2020/09/22

<マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる!「イデオロギー生起の前に考えること」>

書 名 「『資本論』の核心―純粋な資本主義を考えるー 」
著 者 佐藤優
出版社 角川新書
初 版 2016年9月10日
31v3drtxiul_sx310_bo1204203200_佐藤優著「『資本論』の核心」、白井聡著「武器としての『資本論』」に導かれて、宇野弘蔵経済学に出会った。学生時代を過ごした1960年代半ば、経済学は「『マル経』VS『近経』」と二元論で語られていた。当時何となく避けたまま通り抜けてしまった宇野弘蔵経済学、二元論で切り分ければ「マル経」に分類されるのだが、宇野弘蔵経済学は「マル経」とはいっても、宇野学派といわれ「資本論=社会主義革命」と短絡的に考えているわけではない。宇野弘蔵自身も、自分は社会主義者でもマルクス主義経済学者でもないと語っている。マルクス経済学とマルクス主義経済学は異なる、と。
 著書「社会科学としての経済学」にこう著している。人間社会を思考する社会科学は、まずイデオロギーの眼鏡を外して客観的に、経済学を通して経済社会の現状を分析する必要がある。しかる後、政治学、法律学などの社会科学の眼鏡をかける、ここにイデオロギーが関与してくるのであろう。さらに道徳、倫理、哲学、宗教といった人文科学が思考の枠組みとして必要になる、と。そして マルクスは「資本論」で資本主義の原理を解き明かしている、と。佐藤優が「純粋な資本主義を考える」とサブタイトルを付けた所以だ。
 資本論を初手から社会主義革命の聖書といった扱いをすると間違ってしまう。1917年11月マルクス・レーニン主義を掲げたロシア革命によって建国されたソヴィエト連邦共和国は1991年12月の崩壊によって社会主義革命の聖書としての「資本論」の役割も終わっている。
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 「資本論」はマルクスが18世紀半ばから19世紀半ばのイギリスにおける資本主義勃興期の経済社会を分析し資本主義の原理を抽出した。それが佐藤優著のサブタイトル「純粋な資本主義」のことでもある。資本主義の原理は二つ、一つは「資本は永遠の自己増殖を続ける」、二つ目は「労働力の商品化」である。労働者は労働力を資本(家)によって商品として買われ、資本(家)は、買い入れた労働力を生産過程に投入し、商品を生産する、というシンプルな原理だ。資本(家)は労働力を「使用価値」として買い、使用して商品を生産するということだ。労働者は労働力を商品として売った対価として貨幣を受け取り、その貨幣で資本(家)が生産した商品を買うことで生活(労働力の再生産)を行う。資本(家)はその生産過程(他者のために商品を作る)を通して剰余価値を獲得する。資本主義社会とは商品(他者にとっての使用価値)化社会ともいえる。
41izetepntl 資本(家)は生産した商品を売却し獲得した貨幣(剰余価値)から先んじて労働者に支払った貨幣を回収して差額を利潤として得るという仕組み、労働力を売買し商品を売買するという互いの自由な交換の仕組みの中に搾取の仕組み、格差拡大の仕組みが隠蔽されている。と、宇野弘蔵経済学はいう。資本主義はその後、絶対王制的資本主義→帝国主義的資本主義→自由主義的資本主義→金融経済的資本主義→”今ここ”の現在の新自由主義的資本主義へと進化(変化)してきたのだ、と。
 マルクスが「資本論」を著した時代の貨幣は金本位制だった。宇野弘蔵経済学の時代は金為替本位制として米ドルを通じてかろうじて金とつながっていた。「資本は永遠に自己増殖する」とはいいながら、いまだ金という「物」とのつながっていた時代が続いていたのだ。
 そして1971年8月ニクソン大統領は「米ドルと金の兌換一時停止」を宣言した。ことのき、労働力はもとより、それによって生産される商品の売買のすべてを媒介する貨幣が「物」としての「金」から解き放たれたこのとき、貨幣は媒体として最純となり、マルクスのいう資本主義の原理の第一原理「資本は永遠に自己増殖する」も最純となった。マルクスは資本を貨幣の運動体(流れていること・活いていること)と概念化したのだが、このとき、貨幣は媒体として最純となり、資本は貨幣の「いのちの活き」として眼に見えない「もの」として再定義されることになる。「いのちの活き」だからこそ「永遠の自己増殖」の存在となる。貨幣によって導かれる資本主義は18世紀半ばイギリスに勃興して以来最も純粋な資本主義として進化したといえるのではないか。ここにM・フリードマンの説く新自由主義的資本主義への進化(変化)を見る。
 マルクスは「資本論」に労働力は商品とはいえ商品の生産過程では再生産できない、資本(家)から労働力の使用価値の対価として受け取った貨幣で生活の糧を買い求め、家庭生活の中での消費を通して再生産される以外にないと著している。ここで見落とされているものが自然だ。人間も自然の一部、自然も商品生産過程では再生産できないのだ。貨幣の眼に見えない「いのちの活き」が資本、その「いのちの活き」としての資本が自ずから自己増殖を繰り返す新自由主義的資本主義下では、生産過程で再生産できない自然は、破壊の連鎖から逃れることはできない。いくらSDGsを掲げても「資本の永遠の自己増殖」を止めることはできない。それが「いのちの活き」の循環論法なのだから。
 コロナ禍の今ここの現在、日本では唐突に菅政権が誕生した。なんと支持率が60%を超えているという。安倍・黒田政権の支持率低下とつなぎ合わせて考えると政権の意図は、唐突ではないことがわかるのだが、しかし安倍・黒田政権の流れを継承すると早々に宣言しているのに支持率が急上昇するという経緯が今一つ理解できない己れが”今ここ”にいる。これはすでに己れがイデオロギーの眼鏡をかけていることの証しなのだろう。
 小泉・竹中政権→安倍・黒田政権と続く政治政策の流れを継承するということは、新自由主義的資本主義の仕上げの政権という宣言でもある。日本ではこの流れは一言でいえば中曽根政権の国鉄民営化に始まる構造改革路線、三十年続く中流の崩壊、格差拡大、貧困化の流れは、これからも止まることなく続いていくことになる。
Yoly8tull_sx354_bo1204203200_ 宇野弘蔵経済学の教えに従って、”今ここ”の現在の、日本列島の経済社会の状況をイデオロギーの眼鏡を外して、客観的に確かめ分析し、そのうえであらためて、社会科学としての政治、法律、さらには道徳、倫理、哲学、宗教といった人文科学の眼鏡をかけ直す、再思考を試みてはどうだろうか。
<追伸>
 アマゾンから今日届いた斎藤幸平著「人新世紀の『資本論』」の冒頭は、「SDGsは『大衆のアヘン』である」の書き出しで始まっている。意味深な、大胆な、挑戦的な書き出しだ。そしてまったくの同意、それはポリ袋の有料化以後店頭に立った折の己れの心の中をそっと覗いてみればわかることだ。読むのが楽しみだ。
 マルクスが「資本論」で明らかにした資本主義の原理、「資本の永遠の自己増殖」そして「労働力の商品化」は18世紀半ばイギリス社会に、そして人間社会にたまたま偶然に発生した自己循環論法の産物なのだから、きっとそれを変える「何か」も突然、たまたま偶然顕れても不思議ではない。宇宙の始まりである、この「いのちの活き」こそ、たまたまの偶然なのだから。いつになるかはわからない、明日かもしれない、その偶然に期待しよう。いつの時代も夜明け前が一番暗いのだから。 
 

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2020/07/22

<「のど元過ぎれば」どころか真っ只中で!>

「革新後進国(1)レトロ規制、成長阻むーコロナ後へ新戦略ー」
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO61473670T10C20A7MM8000/?fbclid=IwAR3CkeC-2P8vvC5fvqPWNszIBBn3wrWXU2QztxwhzdRLvDD--7_Nzy8xI10
 7月14日日本経済新聞の一面の記事です。コロナパンデミックで、少しは人々の考え方も変わるのではないか?。いたずらに経済成長を追うのではなく、足元を見なくては?。という声を聴く機会も多く、ポストコロナの日本社会も少しは変わるのではないかと、微かな期待をしているのですが、日本経済新聞の相変わらずの論調に背筋が寒くなります。
 記事中の「人手不足解消を阻む規制は依然残る」に掲げられている6つの項目の解説を読んでも、相変わらず「何のために」は隠されたままです。未だにそしてこれからも日本列島は、小泉・竹中政権以来の構造改革路線の地獄へ一直線の延長下にあり続けるように見えます。
 コロナパンデミックで国民の健康・安全・安心を守るべき基礎基盤である医療の体制、保健所の体制は崩壊寸前です。これも小泉・竹中政権が仕掛けた構造改革という名の政府予算削減の結果です。
 コロナパンデミックへの献身的対応で疲れ果てた医療分野に従事する方々には夏季賞与も出せない状態だというのに、一方で「アベノマスク問題」も、うやむやの内に今度は「GOTOキャンペーン」、まるで「税金GOTOキャンペーン」のように聞こえます。まずは崩壊寸前の医療分野・保健所体制への応急手当てが先ではないかと思うのですが。
 この記事のタイトルは岩盤規制という標語が古びたというのか、今度は「レトロ規制」と造語しています。そして「無人コンビニでお酒が買えない」と。コンビニで酒が買えないから、それがどうした、誰が困るのでしょうか。タクシーで持ち帰り弁当が配送できれば、飲食店従業員は生き残り、タクシー運転手は救われるとでも思っているのでしょうか。
 今飲食店が一所懸命取り組んでいるテイクアウトが飲食店の延命策のように語られていますが、客単価から類推してゼロ円で宅配しても成り立つ収益構造になるはずはないのです。
 タクシーの運転手の人件費、車の燃料費を限りなくゼロにするという無策が「革新・・・・」という言葉、「新戦略」の言葉の中身です。日本の一流の”経済”新聞の一面を飾る言葉に透けて見える、この国の経済リテラシーの低劣さに驚くとともに、ポストコロナの日本社会の暗闇は想像するに余りあります。ただひたすらに哀しい。

