2020/01/02

書名「身銭を切れ」

書名「身銭を切れ」
著者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社

Photo_20200102113201 原題は「SKIN IN THE GAME」そして日本語の書名は「身銭を切れ」とても語感がいい。そして帯には「『リスクを生きる』人だけが知っている人生の本質」とあります。著者は「ブラックスワン」のタレブです。これだけでもうレジへ直行です。
「犬も歩けば棒に当たる」、これだから都心の大型書店で店頭を当てもなく歩くのは面白い、アマゾンの店頭では味わえない醍醐味です。
 原題を拙い己れの英語力で直訳すると「ゲーム(人生)に肌を晒す」でしょうか。雪山を歩いているとき露出した頬を刺す風、凍える指先の感覚でしょうか。確かにこのときは「生きている!」と実感する刹那です。さてそれを「身銭を切れ」と訳すとは。
 経営用語としても「リスクテイキング」という言葉が気軽に企業人の口から放たれるのを耳にします。「リスクを取る」というときの「リスク」とは何なのでしょうか。一方で「責任を取る」ともいいます。しかし「取る」というのは現在の行為、現在の行為の結果は未来が来ないとわかりません。未来の結果を”今ここ”で取るというのはどういうこのなのでしょうか。この現在と未来の間に不確実性という想像を超える非対称があります。この想像を超える非対称な未来へ向かって”今ここ”生きる心構えを「身銭を切れ」というのでしょうか。
 童話「星の王子様」にもこの「身銭を切れ」の寓意があります。王子様が自分の星を離れ「何か?」を求めて地球にやってきて、砂漠で狐に出遭うシーンです。王子様が「友達を探している」というと狐は「それなら僕を懐かせればいいんだ」といいます。懐かせるとは、絆を結ぶこと、自分にとって世界にたった一匹のかけがえのない狐にすることだというのです。それなら自分の星に残してきた我がままで高慢ちきな一輪の赤いバラの花は既に友達だったのだと気づきます。
 たまたま飛来した種子に水をやり風を防ぎ大切に育てて、やっと咲いた一輪の赤いバラ。王子様は己れが「身銭を切って」いたことを狐に出逢って気づくのです。
 童話「100万回生きたねこ」にもタレブのいう「身銭を切る」生き方が描かれています。その書き出しには「100万年も死なないねこがいました。100万回も死んで、100万回も生きたのです。りっぱなとらねこでした。100万人の人が、そのねこをかわいがり、100万人の人が、そのねこが死んだとき泣きました。ねこは、一回も泣きませんでした。」とあります。
 輪廻転生を100万回繰り返しても一回も悲しいと思ったことがないのです。悲しいと思ったことがないということは、100万回愛されても一回もうれしいとも幸せだとも思ったことがなかったのでしょう。
 100万と1回目に生まれ変わったとき、愛してくれる人はいませんでした。しばらくして、自分が愛する白ねこを見つけ、とらねこはその「白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。」でも今度はその白いねこが先に死んでしまいます。とらねこは100万回も泣いて悲しんでそして死ぬのですが、二度と転生することはなかった、という結末です。
 「愛されるねこから愛するねこ」へ、「身銭を切らない生き方」から主体的に「自ずから愛する生き方」へ、という「身銭を切る生き方」への転換が「不確実で予測不可能な世界で私たちがとるべき『生き方』」ではないか、と著者タレブは読者に問いかけています。
 本文中には「特定の種類の爆発的リスクを隠して安定した儲けをあげ、教科書のなかでしか成り立たない学術的なリスク・モデルを使い(学者はリスクについて無知も同然なので)、いざ銀行が吹っ飛ぶと急に不確実性(目に見えない予測不能なブラック・スワンと、例のものすごく頑固な作家)の話を持ち出してきて、過去の収入はちゃっかりそのまま懐に収める。これこそが私のいうローバート・ルービン取引だ。」(本文P35)ロバート・ルービンとはご存知のゴールドマン・サックスの元会長にして、第70代(1995年~1999年)USA財務長官のことです。
 さらに「身銭を切っていない人間の代表格ともいえる人物・・・・その名も元連邦準備制度理事会議長のベン・バーナンキだ。」(本文P45)。そして第5部には「生きるとはある種のリスクを冒すこと」ともあります。
 「身銭を切れ」、安倍・黒田マジックの賞味期限切れが囁かれ、新しい時代への対応が喫緊の課題になっている日本企業、日本人には令和初の新春に好適なキーワードかもしれません。

