかなければいけないのは、「自然と労働力は、剰余価値生産の過程では再生産できないということです。
 生命的実体としての「いのちの活き」の物質代謝は、いのちの活きとしての生死の循環の大きな流れの中で再生産されながら、進化(変化)していきます。
 しかし剰余価値生産の過程で使われる素材、大自然によって作られた素材はコストゼロです。そして労働力も資本によって、商品(労働力)として、コストとして費消されます。ですが、受け取った賃金(商品)によって再生産されることはありません。コストゼロの素材(自然)と賃金というコストによっては再生産できない労働力は、大自然のいのちの活きの循環過程から永遠に取り除かれてしまいます。これが、自然破壊が止まらない所以です。
20210918_6.資本との共生は
 岩井克人さんは著書「貨幣論」に「『貨幣は他者が受け取る限りにおいて貨幣である』という循環論法」だ、と著しています。「生きものとは“いのちが活いていること”、と同義です。貨幣が人と人の間を循環することは貨幣の”いのちが活いていること“です。
 ものことはすべて「色即是空・空即是色」の有り様をしているのですから、貨幣は貨幣を「色」、「空」であるいのちの活きが「資本」です。「貨幣即資本」という有り様をしているといえます。道元のいう「我有時」に譬えれば「貨幣は、空間的に貨幣であり、時間的に資本である」ということができるのです。
 貨幣は過去に大自然由来の素材と労働力によって産出された剰余価値の痕跡ですから、大自然のいのちの活きは永遠に循環的に貨幣(資本)に置き換えられていくのですから、現在の人間社会の有り様では、自然破壊は止まるどころか、加速することはあっても減速することもありません。
 それは1971年8月15日のニクソン宣言、「米ドルと金の兌換停止」によって微かにつながっていた“もの”としての金とのつながりを断ち切られ、貨幣(通貨)は剰余価値生産の増殖(大自然のいのちの活き)とも“無縁”に自ら自己増殖する正真正銘の“無”、浮遊霊と化してしまったのです。
 自然破壊を減速し人間社会の不安定さを幾分なりとも和らげるにはこの浮遊霊化した「貨幣のいのちの活き」との共生を模索する以外にないように思えます。
 書道家にして仏教哲学の表現者相田みつをさんは「お金がすべてではないがあると便利、ないと不便」と詩っています。菅義偉首相の就任演説の「自助・共助・公助」の失言も道元の「有時」を理解していたら防げた失言だったのではないでしょうか。
 「自助・互助(共助)・公助」は時系列な、時間的有り様ではなく、”今ここ”の現在に空間的に同時存在している“こと”なのです。「いのちの活き」は、まさにこの“今ここ”の現在の有り様のこと“ですから。「ないと不便」な程度は公助で支えて欲しいものです。コロナのいのちの活きとの共生のためにも、貨幣のいのちの活きとの共生が必要なのですから。
 ブロックチェーン技術の賜物、ビットコインなど仮想通貨といわれた怪しげなものも、いつしか暗号資産と呼ばれ色即空の有り様が露わになってきました。ブロックチェーン技術はNFTアートなどへといのちを吹き込んでいきます。地域通貨への応用は国家管理の通貨のグローバルさに宿す非情さを和らげ、貨幣(資本)との共生を助けてくれる存在になってくれるかもしれません。あたかも日本列島に遍く棲む神々の“活き”似て。

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2021/08/16

<映画「パンケーキを毒見する」を観て>

<2021年8月12日「映画「パンケーキを毒見する」を観て」>
 久々に所用で都心に出る機会ができて65%くらい前のめりになって出かけた。12時間余、新宿→東京と徘徊した。その間必要時間は息子世代の若い縁者との2時間の会食、残りは”不急”?でしょうかね。線引きが難しい往復の車中も3時間余。(苦笑)
 まずは新宿で田舎の薬局の店頭には売られていない、抗原検査キットを2種6セット購入した。これで第三目標はクリア。次回都心で縁者に会うときはせめてこれで事前チェックを、と。 次いで、予てから必見と思っていた、映画「パンケーキを毒見する」を観た。新宿の映画館に平日の昼間というのにわずか3席だけ残っていた。パンフレットにも記されているが、「政治ドキュメントではなく政治バラエティ」に仕上がっているのが肩が張らなくてとてもいい。もちろん、それでも映画館を出るときには監督の制作意図はしっかり伝わっているのではないかと僕は思う。
 20210816 とりわけ上西充子法政大学教授が菅首相と野党との間の国会答弁を切り取って、イデオロギーを押さえて、言語コミュニケーションの流れとして論理的に整理しているところは見どころだ。テレビ報道でも多く切り取られている場面、断片的には見覚えはあるのだが、時間をおかず時系列に並べてくれているので、言葉のキャッチボールがよくみえる。
 己れが長年「どこかおかしい」、「何かおかしい」と疑問をいだいてきた、政権与党の国家統治のスタイルに答えがみえた思いがする。小泉・竹中政権以後、時を経るごとに自信を深めてきた政権与党の国民に対する政治姿勢が明白に映像化されているようにみえる。長年、何故総理大臣は野党の質問にまともに応えないのだろう、与野党の質疑が嚙み合わないまま国会答弁が放置されているのはなぜなのか?
 僕の疑心は膨れ、未来に対する希望の心は、「折れる」ことはないが、萎えていく。長年井筒俊彦さんの言語哲学、大乗仏教哲学の唯識論にも触れているので、人間社会そのものが言語由来の相対界なんだ!、仕方のないことか、?と思いつつ。それにしても教養ある政治家・官僚の方々の国会の質疑が交わることもなく、日本国民の頭上で、表層で、言葉だけの空中戦を交わしているのはなぜなのか?それがコロナパンデミックの政治家・官僚の対応で一層明らかになり疑心は膨らみ、心は萎える。
 与党政治家が野党の答弁に答えていないのはそれが意図的に行われている与党の政治姿勢なのだ。「答え」るどころか「応え」ることすらしていない。官僚の書くメモを読み、ひたすら時間切れを待つのみ、罵声に耐える強心臓と根気さえあればいいのだ。言葉の空中戦だから言葉の弾がいくら命中しようと命に別状はなく、墜落することもない、国会会期という燃料の切れるまで飛び回っているだけでいいのだから会期延長も無用、操縦技術も稚拙なままでかまわない。国民が「菅義偉総理は無能だ!」といってくれたら万々歳、支持者の罵詈雑言は激励の証しなのだから。
 映画館を出るとなぜか空は青かった。己れの心の疑念が晴れたからか。横山紘一さんの「やさしい唯識」の第一章は「一人一宇宙」、人間は個々人、言葉によって意識化した己れの心の内なるスクリーンの影像をみている、とはじまる。己れの内なる影像のぼやけは映画館のスクリーンにピントが合った。
 さて次のポストコロナの己れの心の内なるスクリーンに映る影像は如何に。菅義偉総理大臣、小池百合子都知事をはじめ政権を統べる政治家・官僚の心の内なるスクリーンも覗いてみたい思いに駆られる。果たして映画館のスクリーンの影像と同じように映っているのだろうか。
 東京五輪の喧騒も終わった。古代ローマの詩人ユウェナリスの詩った「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」は、軍国主義の下、兵士の養成のための確信犯的誤訳だそうだ。そして昭和16年には人口政策「産めよ、増やせよ、国のため」を閣議決定した。共に国民皆兵制の下の兵士増産が目的だった。かくいう僕はその渦中、2年後の満州生まれだ。戦後は優生保護法を施行し、人口抑制を図っている、今日の少子化の要因だ。国家権力とはかくも身勝手なのだ、と己れの内なるスクリーンには映っている。
 ユウェナリスご本人が詩った本意は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」、唯識哲学の言葉を借りれば、「心身一如」、「健全なる身体は健全なる識(こころ)によって育まれる」となるのだろうか。コロナパンデミック下の政権運営に心を萎えさせることのないように、時には己れの内なるこころ(深層意識)に触れてみるのも、己れ自身でできるコロナ対策のひとつかもしれないと僕は思う。

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2021/08/14

<大乗仏教哲学の要のひとつ唯識論、「人の世は唯々識(こころ)の有り様のこと」と>


<大乗仏教哲学の要のひとつ唯識論、
    「人の世は唯々識(こころ)の有り様のこと」と>
     -心は意識、意識は言葉、そして意識は表層意識と深層意識、
                                                   深層意識も二層ある、と。ー
書 名「俳句で学ぶ唯識超入門」ーわが心の構造ー
著 者 多川俊映
出版社 春秋社
初 版 2021年5月20日
帯には「いのちあるものたちは皆、それぞれの世界を描いている。」とあります。
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  興福寺の前貫主多川俊映さんは著書「俳句で学ぶ唯識超入門」の第四話で「菱餅の上の一枚そりかへり」の一句から、ひとの心をひな祭りの菱餅に譬えて、赤は、表層心、真ん中の白は、深層心(1)(自我執着心)緑は、深層心(2)(阿頼耶識)と三層に構造化しています。 
 東京五輪が終わりました。多くの日本人の心は、アスリートのエネルギーの爆発、メダルラッシュにポジティブに興奮し、一方で、コロナデルタ株の急速な蔓延報道にネガティブに心を冷やし、開催中刀鍛冶に鍛えられる刀のような心境にあったのではないでしょうか?鍛えられて近頃若い方が口にする「心が折れる」という言葉が死語になるといいのですが。ポジティブもネガティブもテレビ画面のなかのできごとですから、生身の心が鍛えられるはずもなく、さらなるコロナ・デルタ株の蔓延で日本人の心の動揺は一層深化していくのではないかと危惧してしまいます。
 コロナパンデミック下の東京五輪開催に反対してきた人々も、開催中の日本のアスリートの活躍を観て、万雷の拍手を送りました。東京五輪開催派の方々の中には、「あれほど反対していたのに手のひら返しか!」と批判する人も出てきました。かくいう僕も批判される立場の一人です。僕はロンドン五輪の銀座メダルパレード以後五輪そのものの中止論者です。まして東京五輪招致などもってのほか、ましてやコロナパンデミック下の開催など論外です。とはいえ開催中のアスリートの5年の精進の証しには拍手を送ります。メダルの如何に関わらず。それは「五輪」「東京五輪」「開催中の五輪」は、三つとも言葉は同じ「五輪」でもその意味が異なるからです。前者二つは「何のための『五輪』か?」、「五輪」全体の本質的問題であり、三つ目の「開催中の五輪」は、個の問題です。個々のアスリートの精進の証しです。
                                                                                                             