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2020/07/14

<資本論(虚)と貨幣論(実)>

書 名「武器としての資本論」
著 者 白井聡
出版社 東洋経済新報社
初 版 2020年4月23日
202007111.新自由主義は上(資本)からの階級闘争
 カバーは真っ赤、カバーを剥がすと表紙は真っ黒、そして著者の苗字が「白」キャッチコピーには「なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか」とあります。「勝ち組になれない」「成功できない」ではなく「救われない」の一語の塩加減が効いています。
「資本論の解説書、入門書ではなく、新型コロナパンデミックが人間社会の大きな転機になるかもしれない“今ここ”の現在を矯めつ眇めつ眺める視点として価値ある一書です。そして「救われるかもしれない」一書としても。著者は「裏にあるテーマは新自由主義の打倒だ」と著しています。
 マルクス、資本論、という言葉には若い頃の己れの青々とした懐かしい響きがあります。そして1989年11月のベルリンの壁崩壊に続くソ連の崩壊が社会主義国家の失敗と同時にマルクス経済学の失敗として歴史に刻印されることで、世間から労働者という下からの視点を跡形もなく消去してしまいました。
 著者はいいます。「新自由主義は資本の側からの階級闘争だった」と。そうだったんだ、国鉄民営化、電電公社民営化、郵政民営化と。労働者が自らの立ち位置を忘れ中流幻想に浸っているとき、そしてその余韻から醒めないまま、眠い目をこすりながら、二度寝三度寝を繰り返していた30年、雨戸を明けたらすっかり我が家は床下まで資本という眼に見えない水に浸かってしまっていたのです。
2.「資本」とは「いのちの活き」のこと
 真っ赤なカバーの書「武器としての資本論」を著者のお勧めに随って、「主義」とかマルクスといった人格を捨象して、経済学の一書として「資本とは何か」という視点から読んでみました。
 「資本とは何か?」と問われれば、長年の会計屋の僕は複式簿記の借方、貸方から始まります。資本は眼に見えないものを顕わす貸方語、その対となる眼に見えるものを顕わす借方語は貨幣(通貨・おカネ)です。
 マルクスは資本の目的はひたすらの自己増殖だといいます。資本論の第一ページの「資本の一般定式」、「G(貨幣)-W(商品)-G+△G(増殖した貨幣)」です。貨幣も商品も眼に見える借方語、「資本の一般定式」といいながら、用語はすべて眼に見える借方語、眼に見えない貸方語では語れないのです。あらためて複式簿記の複眼の視点の凄さを実感します。
 そういえば今我が家の小さな庭を飛んでいる蝶々も庭のゆずの木を生きる場として「卵Ⅰ→芋虫→蛹→蝶→卵Ⅱ」と蛻変しています。眼に見える生きもの変化です。そして「卵Ⅰ<卵Ⅱ」の不等式が成立し、自己増殖していないと蝶の命は過去から未来へと繋がっていかないのです。
 蝶の命は卵Ⅰにも芋虫にも、蛹にも、そして親の蝶にも卵Ⅱにも、眼にはみえないまま、非連続の連続として流れているのです。蝶の命は、名詞の「命」ではなく、動詞の「こと」、「流れていること」、「いのちが活いていること」なのです。
 「資本の一般定式」である「貨幣Ⅰ→商品→貨幣Ⅱ」の蛻変も眼に見えない貨幣の「いのちの活き」が非連続の連続として流れています。資本はその「いのちの活き」につけられた名であり概念です。貨幣も「実即虚・虚即実」の生きもの、30億年前に地球に初めてウィルスが偶然(縁)顕われた「こと」と同じです。偶然、人間社会の「いのちの活き」の流れの中に顕われたのです。


3.新自由主義は貨幣の解放
 ミルトン・フリードマンの新自由主義経済学は、レッセ・フェールとりわけ、貨幣の「いのちの活き」としての「資本」のレッセ・フェールだったのではないでしょうか。それが1971年815日、ニクソン大統領の経済政策として「米ドルと金の兌換一時停止」「変動為替制度」として実体化したのです。そしてこのときが、米ドルを金の頸木から解き放つことで、人類史上初めて貨幣(通貨・お金)が物質から完全に解き放たれ、自己増殖のまったき自由を得た瞬間でした。
 それに先立つキッシンジャーの電撃的中国訪問も一連の政治政策として分かちがたく繋がっていたことが見えてきます。ニクソン、レーガン、サッチャー、鄧小平、日本では中曽根、小泉(竹中)、安倍(黒田)と続く政治家の人格として顕現し、構造改革、物的資産の金融商品化という政治政策として顕現してきた流れです。
Photo_202007141542014.ポストコロナ社会は「ウィズマネーの時代」
 貨幣も「生きもの」、「いのちの活きの流れ」と思えるとなにやら、今人間世界に地獄を顕現している新型コロナウィルスに似ています。
 生物学者今西錦司さんが著書「生物の世界」で「生きものを空間的に構造的、時間的に機能的(継起的)な存在」と定義して、生物も宇宙創成の145億年前、そして物質の誕生とその流れのなかに存在するものだと記しています。そして同じ生物学者の福岡伸一さんは細胞学的実験を通して「生物とは動的平衡にある流れ」と定義をしています。
 今西錦司さんの定義を借りれば、貨幣も「空間的(構造的)に資産であり、時間的(継起的)に資本である」と定義できるように思います。そして「いのちの活き」としての資本は宇宙(森羅万象、大自然)続くいのちの流れの中の存在ですから大自然からの負債でもあります。福岡伸一さんの定義を借りれば、「自らの破壊と創造によって継起的に変化していくもの」と定義できるのではないでしょうか。
 「ウイズ・コロナ」を旗印に人類はワクチンの開発、治療薬の開発を急いでいますが、「ポスト・コロナ社会」は「ウィズコロナの時代」ではなく、「ウィズ・マネーの時代」です。貨幣という「生きもの」との共生の道を見いださないかぎり繰り返す新型ウィルスパンデミックからも、自然破壊からも逃れることはできません。共生のためのワクチンは、そして満身創痍の大自然、人間社会の大傷を癒す治療薬はみつかるのでしょうか。
5.「ウィズマネーの時代」のワクチンそして治療薬
 経済学者にして哲学の人、岩井克人さんは著書「欲望の貨幣論」の最後にご自身が見つけ出したワクチンを示しています。それはエマヌエル・カントが提唱した倫理としての定言命法です。倫理としての定言命法が人間社会の真理となることだというのです。岩井克人さんは貨幣の唯一の定義は「貨幣は貨幣であることによって貨幣である」といいます。「信じるから、存在する、存在するから信じる」という「神の存在」と同じ循環論法に依拠している存在だといいます。
 ですからカントの定言命法が人間社会の真理として信じられるようになれば、いかなる物質からも解き放たれ、浮遊霊になった貨幣の「いのちの活き」を人間社会を守る守護霊として繋ぎ止め制御できるといっているのではないでしょうか。
 定言命法は「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段として扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段として扱ってはならない」というものです。
 「己れ自身もお金のみを目的として働いてはならない。」そして「お金(利益)目的のための手段として他者を働かせてはならない。」なぜなら、「お金は目的のための手段に過ぎない」のだからと、いっているのではないでしょうか。
 岩井克人さんの経済学の凄みは「貨幣は人間の尊厳を守るためのものでもある」という視点、貨幣が人間の「いのちの活き」の顕われとしての欲望を永遠の未来に向かって解放する「もの」でもあり、またその対極の人間の尊厳を守る「もの」でもある、という両睨みの透徹した眼差しにあると思います。これは大乗仏教の「即非の論理」、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と通底する眼差しです。
 「ウィズ・マネー」のためのワクチンはすでに18世紀半ばにカントによって発見されていたのですが、これを倫理ではなく、人間社会の真理とすることはとても難しい。基本的人権も道半ばですから。そして治療薬もすでにあるのです。
 フランスのマクロン政権が20207月10日デジタル課税を法制化しました。すかさずトランプ大統領が報復関税を宣言しています。デジタル課税は実体経済の場でのGAFAM(ガーフアム)による「貨幣のいのちの活き」の欲望の暴虐を鎮める妙薬なのですが、フランスを先頭にドイツ、他EU諸国が守り切り、中国が治療薬に採用するか否か。残念ながら日本には主権がありませんから。
 さらに同じ実体経済の場には法人税引き上げ、所得税累進税率の引き上げといった治療薬もあります。さらに虚体経済(金融経済)の場にもトービン税等々金融取引に税を課して、実体経済の場へ貨幣の流れを再循環させることができれば、浮遊霊化した貨幣の「いのちの活き」を鎮め、消費税のような弱者に厳しい徴税を減らし、医療福祉、教育といった人間社会の健康を取り戻し、格差社会の進行を止めることもできるのではないかと思うのですが。
 貨幣も生きもの、資本は貨幣の「いのちの活き」であると理解できれば、日々の貨幣のいのちの活きも、人間の体内を循環している水のいのちの活き、日々の食事の糧となる動植物のいのちの活き、O2、CO2の命の活きといったあらゆる森羅万象の「いのちの活きと共に、多様な循環と共生の世界に生きていることも納得的に分かるのではないかと思うのです。
 一度左手(借方)に岩井克人著「欲望の貨幣論」を、右手(貸方)には白井聡著「武器としての資本論」を手にしてみてはいかがでしょうか。今眼下に起きている集中豪雨の惨禍も、人間の欲望によって衝き、突き動かされた貨幣のいのちの活きの顕われかもしれないのですから。
書 名「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
初 版 2020年3月5日

<岩井克人「欲望の貨幣論」を語る>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/03/post-fd8a83.html
<追伸>
 
仏教学者の鈴木大拙さんは著書「神秘主義-キリスト教と仏教―」にはこう著しています。「仏教哲学では渇愛こそ事物を存在せしめる第一原理であると見做す。渇愛は自己表現、つまり自己主張のために形をもつことを希求する。つまり、渇愛が自己主張を始めると形をとるのである。渇愛というものは尽きることはないので、それがとる形も限りない多様性をもつ。渇愛が物を見たいと欲すると、眼が生ずる。音を聞きたいと欲すれば耳ができる。飛び跳ねたいと思うと、鹿・兎ならびにこの種の他の動物を生み出す。・・・・渇愛こそ宇宙の創造主なのである。」
51aamtrjlml_sx352_bo1204203200_ ここで「渇愛」と名づけられているものが「いのちの活き」のことです。西欧の一神教の世界では「造物主」と名づけられています。仏教の世界では「仏性」とか「空」といったりしています。縄文時代には「森羅万象に神が宿る」といっていたのですから、森羅万象はすべて「いのちの活き」の顕現といっているのでしょう。
 鈴木大拙さんは敗戦後間もなくの頃、十年余りアメリカの大学に招かれで英語で講義をしています。その講義録を中心に日本語に翻訳したものが、本書です。
 アメリカ人に英語で仏教哲学を講義したものなのでむしろ日本人にも、とても理解しやすい文体になっています。仏教ではともすれば「欲を捨てよ」「無になれ」と否定的に使われる生命の根源のエネルギーを「渇愛」と言い放つ、鈴木大拙さんの仏教哲学がポストコロナ社会に相応しいと僕は思っているのです。

 


 