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2019/11/22

元祖MMT実践者-山田方谷の事績を尋ねて

<温故知新の匂いをと、備中路に山田方谷の事績を尋ねる>20191027dsc08383
  2019年10月26日松江の企業研修を終え、翌日同行の縁者の車で、古代より人々や文物が出雲と吉備を往還していたであろう山道を走った。今回の備中路を辿る目的は陽明学の泰斗にしてその実践者山田方谷の事績を尋ねることであった。15年前も同じ縁者と山陽道から分け入ったところだ。
 山田方谷は今風にいえば元祖MMT(現代貨幣理論)の実践者といえる。幕末の最後の老中板倉勝静に仕える家老として松山藩の藩政改革(財政改革ではなく)をたった8年で成し遂げた政治家だ。江戸期の藩政改革は米沢藩主上杉鷹山の名が知られているが、鷹山は質素倹約財政改革に100年を要しているが、山田方谷は財政のみならず軍政,民政の改革まで藩政のすべてを改革した真の政治家だ。その顛末は矢吹邦彦著①「炎の陽明学」②「ケインズに先駆けた日本人」に詳しい。74674479_2471012839611985_33939411007029
 山田方谷は藩財政の悪化で信用を失っていた藩札(不換紙幣・浮遊霊)を新しい藩札と交換し、ハイパーインフレで帳消しにしたり、預金封鎖で召し上げることなく、8年で10万両(時価数百億円)の藩の負債を10万両の資産に化かしてしまった。  
 新しい藩札といえども不換紙幣には違いなく、不換紙幣が使われる根拠は発行者に対する信頼であり信用である。その根源は山田方谷に対する藩民、商人からの信頼であり信用だ。上杉鷹山の改革など霞んでしまう。
 山田方谷は陽明学の泰斗だが、陽明学徒がとかく分別したがる朱子学をも重視していた。王陽明の知行合一も論理の学朱子学で基礎を作っておかなければ極めて暴力的な危険な行動に走ってしまうと考えていた。「陽明学の強烈な魅力にひそむ、危険な毒の魔力を、鋭く感じ取ったからである」と著者矢吹邦彦は著している。
 吉田松陰門下の優秀な人材の多くが松陰の残した留魂録の毒にあたり非業の死を遂げ、松陰の残した幽囚録の毒は昭和の日中戦争に続く対米戦の廃墟として現出することを暗示していたのかもしれない。74453049_2471013099611959_32700131007319
 英邁なる陽明学徒と知られた河井継之助は、山田方谷を訪ね、学び、ただ一人方谷を師と仰いだ。しかし藩政改革には成功したものの刹那のズレが藩を賊軍として北越戦争へ導き廃墟にし会津へ向かう道すがら命を落としている。これも陽明学の毒の魔力の性であろうか。
 MMT(現代貨幣理論)はすでに安倍・黒田マジックとして実験されつつあるともいわれている。EUやアメリカでも可能性を探っているが山田方谷が実践したのはまず、藩民の生活の安定、仕事づくり、本来あるべき殖産興業である、トリクルダウンの政策とは真逆、MMT(現代貨幣理論)の毒を制して良薬となすなら、山田方谷の事績の本質を体得することが必須ではないかと、松山城に登城し天守から城下を見下ろしながら思った。20191027dsc08382
<河井継之助と山田方谷>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2004/11/post_6.html
<備中松山城>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2005/03/post_4.html
 ブログを書き始めた15年まえにも山陽道から一度山田方谷を尋ねたことがあった。越後の英傑河井継之助の最後の決断とその結果もたらされた長岡藩の惨状と本人継之助の非業の死、それが陽明学の必然の帰結なのか。山田方谷の業績を知り長年の疑問が解けたからであった。

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2019/11/21

書名「負債の網」エレン・H・ブラウン著を読む

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書名「負債の網」
著者 エレン・H・ブラウン
出版社 那須里山舎
 MMTのTは「Theory」のT、当然ながら極めて論理的に語られています。だから大部のわりにとても分かり易い、分かりやすいがゆえに著者が書き込めていない「こと」、読者が読み落としてしまう「もの」もあるのかもしれません。
 昨春公開された映画「KUUKAI」の原作者夢枕獏さんは空海に口寄せしてこう語っています。「この世で最も大きいものそれは言葉、最も小さいものそれも言葉だ」そして「言葉は器だ」と。この世のすべては言葉の器に盛ることができると。人間の生きる現世とは言葉の世界だといっているのでしょう。だからこそ言葉の器に盛れない五官で捉えることができない「何か」があるといっているのだと思います。今日企業でも多様性とかダイバーシティとか声高に語っていますが、器そのものは空っぽの虚の空間、さて多様性、ダイバーシティという器に何を盛るのでしょうか、経営者の価値観がそして経営哲学が問われています。 
 この「現代貨幣論入門」の中ほどに「『悪』に課税せよ、『善』ではなく」とあります。読者が見落としてしまいがちな大事なフレーズです。所得税の累進税率を上げるのは所得再分配の原資を得るためではなく、企業の経営幹部の悪行を減らすことだとあります。いくら稼いでも徴税されてしまうなら、程よく止めておこうと考えるかもしれない。竹中平蔵さんが声高に叫んだトリクルダウンが起きないことは始めから分かっていたことなのですから。
 平家の怨霊に取り憑かれないように耳なし芳一の身体に書いたお経のようなものなのでしょう。通貨は債務証明書と視点を移動したようにです。
 政府が雇用創出のために財政支出せよ、といったテーマにも多くのページを割いています。けっして福祉政策とか社会主義というステレオタイプの視点ではないのです。
 この「現代貨幣論入門」の器から漏れているのではなかと思われることを掬い上げている器と思われる書物が今年3月に出版された「負債の網」(エレン・H・ブラウン著)です。
 MMT理論の理解に深みをもたらし、今日の世界情勢を通貨の視点から見直す好著です。現代の不換通貨を成り立たせている、眼に見えない貸方は「何か」、その「何か」を浮遊霊にするか「いのちの活き」にするかも己れの価値観次第なのかもしれませんね。通貨も言葉から派生した器の一つですから。