                                                               書 名「やさしい唯識」-心の秘密を解く-
                                                               著 者 横山紘一
                                                               出版社 NHK出版
                                                               初 版 2002年12月15日
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  ここに「全体と部分」という相対矛盾ではなく、「全体と個」の絶対矛盾の問題があります。「あれほど反対していたのに」と批判する人々は、つまるところアスリートを部品としてしてみているわけです。「五輪」の有つ本質的危うさもここにあると僕は思うのです。意識するしないにかかわりなく、「全体は部分の総和」という全体主義的思考の危うさです。世界各国の国旗のはためく下でメダルの数を競うことに「五輪」という言葉にひめられた危うさを感じます。
 テレビ画面のアスリートの精進の姿を横目に、興福寺前貫主多川俊映著「俳句で学ぶ唯識超入門」を読みました。大乗仏教哲学の要のひとつ唯識論を夏目漱石、正岡子規といった詩人の俳句を通して説いています。なぜ、コロナパンデミックへの菅首相、小池都知事をはじめ多くの政治家多々がたの言葉が国民に届かず、日本人の心の分断を露わにしてしまうのか?己れの心の構造に遡及して論理的に考えてみるのも、お盆の合間のひと時に相応しいかもしれません。
さっそく、真似事で一句ひねってみました。(苦笑)
  五輪去り
  コロナ居すわる
  盆の入り    2021年8月9日 雛鳳
<惚れりゃあばたもえくぼにみえる>
20210811
 横山紘一さんは著書「やさしい唯識」の冒頭で「一人一宇宙」と書き起こしています。「ものこと」のすべては、己れの外にあるのでははなく、言葉で「ものこと」を意識化して心のスクリーンに映した影像を見ているのだ、と。同じものことを見ているようですが、100人100色、心の中に映じた「ものこと」を宇宙の有り様としてみている、と。世の中ちぐはぐなわけですね。ちぐはぐが当たり前。

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2021/07/10

<斎藤幸平著「人新生の資本論」ー「SDGsは大衆の阿片だ」>

<斎藤幸平著「人新生の資本論」ーSDGsは「大衆の阿片だ!」ー一つの現われ>
<緊急報告ー熱海伊豆山土石流その発生プロセスから見えてくることー> 
 これが経済学者にして若き哲学者斎藤幸平さんが著書「人新生の資本論」の冒頭で「SDGsは大衆の阿片である」と著した所以の一つの現われ だ、と僕は思います。
 今朝(2021年7月8日)の日本経済聞朝刊一面には「脱炭素へアンモニア燃料」とあります。水素、アンモニアを燃料にして発電するには、水素、アンモニアを電気を使って生産しなければならない。そのための電気は太陽光発電でなければならない、そのためにはパネルをつくる電気が必要であり、その発電はCo2を発生します。そしてそのためにCo2を吸収しているはずの森林をも伐採しなければならない。
 その高コストの太陽光発電を維持するための発電コストを負担するのは最下流の消費者ということになります。そして消費者は労働者でもあります。現代社会では、人間は「消費者即労働者」という絶対矛盾的自己同一なあり方をしているのですから。
 今回の熱海の土石流の被害を受けた人々が太陽光発電のための乱開発の土地の下流に位置しているというのも哀しい暗喩になっているように思います。
 SDGsは日本語では「持続可能な開発目標」だそうですが、言葉の上の循環論で大自然の循環を制御することができると思う、人間の驕りの思考に人間自らが陥るほど、現代の阿片は薬効のあるものなのでしょうね。
 人間以外の森羅万象(大自然のいのちの活きの顕現)のすべてが人間にとっての環境であると同時に、人間自身も「大自然のいのちの活き」の現象化した森羅万象そのものだ、という絶対循環に思いを致すことが「現代の阿片」の悪循環の輪から抜け出す唯一の道ではないかと僕は思います。
 マルクスが『資本論』に”人間の労働力と自然は剰余価値生産の生産過程では再生産できない”と予言してからすでに150年余りの時が過ぎています。

<資本主義の原理としての「資本の無限の自己増殖」>
20210708①商人資本(時間的空間的差異の解消過程)
貨幣(GⅠ)⇒商品(W)⇒貨幣(GⅡ=GⅠ+g)
②産業資本(労働力の商品化による剰余価値生産過程)
貨幣(GⅠ)⇒商品(WⅠ)⇒生産過程(P)〔生産手段(Pm)+労働力(A)〕⇒商品(WⅡ)⇒貨幣(GⅡ=GⅠ+g)
 マルクスの言う、資本主義の原理商業資本の自己増殖、産業資本の自己増殖の過程には”資本”の姿はみえてこない。唯物史観と言われる所以だろうか?。
20210708_20210710183601<貨幣の「いのちの活き」としての資本>
 取引を借方貸方に二重記帳する複式簿記では、眼にみえる実体としての貨幣(G)、商品(W)、生産手段(Pm)の変化を借方に、そしてその同額を貸方に記帳しますが、それ(貸方)は実体のない眼にみえない数字だけの存在です。それを複式簿記では資本と名付けています。
 生産過程を蝶々の蛻変に譬えるとこの眼にみえない資本の正体がみえてきます。アゲハ蝶は「蝶Ⅰ⇒卵Ⅰ⇒芋虫⇒蛹⇒蝶Ⅱ⇒卵Ⅱ」と蛻変を繰り返しながら自己増殖していきます。その循環の過程で、「蝶Ⅰ>蝶Ⅱ」、「卵Ⅰ>卵Ⅱ」の不等号が成立していないと蝶々は絶滅してしまいます。正確にいうなら絶滅するのは蝶々ではなく、蝶々の「いのちの活き」です。卵、芋虫、蛹、蝶と蛻変する眼にみえる個体は都度死んでいるのですが、その眼にみえないところに活いている「何か」を「命」といい、その活きを「いのちの活き」といっているのです。それが大自然のエネルギー(いのちの活き)の現象化(自己顕現)のことでもあります。
 剰余価値生産に投入されてている、「GⅠ⇒WⅠ⇒P⇒WⅡ⇒GⅡ」という眼にみえる貨幣の蛻変の眼にみえないところに活いている貨幣の「いのちの活き」のことを「資本」と呼んでいるのだと思います。
剰余価値生産の過程に貨幣の「いのちの活き」が循環していることに気づき、それが人間の「いのちの活き」の循環との共時性であることに気づくことができれば、資本の自己増殖の奔流を幾ばくか鎮め、人間社会の崩壊を幾ばくか遅らせることができるかもしれませんね。少しだけ、少しだけ。
<マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる!「イデオロギー生起の前に考えること」>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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<詩人谷川俊太郎の詩「いのち」と言語哲学者井筒俊彦の”コトバ”と>

<2021年7月9日日本経済新聞朝刊「春秋」に想う>
<2021年7月10日日本経済新聞朝刊「春秋」>
 今朝の「春秋」は、詩人谷川俊太郎の「詩を語る」から引用しつつ「言語化」について語っています。コロナパンデミック下で虚しく飛び交う、「生死」に根差さない言葉を「空語」とは流石の、詩人に似つかわしい表現です。
「混沌たる現実をどう見、どう切りとり、どうせき止めるか」に始り
「実際は現実とかかわってもいない空語が、それも言語であるゆえに逆に現実をつくってゆきかねない」。と結ばれています。
 詩「生きる」を思いだします。あらためて詩「生きる」を諳んじてみると、詩人谷川俊太郎のいう「現実」とは“今ここ”の絶対現在に“生きていること”そのものではないかと、僕は想いました。
 安倍元首相は「東北大震災の復興の証しとしての東京五輪」と掲げて招致し、「人類が感染症に打ち勝った証しとして」と、造語して、一年延期の正当性を担保しました。そして菅首相もまた「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」とコロナパンデミックの下の開催を正当化し、そして今また「コロナと闘う東京五輪」と言葉を紡ぎます。これこそまさに「空語」そのものではないのかと僕は想います。
 ポストコロナの社会は「ウイズコロナ社会」といいつつ「勝つ」「闘う」という勇ましい言葉が飛び交っている今の日本社会、「ウイズ」「With」の言葉の本質としての意味は何処に消えてしまったのでしょうか。
 結びの「『空語』も言語であるがゆえに”現実”をつくっていきかねない」がポストコロナ社会の”現実”を預言しているのではないかと、僕は想います。
 世界の三十カ国国語以上の言語を縦横無尽に読み、書き、語る、言語哲学者井筒俊彦さんは、言葉を“言葉”と“コトバ”とに分け、人の心を自我(表層心)と自己(深層心)その奥の無心と三層に分けて、東洋哲学を自己の哲学として深め語っています。“言葉”は自我が語る表層心の表出、“コトバ”は表層から深層へ、内なる自己へと下降していく”こと”、そのコトバの尽きた深みにある”何か”それが無心、そこに“いのちの活き”としての大自然のエネルギーの根源との接点が“ある”といいます。そこが人間の“今ここ”の絶対現在の“いのちの活き”のゼロ・ポイントだ、と。
 20210710詩人谷川俊太郎の詩は、そのゼロポイントから湧出した言葉を紡いだものなのだと僕は思います。だから読み手の心に届き、共鳴するのだ、と。放浪の詩人山頭火の詩に「分け入っても分け入っても青い山」とあります。詩っても、詩っても,詩い尽くせない内なる自己へ、大自然の無限の深みへ、ゼロ・ポイントへと歩んでいく己れの心を詩っていたのではないか、と、唯々想いを馳せるばかりです。
 井筒俊彦さんは「意味分節理論と空海」(岩波文庫―意味の深みへ-P75)のなかにこう著しています。
「『存在はコトバである』。あらゆる存在者、あらゆるものがコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である」と。空海の“真言”が井筒のいう“コトバ”と共振しています。森羅万象の現象態の根源も、言葉の奥の奥のコトバ、そこに届かない言葉は「空語」だということではないでしょうか。現世としてのポストコロナ社会は想像を超える過酷な「ものこと」に溢れる社会になると想像しながら下山していく途次、僕にとって「詩『生きる』」は称名念仏のコトバになりそうです。「ものこと」は、「過去と未来」、「もの、もの、もの・・・・」ではなく、「こと、こと、こと・・・・」、一歩一歩一歩と。

人谷川俊太郎の詩は、そのゼロポイントから湧出した言葉を紡いだものなのだと僕は思います。放浪の詩人山頭火の詩に「分け入っても分け入っても青い山」とあります。詩っても、詩っても,詩い尽くせない内なる自己へ、大自然の無限の深みへ、ゼロ・ポイントへと歩んでいく己れの心を詩っていたのではないか、とただただ思いを馳せるばかりです。
谷川俊太郎 詩「<生きる」
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