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2020/06/15

<経済の「実」と「虚」(2)-オオカミは来るか、来ないか->

経済教室「物価高騰で収束シナリオも 危機時の財政金融政策」斎藤誠名古屋大教授

2020年6月12日日本経済新聞の経済教室に掲載された斎藤誠名古屋大学教授の論文です。論文の最後にこう著されています。
  「『ハイパーインフレが来る!』は羊飼いの少年の嘘かもしれない。だが『ハイパーインフレは来ないけれども.....……』という村の老人のためらいには耳を傾け、羊たちを守る必要がある。」と。
 「・・・・」の部分がタイトルの「物価高騰で収束」であり、50%程度の物価調整を覚悟しておくという老婆心です。
 50%の物価調整は1971年8月の「ニクソン宣言-米ドル金兌換一時停止」によって始まった物価高騰と同じです。会社は30%、30%、20%と三年間で賃金を2倍に調整してくれました。通貨円からみればちょうど物価調整50%です。賃金が上がったのではなく、通貨円の価値が半分になったのです。
 童話は子供のために書かれていますが、大人のためのたとえ話でもあります。イソップ童話「オオカミ少年」は、嘘から出たまこと(実)、来ないはずのオオカミが来て、大切な羊が襲われてしまう結末です。
 「虚」に口がつくと「嘘」になります。少年は嘘をついていたわけではなくオオカミというブラックスワンの出現を警告していたのかもしれません。村人は少年の「虚」に己れに都合よく口篇をつけて「嘘」だと思ったのかもしれません。そしてオオカミに喰われた羊は、村人たちのことを喩えているのかもしれません。
 MMT(現代貨幣理論)が巷間に流布されて多くの方々が「自国民が自国通貨を受け取る限り、国は自国通貨を発行し続けることができる」、「インフレはコントロール可能だ」というようになりました。
 コロナパンデミックの実体経済の損傷を修復するために、世界中の中央銀行が大量の通貨を増発し始めています。日本の財政赤字はコロナ以前、既にGDPの2.2倍、ポストコロナにはどこまで増えるのでしょうか。斎藤誠教授の警告に耳を傾けて、そのための備えを心掛けておくのも一考かもしれません。
 ブラックスワンの著者N・N・タレブは著書「身銭を切れ」の中でブラックスワンを考慮の内におくことを「身銭を切る」「リスクを取る」と表現しています。
 そして、「合理性とは、言葉ではっきりと説明できる要因によって決まるのではない。生存に役立つもの、破滅を防ぐものだけが、合理的なのだ。」、「起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものすべて、理由があって生き残る」と著しています。なぜなら「『生き残ること』がすべてに優先する」のですから。
 人間は論理的であること、己れに都合の良いことを合理的だと勘違いしがちです。「インフレはコントロールできる」は論理的なのか、タレブのいう合理的なことなのか、さてさて。
 考えておきたいもう一つの視点があります。借金(負債・借入金)の本質とは何か?ということです。借金は他者の未来の「いのちの活き」を借りて、己れの現在の「いのちの活き」として用いるものです。個人ならそれは己れの明日の「いのちの活き」で贖うことになります。用いたときすでに、身銭を切っているのです。不況期に中小企業の経営者の自殺が増えるといわれるのも、また然りです。
 国家の赤字国債は未来(次代)の国民の「いのちの活き」を現在の国民の「いのちの活き」のために用いることになります。それは主権在民の民主主義国家では、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うことになります。
 財政赤字を出す現在の為政者は、それを個人のように己れのいのちの活きで贖うことはできません。ですから、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うものであるという視点で慎重であらねばならないと思うのです。タレブのいう「身銭を切って」いないのですから。
  ここでは、明日(次代)は「虚」(みえないもの)、現在は「実」(みえるもの)ということになります。現在と明日を切断して思考する二元論的価値観ではなく、「虚と実」の即非の論理という価値観で明日(虚)の視点から現在(実)をみることが重要ではないかと思うのです。「身銭を切る」とは「虚」から「実」を見る視点をもって生きることでもあるのではないでしょうか。斎藤誠教授の視点から”今ここ”をみることも。
書 名「身銭を切れ」
著 者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/01/post-f08095.html

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2020/06/08

<経済の実と虚-1971年8月米ドル金兌換一時停止以前と以後ー>

<経済の虚と実-1971年8月15日(米ドル金兌換停止)以前と以後―>
1.「経済(お金)もいのちも!」と強欲に
 「経済よりいのちが大切!」と、安倍首相と小池都知事は張り切って「自粛」、「自粛」と事実上の都市封鎖に踏み切りました。直前まで東京五輪が中止にならないように裏で奔走していたことはおくびにも出さず、誰も知らないと思っているかの如くに、です。
東京五輪の目的だってスポーツの祭典でもなく、税金を投入しての経済成長狙いであって、人のいのちではなかったのです。それが証拠にマラソン競技の五輪出場選手を決めるために、たった0.1秒のために一億円を投じています。これがスポーツは建前の「お金」志向でなくて何といえばよいのでしょうか。
 20200605mmt 「いのち」と「経済」を都合よく二元論で切り分けて、己れ自身を騙しているのが、われわれ日本人の“今ここ”の姿なのではないでしょうか。現在の日本人の自粛による経済の萎縮も同じ二元論の真逆な現象の現れにほかならないと思うのです。
  今日、人間の生きる世界は、二元論で切り張りするほど単純ではない、経済無くして現代人の「いのち」は保てない、率直に「経済も『いのち』も」と強欲に叫んでみてはいかがでしょうか。もし東京五輪招致以前に叫んでいたら、今どうなっていたか。もし小泉・竹中政権の経済(目先の金)のための構造改革に対しても、「『お金(経済)』のために『いのち』を犠牲(いけにえ)にするのか!」と叫んでいたら、現在の格差社会もそしてポストコロナの日本を襲うであろうさらなる格差拡大も幾分は和らぐのではないか、と想像することもできるのではないでしょうか。お金、経済といっても、本当に人々の生活に必要なものは「モアモアマネー」ではなくて「サムマネー」なのですから。
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2.1971年815日以前
 いつのころからか、実体経済、金融経済と経済を二元論的に分けて語るようになりました。生物学者今西錦司さんは著書「生物の世界」のなかで「生物(生きもの)とは空間的に構造的、時間的に継起的な存在である」と著しています。空間と時間は二元論ではなく、「生きもののいのち」は、「構造的『即』継起的」、「身体『即』いのち」の絶対矛盾的自己同一を生きているのだ、生物を西欧的物質主義的側面ではなく、「生きていること」「いのちが活いている」こと、の側面から捉えようとしていたのです。
  経済を実体経済と金融経済と分けるようになった、その起源は1971年8月15日のニクソン宣言「米ドル金兌換一時停止」にあるのではないかと僕は思っているのです。第二次世界大戦終了後、圧倒的な軍事力、圧倒的な経済力を背景にアメリカは自国通貨米ドルを世界の基軸通貨とする、と宣言したのです。金一トロイオンス(31.1㌘)と35米ドルとの交換を約束し、世界各国の通貨はその米ドルとリンクすることで各国通貨の安定を図る仕組み、いわゆるブレトンウッズ体制のはじまりです。「アメリカの約束」という前提で米ドルが、そしてその傘下で各国の通貨が信じられ、誰もが受け取るようになった瞬間でした。
  経済学者岩井克人さんのいう「貨幣は自己循環論法」が「アメリカの約束」によって成立したのです。通貨そのものは紙切れですが、約束が守られている限り、それは金(ゴールド)と同じだ、と。
  図1.にみるように経済は物的資産(もの・実)と通貨(こと・流動性)で循環していました。人と人との間を循環し、その通貨が間接的ではあれ、金(ゴールド)という物的資産と繋がっていた時代です。アメリカの保有する金(ゴールド)によって通貨発行に限度があり、たとえ基軸通貨といっても、通貨発行量(流動性)を上回る経済成長はできない時代でした。人間の「いのちの活き」の経済(お金)的側面も「金(ゴールド)との約束」に縛られていた時代です。たとえば株式上場企業の増資は既存株主割り当ての額面増資であり、株価と企業実態が大きく乖離することはありえなかったのです。20200605mmt_20200608142401
3.米ドル金兌換停止以後
  1971年8月15日突然アメリカは「米ドルと金の兌換一時停止」を宣言しました。それまでの約束を反故にしたのです。その瞬間まで後生大事にいつかは金(ゴールド)と交換できると信じて保有していた現預金、米ドルのみならず世界各国通貨、すべての通貨が反故紙になったのですから世界中の人々は大混乱です。
  それはそうですね。存在すると信じていた神が突然いなくなったのですから。拠り所をうしなった人間はどうしたらよいのか。皮肉なことに815日、それは日本人には忘れることのできない、記憶に刻み込まれた日付です。現人神、天皇陛下がご自身で「朕も人間だ!」と宣言された日付けと同じだったのです。アメリカはご丁寧にもその一か月前7月15日キッシンジャーは電撃的に中国を訪問し、日本の頭越しに米中和解の握手をしていたのです。
  その直後オイルショックといわれる紙切れになった通貨に対する「もの」からの反撃、ハイパーインフレが起こりました。われわれ労働者の賃金も3年で2倍に引き上げられ、かろうじていのちを繋ぐことができました。通貨が純粋紙切れになったとき、通貨が信じられないもの、怪しげなもの、「虚」になったとき、経済を改めて実体経済と金融経済と分けて語るようになったのだと思います。
  むしろ実体経済の対語として虚性経済と名づけたほうが、二元論的に別々のものにならないでよかったのではないかと思います。人間の生活(いのちの活き)を支えている経済も実体経済と金融経済、実と虚の絶対矛盾的自己同一なのですから。軽々に「経済よりいのち」と相対的なものとして語ることはできない「ものこと」なのです。(注.「実」と「虚」の二重性を「図2.即非の論理」としてまとめてあります)
3.通貨は政府の発行する債務証書
  