 

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書名「MMT-現代貨幣理論入門ー」を読む

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書名「MMT-現代貨幣理論入門」
著者 L・ランダル・レイ
出版社 東洋経済新報社
 話題の書を読みました。現代のドル、ユーロ、元、円といった通貨はご存知の通り不換紙幣といわれいます「もの」としての価値はまったくありません。近年コンピュータ内の記号になっりつつあって、紙や金属でもなくなりつつあります。
 僕は密かに浮遊霊と名付けてきました。耳なし芳一に取り憑いた平家の落ち武者の怨霊のように、「もの」とか「人」とか「何か」に取り憑いていないと安定しないからです。紙や金属や記号が取り憑くはずはないので、それを成り立たせている「何か」眼に見えないものが取り憑くのだと思っているのです。その何かを僕は浮遊霊と名付けてみたのです。1971年8月15日のニクソンショック以後の通貨ですね。なぜ8月15日だったのでしょうか、謎ですね、今もって僕には。
 浮遊霊はしばらく取り憑いて取り憑かれたものが有頂天になると、あっという間に離れていきます。今年になって金価格が1980年以来の高値を付けたとにぎわっています。金一㌘は古代から一㌘なのにおかしいですね。
1971年8月は一㌘  405円( 1.13米ドル)
2019年8月は一㌘5,000円(48.23米ドル)
 金の本質は同じ一㌘なのに48年前と今とでは、円では12倍、米ドルでは43倍になっています。円高、米ドル高ではなく計る物差しが動いている証しです。今でも日本は輸出立国(貿易立国ではなく)と思っておられる方が多いのですが、さてこの金という視点からみれば、48年間の日本の貿易黒字(米ドルと交換した労働力や資源)の累積は米ドル(紙切れ)と交換することで、単純にいうと3分の一に目減りしたともいえるのです。浮遊霊といわずして何というか。金がいいというわけではなく、視点をどこに置くかで見え方が変わってくるといいたいのです。
 このMMT理論では一国の視点でみれば「輸入は便益であり、輸出は費用である」とあります。紙切れで他国の「もの(労働力・資源)」を買うのですから視点を変えれば、どちらが得しているのかはあきらかです。
 又MMT理論では「自国で通貨を発行している主権国で変動相場制を採用している国なら自国通貨をいくらでも発行できる」ともいっています。プライマリーバランスと言い募っての消費税2%増税の大騒ぎが馬鹿に思えてきます。
 現代の通貨は政府の債務証明書にすぎないともいいます。そうなんです。個人が現預金を資産と思って持っていると複式簿記では、個人の貸借対照表(以下B/S)の借方(左)に記載されています。同時に同額が発行した政府のB/Sには貸方(右)に記載されているはずです。
 だって左と右が必ず一致する複式簿記の恒等式が当てはまるのですから。個人が現預金で納税すると個人のB/Sの借方(左)が減り、政府のB/Sの貸方(右)が減るのです。政府は徴税したお金を事後的に政府支出として使うのではなく、あらかじめ債務証明書としての通貨を発行しておいて、後から徴税して債務を消すのだとMMTはいいます。
 ですから幾ら通貨を発行してもハイパーインフレにはならないと。そしてその債務に本来金利を払う必要もないと。国民は現預金を資産と思って大事にしていても、国家の負債を後生大事に抱えているだけだ、ともいえます。黒田マジックのインフレターゲットも、国家の負債を減らすための旗印、ゼロ金利は国民の預貯金に利子をつけないための旗印なのかもしれません。これでは国民の1、000兆円余りの預貯金は踏んだり蹴ったりです。
 「世界は一家、人類はみな兄弟」と高らかに語ったのは故笹川良一氏でしたが複式簿記的にも必ず誰かの借方(左手)は誰かの貸方(右手)と繋がっています。人類70億人がそして国家はもちろん、企業の、家庭のB/Sも全部右手と左手で手を繋ぎ、その網の上を現代通貨(不換紙幣)が流れているのだと思います。流れているものは紙や金属といった形のあるものではなく、眼に見えない浮遊霊でもあり、「いのちの活き」でもあります。
 複式簿記の借方(左)貸方(右)のイメージを膨らませて読むとこの500ページの大著もとても読みやすくなります。不換紙幣である現預金を借方(左)からみるか貸方(右)からみるかの視点(始点)の移動ができるか、そして借方貸方という西欧的二元論から、東洋的循環論へと視点を移せるか否かではないかと思います。
 読了して引っかかる点が二つ残りました。一つは、政府の貸方と繋がっているさらに奥(始原)の眼に見えない借方(左)は、誰の借方(左)か?、大自然か?、神なのか?。MMT理論では国民の納税義務だ、といっています。ですが、義務は「空」で貸方(右)のはずですから、政府の貸方(右)とは直接つながることはできません。徴税権として繋がっているはずです。通貨発行は徴税権の先行行使なんです。とするとその権利行使(借方)のその奥に控えている貸方(右)は「何か?」、民主主義国家の原理では徴税権を与えているのは国民、さすれば、奥の貸方は国民全体の生活に対する国家が負っている義務ということになるのではないでしょうか。封建国家では国王、専制国家では皇帝の貸方(右)に絶対権力が神のようにあったのでしょう。
 もう一つの疑問は、MMT理論では前提条件を三つ挙げています。
①主権国家で自国の通貨を発行している
②変動相場制を実施している
③政府と中央銀行が一体である。それは政府のB/Sと中央銀行のB/Sを100%連結できること。 
 EU加盟国でユーロを使用している国では、欧州中央銀行(ECB)が加盟国から独立して主権の及ばない上位にあるので、MMTは当てはまらないことになります。今の中国は為替管理をしているとすれば②のところで当てはまるのか否か疑問符が付きます。日本の政府と日銀の関係はどうか?アメリカの中央銀行である連邦準備制度(FRS)とアメリカ政府の関係はどうか?MMT理論では問題にしていませんが、気がかりなところです。
 いずれにしろ国家を統べるリーダー達が視点を変えることができるかどうかにかかってますし、いかなる経済理論も運用を間違えれば、今日のような格差拡大を惹き起こしたり、バブルを起こしたり、紛争戦争といった憎しみの連鎖、果てはハイパーインフレーションといった災危から逃れることが出来ないことには変わりありません。すべては色即是空なのですから。