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2021/05/25

<何のために五輪を開催するのか?>

「何のために五輪を開催するのか?」
 今、東京五輪開催の是非が問われています。巷では60%が反対していると報じています。もう一度、内なる己れに問い直してみてはいかがでしょうか。「五輪の真の目的とは?」。
 日本人は一度走り始めると止まれない、習い性があるといわれています。先の大戦も1931年9月の満州事変から1945年8月の敗戦まで14年の長きにわたって対中国どころか米・欧を敵に回して、米国から広島長崎に原爆投下されるまで戦いを止めることは出来ませんでした。
 東京五輪も誰かがタオルを投げてくれなければこのまま開催するのでしょうか。開催後世界中の人びとからなんといわれるのでしょうか。
 ロンドン五輪の総仕上げに開催されたメダリストパレードの形相に僕は日本の地獄をみた思いでしたから、以後五輪そのものの積極的反対者。時はリーマンショックの悲惨の最中、一国の宰相の東京五輪招致のスーパーマリオの愚かな姿にも背筋が寒くなる思いをしたことを思い出します。

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<ロゴスの知(分別知)とレンマの知(無分別智)と>

<ロゴスの知(分別知)とレンマの知(無分別智)と>
①書 名「レンマ学」―すべての生命を貫いているレンマ的知性―
 著 者 中沢新一
 出版社 講談社
 初 版 2019年8月6日
②書 名 「東洋哲学覚書『意識の形而上学』」―『大乗起信論』の哲学―
 著 者 井筒俊彦
 出版社 中公文庫
 初 版 2001年9月25日
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 日頃、縁者との懇談の最中に「分別知」とか「無分別智」と言葉を発すると、途端に「また仏教の話か」と、右の耳から左の耳へと抜ける微かな音、心の中のぶれの音が聞こえてきます。(苦笑)
 それなら古代ギリシャの「ロゴスの知」「レンマの知」という言葉ならいかがでしょうか。中沢新一さんは著書「レンマ学」の序に、「古代ギリシャでは理性には「ロゴスの知」と「レンマの知」が二つながら共存していた」。ロゴスの知は、「事物(ものこと)を取りまとめて言説化する知」。レンマの知は「直観によって全体をまるごと把握し表現する知」と著しています。
一言にすれば「ロゴスの知」は部分最適、「レンマの知」は全体最適ということになるのでしょうか。コロナ禍で政治家が声高に語る「不要不急」という言葉も部分最適を象徴する言葉、「必要必急」とワンセットで思考しないと“今ここ”の現在の状況の惨状のところが見えてこないように思うのです。
 明治政府の廃仏毀釈、神社合祀による神仏殺し、敗戦による「天皇人間宣言」によって、日本人は唯一残っていた現人神をも殺してしまいました。日本社会は二度の神仏殺しで、日本列島の神仏のすべてを心の中から殺処分してしまったのです。ですから葬式は仏式で執り行うにしても宗教としての仏教を無視してしまうのも無理からぬことなのでしょう。
20210712  しかしそのお陰か何のためらいもなく、対米従属をベースに敗戦の廃墟から西欧近代社会への再キャッチアップに成功しました。欧米の近代社会の発展は偏に「ロゴスの知」による、近代科学の発展によるものですから、日本社会の現在の様相も等しく「ロゴスの知」に負うもの大といえます。
    しかし西欧社会は「ロゴスの知」の深化の過程で「レンマの知」を忘失してしまったのです。今日の人間社会の混迷こそこの「ロゴスの知」の過剰、「レンマの知」の忘失にあります。
  現在のコロナパンデミック下の日本社会の混乱をみても、個々人にとって都合の良い言葉をつなぎ合わせただけの論理が空疎に飛び交っています。とりわけ政治家のそれは眼を覆うばかり、庶民の切れば血の出る生身の生活に刺さるどころか触れることすらありません。20210611_20210611135501
 ポストコロナ社会へ希望をつなぎつつ移行するためには、ロゴス(言葉)によって分別(分節・分断)化され混沌を極める現在の社会の有り様をレンマの知(直観的に全体を一気の把握する)を古代ギリシャから呼び戻したい思いが「レンマ学」を著した中沢新一さんの思いではないか、その思いに共鳴している己れが今ここにいます。
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 「レンマ学」の帯には「東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する」とあります。中沢新一さんは、古代ギリシャにあったという「レンマの知」は、幸い大乗仏教の華厳経として東洋の知として結実している、そしてそれは、中国において大乗起信論として結実したとあります。西洋知としての「ロゴスの知」と東洋知としての華厳経を「レンマの知」として、西洋と東洋の知の結集を図るという大いなる著者の野心が漲る著書になっています。
 大乗起信論を「レンマの知」として統合するとするなら井筒俊彦フアンとしては、②の井筒俊彦著「意識の形而上学」をあげないわけにはいきません。大乗仏教経典を解釈するという立場ではなく、大乗仏教の哲学化(言語化)することを通して、「ロゴスの知」と「レンマの知」を架橋しています。それは鈴木大拙の「即非の論理」、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」へとつながる流れでもあります。
 中沢新一さんが西洋の「ロゴスの知」と東洋の知としての「レンマの知」を統合し、レンマ学として世に問うています。南方熊楠、西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦から中沢新一と継承されていくとするなら、ポストコロナ社会をよりよく生きるための「レンマ学」は、「日本的レンマの知」が必須と、胸を張っていえると日本人の一人としてはうれしいのですが。さてさて「That is the question」。

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2021/05/01

<新型コロナワクチン治験を待たずに認可>日経新聞2021年4月29日

 2021年4月29日今朝の日経新聞朝刊一面の記事が気になります。「ワクチン、治験を待たず認可・・・」と。
日経新聞記事「新型コロナワクチン治験を待たずに認可」
 未だ混沌の渦中にある新型コロナ対策、ワクチンの調達が遅れていることへのリカバリーのつもりなのでしょうか。遅れたことが間違いであるかどうかは、未だ結論を出すには早過ぎるのではないでしょうか?もしかして、「万事塞翁が馬」、「遅れてよかった!」なんてことも。
 今回のmRNAというワクチンの製法は従来のものと異なり、人工化学物質を使用していると聞いています。そして、これまで2~3年かけていた開発を1年未満という超スピードで開発されたものです。
 ひとのいのちも生きものとして個々の大地に根差し古代からその土地に生き、生殖によって遺伝子の変化を重ねながら、「いのちの活き」としてつないできたものです。同じ人間とはいえ、その過程で様々に多様性を広げていった生きものです。たとえ日本人といえ一人一人個体の違いは多様性を秘めているはずです。ましてこの地球上に拡散した人びとの違いは大きいのではないでしょうか。
 ですから、記事にあるように海外の治験のみで認可するのではなく、慎重に日本では日本での治験を重ねたうえで認可、使用したほうが安全ではないでしょうか。ワクチンで早期に集団免役を獲得して、早期に経済活動を促したいのはやまやですが、やはり、「いのちの活き」あっての「経済」なのですから。
 日本では、近くでは子宮頸がんワクチン、古くはポリオワクチンとワクチンをめぐって多くの問題が起きてきました。ものわかりがよいことは決して己れにとっても家族にとっても「いのちの活き」の安全を保障するものではないですから。
 「ワクチン投与は効果の方が副作用よりも桁違いにまさる」としばしば聞く論調です。ですが正の効用は「全体」の問題であり、副作用という負の効用は「個」の問題です。全体のために「個」の問題が切り捨てられること、それは民主主義ではなく、全体主義にほかならないのですから。たとえ治験を済ませ国家として承認したとしても個への副作用の問題は個の問題として残り続けるのです。「全体と個」は相対矛盾の関係ではなく、絶対矛盾の関係なのですから。

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2021/03/28

<「民主主義VS.社会主義」そして「資本主義VS.コミュニズム」>

<「民主主義VS.社会主義」そして「資本主義VS.コミュニズム」>
 「ものこと」の本質は言葉によって二元論になり分断を深めてしまうように思います。新型コロナパンデミックへの国家、国民それぞれの対応もこれらの分断の流れの早さ、激しさ、深さを増していくのではと、ただ空しくおろおろするばかり。
 2月19日カナダで米中が激突しました。アメリカ側は新疆ウイグル、香港の民衆への中国政府の暴力を批判し、中国側は「中国には中国の民主主義がある」と応酬しています。流石にこれを牽強付会といわずして、何をかいわんや。現在の中国が民主主義国家でないことは、誰の目にも明らかです。
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 しかし、それなら現在のアメリカ合衆国の格差社会化、人種差別、国民に対する暴力は果たして民主主義の国といえるのでしょうか。
 現在民主主義国家を標榜しているヨーロッパ諸国、日本、韓国などいわゆる西側と区分けされいている国家も果たして民主主義国家といえるのでしょうか?
 我が日本国の国会における”今ここ”の現在の与野党の諸々の問答を、選挙民は己れが選挙で選んだ代表者の問答として、民主主義下のそれとして見えているのでしょうか。そして与党の国家運営は民主主義下の国家運営の顕れとみえるのでしょうか。
 
 香港の民衆暴動を鎮圧する中国国家の暴力とアメリカの民衆暴動への国家の暴力、ヨーロッパ諸国の民衆暴動への国家暴力、ミヤンマーの民衆暴動を鎮圧する国家の暴力、民主主義国家と独裁政権国家、軍事政権国家とどこが違ってどこが同じなのか?共通する「ものこと」はまったくないのか?
(1)書 名「民主主義の”非”西洋起源について」
   著 者 デヴィッド・グレーバー
   出版社 以文社
   初 版 2020年4月24日
(2)書 名「カネと暴力の系譜学」
   著 者 萱野稔人
   出版社 河出書房新社
   初 版 2006年11月20日
(1)の原題は「Tere Never Was a West:Or, Emerges From the Spaces in Between」とあります。民主主義はけっして「West」(西洋+北米)の専売特許ではなく様々な「民族と民族」、「国家と国家」、国家と個人」「文明と文明」「文化と文化」といった様々な「Between」の関係性、「と」にあるのではないか、「と」という「間」の関係性によってこれまでも変化してきたしこれからも変化していくものではないかとあります。己れの思考に一歩引いた、新しい視点を与えてくれます。
 「非」の一文字が効いています。鈴木大拙の「即非の論理」の「非」に通じるものがあります。
 「ブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)」、「負債論」で今話題のデヴィッド・グレーバーが文化人類学の視点から「民主主義とは何か?」と問いかけています。
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 (2)の著者の冒頭の書き出しは刺激的です。「生きていくためにはカネが必要だ。この単純な事実をわれわれの思考の出発点にしよう」、「哲学や思想も、カネを手に入れる方法について考えないわけではない」とあります。
 国家の存立に必須の暴力権(軍事力・警察権力)と通貨管理権の系譜そして国家による暴力の正当化と資本主義との不可分の関係性を明らかにしています。
 現今のコロナ禍で語られる「経済か?・命か?」も二元論で言葉で、言い尽くすことができるほど簡単ではありません。日本の緊急事態宣言、西欧のロックダウンで見えてきた「ものこと」、コロナパンデミックで明らかになった格差社会の深化、などなど、ポストコロナ社会のあり様を考える新たな視点として「民主主義」、「社会主義」、「コミュニズム」、「資本主義」、「貨幣(負債)」といった言葉の意味する「ものこと」を一旦イデオロギーの色眼鏡を外して、思考し直してみる必要があるように思います。この二冊もその一助になるのではと、思います。
 小説家夢枕獏さんは著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」のなかで、空海に口寄せしてこう語っています。「言葉は器だ!」、「この世で最も大きなもの、それは言葉」、「この世で最も小さいもの、それも言葉」と。
 宇宙から素粒子まですべては言葉の器に盛ることができると。現世という人間世界は言葉の器に盛られた人びとの意識下の世界だというのです。
 さすれば、民主主義という器、コミュニズムという器、資本主義という器に、学者という料理人、政治家という料理人、経済人という料理人、そして何よりも己れという個々人の人生の料理人が”今ここ”の現在、盛り付けている料理は?。
 そしてポストコロナ社会としての新たな現世を思考するなら、一度、言葉の器を空にして、料理を盛り直してみるのも価値あることではないでしょうか。「VS」ではなく、「カネも、いのちも、心も、身体も」と強欲に唱えながら。