新型コロナショックの経済対策として米ドル、元、ユーロ、円と世界の中央銀行(国家)は通貨を大増発しはじめました。それ以前から日本はGDPの2倍を超える財政赤字を抱える借金大国です。2012年秋以来日銀の黒田総裁は物価上昇2%を掲げ、通貨円を増発していますが、しかし物価はピクリとも動きません。通貨の増発と物価上昇が結び付かなくなってしまったのです。
  昨秋L・ランダル・レイ著MMT(現代貨幣理論入門)が出版され俄かに、通貨はいくら発行しても国家は破綻しないという論者が増えています。「自国民が自国通貨を受け取る限り」という括弧つきです。括弧の部分を小声でいうのです。「受け取る限り」とは「信じている限り」ですから、神と同じことです。
  そしてMMTは本音で「通貨は政府が発行する債務証書だ」といっているのです。債務証書なら幾らでも発行できて当然です。現在、人びとが後生大事に貯めこんでいる現預金は政府の発行する借金の証文なのです。そして古今東西、国家が己れの借金を返済した試しは残念ながらありません。
  複式簿記的に表現すればB/S借方に権利として記載されている現預金の貸方(裏面)は義務を果たすつもりのない、怪しげなものと対になっているのです。通貨の本来は実体経済を円滑にさせる流動性を確保する道具です。ですから図3にあるように中央銀行が市中銀行を通じて実体経済の場へと注入するものです。物的資産(実)や人間(実)の「いのちの活き」(虚)を支えるものなのです。実体経済はこの流動性という「虚」と物的資産という「実」の二重性で生かされているといえます。それ以上でも以下でもないとMMTでもいっていますが、それが事実なのです。
  通貨は発行者にはシニョレッジ(通貨発行益)がついて回ります。紙切れを刷るだけで、ものが買えてしまうのです。図3.に記したように1971年815日以前は、金1㌘は1.13米ドル、日本円では405円で交換する約束でした。今では金1㌘56米ドル、日本円では6000円です。米ドルでは50倍、日本円では15倍ですから、アメリカは日本より3倍以上シニョレッジで得をしていることになります。長年の日本の貿易収支の黒字、余剰米ドルを金(ゴールド)に換えていたら、さてさて。もちろんそんなことアメリカが許すはずはないのです。今もって外貨準備に金(ゴールド)を保有していないのは日本政府くらいのものですから。
4.物的資産の金融商品化
  
金(ゴールド)から解き放たれた純粋通貨は以後基軸通貨米ドルを筆頭に大増発されていきます。それを吸収していったのが「実体経済の場」「、実」と「虚」の二重性の「場」である虚性経済(金融経済の場)です。物的資産を金融商品として金融市場(マーケット)に並べることにしたのです。
  株式会社も、実体経済の場の存在ですが、株式を上場すると、企業の所有権として、虚の場に陳列されてしまいます。そして賃貸ビル、ホテル等々「実の場」にあった物的資産も近年ではREITと称して金融商品化されその権利(資産)は「虚の場」に陳列されていきます。企業や不動産の経営で得た利益は本来「実の場」を循環するはずのものですが配当として、そこから抜けていきます。自社株買いに至っては、実の場の企業の内部留保がそっくり「虚の場」へ流出してしまうのです。生産性向上、賃金引き下げ、法人税引き下げ等々の利益増もことごとく「虚の場」へ流出していまいます。人間の生活を支えるはずの実体経済の場で創造した経済価値(粗利益=mPQ)が通貨の増発により虚体経済の場へ吸いあげられていくという様相です。
  構造改革の名のもとの民営化も見方を変えれば株式会社化であり、本来国民の物的資産であるはずのものが金融商品として通貨(債務証書)に置き換えられていったと考えると辻褄が合います。
  実体経済の「実の場」と「虚性経済」の「虚の場」は通貨(債務証書)の循環を媒介に目に見えないところで繋がっています。物的資産の金融商品化によって「虚の場」へ移った通貨は、そのまま「虚の場」で循環し、居心地がいいのでしょう「実の場」へ出てこないのです。
  2012年末から安倍・黒田マジックと称して、それまで禁じ手だった日銀の国債直接買い入れ、株式の直接買い入れをはじめました。日銀がそれらを買うことは、「虚の場」で通貨(債務証書)を増発することですから、以後日経平均はコロナパンデミック直前の20202月末まで8年余りで10,400円から23,800円と上昇しました。安倍・黒田マジックの目標インフレターゲット2%は「実の場」の目標ですが、増発した通貨は「実の場」へ出ることはなく「虚の場」を循環し続けていたのですから、目標を達成できないのは当然といえば当然のことです。
5.ポストコロナの実体経済
  
コロナショックで日経平均は2020年3月半ば一瞬16,400まで下げたものの2か月足らず過ぎた6月上旬にはほぼ2月末水準に戻っているのです。虚体経済(金融経済)虚の場は、あたかもコロナパンデミックの傷は癒えたかのようです。世界を襲ったコロナパンデミックの都市封鎖、日本も自粛とはいうものの事実上の都市封鎖です。その実体経済への影響はまだこれからだというのに。
  それにしても世界の中央銀行の通貨増刷はリーマンショックをはるかに超えています。リーマンショックのときと異なり、いきなりの実体経済の需要収縮の危機、労働者の失業の危機ですから、当然増刷した通貨は人々の生活の場である実体経済の場に投入されるはずです。株式上場していない企業の支援、労働者の生活の支援として使われるものは実体経済の中で需要を増加させ、循環していくはずです。
  しかし現実には増刷されたものの大半は既に金融商品化された株式上場企業への資本注入、運転資金支援として投入されることになりそうです。これらの通貨もしばし実体経済の場で事業支援として循環するでしょうが、株式上場企業の事業の復元は、株価の上昇を通して虚性経済(金融経済)の場へ吸収されていくのではないでしょうか。
  こんな様相を、異色の物理学者長沼伸一郎さんは著書「現代経済学の直観的方法」のなかで、物理学者らしい量子物理から譬えを引いてコラプサー(縮退)と表現しています。まさに直観的方法に相応しいたとえです。
  コラプサーとは「恒星の中心部が固着して温度調節機能が麻痺し、熱が際限なく中心部に溜まってしまう状態」のこと、日本語では縮退というのだそうです。恒星がブラックホールになっていく様相、恒星が死へ向かう様相のことのようです。
  図3.の実体経済の場にあるはずの物的資産が金融商品化して、虚体経済の場に吸収されていく様相と同じイメージではないでしょうか。実体経済の場で通貨が流動性(キャッシュフロー)として循環はしても物的資産として残らない状態です。だから人間の生活の場であるはずの、実体経済の場がシェアエコノミー、ギグエコノミーさらにはサブスクリプションとフロー化していくのではないでしょうか。これらのビジネス手法がイノベーションと語られることすら、みみちい仕業にみえませんか。ビジネスには違いないのですが、いかにも「掠め取る」といったイメージに僕には見えるのですが。
  実体経済の場と虚性経済(金融経済)の場は実と虚の絶対矛盾的自己同一の場であり、かつそれぞれ実体経済の場も、虚(通貨)と「実」(物的資産)の絶対矛盾的自己同一のあり方をしています。さらにその虚体経済(金融経済)の場も、「虚」(通貨)と「実」(金融商品)との絶対矛盾的自己同一の場になっています。二つの場を結び往来しているものが、純粋であるがゆえにつねに不安定で何か「実」と結びつきたい、なにものにも縛られない、金(ゴールド)の呪縛から解き放たれた通貨Bだということではないでしょうか。僕は浮遊霊と名づけています。
  危機の度に大増殖し、実体経済が生み出した経済価値(粗利益・mPQ)をその「実」の場にとどめ置くことなく、虚性経済(金融経済)の場へ吸い込んでいく通貨Bはポストコロナ社会の日本そして世界をどうしようとしているのでしょうか。今日の日経平均23,178円そしてNYダウ27,111円。
  ちょっとの間、善悪、好悪、美醜などなど二元論的価値観の眼鏡をはずして図2.即非の論理の眼鏡をかけてポストコロナ社会を眺めて、「さて、己れはいかに生きるか」考えてみるのも一興ではないでしょうか。かくいう己れは「愚や愚や己れを如何せん」と思案するばかりです。(苦笑)

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2020/05/16

書名「エンデの遺言」河邑厚徳+グループ現代著」<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>
書 名 「エンデの遺言」ー根源からお金を問うことー
著 者 河邑厚徳+グループ現代
出版社 NHK出版
初 版 2000年2月
Jpeg_20200516142001  聖書MMTの預言にはこうあります。「各国の中央銀行は自国民が自国通貨を受け取る限りにおいて、無限に自国通貨を発行することができる」と。それは、経済学者岩井克人が「貨幣は貨幣だから貨幣である」と喝破した定義と同じ意味です。「自国通貨(お金)は他者(自国民)が受け取る限り自国通貨(お金)である」という意味において。
 そしてMMTでは「自国通貨は政府の借用書である」とも預言しています。国民個々人が資産だと思って保有している虎の子の現・預金残高は、政府の借用書の残高だと。それを無限に受け取ってくれるのですから、受け取ってくれるうちに増刷しておきたいと思うのは人情ですね。
 本当に借用書でしょうか。僕は徴税済領収書だと思っています。だって古今東西、時の権力者は国家債務を返済したことはないのですから。沢山持っている人が多額納税者なのかもしれません。L・ランダル・レイ著「MMT」は巧みに複式簿記を使って解き明かしてくれているのでとても分かり易いのです。ですが、ここの部分がちょっとおかしいのです。政府の側の帳簿視点では、民間所有の現預金残高は貸方(義務)科目の借用書でもいいのですが、それなら対になる借方(権利)は徴税権です。借用書そのものの実体は、義務を果たすつもりのない、すでに権利を行使した証しにすぎません。そういう意味からも民間の側の帳簿の借方の権利は義務を果たした証しとしての納税証明書と考えておいた方が安全です。資産(権利)だと安心していると、忘れた頃に臍を噛むことになるやもしれません。
 この本は、童話「時間泥棒」の著者ミヒャエル・エンデが日本人に託した遺言をもとにNHKのドキュメント番組として放映されたものです。
 M・エンデは童話「時間泥棒」の中で人間たちが時間を盗まれ生活空間が暗闇になっていく様子を描いています。
 時間節約銀行の紳士(灰色の男たち)が街の中を「時間」を集めて回るのです。「時間節約こそ幸福への道!」、「時間節約をしてこそ未来がある!、「時間を節約しよう!」「時は金なり!」「時間を貯蓄しよう!」と称えながら。
 紳士はこっそりいいます。「人間に・・・知られないでいるあいだしか、仕事ができない・・・むずかしい仕事だ、人間から生きる時間を一時間、一分、一秒とむしり取るんだからな・・・人間が節約した時間は、人間の手には残らない・・・われわれがうばってしまうのだ・・・貯めておいて、こちらのために使うのだ・・・われわれは時間に飢えている・・・ああ、きみたち人間ときたら、じぶんたちの時間のなんたるかを知らない!」
 若い頃僕が「生産性」「効率」「コストダウン」と称えていた姿はこの灰色の男と同じだったのです。(苦笑)
 童話では、預金が増えれば増えるほど街に暗闇が拡がっていきます。主人公モモの活躍で街の人々も気がつき、街に光が戻ってきて、めでたしめでたしと。
 現行の通貨制度(変動相場制)下では、世界の片隅でつくりだしたささやかな価値(経済価値)も自国通貨(お金)と換えること、そして米ドルという基軸通貨(世界通貨)と繋がっていくことで、地域から中央へ、中央へ、世界の中心へと吸い上げられていき、価値をつくった地域にはなにも残らないのです。たとえ預金通帳残高に残ってはいても。
 M・エンデは本書の中でシルビオ・ゲゼルの貨幣の仕組みを詳細に紹介しています。あのケインズも自著「雇用、利子、および貨幣の一般理論」の中で絶賛した仕組みです。
 出版当時ベストセラーになりゲゼルの貨幣論を地域通貨の仕組みに生かそうと国内各地でブームになりました。いまでも飛騨の「さるぽぽ」、高田の馬場の「アトム通貨」といくつか成功例もあるようですが雨後の筍のように出ては消えていっているようです。
 本書を通してサブタイトルにもある「根源からお金を問い直して」みてはいかがだろうか。ポスト・コロナの社会に本格的に格差が拡大していくとすれば、M・エンデが日本人に残した遺言は、「地域おこし」「地域活性化」といった大きな旗印ではなく、人々の生活を支え「いのちの活き」を支えていく互助の聖書として活かしていく可能性を秘めているのではないかと思います。
 AI,IOT,ロボットと情報通信技術が一層発展していくこれから、梅棹忠夫のいう「内胚葉産業の外肺葉化」を地域通貨で下支えすることもできるように思います。
 己れ自身にとっては残り僅かではありますが、ポスト・新型コロナ社会を明るいペシミストとして、生き抜いこうと誓いつつ「セブンデイズチャレンジ」を終わることといたします。
 現在の日本社会の惨状を憂うあまり一つ一つが長いものになりました。ご容赦ください。どなたかバトンを受け継いでくれる方が出てくれることを祈りつつ。
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