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2019/06/21

女心も絶対矛盾的自己同一?

<図1.女心の詩>

201906222019年5月6日GW最終日北ア燕岳に登るべく、JR大糸線穂高駅に降り立った。今日は登山口の中房温泉に宿泊するだけだから、バスを待つ間時間はたっぷりある。駅前の風変りなお店「スプーンカフェ」のドアを押した。この駅頭に立つたびに、変わったお店と首を傾げたが、ドアを押すまでにはいたらなかった。店内は想像を超える驚きのPOPだらけだった。その一つを紹介しよう。
1.絶対矛盾的自己同一そして即非の論理
 図.1は女心を詩っている。男にとって右から読むと天国、左から読むと地獄ともとれる詩だ。コーヒーを飲みながら、これが西田哲学の絶対矛盾的自己同一のことではないかと思った。難解といわれ、論理的に解説することの難しいこの言葉もこの詩を鏡にして映してみると少しは近づけるかもしれないと思った。注釈を加えて「図.2女心も絶対矛盾的自己同一?」と描いてみた。
 絶対矛盾的自己同一は、ヘーゲルのいう「正・反・合」の世界、アウフヘーベンする相対弁証法の世界のことではない、「正・反」のまま、矛盾的自己同一のまま動き行く世界のことだ。
 大乗仏教を欧米に広めた鈴木大拙は、晩年大乗仏教の究極の理として「即非の論理」を造語した。鈴木大拙と西田幾多郎の二人は、若い頃からの生涯の友、その二人が共に、かたや大乗仏教の境地から「即非の論理」、かたや日本的哲学の境地から絶対矛盾的自己同一と造語した。若い世代はともかく、プレもポストもひっくるめて我々団塊の世代の日本人なら誰でも耳に覚えのある般若心経「色即空・空即色」の世界でもある。