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2021/01/08

<知足の蹲の暗喩するもの(2)-未来・現在・過去ー>

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4.柄杓は言葉
 蹲の清冽な水を湛えた「口」から迸る創造のエネルギーが造出する「何か?」それを一つ一つ言葉に紡いだ現世という人間世界、とすると蹲の縁に置かれた柄杓が言葉、柄杓で一杯一杯,水を汲みだしたものが現世ということになりますし、柄を持つ人の柄杓の使い方によって現世も刻々と変わっていくということになります。
 一方でこの清冽な水に暗喩された「渇愛」という「いのちの活き」が森羅万象を生じさせているのですから、コロナウィルスと名付けた「何か」も人間と名付けた「何か」も等しくこの清冽な水の化身ともいえそうです。ここであらためて、なぜ、縁に「吾唯知足」と言葉を刻んだのかその意味が明らかになってくるのです。
5.不立文字と絶対の自己否定
 「有と無」、「自と他」「善と悪」、「美と醜」、「好と悪」、「上と下」、「右と左」などなど、清冽な水から柄杓によって掬いだされた「何か」はすべてこのように分断されてしまいます。現世は二元論の世界のことでもあります。その二つの間の「と」は言葉にできない、柄杓から掬い取るときにこぼれ落ちてしまう「何か」です。
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 人生というものも「生と死」の間の「と」のことですから「死」を考えないと人生を考えたことになりません。この世もあの世も、この「と」にあるというわけです。
 そんなわけで禅仏教では「只管打座」、「不立文字」といいます。言葉で考えるな、心を無にしろ、というのです。言葉によって生じている現世から一度離れて、蹲の真ん中の清冽な水の中に戻れといっているように聞こえてきます。西田哲学ではこの真ん中の奥の奥、底の底、言葉にできない「何か」を「絶対無の場」と言葉に紡いでいます。「絶対の自己否定」によってのみ、この絶対無の場に触れることができるからです。
 6.「ものこと」は「過去と未来」
 近年経済成長の行き詰まりからか、しきりに「ものづくりからことづくりへ」といってきました。今コロナパンデミックの下で困難を極めている業界はまさに「ことづくり」としてもてはやされてきた業界でもあります。ですがそれは「ものからことへ」と言葉にしてしまったために器に盛りつるべき「と」を忘れて過去の「もの」、飲食、観光、イベント等々過去からすでにある「もの」をさも新しく見せ「こと」として、量的に拡大してきたに過ぎなかったのではないでしょうか。その象徴が開催か否かが危ぶまれ、危機の渦中にある東京五輪ではないのでしょうか。
 「ものとこと」は「過去と未来」、「もの」は過去、「こと」は未来です。過去と未来のあいだの「と」が現在です。そして「と」は蹲の縁。「吾唯知足」の刻まれた縁こそ“今ここの絶対現在”の刹那、過去と未来を分かつ断絶の淵にみえないでしょうか。
 未来は清冽な水面、柄杓で汲みだすごとに「こと」は刹那に「もの」となって、過去という現世へ向かって不可逆な流れとして流れ出ていきます。
 柄杓の柄を持ち一杯の水を掬う刹那に「吾唯知足」の名号が聞こえているか否かそれは柄を持つ吾にはわからない、その吾は自我の吾、真の吾は、言葉以前、意識以前の清冽な水鏡に映っている吾のこと、仏教にいう「仏性」、西田哲学にいう「真の自己」のことですから。
7.言葉への問い直し
 西田哲学の言葉では絶対の自己否定、そして禅仏教の只管打座、「不立文字」。一度、蹲の清冽な水鏡に映る「真の自己」の姿に触れ、そこから戻って再び言葉にするとき、同じ言葉の器にみえても、盛りつけるものは変わっているのではないでしょうか。
 それが「無分別の分別」、「無分別智」といわれるものではないかと思うのです。「経済を回す」「命が大事」の「経済」、「命」という言葉の器に盛り付ける中身が変わってくれば、コロナパンデミックの政治・経済政策も、人々の対応も、人それぞれに変わってくるのではないでしょうか、その変わっていく多様な様相そのものが、ポストコロナ社会としての現世の変わり様そのものになるはずです。
 ポストコロナ社会が、パンデミック以前と変わった姿になるとすれば、資本主義という器に盛りつけるものも変わっているはずだと思うのです。善いほうに変わるのか、悪いほうに変わるのかそれはわかりません。なにしろ現世の「善悪」は二元論の相対的善悪ですから。
 格差社会の深化、自然破壊の深化の原因を資本主義に求め、新自由主義の暴威を憂いても、何も変わりません。「資本」という言葉も鈴木大拙が「渇愛」と言葉の器に盛りつけた創造主のエネルギーから生み出された「いのちの活き」そのものです。貨幣(お金、通貨)を貨幣たらしめている眼にみえない「いのちの活き」のことです。
 その資本という言葉、貨幣の「いのちの活き」を、「レッセフェール!」と解き放ったのが新自由主義ですから、新自由主義と資本主義は別のものではなく、資本主義の進化(変化・純化)したもの、新自由主義的資本主義と捉えれば、ポストコロナ社会の資本主義も又変わっていくと思えるのではないでしょうか。変わるということの中に未来への希望も見えているのではないでしょうか。そしてそれは資本主義が変わるのではなく、個々人一人一人の生き方が変わるということだと思います。
 「こと」は「渇愛」のエネルギーの発露ですから、未来という名の「こと」は不確実、不確実な未来を生きることが、不条理を生きることと同じだということだけは確かなようです。
8.なぜ今NHK大河ドラマのテーマが「論語と算盤」なのか
 それにしても明治期に西欧から入ってきた「Economy」なる言葉は当初「経世済民」と日本語訳されています。「世を経(おさめ)民を済(すく)う」」という意味がこめられています。経済という言葉の器には「政治」と国民の生活は一緒に盛られているはずです。「経世と済民」は{と}で分かちがたくつながっています。
 現世でもっとも大きな柄杓の柄を持っている人々、「政・官・財・学」のエスタブリッシュメントの柄杓の使い方に「経世済民」のすべてがかかっています。
 今年のNHK大河ドラマのテーマが「論語と算盤」であることもそれを訴えているように聞こえてきます。ここにも「と」があります。鈴木大拙の即非の論理を借りて、「『論語と算盤』は同じではないが分けることはできない、同じではないから後先がある。論語が先、算盤が後」、「『経済と命』は同じではないが分けることはできない、同じではないから後先がある。命が先、経済は後」と、読み替えてはいかがでしょうか。
 そして命という器は法人の命ではなく、個々の人々の生身の「いのちの活き」のことであることも忘れてはならないと思うのです。一人一人の個々の人間のいのちの活きは蹲の清冽な水面にあるのですから。マルクスも「労働力の商品化」が資本主義の始原と資本論に著しています。さらにその労働力の始原は、ひとの「いのちの活き」なのです。
 蹲の縁に刻まれた「吾唯知足」は老子由来の言葉といわれていますが、仏教伝来後老子の教えが仏教の教えの影響を受けて変わってきたのではないかともいわれています。孔子の教えの論語も、老子や仏教の教えと相互に影響しあいながら、日本に伝来してきたのではないでしょうか。さすれば、眼には見えませんが論語も蹲の縁に刻まれているに違いありません。
 気がかりなことは、生身の孔子は紀元前5世紀春秋時代に諸国を行脚し、もっぱら君主に教えを説いて回ったそうです。しかし生身の孔子の教えが諸国の君主に用いられるようになるのは、孔子の没後、弟子たちの時代になってからのことです。初代が不遇に終わったからこそ思想になったといわれると、NHK大河ドラマのテーマの「論語と算盤」も今の日本のエスタブリッシュメントに、論語は届かず、算盤のみが届くといったことになるやもしれません。
 それではポストコロナの日本社会は、格差拡大は一層深化し、我々一般庶民には極めて生き難い厳しい社会になることは必定です。その頃には、己れはすでに蹲の清冽な水の中に戻っているのですが。