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書名「資本主義から市民主義へ」岩井克人著<7日間ブックカバーチャレンジ第六日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>
書 名 「資本主義から市民主義へ」
著 者 岩井克人
出版社 ちくま学芸文庫
初 版 2014年4月
Jpeg_20200516140901  昨今の新型コロナウィルスパンデミックへの対策では、だれしも「経済よりも命が大事」といいます。ではその直前まで東京五輪金メダルのためにマラソンの記録たった0.1秒に一億円を賭けてテレビの前で固唾を呑んだ日本人の姿は何だったのでしょうか?。そして一人一人の身体の中をお金が変態しつつ流れていることを知らないはずはない、知らずに済ますことはできないのですから。
 二元論で一瞬のうちに右左に振りきってしまわないで「経済とは何か?」「命とは何か?」と経済と命の「あいだ」を考えておくことはポスト・新型コロナ社会を生き抜くよすがになるのではないでしょうか。
 世界の中央銀行は、リーマンショック対策をはるかに越える通貨(お金)を大増発しています。「いくら増発しても財政破綻することはない」と、日本でも政治家、官僚、企業人の間に、俄かにMMT信者が増えています。本当でしょうか?、自分自身の眼で確かめておく必要がありそうです。後々聖書MMTの「せい(責任)」にしないために。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんの明快な語りに耳を傾けてみてください。経済のベースは貨幣(お金)です。
 著者の貨幣論はいたってシンプル、貨幣それ自体に価値があるわけではない、「貨幣は貨幣だから貨幣である」といいます。神の存在「信じるから存在する、存在するから信じる」と同じ論法、自己循環論法の産物だというのです。労働価値説を信じたい人間の純な心もバッサリ一刀両断。
 著者の貨幣論を知ったとき「そうか貨幣とは浮遊霊なんだ」、ひたすら自己増殖し、ひとやものに取り憑き、精気を吸い尽くしていきます。それなら己れも安倍晴明になるか、耳なし芳一に倣って般若心経を全身に書き込んでおかなければ、と思ったものでした。心なし芳一にならないように、心にも書き忘れないようにしなければ、と。
 労働価値説も佐々木閑のいう「神の視点の痕跡」かもしれませんね。神が造った人間の労働によって造られたものですから価値があるはず、と信じたい。ところがその神すらも、信じなければ、存在しない存在なのですから。貨幣は他人が受け取らなくなったら一瞬にして紙切れになってしまうのです。このことは聖書MMTには預言されているのでしょうか。
 バブル崩壊のたびに「資本主義は崩壊する」という人が沢山でてきます。著者は、「資本主義とは差異を見つけて均していく、世界を均一化することで生きている」といいます。昔流行った任天堂パックマンのような存在なのかもしれません。「世界の国々からなけなしの微かな差異までも吐き出させ、喰い尽くしていく」と。
 その差異を媒介するものが貨幣の存在ということなのでしょう。コロンブスによるシルクロードの交易からベニスの商人のイスラムとの交易、果ては西欧帝国主義国家による、植民地からの収奪さえも「空間的差異」「労働時間差異」の収奪なのだ、と。
 リーマンショック、新型コロナショックとショックのたびにショック療法として世界の中央銀行から通貨(貨幣)が大増発され、それが世界の隅々まで差異を食い尽くしていくとなると、ポスト新型コロナ社会は国家と国家、人と人の「あいだ」の差異を漏れなく食い尽くし、とめどなく格差を拡大し、格差社会を深化していくことになるのでしょう。
 言葉によって貨幣を創り出し、言葉によって欲望を意識化し、意識化したものを食い尽くしていく永遠のパックマンが人間という「生きもの」。否、宇宙創世以来の「いのちの活き」そのものが自己増殖(デリバティブ)という方向性をもったものなのですから。
 幸い哲学者でもある著者は「市民主義」という処方箋を用意してくれています。欲望の自己増殖を制御する倫理としてカントの定言命題を市民憲章とする市民主義です。
 是非著者の慈愛の経済学に触れてポスト・コロナ社会を考える一助にしてはいかがでしょう。しかしこの倫理さえ言葉という自己循環論法の産物であることを忘れるわけにはいきません。
 アウシュビッツ絶滅収容所から奇跡的に生還したV・E・フランクルも著書「それでも人生にイエスと言う」の冒頭にカントの定言命題をおいています。「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している。けっして目的のための手段として扱ってはならない」と。
 しかしその尊厳を有している人間の安定を求める実体経済。人間はその根底でもある貨幣を通して永遠の自由を求めるが故に、実体経済を不安定にし、日々地獄の落とし穴を掘っているという矛盾に気づかねばならないのでしょう。

<そこはかとない不安はどこから>

<資本主義から市民主義へ>
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
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書名「新装版 場の思想」清水博著<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>
書 名 「新装版 場の思想」
著 者 清水博
出版社 東京大学出版会
初 版 2003年7月(新装版2014年9月)
Jpeg_20200516134901  著者は「場の理論」を提唱しています。「生物の世界」で、今西錦司は「生物は空間的に構造的、時間的に継起的存在である」といい、生物を「生きもの」「生きているもの」と捉えています。一方で著者は「生きているものを生命の活きという観点から見ることが私の場の理論の立場である。」と。「いのちの活き」という視点で今西錦司と響き合っています。
 「いのちの活く『ところ』」を「場」と定義しているのです。そしてその「いのちの活き」は局在的活き(局在的生命)という個という側面と、遍在的活き(遍在的生命)という生命相互の繋がりと空間的な広がりをもった二重性をもった存在だというのです。
 著者は例えばなしに卵を使っています。二個の卵を殻のまま器に入れても個のままでなにもおこりません。二つを割ると、黄身と白身になり、黄身は黄身のまま盛り上がっていますが、白身どうしは広がって繋がります。個々の黄身のいのちの活きが局在的いのちの活き、拡がった白身のところが遍在的いのちの活き。その拡がった白身を黄身がいのちとして「活く場」というわけです。白身と黄身それぞれのいのちの活きは局在と遍在の二重性、同じではないけれど分けることのできない絶対矛盾的自己同一を生きているというわけです。
 卵を夫と妻とすると、黄身は夫、妻、個々の(局在的)いのちの活きであり、またその関係性の空間的時間的につながった、白身としての家族(遍在的)といういのちの活きの二重性ということになります。卵が一つ増えると、夫、妻、子供三つの白身の溶けあった関係性が家族という固有のいのちの活きです。器が家族なのではなく、三つの黄身のいのちの活く場としての白身が家族のいのちの活きなのです。この「器か?、いのちの活きか?」が映画「万引き家族」のテーマでもありました。
 企業も従業員、経営者、株主、顧客、仕入先等々関係者すべての個(黄身)のいのちの活く「場」が白身としての企業のいのちなのです。
 すべては、個と全体のいのちの活きの二重性を生きている存在なのです。昨年の流行語「One Team」も個々の選手のいのちの活く場がチームのいのち、チームとチーム互いのいのちの活く場がピッチそしてスタンドを埋め尽くす観客のいのちの活きもそのピッチに同在している、そしてテレビの前の観客のいのちの活きも。その全体が「One Team」という一つの場のいのちとしてあったが故に熱狂したのでしょう。
 宇宙は無限大の器であり、その器の中に森羅万象様々な黄身と白身が重層的に、局在(個)的ないのち、遍在(全体)的ないのちとして活く場でもあると著者はいっています。
 新型コロナパンデミックで個人、家庭、企業、個々それぞれの「いのちの活き」が危機に瀕している今、国家も個人、家庭、企業のいのちの活く「場」なのですから、その場のいのちの活きを全きものに統べることを政治に願わずにはおれません。
 西田幾多郎は著書「善の研究」の第十三章に「完全なる善行」を立て、「善とは一言にていえば、人格の実現である。・・・・その極は自他相忘れ、主客相没する所・・・」と著しています。著者清水博のいう「場」における「いのちの活き」の「全機現している状態」のことをいっているのです。
<家族のいのちの活く場>
最奥の宇宙→人間界(言葉の世界)夫、妻、子供の重層的に重なった「場」のいのちの活きが家族のいのちの活きという遍在的生命であり、関係する個々の局在的いのちがそこで活いている。
<いのちの居場所、居場所のいのち>
「居場所つくり」書名「もしイノ」岩崎夏海著を読む
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
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書名「情報の文明学」梅棹忠夫著<7日間ブックカバーチャレンジ第四日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第四日>
書 名 「情報の文明学」
著 者 梅棹忠夫
出版社 中公文庫
初 版 1999年4月(初出1988年6月中公叢書)
2jpeg_20200516134401  我々世代では「知的生産の技術」の著者としても知られています。文庫化される11年前に中公叢書として出版されています。
 1963年に発表された論文「情報産業論」が世に出て以来センセーショナルな話題になり、様々に引用され続け四半世紀もの間、書籍化が待望され続けた稀有の論文です。1980年A・トフラーの「第三の波」が話題をさらった折も、すでにこの論文を知っている人たちは、「なんだ梅棹さんの二番煎じか?20年遅れの!」と思ったものでした。とはいえやはり、A・トフラーのものは西欧的な直線的時間観、進歩史観から抜け出てはいませんでした。
 1988年に書名の「情報の文明学」「情報の考現学」が加筆され一冊にまとまったといういわくつきの一冊、それからさらに32年が経ってしまいました。既に半世紀です。
 しかしいささかも古びていないのです。今、新型コロナパンデミックの現在を超えて、ポスト・コロナ社会に生きる価値観への進化(変態)の契機も隠されているかもしれません。
 日本人の多くが今でも脳みその隅に刷り込まれている、コーリン・クラークの第一次産業(農業社会)、第二次産業(工業社会)第三次産業(サービス・運輸・情報社会)という産業発展段階説。
 著者はこれが進歩史観(進化とは進歩である)であり、直線的時間観の表出だといいます。佐々木閑的にいえば、「神の視点の痕跡」ではないでしょうか。
 著者は生きもの進化(変態・展開)にたとえて内胚葉産業、中胚葉産業、外肺葉産業と著しています。
 内胚葉産業とは、ナ マコやミミズのように身体の真ん中を貫いた管になっている生きもの(人間も同じ)、農業の普及で胃袋や腸を満たすことができるようになった時代のことです。
 中胚葉産業とは生きものが骨格や筋肉を鍛え、陸上へ上がってきた時代、農業は遅れた産業ではなく、トラクター、コンバインと筋肉を強化して少人数で可能になった時代のこと、カロリーベースの自給率が死語になるはずの時代です。(農水省のお役人、自民党の政治家の頭は今もこの時代にとどまっています。)
 外胚葉産業とは皮膚・脳神経系の発達する時代、農業、工業が遅れていて、不要な時代ではなく、それらが情報化していく時代だというのです。すでに1963年にです。
 人間が生きものとして過去から現在へと進歩している存在ではなく、生命誕生以来微生物からウィルスまで”今ここ”の地球上に存在し、人間の身体の細胞の隅々まで”今ここ”の絶対現在に存在しているのと同じです。
 1969年にこう著しています。「現在、農業人口は20%をわっている。やがて工業人口も十数%台に落ちるだろう。理由はかんたんである。それでじゅうぶんささえられるからだ。そしてのこりの大部分は情報産業に吸収されることになる。おそらく二一世紀までには、日本もほぼこの水準に達するだろう。それは革命という名にふさわしい変化といえる。ただそれがバラ色の未来につながるかどうかは別問題である。たとえば、工業時代の前期にはいろんな社会悪が発生している。日本には「女工哀史」の例がある。あたらしい生産システムに人間が適合できなかったからだ。おなじことがニ一世紀の初期におこるかもしれない。それはかっての物質の暴威に対する情報の暴威ともいうべきものである。情報はうまくつかわれれば人類に革命的な力をあたえるにちがいない。だが、それは個人の幸福とは無関係である。わたしのいっているのは、歴史的な、一般理論であって、ユートピア思想ではないのだ。」と。
 ポスト・新型コロナの日本そして世界は、テレワークが進むともいわれています。ですが、5G、AI、ロボット、etc、個々の情報技術の進化の影響を微視的にとらえるのではなく、38億年の「いのちの活き」の不可逆的な流れ(展開)の方向を著者の造語、外肺葉の時代の進展ととらえて考えてみてはいかがでしょうか。
 大事なことは「バラ色の未来につながるかどうかは別問題」、そして終わりの一言「ユートピア思想ではない」というところ、未來はユートピアとは限らない、ディストピアかもしれないのです。
 晩年ご自身は「わたしは老荘の徒やから、ニヒリズムがある。自分は明るいペシミストや」と語っています。著者に倣ってポスト・コロナの日本列島を明るいペシミストで生き抜きたいですね。
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