<図2.女心も絶対矛盾的自己同一?>

20190621_20190622145901 この詩をまずは右から詠み、次いで左から詠んでみる。さて右か左か「建前と本音」「本音と建前」男はどちらを信じたらいいのだろう。出会った頃は右から、何時のころから左からと変化するのか。そうではない。単純に二元論で分けることのできない、人間の心だ。この様相を鈴木大拙は「即非の論地」という。「A=非A」、AはAのまま、そのままでAではない」と、いう。「一つではないが二つでもない」とも。
2.「と」と「即」 
 日常は当然のことで気にも留めていない「時間と空間」も「時即空」の絶対矛盾的自己同一、気軽に使っている言葉“今ここ”という言葉も現在の居場所として使ってはいるが、現在という時は実在しない。現在(今)とは、過去と未来とを、空間の一点(ここ)で分断する刹那のことなのだ。西田哲学では非連続の連続、過去即未来といっている。現在とは過去と未来が非連続の連続として、過去を包みながら、未来をも包んでいる絶対矛盾的自己同一である、といっている。そして死は過去、生は未来、だから現在とは「死即生」「生即死」死と生のあいだ、生死一如の場のことだ。
 「地獄と極楽」も、「娑婆と浄土」、「此岸と彼岸」も、“今ここ”の現在の絶対矛盾的自己同一であり、二つにして一つ、一つにして二つのこと、言葉で分断して直線的に並べたものではない。
 ヴェルディの歌劇「リゴレット」では「風の中の羽のようにいつも変わる女心・・・・・」と歌っている。これは女心を二元論で分断した一面を歌っているに過ぎない。「幸せになりたいの」だけが女心の真実なのであろう。同じ「女心の唄」でも日本の古い演歌には「貴方だけはと信じつつ恋に溺れてしまったの心変わりが切なくて・・・・・」と女心を歌っている。女心も男心も右と左の間を彷徨っているのだろうか。
 さて後期高齢者の我々世代には、「一緒の墓には入りたくない」「こんな亭主とは今生限り」と宣言する奥様もおられると聞いたことがある。まあ仕事と遊びで家庭を顧みなかった我々世代の男どもは、生死の「あいだ」だけでも添い遂げてくれるというのだから、それはそれで十分感謝しなくてはならないのだろう。
 僕は「散骨してくれ」、と家内と娘に希望を伝えてある。娘は「承知しました。でも死んでしまえば、どうしようとこっちの勝手だから!」と捨て台詞。そうなんだ、己れの死も己れは知ることはできないのだ、己れにとって、己れの死はないのだから、ないものを心配しても始まらないのだ。
  日本語では「と」という一文字が重要な意味をもっている。AとBの「あいだ」のことだ。物事も「物」は空間的かつ過去的であり、「事」は時間的かつ未来的であり、その「あいだ」が「と」である。だから「物事」は「ものこと」、「もの『と』こと」と、「と」をあいだに挟んで「と」を思考することが肝心だ。近年流行りの言葉「ものづくり」「ことづくり」も「もの」「こと」の二元論で分断して考えるから、「こと」はうまく運ばない。「もの」は過去だから作ることはできない。また「こと」は未来だからこれも作ることはできない。西田哲学では、過去と未来の「あいだ」の現在をいのちの活く場、「作られたものから作るものへ」という。現在は過去を抱き、未来を抱いている絶対矛盾の場、だから「ものからことへ」であって、「ものづくり、ことづくり」ではなく、軸足を現在が抱く未来に移しながら過去と未来の差異を埋めていく、「ことのもの化」と思考するといいのではなかろうか?
 「女心の詩」というと女性から「セクシュアル・ハラスメント」と叱られそうだが、「男と女」も絶対矛盾的自己同一、言葉から生じる二元論的意識の仕業、生きものとしての人間の遺伝子もX、Y二つの染色体の絶対矛盾的自己同一なのだ。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」、鈴木大拙の「即非の論理」、そして「色即是空」も、この宇宙の理を言葉にしたものではないかと思う。

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2019/03/17

<「ものづくり」から「ことづくり」へ>-「もの」と「こと」の“あいだ”-

1.時は未来から過去へ流れている

  近年、見聞きすることの多いキャッチコピーです。誰が、「何のために」掲げたのでしょうか。「もの」と「こと」の間の「から」そして末尾の「へ」が気になります。「『もの』から『こと』へ」と聞こえこないでしょうか。失われた30年、とりわけこの20年、日本の企業から新しいものが生まれてこない、というより「もの」が売れないという焦りや苛立ちが背景にあるように思うのですが、いかがでしょう。焦りや苛立ちからは「こと」は作れないのではないかと思うのです。焦りや苛立ちは“今ここ”の心の有り様ですから。

  ひとの意識は、とかく時は過去から未来へ流れていると思いがちです。己れの立っている位置を中心に「ものこと」を眺めると確かにそう思えるのです。目が覚めると夜は朝になっています。ですが、今日が明日になること、過去が未来になることはないのです。今日は昨日になっても明日になることはない。明日は今日になり、今日は昨日になるのですから、時は未来から過去へ向かって流れているのです。

  このキャッチコピーに危うさを感じるのは、どこかに「ものづくり」は古い、これからは「ことづくり」という「過去から未来へ」という意識の流れを感じるのです。どこか過去に軸足を残している、プロダクトアウトのにおいを感じるのです。

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2019/03/10

「カードは時間の表象」ー他者の存在に気づく契機ー」

  <図1.カードは時間の表象>

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1.お客様という他者(客体)
お客様カード」、「意思決定カード」、「リスクカードを引く」の三種のカードは、時を表している。会社盤が「ここ(空)」であり、カード(時・今)が回ってきたとき、「『今』と『ここ』」という時空が口を開ける。時空が開いたときが己れという主体性が刹那に立ち上がるのです。
 