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2021/01/07

<知足の蹲の暗喩するもの(1)-宇宙ー>

20201125dsc00122  大晦日何年振りだろうか、NHK紅白歌合戦を終始観ていました。若い歌手の歌、聞き覚えのある己れの若き日を思いださせてくれる古い歌詞、歌詞に込められた想いの強さ、深さをあらためて味わった旧と新の境目の刻でした。
 歌詞も言葉なら音符も言葉。言葉と言葉の間に、五線譜の行間に、歌手の声の響きにそれぞれの想いの強さ、深さが込められているのでしょう。その想いの強さ、深さを味わった刹那の大晦日。 
 一方、コロナパンデミックの渦中にあったこの一年は、日本の政・官・財・学を統べるエスタブリッシュメントの発する言葉、そしてその言葉が次々と繰り出す論理の軽さ、空虚さに気づかされた長い長い一年という時間でもありました。
1.言葉に囚われて
 昨年深まる秋の京都、久々に龍安寺を訪ねました。コロナ渦中の早朝とあって、観光客も少なく、石庭を床に座ってしばし眺めていました。しかし今回の拝観の目的は石庭ではなく、「知足の蹲」(図1)にありました。30年ほど前に「吾唯知足」の色紙(図2)をもらい受け、自室で時折眺めていましたが、年を重ね、老いを自覚する今、どんなみえ方をするのか気になっていたからです。
 長年、己れは蹲の周囲に刻んだ四文字の意味にこだわってきたことに気づきました。曰く「足るを知るものは利をもって自累せず(孔子)」、「足るを知るをこれ、足ると為す(韓非子)」と。久しぶりに実物を眺めると、清冽な水を湛えた真ん中の四角い空間が気になります。四文字に共通の部首「口」のところです。
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 Mg_1672 そもそも「口」は言葉を発するところ、四文字も言葉、言葉に囚われていて真ん中の口が暗喩するものが長い間見えていませんでした。夢枕爆さんは著書「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」に空海に口寄せして、「言葉は器だ。この世の如何なる小さなものも盛ることができる器」そして「如何なる大きなものも盛ることができる器」、極小の素粒子から極大の宇宙まで、言葉の器に盛れないものは存在しないといっています。
 知足の蹲の四文字は器の縁、縁に囲まれ満々と水を湛えた部首の「口」の部分から迸り出る言葉そして論理、この世のすべて、人間世界のすべてはこの蹲の口から出たもののことではないかと、しばし蹲を眺めていました。
2.言葉の器に盛られたものは
 昨年のコロナパンデミックでは「命か、経済か」、「経済を回す」という言葉が巷でも政府の政策でも声高に叫ばれました。言葉を発するとき、「経済」という言葉、「回す」という言葉、「命」という言葉に盛っているものは「何か?」「何のために?」、己れの内に向かって深く深く問い続けていかないと、表層の言葉だけが空しく時の流れに流され消えていきます。
 コロナは原因ではなく「縁」、過去の「因」によって眼に見えないところに醸成されていたものが、失業、自殺の増加、貧困の増加として眼にみえる形になって顕在化したのです。その過去の因は一口に言えば経済至上主義の新自由主義的資本主義の深化によるものです。そしてこれも己れが生きる現世のある一面の様相であって、別世界のことではないと思うのです。今の社会の有り様を心ある人々は嘆いたり、謗ったりしますが、一人一人がこの「新自由主義」「資本主義」という言葉を内なる己れに問い直していくことが必要に思います。内なる答えを求めて。「ポストコロナ社会の日本はどうなるのか」、「そこで己れは如何に生きるのか」と。
Ohp20210105 3.部首の口は宇宙の暗喩 
 「宇宙」という言葉の器に盛りつけたその宇宙の創成は、ビックバン仮説によれば、138億年前三次元、四次元といった次元ではとらえられない一点から刹那に無限大に拡散した「何か」のことだといいます。その言葉にできない「何か?」を近代科学は宇宙という器に盛りつけたのです。釈迦はそれを、あらゆるものことは変化して止まない真理として「空」と言葉にしました。日本列島では縄文期以来「森羅万象に宿る神」と「神」と、そして老子はタオと名付けたものがこの清冽な水を湛えた口の中に偏在している「何か?」です。
 大正昭和とアメリカで禅仏教の教理を伝導した鈴木大拙は、このあまねく偏在している「何か?」を著書「神秘主義」にこう著しています。「渇愛は自己表現、つまり自己主張のために形をもつことを希求する。・・・・・渇愛というものは尽きることはないので、それがとる形も限りない多様性をもつ。・・・・・渇愛こそ宇宙の創造主なのだ。」と。ビックバンによって偏在する「何か?」は創造し、形になって顕現したいという欲求であり、唯一創造という方向性をもったエネルギーだと言葉にしています。僕はこれを「いのちの活き」と言葉にしてみましたが。
 自然という言葉にしたものも蹲の真ん中の清冽な水の暗喩する「何か?」のことです。この暗喩に気づけば、人間もコロナウィルスもあまねくこの「何か」の表現であり、その「何か」に包まれているものだということがわかります。そのことがわかれば「自然に優しく」「地球に優しく」などいう言葉がいかに人間中心主義の傲慢を象徴する言葉であることにも気づくことができると思うのです。
<続く>
<知足の蹲の暗喩するもの(2)-未来・現在・過去ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)


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2020/10/19

<ポリ袋・紙袋の有料化に首を傾げる刹那の間>

 前々から書籍はできるだけアマゾンに頼らず、都心の大型書店で購入するように心がけています。都心の大型書店で購入する折、以前から数冊ならポリ袋は辞退してバックに入れていました。量が増えて重いときは店員さんが「無料で、宅急便でお送りできますよ」と声をかけてくれます。それを断って紙袋に入れてもらって持ち帰ることにしています。宅急便のガソリン使用量も減るかもしれない、「地球にやさしく」なれるかもしれない。それはまったくの詭弁。
  本音は、書店の宅急便代も節約になるし、わずかでも大型書店の採算に協力して生き残ってもらわないと書店の店頭を「犬も歩けば」と、うろつく己れの楽しみがなくなってしまうこと、そして帰宅の長時間の電車内でパラパラ拾い読みする楽しみのためです。
  昨年12月「プラスチック製買物袋有料化制度」が実施され、書店に限らず店頭は一斉にポリ袋の有料化が始まりました。それ以後、いつもの大型書店で書籍を買うと、オウム返しに「無料で、宅配便でお送りできますよ!」と声がかかります。「持ち帰るから紙袋に入れて欲しい」というと、またまたオウム返しに「有料になります。一枚30円です」と返ってきます。己れの狭量のゆえか、つい「宅急便代がかからないのだから、お店が負担してもよいのではないか」と心中に不信感がむらむらと湧いてきます。ポリ袋も紙袋もしっかりお店の宣伝がプリントしてあり持ち歩いている間、歩く宣伝マンにもなっているのに、と。「・・・のに」が頭をよぎり不快感がよぎります。相田みつをさんの詩にも「『のに』がつくと愚痴になる」がありました。大型書店に生き残ってもらうために、あと30円追加してもかまわないはずなのですから。これもきっと浄玻璃の鏡に映ってしまうのでしょうね。(苦笑)
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 とはいえ、くだんの制度の目的は「消費者のライフスタイル変革を目指す云々」とあります。これはていのいい消費者(弱い者)へのしわ寄せにすぎないのではないでしょうか。供給者側(サプライサイド)が負担して、仮に消費者が袋を持参したら30円値引きしてもよいのではないのでしょうか。
 この末端の消費者(労働者)へ負担をさせておいて「消費者のライフスタイル云々」という供給者(サプライサイド)の上から(勝ち組)目線の顕れではないのでしょうか。
 昨秋すでに景気が下降し始めているときに、消費税増税を実施し、偶然とはいえその後のコロナパンデミックが二重に弱い者に襲い掛かっています。
 法人税率を下げ、所得税の累進税率を下げ、金融収益課税を下げ、逆進性の高い消費税増税に徴税手段を集約していく流れの方向とも類似しています。下へ、下へ、弱い者へ、弱い者へと。
 プラスチックゴミによる海洋汚染も同じ流れです。水は山から川へ、下流へ下流へと流れ下り海に達するまで水のエントロピーは増大していきます。ですが、海水は太陽の光のエネルギーを吸収して、エントロピーを下げ水蒸気となって雲になります。ボヘミア民謡「おお牧場はみどり」の歌詞にのって、「雪が解けて、川となって、山を下り、谷を走る」と下流へ下流へと下りながら、大地を潤し、「生きもの」を育みながら、清濁併せ飲み込んで海へと循環していきます。その飲み込む清濁こそエントロピーの正体ではないかと思うのです。
 人間の経済生活もまずは上流の、「供給者(サプライサイド)のライフスタイル」を変えない限り下流の川や海の汚染はとまらないのではないかと思うのです。
 地球環境破壊を遅らせ、人類の破滅のときを遅らせる。それには、まず「地球にやさしく」「自然にやさしく」といった、自分より大きなもの、自分より強いものに「やさしく」などと、大それた、上から(勝ち組)目線の視点から変えていく必要があると思うのです。この上から目線のことを“人間中心主義”というのではないでしょうか。
 人間も大自然に包まれて生きる大自然の一部であり、そして空気、水、食糧と様々な形で身体内に自然を包み込んで循環している自然そのものなのです。
 環境破壊を遅らせるにはSDGs投資、ESG投資といった投資、経済成長、GDPといった自然をそして人間をも手段として扱う“人間中心主義”の傲慢な言葉を持ち出す前に、一度「自然に包まれつつ自然を包む」「森羅万象に神宿る」という日本列島の縄文の思想に立ち返って考える必要があると思うのです。

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2020/10/18

<家計の貯蓄率、4~6月期は23%、給付金が押し上げ>

<2020年10月16日日本経済新聞朝刊の記事>
<家計の貯蓄率、4~6月は23% 給付金が押し上げ>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65126110W0A011C2EA4000/?fbclid=IwAR1tdhIpvFLZ_QTXmuHJzTQoDscNK7tp7huc56D2cDDQkQ1rG-NNXPc-t-o
 給付金の10万円が貯蓄に回って預貯金残高が増えたそうです。当初予定していた低所得層に30万円支給にしていたらどうなっていたのだろう、と思いますがそれは覆水盆に返らずですね。
 GOTOトラベル・イート政策では政府だけでなく、地方自治体も思い切りよく税金を投入しています。為政者の皆さんがMMT(現代貨幣理論)を信じるようになったのかもしれませんね。麻生財務大臣は別として。(笑)
 MMTでは政府の発行する「お金」(管理通貨)は、政府の債務証明書だといっています。それならいくら発行しても国民が受け取るうちは問題は起きないわけです。政府の貸借対照表の貸方(債務)残高と国民の貸借対照表の借方(資産)残高がイコールですから、貸借相殺すればチャラになります。これまでも日本の公的債務は国内で消化しているのだから問題はない、といっていたことと同じことですから。このことは麻生財務大臣も黒田日銀総裁も共有していることではないでしょうか。
 給付金の低所得層へ30万円から全国民に10万円という欺瞞は止めて、こんどこそ第二次コロナ対策で若年の低所得層に限定して50万円とか100万円とか思い切った金額を支給してはどうでしょうか。どうせ預貯金に回るのなら、そしてそれが債務証書なら、なんら心配する必要はないのですから。
 経済的に弱い人々に安心感が醸成されれば新型コロナパンデミックの恐怖も和らぐのではないでしょうか。そしてそれが生活の支えとしてゆっくり費消されていけば、それはGDPになって、そして少しだけ回り道をして、消費税徴税として返ってくるのですから。「急がば回れ」、循環はスピードではなく回り道に如かず、と思うのですが。いかがでしょうか。