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書名「時間と自己」木村敏著<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>
書 名 「時間と自己」
著 者 木村敏
出版社 中公新書
初 版 1982年11月
Jpeg_20200516133101  精神病理の臨床医であり哲学者の著者は西欧の精神病理学を臨床しながら、西欧由来の精神病理学だけでは日本人に適合しないところがあるのではないかと考え、西田哲学を取り入れたら日本人ひいては東洋人ひいては人類に共通する東西融合の精神病理学ができるのではないかという仮説から西田哲学を取り入れた方です。 
 いつの頃からだろうか、それほど過去のことでもないと思うのですが、「ものからことへ」。だから「ものづくり」から「ことづくりへ」と語る方がとても多いように感じます。
 しかし「もの」とか「こと」と二元論の言葉の連発からはなにも見えてこないのではないでしょうか。一度”ものとは””こととは”と一つ一つ言葉の意味を吟味しないと本質はなにも見えてこないように思います。どこか、成長を止めた日本の行き詰まり感が日本の成功は「ものづくり」だった、だから、成功体験を捨てて「ことづくり」といっているように聞こえます。1985年(プラザ合意)以前の日本企業は本当に「ものづくり」で成功したのだろうか。
 2018年に上映された映画「KU-KAI」の原作者夢枕獏は原作「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の中、妖怪との問答を通して、空海に語らせています。「この世で一番大きなもの、それは言葉」「この世で一番小さいもの、それも器」と。そして「いかなる大きさのものも言葉で名づけることのよって言葉という器の中におさまってしまう」というのです。
 美醜も、大小も、剛柔から善悪もすべては人間に属性を有つ言葉だから、この宇宙にはない、と。人間の世界、現世は言葉でできている世界だといっています。だからこそ、救うたびに器からこぼれてしまう「何か」があることを自戒しなければいけないのだろう。しかし、いかに自戒しようとも永遠に掬えない何かがあるのです。
 「ものとは?」「こととは?」を問い直すことは「言葉とは?」を問い直すことでもあります。
 本書の第一ページが「第一部こととしての時間」そして「1.”もの”への問いから”こと”への問いへ」です。
 そして「”もの”が空間を満たしているということは、われわれの外部の世界についていわれうるだけではない。意識と呼ばれているわれわれの内部空間もやはり”もの”によって満たされている」と著されています。
 さて空間を満たす「もの」と意識の内部を満たす「もの」とはどこが同じで、どこが違いうのでしょうか?
 多くの識者がポスト・新型ウィルスの社会は価値観の変容が必須だと語っています。とすれば本書も価値観変容のための価値ある一冊になるのではないかと思います。
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

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書名「科学するブッダ」佐々木閑著 <7日間ブックカバーチャレンジ第二日目>

<7日間ブックカバーチャレンジ第二日目>
書 名 「科学するブッダ」-犀の角たちー
著 者 佐々木閑
出版社 角川ソフィア文庫
初 版  2013年10月
Photo_20200516132401  帯には「仏教と科学にまつわる固定観念をくつがえす」とあります。著者は科学を修めた後、仏教、哲学の道を探求された方、それだけに数々の著書は、仏教や哲学への偏見を丁寧に解きほぐしてくれています。
 サブタイトルの「犀の角たち」の意味が最後のページに著されています。仏典「スッタニパーター」から。
 「究極の真理へと到達するために精励努力し、心、怯むことなく、行い、怠ることなく、足取り堅固に、体力、智力を身につけて、犀の角の如くただ独り歩め」と。
 著者は「科学のパラダイムシフトが・・・神の視点から人間の視点への下降」といっています。ニュートン力学に残る”神の視点”を”人間の視点”にシフトしたアインシュタインの相対性理論、そして量子論。ダーウィンの進化論に残る”神の視点”を”人間の視点”にシフトした日本人木村資生の「進化の方向は偶然に大きく左右される。進化とは決してよりよい一方向に進む運動ではなく、出たとこ勝負のでたらめな稼業なのだ。」などなど。
 物理学、進化論、数学、といった科学の分野で「犀の角の如く独り歩んだ」科学者たちの歩みを描いています。そして釈尊の仏教へと。
 なぜ三大宗教の一つといわれる仏教の開祖、釈尊の視点が「神の視点からの下降」なのでしょうか?、仏教は”人間の視点”?、宗教嫌いから仏教をも遠ざける方々にも是非お薦めの一冊です。
 日本人の日本人による日本の哲学を究めた西田幾多郎も、そして生物学にそれを敷衍した今西錦司も犀の角の如く歩んだお一人なのでしょう。
  そうそう犀の角は骨でできているのではなく、毛束が固くなったもので闘うためのものではないのだそうです。新型コロナウィルスとも「闘いだ!」「駆逐しろ!」と声高に叫ぶ元気のいい方も多いのですが、ヒトゲノムの8%はウィルス由来のものだそうですから、過去の生きものが、新型のウィルスと出会うたびに闘っていたら、人間という生きものは存在していなかったのです。もちろん己れ自身さえ。
 生きものはひたすら共生の道を歩んできたからこそ微生物から人類まで無限というしかないほどに多様化してきたのです。共生といったからといって、いつも仲良くしていたわけではなく、苦し紛れに一緒になったり、木村資生の論にあるように偶然だったりするのです。新型コロナウィルスもそんな機会を提供してくれているのかもしれません。「変わろうよ」「変わろうよ」と。
 またまたこのムーヴメントのルールに反して長くなってしまいました。ご容赦ください。
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書名「生物の世界」今西錦司著 <7日間ブックカバーチャレンジ第一日>

<7日間ブックカバーチャレンジ1日目>
 15年前に山口県下の後継者育成講座で縁のできた若い中小企業の後継者、35歳で事業を承継して10年を過ぎようとしています。10年の経験がこの難局を乗り切るのに生きています。その次代を担う青年経営者古田陽介さんから回ってきたバトンを引き継ぎました。
書 名「生物の世界」
著 者 今西錦司
出版社 講談社文庫
初 版 1972年1月       
Jpeg  1941年、日米開戦前夜、著者にとっては召集を覚悟しての遺書のような書です。僕が手にしたのは、1973年ニクソンショックから石油ショックへの流れ、日本人に価値観の転換を迫る激動の時でした。まさに”今ここ”のよに。 当時30才、中小企業の原価管理担当、論理的、合理的思考の石頭で社内で「生産性!」「効率!」「コストダウンこれあるのみ!」と声高に叫んでいました。ある時研究所の管理職に呼び出されて、お説教を食らいました。「何を馬鹿なことばかり叫んでいるのだ!」「これを読め!」と。昔の日本企業は組織に関係なく先輩が後輩を積極的に教育してくれていました。
 生命の発生進化についてこう著されています。「生物は空間的に構造的であり、時間的に継起的な存在である」と。「もの『と』こと」の間を生きていると。そしてさらに驚いたのは以下の下り。
 「生物の起源は次の二つの内のどちらかを選ぶより他に考えようはないのである。一つは無生物の世界に生物が偶発した、したがって生命もそのときに偶発したとするものであって、それは無が有に変換した、たった一度でよいが、この世界の歴史においてそのときには無が有に変換するようなことが起こったという考え方である。いま一つの考え方というのは無から有は生じない、無生物と生物というから無と有ということになるが、無生物だってこの世界の構成要素である以上構造的即機能的な存在である。その無生物的構造が生物的構造に変わり、無生物的機能が生物的機能に変わるということが無生物から生物への進化であった。これと同じように解釈するならば生命だって無から偶発したものではなくて、やはり無生物的生命が生物的生命へ進化したものだということになる。」と。
 宇宙創成143億年、地球誕生以来46億年、生命誕生から38億年と連綿と途切れることなく「いのちの活き」が、空間的(構造的)時間的(継起的)に繋がっているとあります。
 宗教的には、縄文的に「森羅万象に神宿る」、仏教的に「山川草木悉有仏性」と、科学と宗教も薄皮一枚の違いしかないというのですから驚きです。
 それまでのダーウィンの進歩史観、二元論史観、直線的時間観をかなぐり捨てて、棲み分け進化論、共生史観、生態史観、循環的時間観へと己れ自身が進化(変態)を遂げる契機となった貴重な一冊です。
 ポスト・新型コロナ社会を如何に生きるか、日本人も今度こそ進化(変態)を遂げたいものです。
 このムーブメントのルールを無視した長い解説になってしまいました。ご容赦ください。
<棲み分け進化論で考える>
【目的】
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2020/04/26