「お客様カード」が存在しない、自ら販売の意思決定をするスタイルの経営体験(図2)では、六角形の盤上をマーケット、市場と呼び盤を取り巻く6人の参加者には他者の存在は見えない、6人は互いに敵同士、自我と自我、主体と主体がぶつかり合う闘争の世界になってしまいます。「より良いものをより安く」「売り込む」という姿勢になってしまうからです。
 
ところがお客様カードは、己れ自身は何も意思表示はしないのですが、突然6人の間に他者として割り込んできます。お客様という共通の他者の存在を介して6人の参加者がお互いを他者として意識するようになります。お客様との場(時空)を介して6人も「場」(関係性)を共有するからです。(図3.-関係性を生きる-)

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「なぜチャート3.は『株主資本額』なのか?

       <図1.会社の二重性>
201903101.経営も「もの」と「こと」の間
BST講座の経営体験の場で壁に貼る、チャート3.自己資本額を「株主資本」に変えたとき、親しい縁者から「ブルータス、お前もか!」と詰られました。僕がステークフォルダ型思考からストックフォルダ型思思考に変節したのではないかと誤解されたのです。そうではなく、まったくその反対の理由です。結論を先に言うと、株式会社の存在は法律的には「所有と経営の分離」というのですが、果たしてその二元論で考えてよいのか、多発する企業の不祥事(合法的と称するものも含めて)も中小企業の後継者問題、株式の相続問題も、「所有と経営」を二元論として考えているところに起きているのではないか?「所有『即』経営」の絶対矛盾的自己同一(即非)、経営は「もの」と「こと」との間、「と」として捉える必要があるのではなかと思ったからなのです。

 

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2018/12/31

「紅白の南天」のお正月」

<紅白の南天>

20190101_3 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。我が家の紅白の南天がたわわに実っています。南天は我が家に10本ほどありますが、すべて野鳥が運んできたものです。この紅白の南天も例外ではありません。庭で大きくなり実ったものは、野鳥の越冬の食になります。住居から遠いところから実がなくなっていくので、この紅白の南天もこれから春にかけて野鳥が食べにくるのでしょう。そして落とした糞からまた新しい芽が伸びてきます。鳥類は恐竜の進化したものだそうですが、この循環が鳥類の「いのちの活き」の循環であり、繁栄の道なのでしょうね。
2019

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「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」

   <図1.干支の循環>
20190101_2  明けましておめでとうございます。毎々の循環の賀状です。2019年の年頭に「お金と資本」を「いのちの活き」という視点で考えてみました。昨年末の株式市場の暴落をみて、すわリーマンショック再来かと胸騒ぎ、これも干支の循環と同じマネーの循環なのでしょう。21世紀の資本主義の風潮を「マネーゲームだ!」「資本主義の終焉だ!」「拝金主義だ!」と切って捨ててもその循環の流れを断ち切ることはできないことは明々白々。さてさて如何せん。
 
昨年は夢枕獏さんが著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」の中で空海の口寄せをして「言葉は器だ。この世で最も大きなものもこの器に盛ることができる。どんな小さなものもこの器に盛ることができる。」無限大の宇宙から極小の素粒子まで現世はすべて言葉の世界だと語っているのを見つけて思わず「これだ!」と膝を打って納得。

                    <図2-1.米ドルに刻まれた「神」の存在>
                     20181218_2

 

 

 
 
 

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2018/12/11

「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と

<「円相中の夢」-龍澤寺 鈴木宗忠老師>
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長年の縁者から「円相中の夢」が届いた。三島にある龍澤禅寺の鈴木宗忠老師の墨蹟とある。墨蹟に詳しく禅僧とも親しい縁者からの禅問答か。さっそく床の間に懸けてしばし坐して眺めていた。円相は宇宙とか「無」といった禅の悟りの境地を筆にしたものと聞いている。
 宇宙は
無限の広がり、境目はないのだから理屈をいえば、無地の白紙をそのままで描いたことになるのだろうが、それでは書にならないから円を描くのだろう。それにしても宇宙の中に「夢」とはなんだ。「無」のなかから夢が湧いてくるのか。西田幾多郎は相対界の有無と分けるためか「絶対無」と「西田語」を紡いだ。相対界の有無が生じる、万物が生じる泉であり場のことだ。夢もこの「絶対無」から湧いてくるのか。

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2018/12/03

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2)