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2020/10/13

<「印鑑廃止」なのかそれとも「捺印すること」の廃止なのか?>

<「印鑑廃止」なのかそれとも「捺印すること」の廃止なのか?>
 もう止まらない流れなのでしょう。しかし後々のために、少し心にとどめておきたいことがあります。印鑑という「物」の廃止ではなく、「署名捺印」の「捺印すること」の廃止、「こと」の廃止だということです。
 西欧はサイン文化、サインした刹那にその書面に対する「自己の責任」を自覚します。日本の「署名捺印」は「サイン+朱印」、署名は西欧のサインに相当するのでしょうから、「記名押印」ともニュアンスが違います。
 自ら名を署し朱肉で捺印するという「こと」に重きがあり、「自己の責任」を自覚する刹那に、今風にいえば二段階認証になっているといえるのではないでしょうか。「なぜ朱の色なのか」朱色にも意味が込められているように思います。調べたことはありませんが「血判」の名残りででしょうか?
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 西欧的二元論で論理的に切り捨てる風潮が横溢する今日、「物事」を進めるとき、物事を「ものこと」、「『もの」と『こと』」とちょっと丁寧に思考しておいたほうが、後々後悔が少ないと思うのです。
 今政府が力づくで進めている「印鑑廃止」の理由は能率、効率、スピード重視、経済性重視で、印鑑という「もの」の廃止として決めようとしています。廃止するのは、「もの」ではなく、「捺印すること」という「こと」の廃止です。「もの」という過去に重きを置いた現在ではなく、「こと」という未来に重きをおいた現在を変えようとしているのです。
 日本人は歴史的長さでこの二段階認証の二段目で「自己の責任」を最終確認していたはずです。NTTドコモという最先端企業でさえ二段階認証を忘れ(怠って?)振り込み搾取が発生しています。「印鑑廃止」は止まらない流れですが、「署名捺印」の本質とはなにか、物事の本質は、いつも「もの『と』こと」の間の「と」にあると思うのです。
 50年ほど前、宮仕えの頃、工場の予算管理を担当していました。工場現場の管理職が捺印した予算書をチェックする業務です。予算書に印鑑購入希望があり、僕がそれをカットしたことから、くだんの管理職と大騒動。管理職は「会社の書類に捺印するのだから会社の経費で買って当然」と。僕がカットした理由は、「西欧のサインは己れの指先」だから己れの側にある、「責任の所在」だから。「日本の捺印も己れの指先」、己れの責任の認印だというものでした。金額的にはたかが認印なのですが、されど認印。
 時代が変わると「こと」も変わっていくのでしょうね。「もの」は変わっても未来は変わりませんが、「こと」が変わることで未来が変わっていくのですから。

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2020/10/03

<映画「テネット」を観てー時間の順行と逆行の交錯のはざまでー>

映画「テネット」を観た。監督はクリストファー・ノーラン、日頃自分の視界には入ってこないアメリカの過激な戦闘アクション映画だが、若い縁者の問いかけに早速足を運んだ。映画館を出ると「あなた好みの映画ね」と家内の一言。(苦笑)
<映画「テネット」> 
 息の詰まる戦闘の連続に主題がどこにあるのか、帰宅後もしばらくわからなかった。何しろ字幕スーパーをまともに読んでいたら、ストーリーが分からなくなってしまうほどだから、英語力があってセリフがそのままわかれば、さぞ面白いだろうなぁと思った。
 最終兵器(アルゴリズム)、そのアルゴリズムとはエントロピー減少装置、それを手に入れた現在と未来の仲介人にして、ロシアの武器商人セイターは、末期がんに侵された己れの死とともに、このアルゴリズムを起動させることを企む。
 エントロピーが減少するということは時間が現在から過去に向かって逆行することだから、地球が、そして宇宙そのものが137億年かけて消滅することを意味している。己れの死とともにすべてを道連れにしようというセイターの強欲の表出だ。
 主人公「名もなき男」(ジョン・デイビッド・ワシントン)は、このアルゴリズムが起動する前、すなわちセイターが自殺する前にこの装置を奪取するというミッションを与えられて動き出す。
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 過去から現在へ流れる時間の流れ(A)と未来から現在へと逆行する時間の流れ(Z)が現在という戦闘の場で交錯する。エントロピー増大の流れ、Aと、エントロピー減少の流れ、Zと、が現在(同一画面上)の戦闘シーンで交錯するのだから観ている観客は混乱する。主人公「名もなき男」は与えられたミッションの全容を把握できていないままにこの任務を遂行する。「Don't-think-feel!」と。
 字幕スーパーに「エントロピー増大の流れが神の仕業か?エントロピー逆行の流れが悪魔の仕業か?」とセイターが語った言葉が印象に残る。といっても映像展開が早いので、定かではない、僕にはこのように読めたのだ。  
 過去と未来を往復するタイムマシンのトリックではR・ゼメキス監督の名作映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がある。過去のタイムマシンの映画では、過去に戻るにしろ、未来にワープするにしろ、それは刹那の一瞬、そこを現在として時間は未来へと進んでいく、時間と空間が分かれている、直線的時間観で描かれているのだ。しかし時間と空間は同じではないが別のものでもない、時空は分かつことのできない「時即空」なのだ。
 だから映画「テネット」では、未来から時間が逆戻りするときは、主人公は後ろ向きに後ずさりしている、車も後ろ向きに逆走するのだ。猛スピードで現在から未来へ前進するセイターの車、同じ車線を猛スピードで未来から現在へ逆走する主人公の車が過去のシーンを再現しつつ高速道路で交錯する場面。爆発する炎の中では熱が吸収されてしまう等など、時間の順行と逆行が目まぐるしく交錯する。
 生物学者福岡伸一さんは著書「動的平衡」のなかで「生物はエントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に『先回り』して自ら細胞を破壊し、しかるのち細胞を生成している」と、生物は動的平衡な存在だと著している。そのエントロピー増大の法則に抗い「先回り」する「いのちの活き」こそ、時間の正体だから、エントロピー増大に抗っていることが時間の順行であり、エントロピー減少が時間の逆行ということになるのだろう。
 「いのちの活き」がエントロピー増大の法則に抗えなくなったときが個としての「生きもの」の「死」。強欲なセイターは宇宙のすべてを独り占めにするために、己れの死とともにアルゴリズムを起動させ、宇宙のすべてを独り占めしたかったのだろうか?
 映画のなかでは美人で理知的な妻キャット(エリザベス・デビット)とセイターの愛憎の綾なす葛藤、主人公「名もなき男」のキャットに寄せる恋心も伏線になっている。
 セイターと妻キャットはラストまで愛憎という渇愛を抱いていたのではないだろうか。セイターは進行する己れの末期がんの最後のときを妻キャットと息子とともに迎えたかったのではないか?その渇愛の表現がアルゴリズムの起動ではなかったか?
 「ひと」の死には三つあるという。二人称の家族、日常の身近な親しい人々の死、日々テレビ報道で流れる新型コロナウィルスによる死者、三人称の死、そして一人称の己れの死だ。三人称の死は数として数えられる死、「ひと」にとって真の死は二人称の悲しみの「死」だけだ。
 一人称の死、己れの死は、意識の消えるその刹那のときだから、刹那のうちに、己れではなく、宇宙のすべて、宇宙そのものが消えてしまう。セイターが妻との愛憎の根源である、己れの渇愛に微かでも気づくことができたら、そして「一人称の『死』は存在しない」と信じることができたら、この映画「テネット」も存在していなかったのだろう。
 鈴木大拙は著書「神秘主義」にこう著している。「仏教哲学では、渇愛こそ事物を存在せしめる第一原理であると見做す。渇愛は自己表現、つまり自己主張のために形をもつことを希求する。つまり、渇愛が自己主張を始めると形をとるのである」と。
 「渇愛」こそエントロピー増大の法則に抗う「いのちの活き」そのものだといっているのだ。そしてだからこそ神も悪魔も己れの内に!、と僕は思う。

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2020/09/22

<マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる!「イデオロギー生起の前に考えること」>

書 名 「『資本論』の核心―純粋な資本主義を考えるー 」
著 者 佐藤優
出版社 角川新書
初 版 2016年9月10日
31v3drtxiul_sx310_bo1204203200_佐藤優著「『資本論』の核心」、白井聡著「武器としての『資本論』」に導かれて、宇野弘蔵経済学に出会った。学生時代を過ごした1960年代半ば、経済学は「『マル経』VS『近経』」と二元論で語られていた。当時何となく避けたまま通り抜けてしまった宇野弘蔵経済学、二元論で切り分ければ「マル経」に分類されるのだが、宇野弘蔵経済学は「マル経」とはいっても、宇野学派といわれ「資本論=社会主義革命」と短絡的に考えているわけではない。宇野弘蔵自身も、自分は社会主義者でもマルクス主義経済学者でもないと語っている。マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる、と。
 著書「社会科学としての経済学」にこう著している。人間社会を思考する社会科学は、まずイデオロギーの眼鏡を外して客観的に、経済学を通して経済社会の現状を分析する必要がある。しかる後、政治学、法律学などの社会科学の眼鏡をかける、ここにイデオロギーが関与してくるのであろう。さらに道徳、倫理、哲学、宗教といった人文科学が思考の枠組みとして必要になる、と。そして マルクスは「資本論」で資本主義の原理を解き明かしている、と。佐藤優が「純粋な資本主義を考える」とサブタイトルを付けた所以だ。
 資本論を初手から社会主義革命の聖書といった扱いをすると間違ってしまう。1917年11月マルクス・レーニン主義を掲げたロシア革命によって建国されたソヴィエト連邦共和国は1991年12月の崩壊によって社会主義革命の聖書としての「資本論」の役割も終わっている。
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 「資本論」はマルクスが18世紀半ばから19世紀半ばのイギリスにおける資本主義勃興期の経済社会を分析し資本主義の原理を抽出した。それが佐藤優著のサブタイトル「純粋な資本主義」のことでもある。資本主義の原理は二つ、一つは「資本は永遠の自己増殖を続ける」、二つ目は「労働力の商品化」である。労働者は労働力を資本(家)によって商品として買われ、資本(家)は、買い入れた労働力を生産過程に投入し、商品を生産する、というシンプルな原理だ。資本(家)は労働力を「使用価値」として買い、使用して商品を生産するということだ。労働者は労働力を商品として売った対価として貨幣を受け取り、その貨幣で資本(家)が生産した商品を買うことで生活(労働力の再生産)を行う。資本(家)はその生産過程(他者のために商品を作る)を通して剰余価値を獲得する。資本主義社会とは商品(他者にとっての使用価値)化社会ともいえる。
41izetepntl 資本(家)は生産した商品を売却し獲得した貨幣(剰余価値)から先んじて労働者に支払った貨幣を回収して差額を利潤として得るという仕組み、労働力を売買し商品を売買するという互いの自由な交換の仕組みの中に搾取の仕組み、格差拡大の仕組みが隠蔽されている。と、宇野弘蔵経済学はいう。資本主義はその後、絶対王制的資本主義→帝国主義的資本主義→自由主義的資本主義→金融経済的資本主義→”今ここ”の現在の新自由主義的資本主義へと進化(変化)してきたのだ、と。
 マルクスが「資本論」を著した時代の貨幣は金本位制だった。宇野弘蔵経済学の時代は金為替本位制として米ドルを通じてかろうじて金とつながっていた。「資本は永遠に自己増殖する」とはいいながら、いまだ金という「物」とのつながっていた時代が続いていたのだ。
 そして1971年8月ニクソン大統領は「米ドルと金の兌換一時停止」を宣言した。ことのき、労働力はもとより、それによって生産される商品の売買のすべてを媒介する貨幣が「物」としての「金」から解き放たれたこのとき、貨幣は媒体として最純となり、マルクスのいう資本主義の原理の第一原理「資本は永遠に自己増殖する」も最純となった。マルクスは資本を貨幣の運動体(流れていること・活いていること)と概念化したのだが、このとき、貨幣は媒体として最純となり、資本は貨幣の「いのちの活き」として眼に見えない「もの」として再定義されることになる。「いのちの活き」だからこそ「永遠の自己増殖」の存在となる。貨幣によって導かれる資本主義は18世紀半ばイギリスに勃興して以来最も純粋な資本主義として進化したといえるのではないか。ここにM・フリードマンの説く新自由主義的資本主義への進化(変化)を見る。
 マルクスは「資本論」に労働力は商品とはいえ商品の生産過程では再生産できない、資本(家)から労働力の使用価値の対価として受け取った貨幣で生活の糧を買い求め、家庭生活の中での消費を通して再生産される以外にないと著している。ここで見落とされているものが自然だ。人間も自然の一部、自然も商品生産過程では再生産できないのだ。貨幣の眼に見えない「いのちの活き」が資本、その「いのちの活き」としての資本が自ずから自己増殖を繰り返す新自由主義的資本主義下では、生産過程で再生産できない自然は、破壊の連鎖から逃れることはできない。いくらSDGsを掲げても「資本の永遠の自己増殖」を止めることはできない。それが「いのちの活き」の循環論法なのだから。
 コロナ禍の今ここの現在、日本では唐突に菅政権が誕生した。なんと支持率が60%を超えているという。安倍・黒田政権の支持率低下とつなぎ合わせて考えると政権の意図は、唐突ではないことがわかるのだが、しかし安倍・黒田政権の流れを継承すると早々に宣言しているのに支持率が急上昇するという経緯が今一つ理解できない己れが”今ここ”にいる。これはすでに己れがイデオロギーの眼鏡をかけていることの証しなのだろう。
 小泉・竹中政権→安倍・黒田政権と続く政治政策の流れを継承するということは、新自由主義的資本主義の仕上げの政権という宣言でもある。日本ではこの流れは一言でいえば中曽根政権の国鉄民営化に始まる構造改革路線、三十年続く中流の崩壊、格差拡大、貧困化の流れは、これからも止まることなく続いていくことになる。
Yoly8tull_sx354_bo1204203200_ 宇野弘蔵経済学の教えに従って、”今ここ”の現在の、日本列島の経済社会の状況をイデオロギーの眼鏡を外して、客観的に確かめ分析し、そのうえであらためて、社会科学としての政治、法律、さらには道徳、倫理、哲学、宗教といった人文科学の眼鏡をかけ直す、再思考を試みてはどうだろうか。
<追伸>
 アマゾンから今日届いた斎藤幸平著「人新世紀の『資本論』」の冒頭は、「SDGsは『大衆のアヘン』である」の書き出しで始まっている。意味深な、大胆な、挑戦的な書き出しだ。そしてまったくの同意、それはポリ袋の有料化以後店頭に立った折の己れの心の中をそっと覗いてみればわかることだ。読むのが楽しみだ。
 マルクスが「資本論」で明らかにした資本主義の原理、「資本の永遠の自己増殖」そして「労働力の商品化」は18世紀半ばイギリス社会に、そして人間社会にたまたま偶然に発生した自己循環論法の産物なのだから、きっとそれを変える「何か」も突然、たまたま偶然顕れても不思議ではない。宇宙の始まりである、この「いのちの活き」こそ、たまたまの偶然なのだから。いつになるかはわからない、明日かもしれない、その偶然に期待しよう。いつの時代も夜明け前が一番暗いのだから。 
 