<「私たちの祖先発見-古細菌を培養、進化の謎解明へ」>

2020年4月26日 「日経新聞朝刊ーサイエンスー」
<私たちの祖先を発見ー古細菌を培養、進化の謎解明へ>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58451160U0A420C2MY10
 新型ウィルスは新型といわれるだけに、いまだにわからないことも多いようです。この機会に「生物とは何か?」を考えてみるのも一興ではないかと思います。本記事はそのためにも格好の記事です。
 現在の地球上の生きものは①古細菌(アーキア)、②細菌(バクテリア)、③真核生物の三つのタイプに分類されるそうです。現在の動植物・キノコ等の菌類、もちろん人間も、③の真核生物に分類されています。
 無酸素下に生息していた最古の生きもの①古細菌(アーキア)にとっては、27億年前に登場した②細菌(シアノバクテリア)が光合成する際に生成する酸素は有毒物質でした。
 この酸素という有毒物質に耐えかねた①古細菌(アーキア)は苦し紛れにシアノバクテリアと共生し、それがミトコンドリアに進化(変化)したのだそうです。そしてそれは、さらに真核生物へと進化(変化)してきたのだと。
 生物学者中村桂子さんは著書「生命誌とは何か」(講談社学術文庫)に「進化を英語でいうとevolutionです。evoluveは巻物を開いていく時などに使われる言葉ですから、これも展開でしょう。どうも進化というと進歩とまぎらわしく、一定方向に進んでいくようなイメージを与えるのではないか」と著しています。
 ダーウィンが「種の起源」を世に問うたのは1859年あたかも産業革命の真っ只中、近代化の渦中でスペンサーの社会進化論と絡み合ってダーウィンの進化論も「進化とは進歩である」と直線的時間観の中に組み込まれていったのでしょう。
 日本語として「進化」という語ができるのもまさに明治期の近代化の真っ只中でした。ポスト・コロナの社会では進歩史観を卒業して、価値観を「進化とは変化であり、展開である」と転換したいものです。
 2020年4月25日の日経新聞朝刊の書籍紹介欄の記事と合わせて読むと一層興味深いです。 「生命の〈系統樹〉はからみあう」ー寄せ集めでできた我らの体ー
 デイヴィッド・クォメン著
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO58452030U0A420C2MY7000/?n_cid=SPTMG002
 評者の太田博樹東大教授は、「ヒトのゲノムの約8%がウイルスに由来する。「胎盤形成はウイルスの仕業」など、ウイルスが跳躍的進化の引き金になっている可能性は少なくない。ヒトの身体は約37兆個の細胞でできているが、その約3倍の細菌と共生している。」と記しています。
 新型コロナパンデミックへの対応も人間社会の新しい”展開”の一歩、生物誌の一ページに加えられることになるのでしょうか。

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2020/04/16

<「ウィルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡>

朝日新聞DIGITAL2020年4月6日から頂戴しました。(下のタイトルをクリックしてください。)
<「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡 >
 タイトルをクリックすると前半部分は読めるのですが、後半が読めないようです。無料会員登録でも読めるようになっていますが、念のため全文を転載させていただきました。著作権で叱られますかね。(苦笑)
<「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡>
 ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方――つまり、動的平衡の生命観に立てば――、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。
今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
 これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自(おの)ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
 それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。
 いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。
 かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。
*********************************************************************
<書名「福岡伸一、西田哲学を読む」福岡伸一、池田善昭著>
 科学と哲学との邂逅。眼に見えるもの(現象界)を追い詰め続けてきた科学と、眼に見えないもの(非現象界)を追い詰め続けてきた哲学との出会いを語り尽くしています。
 サブタイトルに「動的平衡と絶対矛盾的自己同一」とあります。科学と哲学が薄皮一枚隔てたところで接しています。福岡伸一さんが細胞膜は眼には見えないものだが、膜の間を情報や物質も行き来していると著しています。その眼に見えない膜、西田哲学の最奥の「絶対無の場所」(相対を超越した薄皮一枚奥の絶対)の概念とも近接しているような、いないような。ちょっと生硬な理解か(苦笑)
 2017年この本と邂逅した折のブログです。

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2020/04/15

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>ー生命誌マンダラからみるとー

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>
 Img_2537 新型コロナウィルスは今も時々刻々と世界中へ蔓延し、留まることを知りません。こんな状況から、「新型コロナとの戦争だ!」とか、「新型コロナと闘う!」と、勇ましいフレーズが飛び交っています。子供のころから臆病で喧嘩に弱くっていつも逃げ回っていた僕にはこの「闘う」という言葉に出遭うとたちまちその場から闘争ならぬ「逃走」してしまいたくなります。
 眼に見えるものならいざ知らず電子顕微鏡でやっと見える微小な「生きもの」とどうやって「闘う」のでしょうか。現実に今、世界で行われている新型ウィルス対策も闘っているのではなく、ひたすら接触を避け、無用な闘いを避ける姿勢ではないのでしょうか。
 生物学では、ウィルスは生物と無生物の間の存在ともいわれています。生物学者福岡伸一さんは新しく「生命とは動的平衡にある流れ」と定義しています。この定義に従がえば新型コロナウィルスはれっきとした「生きもの」です。そして人間も「生きもの」。
 「生きもの」としての人間のゲノムには38億年前に地球上に誕生した「生きもの」のDNA(遺伝子)から今日まですべての「生きもの」のDNAがヒトゲノムとして連綿と受け継がれている(流れている)こともわかってきています。
 例えば人間の一つ一つの細胞にはミトコンドリアというかって独立した「生きもの」であった、生きものが独立したDNA(遺伝子)を保持したまま一つ一つの細胞の中に数百個存在しているといわれています。38億年の間の「生きもの」の動的平衡(破壊即創造)の流れの歴史がわれわれ人間のゲノムに書き込まれた歴史ですから、その歴史は都度の新しい「生きもの」やウィルスとの闘いの歴史ではなく、ひたすらの共生の歴史ではないかと思うのです。
 新型ウィルスを闘いの対象と考える思考には、人間は自然の外に立って、自然は人間のためにあり、征服するもの、利用するものと、知らず知らずのうちに、己れの立ち位置を、神に準じる場においているように思えるのです。
 3月15日のTIME誌に「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそグローバルな信頼と団結を-」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を読みました。「サピエンス全史」、「ホモ・デウス」と興味深く読んでいる読者の一人ですが、気になることがあるのです。ここにも「いかに闘うべきか」そのために「グローバルな信頼と団結を」とあります。立ち位置が人間主義に思えるのです。ウィルスとの闘いのための手段としての信頼と団結は、ウィルスを倒した後、次に闘う対象は、「誰に」、「何に」なるのでしょうか、今取りざたされている米中覇権の闘い、そしてそれは日本、EU、等々世界を分断する闘いの始まりでもあります。
 人間もそろそろ賢者のひそみに倣い、生命のひたすらの共生の「歴史に学び」、新型コロナウィルスとの共生のための「グローバルな信頼と団結」を目指したいものです。ところが、トランプ大統領は、すでに「WHOへの拠出金ゼロ」と叫んでポスト・コロナの世界へ向かって宣戦布告するという、哀しい現実があります。
 トランプ大統領、やハラリさんはさておき、人間も自然の内にあるもの、自然に「包まれつつ包む」存在という立ち位置から、“今ここ”の日本及び世界を見直して、ポスト・コロナの日本及び世界を考えてみるのも重要な一つの視点ではないでしょうか。
 中村桂子さんが著書「絵巻とマンダラで解く生命誌」に38憶年の生命の歴史を「生命誌」としてマンダラに描いています。空海の曼荼羅は中心に大日如来を置き森羅万象はすべて大日如来の化身という宇宙観、生命観を描いています。大日如来は「空」の化身、森羅万象は「空」の顕現ということになるのでしょう。
 著者はマンダラの中心、大日如来の位置に”受精卵”をおいています。受精卵には38億年の「いのちの活き」が、たたみ込まれて“今ここ”にあります。そしてそれが、地球上のすべての「生きとし生けるもの」へと顕現(展開)していく姿をマンダラとして描いています。
 著者が生命誌と名づけている「誌」は過去の歴史物語ではなくて、われわれ人間のゲノムに書き込まれてる“今ここ”の生きている「いのちの活き」のことです。
書 名 「絵巻とマンダラで解く生命誌」
著 者 中村桂子
出版社 青土社