20181203

1. 1.資本も「いのちの活き」

「資本もいのちの活き」の視点から図(1)(2)を図(1-2)(2-2)に書き直してみた。貸借対照表の借方(左)に企業を成り立たせている資産が計上されている。生きものに譬えれば身体だ。その身体を成り立たせている「何か」が貸方(右側)に計上されている。生きものに譬えれば「いのち」だ。そのいのちを資本と名づけている。しかし経営用語としては、なにげなく、「資金調達」と云う。資金とは貸借対照表の借方の項目のことだから“こと”の本質からいうと、正確には「資本(いのちの)調達」というほうがその役割に気づきやすいと思う。そして他人資本とは「他者のいのち」のことであり、己れの未来のいのちの活きによって贖うものだ。株主資本は株主という「他者のいのち」のことだ。かつて株主資本を過去の内部留保も含めて自己資本と名づけていた。企業固有のいのちと錯覚していたのだ。本来企業という存在も、“今ここ”の関係性を生きている存在だから、自己自身として所有するものはなにもない。人間と同じ企業という自己(主体)も、虚無(からっぽ)の器だ。日本の株式市場に上場している企業人の多くが未だにこの変化を確かなものとして受け止めていないのではないだろうか。

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2018/11/24

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題

201811224 「経営とは何か?」を学ぶ若い方々にとって、今日の日産の経営問題は、格好のそしてなにより生々しい生きた教材だ。それだけに、カルロス・ゴーンさんの金銭に関わる個人的なことがらを善悪や好嫌といった二元論的視点に囚われない俯瞰的な視点が必要に思う。


1.「いのちの活き」

 「いのちの活き」は生物固有のものではなく、家族、部族、民族、国家といった人間が集う集団にも、集団を構成する個の命とは別の、集団固有の「いのちの活き」がある。だから企業には企業固有の「いのちの活き」がある。日産の今日的問題も「日産のいのちの活き」という視点から凝視する必要があるし、そこが経営的課題ではないかと思う。

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2018/11/05

マイケル・ムーア監督映画「華氏119」を観て。

いよいよ明日はアメリカ中間選挙。112日公開初日にマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏119」を観た。20年後の日本社会の姿を暗示しているようにも観える。変化のスピードを考えるとさらに10年は早まるのかもしれない。映画で強く描かれていたことは、ブッシュ親子、トランプといった共和党政権、クリントン、オバマといった民主党政権、保守とリベラル、赤と青と区分けされていたはずの政権の活動資金の出所が同じだということだ。これがアメリカ社会の格差を広げてきた大きな要因だと映像は訴えている。リーマンショック直後ブッシュ政権からオバマ政権へ、共和党から民主党へ政権が移行した折、政権交代のはざまで7兆米ドルの資金が巨大金融機関の救済に投じられていた。当時からすでに語られていることではあるが。

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2018/10/27

<「自己責任」と「自己の責任」と>-己れの命は己れで守る-

20181027

ジャーナリストの安田純平さんの救出劇を巡って、またまた「自己責任」なる言葉がマスコミやSNS上を飛び交っている。この言葉を流行らせたのは、小泉・竹中政権だったと記憶しているのだが。

 15年前の2003年8月10日還暦記念にと、赤いちゃんちゃんこを持参して北アルプス裏銀座を縦走した。照れくささも手伝って山頂で三脚を立て、いそいそとちゃんちゃんこを纏ってカメラの前に立った己れを思い出す。初日の烏帽子岳の山頂に真新しい少し華奢な鎖が垂れ下がっていた。鎖の前に立て看板がある。「岩がもろいので『自己責任』で」と書いてある。当時「自己責任」の言葉は反射的に時の大臣竹中平藏さんの顔が浮かんでしまう。「むっと」して思わずシャッターを切った。山小屋に入ると食堂にも「自己責任」の張り紙がある。さらに「むっと」して、泊まるのをキャンセルして、次の山小屋まで3時間歩いた。着くころにはすでに日没が迫っていた。

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2018/10/01

今読む!書名「未来を読む」著者ジャレド・ダイアモンド他

書名「未来を読む」-AIと格差は世界を滅ぼすか-
インタービュー・編-大野和基
著者 ジャレド・ダイアモンド/ユヴァル・ノア・ハラリ/リンダ・グラットン/ダニエル・コーエン
出版社 PHP新書(2018年6月23日初版)
書名「情報の文明学」 
著者 梅棹忠夫
出版社 中公文庫(文庫版1999年初版)
20181001_3 トランプ政権の誕生で分断されつつあるアメリカ社会のその分断が露わになってきたように思う。同じように日本社会でも安倍政権の誕生以来分断されつつある日本社会の分断が露わになりつつある。しかしこの露わになった多様な分断線は、第二次世界大戦の混沌(廃墟)から70年余の帰結なのかもしれない。さらに遡るアメリカ建国以来、日本では明治維新以来の様々な線引きの帰結なのかもしれないとも思う。とすると、”今ここ”の分断線に眼を奪われていても解決策は浮かばない、解決策なんてあるわけがないのかもしれない、唯一の解決策は再びの混沌に戻ることなのか?と思いつつそれでも「よい処方箋はないものか?」と書店の店頭を渉猟してみた。「犬も歩けば棒に当たる」の格言通り本書に当たったのだ。「しめた!」と思った。
 新書であり、インタビューをまとめたものではあるが、著者は、「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンド、「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ、「LIFE SHIFT」のリンダ・グラットン、「経済成長という呪い」のダニエル・コーエン、といったすでに日本でも著名な方々、既にこれらの著作を読まれた方も多いことと思う。西欧の碩学の読む「未来とは?」。立ち止まって耳を傾けて、少し遠くの未来を見ておくことは己れ自身の未来の処方箋を考えるうえでも貴重なことではなかろうか。
 サブタイトルには「AI,格差、滅ぼす」気になる漢字も踊っている。AI、人工知能の高度化、IPS細胞、ゲノム編集といった医学分野の高度化は人間社会の未来に何をもたらすのか。