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2020/07/22

<「のど元過ぎれば」どころか真っ只中で!>

「革新後進国(1)レトロ規制、成長阻むーコロナ後へ新戦略ー」
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO61473670T10C20A7MM8000/?fbclid=IwAR3CkeC-2P8vvC5fvqPWNszIBBn3wrWXU2QztxwhzdRLvDD--7_Nzy8xI10
 7月14日日本経済新聞の一面の記事です。コロナパンデミックで、少しは人々の考え方も変わるのではないか?。いたずらに経済成長を追うのではなく、足元を見なくては?。という声を聴く機会も多く、ポストコロナの日本社会も少しは変わるのではないかと、微かな期待をしているのですが、日本経済新聞の相変わらずの論調に背筋が寒くなります。
 記事中の「人手不足解消を阻む規制は依然残る」に掲げられている6つの項目の解説を読んでも、相変わらず「何のために」は隠されたままです。未だにそしてこれからも日本列島は、小泉・竹中政権以来の構造改革路線の地獄へ一直線の延長下にあり続けるように見えます。
 コロナパンデミックで国民の健康・安全・安心を守るべき基礎基盤である医療の体制、保健所の体制は崩壊寸前です。これも小泉・竹中政権が仕掛けた構造改革という名の政府予算削減の結果です。
 コロナパンデミックへの献身的対応で疲れ果てた医療分野に従事する方々には夏季賞与も出せない状態だというのに、一方で「アベノマスク問題」も、うやむやの内に今度は「GOTOキャンペーン」、まるで「税金GOTOキャンペーン」のように聞こえます。まずは崩壊寸前の医療分野・保健所体制への応急手当てが先ではないかと思うのですが。
 この記事のタイトルは岩盤規制という標語が古びたというのか、今度は「レトロ規制」と造語しています。そして「無人コンビニでお酒が買えない」と。コンビニで酒が買えないから、それがどうした、誰が困るのでしょうか。タクシーで持ち帰り弁当が配送できれば、飲食店従業員は生き残り、タクシー運転手は救われるとでも思っているのでしょうか。
 今飲食店が一所懸命取り組んでいるテイクアウトが飲食店の延命策のように語られていますが、客単価から類推してゼロ円で宅配しても成り立つ収益構造になるはずはないのです。
 タクシーの運転手の人件費、車の燃料費を限りなくゼロにするという無策が「革新・・・・」という言葉、「新戦略」の言葉の中身です。日本の一流の”経済”新聞の一面を飾る言葉に透けて見える、この国の経済リテラシーの低劣さに驚くとともに、ポストコロナの日本社会の暗闇は想像するに余りあります。ただひたすらに哀しい。

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2020/07/14

<資本論(虚)と貨幣論(実)>

書 名「武器としての資本論」
著 者 白井聡
出版社 東洋経済新報社
初 版 2020年4月23日
202007111.新自由主義は上(資本)からの階級闘争
 カバーは真っ赤、カバーを剥がすと表紙は真っ黒、そして著者の苗字が「白」キャッチコピーには「なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか」とあります。「勝ち組になれない」「成功できない」ではなく「救われない」の一語の塩加減が効いています。
「資本論の解説書、入門書ではなく、新型コロナパンデミックが人間社会の大きな転機になるかもしれない“今ここ”の現在を矯めつ眇めつ眺める視点として価値ある一書です。そして「救われるかもしれない」一書としても。著者は「裏にあるテーマは新自由主義の打倒だ」と著しています。
 マルクス、資本論、という言葉には若い頃の己れの青々とした懐かしい響きがあります。そして1989年11月のベルリンの壁崩壊に続くソ連の崩壊が社会主義国家の失敗と同時にマルクス経済学の失敗として歴史に刻印されることで、世間から労働者という下からの視点を跡形もなく消去してしまいました。
 著者はいいます。「新自由主義は資本の側からの階級闘争だった」と。そうだったんだ、国鉄民営化、電電公社民営化、郵政民営化と。労働者が自らの立ち位置を忘れ中流幻想に浸っているとき、そしてその余韻から醒めないまま、眠い目をこすりながら、二度寝三度寝を繰り返していた30年、雨戸を明けたらすっかり我が家は床下まで資本という眼に見えない水に浸かってしまっていたのです。
2.「資本」とは「いのちの活き」のこと
 真っ赤なカバーの書「武器としての資本論」を著者のお勧めに随って、「主義」とかマルクスといった人格を捨象して、経済学の一書として「資本とは何か」という視点から読んでみました。
 「資本とは何か?」と問われれば、長年の会計屋の僕は複式簿記の借方、貸方から始まります。資本は眼に見えないものを顕わす貸方語、その対となる眼に見えるものを顕わす借方語は貨幣(通貨・おカネ)です。
 マルクスは資本の目的はひたすらの自己増殖だといいます。資本論の第一ページの「資本の一般定式」、「G(貨幣)-W(商品)-G+△G(増殖した貨幣)」です。貨幣も商品も眼に見える借方語、「資本の一般定式」といいながら、用語はすべて眼に見える借方語、眼に見えない貸方語では語れないのです。あらためて複式簿記の複眼の視点の凄さを実感します。
 そういえば今我が家の小さな庭を飛んでいる蝶々も庭のゆずの木を生きる場として「卵Ⅰ→芋虫→蛹→蝶→卵Ⅱ」と蛻変しています。眼に見える生きもの変化です。そして「卵Ⅰ<卵Ⅱ」の不等式が成立し、自己増殖していないと蝶の命は過去から未来へと繋がっていかないのです。
 蝶の命は卵Ⅰにも芋虫にも、蛹にも、そして親の蝶にも卵Ⅱにも、眼にはみえないまま、非連続の連続として流れているのです。蝶の命は、名詞の「命」ではなく、動詞の「こと」、「流れていること」、「いのちが活いていること」なのです。
 「資本の一般定式」である「貨幣Ⅰ→商品→貨幣Ⅱ」の蛻変も眼に見えない貨幣の「いのちの活き」が非連続の連続として流れています。資本はその「いのちの活き」につけられた名であり概念です。貨幣も「実即虚・虚即実」の生きもの、30億年前に地球に初めてウィルスが偶然(縁)顕われた「こと」と同じです。偶然、人間社会の「いのちの活き」の流れの中に顕われたのです。


3.新自由主義は貨幣の解放
 ミルトン・フリードマンの新自由主義経済学は、レッセ・フェールとりわけ、貨幣の「いのちの活き」としての「資本」のレッセ・フェールだったのではないでしょうか。それが1971年815日、ニクソン大統領の経済政策として「米ドルと金の兌換一時停止」「変動為替制度」として実体化したのです。そしてこのときが、米ドルを金の頸木から解き放つことで、人類史上初めて貨幣(通貨・お金)が物質から完全に解き放たれ、自己増殖のまったき自由を得た瞬間でした。
 それに先立つキッシンジャーの電撃的中国訪問も一連の政治政策として分かちがたく繋がっていたことが見えてきます。ニクソン、レーガン、サッチャー、鄧小平、日本では中曽根、小泉(竹中)、安倍(黒田)と続く政治家の人格として顕現し、構造改革、物的資産の金融商品化という政治政策として顕現してきた流れです。
Photo_202007141542014.ポストコロナ社会は「ウィズマネーの時代」
 貨幣も「生きもの」、「いのちの活きの流れ」と思えるとなにやら、今人間世界に地獄を顕現している新型コロナウィルスに似ています。
 生物学者今西錦司さんが著書「生物の世界」で「生きものを空間的に構造的、時間的に機能的(継起的)な存在」と定義して、生物も宇宙創成の145億年前、そして物質の誕生とその流れのなかに存在するものだと記しています。そして同じ生物学者の福岡伸一さんは細胞学的実験を通して「生物とは動的平衡にある流れ」と定義をしています。
 今西錦司さんの定義を借りれば、貨幣も「空間的(構造的)に資産であり、時間的(継起的)に資本である」と定義できるように思います。そして「いのちの活き」としての資本は宇宙(森羅万象、大自然)続くいのちの流れの中の存在ですから大自然からの負債でもあります。福岡伸一さんの定義を借りれば、「自らの破壊と創造によって継起的に変化していくもの」と定義できるのではないでしょうか。
 「ウイズ・コロナ」を旗印に人類はワクチンの開発、治療薬の開発を急いでいますが、「ポスト・コロナ社会」は「ウィズコロナの時代」ではなく、「ウィズ・マネーの時代」です。貨幣という「生きもの」との共生の道を見いださないかぎり繰り返す新型ウィルスパンデミックからも、自然破壊からも逃れることはできません。共生のためのワクチンは、そして満身創痍の大自然、人間社会の大傷を癒す治療薬はみつかるのでしょうか。
5.「ウィズマネーの時代」のワクチンそして治療薬
 経済学者にして哲学の人、岩井克人さんは著書「欲望の貨幣論」の最後にご自身が見つけ出したワクチンを示しています。それはエマヌエル・カントが提唱した倫理としての定言命法です。倫理としての定言命法が人間社会の真理となることだというのです。岩井克人さんは貨幣の唯一の定義は「貨幣は貨幣であることによって貨幣である」といいます。「信じるから、存在する、存在するから信じる」という「神の存在」と同じ循環論法に依拠している存在だといいます。
 ですからカントの定言命法が人間社会の真理として信じられるようになれば、いかなる物質からも解き放たれ、浮遊霊になった貨幣の「いのちの活き」を人間社会を守る守護霊として繋ぎ止め制御できるといっているのではないでしょうか。
 定言命法は「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段として扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段として扱ってはならない」というものです。
 「己れ自身もお金のみを目的として働いてはならない。」そして「お金(利益)目的のための手段として他者を働かせてはならない。」なぜなら、「お金は目的のための手段に過ぎない」のだからと、いっているのではないでしょうか。
 岩井克人さんの経済学の凄みは「貨幣は人間の尊厳を守るためのものでもある」という視点、貨幣が人間の「いのちの活き」の顕われとしての欲望を永遠の未来に向かって解放する「もの」でもあり、またその対極の人間の尊厳を守る「もの」でもある、という両睨みの透徹した眼差しにあると思います。これは大乗仏教の「即非の論理」、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と通底する眼差しです。
 「ウィズ・マネー」のためのワクチンはすでに18世紀半ばにカントによって発見されていたのですが、これを倫理ではなく、人間社会の真理とすることはとても難しい。基本的人権も道半ばですから。そして治療薬もすでにあるのです。
 フランスのマクロン政権が20207月10日デジタル課税を法制化しました。すかさずトランプ大統領が報復関税を宣言しています。デジタル課税は実体経済の場でのGAFAM(ガーフアム)による「貨幣のいのちの活き」の欲望の暴虐を鎮める妙薬なのですが、フランスを先頭にドイツ、他EU諸国が守り切り、中国が治療薬に採用するか否か。残念ながら日本には主権がありませんから。
 さらに同じ実体経済の場には法人税引き上げ、所得税累進税率の引き上げといった治療薬もあります。さらに虚体経済(金融経済)の場にもトービン税等々金融取引に税を課して、実体経済の場へ貨幣の流れを再循環させることができれば、浮遊霊化した貨幣の「いのちの活き」を鎮め、消費税のような弱者に厳しい徴税を減らし、医療福祉、教育といった人間社会の健康を取り戻し、格差社会の進行を止めることもできるのではないかと思うのですが。
 貨幣も生きもの、資本は貨幣の「いのちの活き」であると理解できれば、日々の貨幣のいのちの活きも、人間の体内を循環している水のいのちの活き、日々の食事の糧となる動植物のいのちの活き、O2、CO2の命の活きといったあらゆる森羅万象の「いのちの活きと共に、多様な循環と共生の世界に生きていることも納得的に分かるのではないかと思うのです。
 一度左手(借方)に岩井克人著「欲望の貨幣論」を、右手(貸方)には白井聡著「武器としての資本論」を手にしてみてはいかがでしょうか。今眼下に起きている集中豪雨の惨禍も、人間の欲望によって衝き、突き動かされた貨幣のいのちの活きの顕われかもしれないのですから。
書 名「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
初 版 2020年3月5日

<岩井克人「欲望の貨幣論」を語る>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/03/post-fd8a83.html
<追伸>
 
仏教学者の鈴木大拙さんは著書「神秘主義-キリスト教と仏教―」にはこう著しています。「仏教哲学では渇愛こそ事物を存在せしめる第一原理であると見做す。渇愛は自己表現、つまり自己主張のために形をもつことを希求する。つまり、渇愛が自己主張を始めると形をとるのである。渇愛というものは尽きることはないので、それがとる形も限りない多様性をもつ。渇愛が物を見たいと欲すると、眼が生ずる。音を聞きたいと欲すれば耳ができる。飛び跳ねたいと思うと、鹿・兎ならびにこの種の他の動物を生み出す。・・・・渇愛こそ宇宙の創造主なのである。」
51aamtrjlml_sx352_bo1204203200_ ここで「渇愛」と名づけられているものが「いのちの活き」のことです。西欧の一神教の世界では「造物主」と名づけられています。仏教の世界では「仏性」とか「空」といったりしています。縄文時代には「森羅万象に神が宿る」といっていたのですから、森羅万象はすべて「いのちの活き」の顕現といっているのでしょう。
 鈴木大拙さんは敗戦後間もなくの頃、十年余りアメリカの大学に招かれで英語で講義をしています。その講義録を中心に日本語に翻訳したものが、本書です。
 アメリカ人に英語で仏教哲学を講義したものなのでむしろ日本人にも、とても理解しやすい文体になっています。仏教ではともすれば「欲を捨てよ」「無になれ」と否定的に使われる生命の根源のエネルギーを「渇愛」と言い放つ、鈴木大拙さんの仏教哲学がポストコロナ社会に相応しいと僕は思っているのです。

 


 

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2020/06/15

<経済の「実」と「虚」(2)-オオカミは来るか、来ないか->

経済教室「物価高騰で収束シナリオも 危機時の財政金融政策」斎藤誠名古屋大教授

2020年6月12日日本経済新聞の経済教室に掲載された斎藤誠名古屋大学教授の論文です。論文の最後にこう著されています。
  「『ハイパーインフレが来る!』は羊飼いの少年の嘘かもしれない。だが『ハイパーインフレは来ないけれども.....……』という村の老人のためらいには耳を傾け、羊たちを守る必要がある。」と。
 「・・・・」の部分がタイトルの「物価高騰で収束」であり、50%程度の物価調整を覚悟しておくという老婆心です。
 50%の物価調整は1971年8月の「ニクソン宣言-米ドル金兌換一時停止」によって始まった物価高騰と同じです。会社は30%、30%、20%と三年間で賃金を2倍に調整してくれました。通貨円からみればちょうど物価調整50%です。賃金が上がったのではなく、通貨円の価値が半分になったのです。
 童話は子供のために書かれていますが、大人のためのたとえ話でもあります。イソップ童話「オオカミ少年」は、嘘から出たまこと(実)、来ないはずのオオカミが来て、大切な羊が襲われてしまう結末です。
 「虚」に口がつくと「嘘」になります。少年は嘘をついていたわけではなくオオカミというブラックスワンの出現を警告していたのかもしれません。村人は少年の「虚」に己れに都合よく口篇をつけて「嘘」だと思ったのかもしれません。そしてオオカミに喰われた羊は、村人たちのことを喩えているのかもしれません。
 MMT(現代貨幣理論)が巷間に流布されて多くの方々が「自国民が自国通貨を受け取る限り、国は自国通貨を発行し続けることができる」、「インフレはコントロール可能だ」というようになりました。
 コロナパンデミックの実体経済の損傷を修復するために、世界中の中央銀行が大量の通貨を増発し始めています。日本の財政赤字はコロナ以前、既にGDPの2.2倍、ポストコロナにはどこまで増えるのでしょうか。斎藤誠教授の警告に耳を傾けて、そのための備えを心掛けておくのも一考かもしれません。
 ブラックスワンの著者N・N・タレブは著書「身銭を切れ」の中でブラックスワンを考慮の内におくことを「身銭を切る」「リスクを取る」と表現しています。
 そして、「合理性とは、言葉ではっきりと説明できる要因によって決まるのではない。生存に役立つもの、破滅を防ぐものだけが、合理的なのだ。」、「起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものすべて、理由があって生き残る」と著しています。なぜなら「『生き残ること』がすべてに優先する」のですから。
 人間は論理的であること、己れに都合の良いことを合理的だと勘違いしがちです。「インフレはコントロールできる」は論理的なのか、タレブのいう合理的なことなのか、さてさて。
 考えておきたいもう一つの視点があります。借金(負債・借入金)の本質とは何か?ということです。借金は他者の未来の「いのちの活き」を借りて、己れの現在の「いのちの活き」として用いるものです。個人ならそれは己れの明日の「いのちの活き」で贖うことになります。用いたときすでに、身銭を切っているのです。不況期に中小企業の経営者の自殺が増えるといわれるのも、また然りです。
 国家の赤字国債は未来(次代)の国民の「いのちの活き」を現在の国民の「いのちの活き」のために用いることになります。それは主権在民の民主主義国家では、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うことになります。
 財政赤字を出す現在の為政者は、それを個人のように己れのいのちの活きで贖うことはできません。ですから、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うものであるという視点で慎重であらねばならないと思うのです。タレブのいう「身銭を切って」いないのですから。
  ここでは、明日(次代)は「虚」(みえないもの)、現在は「実」(みえるもの)ということになります。現在と明日を切断して思考する二元論的価値観ではなく、「虚と実」の即非の論理という価値観で明日(虚)の視点から現在(実)をみることが重要ではないかと思うのです。「身銭を切る」とは「虚」から「実」を見る視点をもって生きることでもあるのではないでしょうか。斎藤誠教授の視点から”今ここ”をみることも。
書 名「身銭を切れ」
著 者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/01/post-f08095.html

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«<経済の実と虚-1971年8月米ドル金兌換一時停止以前と以後ー>