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2018/06/04

映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-

 昨日(6月3日)都心に出なければ観ることができないと思っていた映画が二日間だけ隣町で先行上映されると聞いて慌てて出掛けた。そして映画館を出た。家内の第一声が「パルム・ドール賞をもらったというけど、フランス人にわかるのかなぁ」。映画のテーマは“今ここ”の日本人家族の物語に観えるが、「家族とは何なのか?」人間社会の家族の普遍的な本質を、日本社会の家族にまつわる“今ここ”の諸々の現象を社会現象としてではなく、生のままの家族の有り様として提示することで、表現した物語だと思う。もう一段階普遍的にいうと観客に「本質とは何か?」を問いかける物語でもあるのではないか。今この日本列島に生きる我々に「『本質とは何か?』を問うこと」を問いかけているようにも思える。

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2018/05/03

今読む「新・生産性立国論」デービツド・アトキンソン著

書名「新・生産性立国論」

 

著者デービッド・アトキンソン著

 

出版社 東洋経済新報社
Img_1218_2 近頃多くの企業経営者や政府(官僚)が「生産性」「生産性」と声高に語っています。しかし「生産性」なる言葉を声高に掲げる方々の多くが「生産性とはなんぞや?」と、その意味をまともに捉えていないように思うのですが、いかがでしょうか。その現れが国会の「働き方改革」法案に現れています。政府(官僚)はデータを偽ってまで「働き方改革」法案を通そうとし、経済界もそれを歓迎しています。しかし「生産性とはなんぞや?」と真面目に問い直せば、この法案はどう贔屓目に見ても「働かせ方改革」法案にしか見えないのです。
 イギリス人の著者デービッド・アトキンソンは元ゴールドマン・サックスの金融人。そしていま現在は、なんと神社仏閣、国宝・重要文化財の修復を専門に手がける小西美術工藝社代表取締役社長というから驚きです。この本の帯に「『労働者の質』はトップレベル「『無能な経営者』こそ問題だ」と著しています。

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2018/02/04

北極星は動かない-瞑想の薦め-

   <北極星は動かない>
20180204 1.コトバから生じる自我
 人間が猿と袂をわかった生物的由来は二足歩行にあるといわれている。しかし決定的な別れ、現代人への別れの由来は5万年前に現在の言語発声の始まりとなった突然変異にあるといわれている。経済学者にして哲学者岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中に「人間は言葉を使う猿である」と書いている。人間はコトバを使うようになって、主体と客体、自他の分別が生じ、空間認識をするようになった。と同時に、“今ここ”を中心に過去と未来を分別するようになった。この主体が意識的自己であり、自我の目覚めである。意識的自己は、自利(自己中心的価値観)を育て、未来の己れ(自我)のイメージを様々描くようになる。いわゆる夢だ。そして、その夢を実現するための目標を設定し「P→D→C→A」のサイクルを回すようになる。しかしその夢の多くは叶わない。その理由は簡単だ、意識的自己(自我)が描く夢は極めて自己中心的なイメージであり、他者の存在に思いが及んでいない。そこに常に不確実性が待っているからだ。

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2018/01/10

そこはかといない不安はどこから、?

<「生物的実体」と「社会的実体」の絶対矛盾を生きる存在>
20180110

1.生物的実体
 宇宙誕生の初めビックバンから138億年が経ち、地球が誕生して46億年が経つという、そして微生物が誕生して38億年経ち、人類の祖先が誕生して600万年が経っている。しかしニコラス・ウェイド著「5万年前」によれば、現代人の祖先は5万年前に出アフリカを果たした150人の集団から始まったという。5万年で72億人にまでに増えたのだ。またリチャード・クラインは著書「5万円前に人類に何が起きたか」の中で、で西アフリカで人類の言語をつかさどる遺伝子に突然変異が起きたのも5万年前だと書いているから、ひょっとすると、あたかもモーゼの出エジプトの逸話のように、その人々が紅海を渡った150人なのかもしれない。150人の遺伝子は72億人にまで増殖したことになる。この遺伝子は個体の世代交代を繰り返しながら情報を伝えていく、生物的遺伝子だ。  

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