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2020/04/06

<ポスト・コロナの教科書は「子曰く、苛政は『新型コロナ』より猛なり」と書き換えられるのでしょうか>

<ポスト・コロナの教科書では「子曰く、苛政は『新型コロナ』より猛なり」と書き換えられるのでしょうか>
中学生の頃か、高校生の頃だったか、いつ習ったのだろうか、「苛政猛於虎也」を。いつの頃だったか記憶には無いが、老人になると身体が覚えています。教科書検定に文科省が介入している今日の学校教育でも教えているのでしょうか。
 「苛政」とは「何だ?」、何故、苛政は人食い虎より“猛”なのか。担任の先生は具体的な事例を教えることができるのでしょうか。ポストコロナの学校では、安倍政権の新型コロナ対策を事例として講じることになるのでしょうか。文科省が検閲するでしょうから、出版社は事前に忖度してしまうのでしょうね。
  安倍政権は2枚のマスクを5千万世帯に送付すると決めたそうです。2枚のマスクのコストは別としても、それを日本郵便が届けるという。その委託料、一件100円でも50億円位にはなるでしょう。孤独な老人に詐欺まがいに保険を売りつけ、それが発覚して苦境にある日本郵政Gに税金(未来の消費税)を投入するのだそうです。
 多くの国民がこの政策に憤慨しているようですが、安倍政権は、「してやったり」とほくそ笑んでいるのではないでしょうか。目的は税金投入にあるのですから、政策はそのための手段、目くらまし、稚拙であればあるほど、国民の批判が政策の稚拙さに目を奪われるのですから、そのほうが都合がいいのではないでしょうか。偏差値の高い政治家、官僚たちがその政策の稚拙さを分からないはずはないと思うのです。
 小池都知事も記者会見で「病院のベッドを開けるために無症状・軽症患者を地方自治体の施設及び民間施設へ移すことを決めた」と公表しました。ところがその日の内にアパホテルの女性経営者がテレビのニュースに「役に立ってうれしい」と誇らしげに顔を出しています。これから長期かつ万を超える病床数に税金を投入するのですから、できるだけコストのかからない地方自治体の施設が最優先ではないのでしょうか。  
 インバウンドが長期に続くのを当て込んで過剰とも思えるホテル建設を続けてきた企業に、どさくさに紛れて税金投入するのです。ここでも目的は国民の税金。そういえば築地市場の豊洲移転も、豊洲の土地開発の問題も闇の中です。
 この一ヵ月すでに自粛、自粛で売上急減の中小零細企業、派遣切りで職と一緒に住まいまで失う労働者等々、苦境に喘ぐ人々を救済する政策はいっこうに出てきません。孔子がこの日本列島の惨状をみたら、きっと「苛政は『新型コロナ』より猛なり」と記すに違いありません。経済という語の元は中国由来の「経世済民」だったはず、いつの間にか「済民」は忘れられてしまいましたね。

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2020/03/21

<ポスト新型コロナウィルスの日本は、そして世界は?>

書  名「中国化する日本」-日中「文明の衝突」一千年史―
著  者 與那覇潤
出版社 文春文庫
初版 20144月10日(単行本初版2011年11月文藝春秋刊)
Photo_20200321132601 新型コロナウィルスのパンデミックでパニック下にある世界、とりわけ日本列島では東京五輪開催の去就もともなって、経済の先も見えない状況が続いています。その見えないという「先」は、目先の「先」、目先の切所は足元を用心深く一歩一歩歩いていく以外にないのでしょう。
  山を歩いていても、時に己れの未熟さゆえか、足元が震え、恐れおののく切所に遭遇します。しかし、その折も時に立ちどまって遠くを見、方向を確かめておかないと、気がついたら二進も三進もいかない進退窮まるところに身を置いてしまうことがあります。そんなわけで、ちょっと「ポスト・新型コロナ」の日本及び世界の様相を想像しておくのも一興かもしれません。
 1979年生まれという若い歴史(哲学)学者與那覇潤さんの「中国化する日本」論に耳を傾けてみるというのはいかがでしょう。タイトルが中国嫌いの方の心情を逆なでするかもしれませんが、決して中国に支配されるとか、宗主国がアメリカから中国に代わるという話ではありません。一度、嫌中観を脇において。
 人間社会の過去の復元力から想像しても、新型コロナのパンデミックを封じ込めるにはそれほど時間を要することはないのでしょう。しかし新型コロナ禍の原因は新自由主義による経済の世界化でもあり、それは又中国という国家が世界経済の主役級の一人として加わったことによるものでもあります。新型コロナウィルスが武漢発といわれることとも符合します。
 著者は「中国史を一か所で区切るなら唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と唱えた戦前の東洋史家内藤湖南の「宋代以降近世説」を視点にしています。紀元10世紀宋代に皇帝一人と官僚制による中央集権の専制国家の仕組みができあがり、貨幣経済が中国全土へ広がったと。そして以後中国の国家体制は現在の習近平政権まで、変わらぬ皇帝一人専制国家なのだ、と著しています。
 そのころ、日本では源平の政変で貨幣経済志向の平家が敗れ鎌倉武家政権が誕生しました。以来徳川幕府終焉まで12世紀から19世紀半ばまで封建制が続くことになりました。もし平家が勝っていたら、日本の近世は、明治維新を待つまでもなく天皇制専制国家がこのとき成立していたかもしれないと想像すると、「歴史のIF」は限りなく面白い。足利尊氏と争った後醍醐帝の目指していたものも、後鳥羽上皇の承久の変も、宋の政体を目指した政権構想だったのかもしれません。
 多くの日本人が信じて疑わない(己ももちろんその一人)、封建制と近世の切断面、明治維新を契機とする西欧化近代国家化へと歩んだ道は、同時に、象徴天皇制の専制独裁国家への道、中国化への道だった、そして、戦後の日本は再江戸化の道だった、と著者は語っています。「歴史は繰り返す形を変えて」、とすれば、この先の未来は。
 さて現在の安倍政権の国家運営の経緯を日々傍観していると、民主主義の終焉を想像させ、戦前への回帰を彷彿とさせるものがあります。専制独裁国家への道といえるのかもしれません。
 しかしこれは日本だけのことではなく、ロシアもプーチンによる独裁政権であり、現在のアメリカの二党政治も民主主義というにはほど遠いものがあります。新型コロナのパンデミックによる経済危機への対策として、各国の政府は今度ばかりは、供給(生産者)側だけでなく、需要(生活者)側へ直接現金を配ることをも考えているようです。それは、非正規雇用が定着し所得の不安定な格差社会へ移行しつつある日本の今こそ、低所得層の救済は喫緊の主題です。
 しかし仮にこの延長上にベーシックインカム政策が取り上げられるようになると、それはまさに日本国家の中国化、一党独裁専制国家の総仕上げになるのではないかと想像します。
 リーマンショックのとき、グリーンスパンFRB議長は議会証言で「100年に一度・・・・」と語ったと聞きかじっていました。あの時の議会証言は「We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami」だったそうです。「credit tsunami」とあります。「バブル崩壊」ではなく、「津波」です。
 「100年に一度の津波の真っただ中」だったとすれば、未だ10年余、今回の経済対策として主要国政府の通貨大増発の分も加わって、第二波の大津波はさらに巨大なものになって押し寄せてくるのかもしれません。さてそのとき己はどうすればいいのでしょうか。既に老人ホームでブツブツぼやいているのでしょうか。「That is a question」(苦笑)

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2020/03/04

今読む「世界史の針が巻き戻るとき」

書 名「世界史の針が巻き戻るとき」
-「新しい実在論」は世界をどう見ているか-
著 者 マルクス・ガブリエル
出版社 PHP新書
初 版 2020228
Img_2510thumb1 NHKドキュメント「欲望の資本主義」シリーズにも毎々登場する、若いドイツ人哲学者M・ガブリエルさんの新著です。日本でもとても人気のある哲学者です。著者自ら、「自分の哲学は京都学派に近い」と語るくらいですから、日本人とは相性がいいようです。今激変する世界に起きている危機として五つを挙げています。
①価値の危機、
②民主主義の危機、
③資本主義の危機、
④テクノロジーの危機、この四つの危機に横たわる、
⑤「表象の危機」。 
 NHKドキュメント「欲望の時代の哲学2020-M・ガブリエル『NY思索ドキュメント』-」が昨週から五夜放映されています。昨夜(33日)は第二回「自由が善と悪を取り違えるとき」、先週の第一回が「欲望の奴隷からの脱出」、来週第三回は「闘争の資本主義を越えて」、毎々のタイトルも魅力的、残り三回が楽しみです。
 五つの危機を乗り越えるには哲学が必須だと著者はいいます。その哲学が「新実在論」だと。そしてその「新実在論」が京都学派(根底は西田哲学)に近いと著者本人が語っているのですから、日本人の一人としては傾聴しないわけにはいきません。
 本書P95には「日本が果たす役割―新しい実在論と禅の役割-」の一項を設けて「『今』に集中し、欲望のレベルを下げるということは、実は『新しい実在論』の形でもあるのです」と瞑想の境地が著者自身の哲学の近接にあることを著しています。
 「仏教(禅宗)に代表される日本の価値観は、欲望を極力切り捨てて、大きな変化を求めるよりも今目の前にあるものを大事にする思想だ」と日本人編集者が教えてくれた、と。
 ちょっと気になるところは同じページに「仏教が結局のところはニヒリストであることを忘れてはなりません。」とあります。仏教を西欧的ニヒリズム(虚無主義)と理解しているのならそれは西欧人らしい浅い理解ではないかと、ちょっと真意を質したくなるところもあります。
 「新実在論」では主客未分の「意味の場」からの視点を説いていて、西田幾多郎が晩年言葉を紡いだ「絶対無の場」とも近接しているように思いますが、西田の“絶対”弁証法には届いていないように僕には思えます。だから仏教をニヒリズムと語るのでしょうか。人間の欲望を哲学で制御しようと意欲的に取り組む著者も、西欧人として神を宇宙の外において実在とする一神教の概念から抜けきれていないのかもしれません。
 仏教とりわけ大乗仏教は心の虚無の底に”仏性”をおいて自己の内に置き、神仏の概念を外に切り出すことをしていないので西欧的な”虚無”にはならないと思うのです。そして西田哲学でも言語由来の人間世界の相対界(岩井克人のいう「社会的実体」)の底に「絶対」を置くことで哲学の世界の土俵際に踏み留まったのではないかと思います。岩井克人さんが「カントの定言命題を真理としよう」と提唱しているのと同じ立ち位置にあります。
 「欲望」「欲望」と声高に語ると、欲望が諸悪の根源のように思えてきますが、生きものは、エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)に抗うことで生きている存在です。それが宇宙の始原から137億年の今日まで続く「いのちの活き」の方向性であり、その「いのちの活き」を生きもの(人間を含む)一般には生命力と呼称するのでしょう。 
 人間は、言語をもつことで、その生命力を欲望と呼称する社会的実体を作り上げてきています。著者の語る五つの危機はすべて、この言語由来の相対界(社会的実体=現世)の危機、それはまた言語由来の哲学を通して“欲望”という名の生命力を制御することで生き続けていく以外に方法論はないのでしょう。
 五つの危機は他人事ではなく、ドイツ人哲学者が日本を含む世界の危機として語っているのです。今、忖度に満ち満ちた日本列島、「日本は優しい独裁国家」とも著されています。民主主義も言語由来の概念ですから、民主主義とは何なのか?己れの概念を「意味の場」から問い直しておく機会にも好著です。

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2020/03/02

「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」

書 名 「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
Image_20200302095901thumb12020年3月5日時宜を得た一冊がでました。リーマンショックから12年、久々の世界同時株安がやってきた、今この時に。今回の暴落は「新型コロナショック」とでも命名されることになるのでしょうか、それにはしばらく日時を要するのでしょうが、そうなっては、新型コロナにしてみれば迷惑至極なことでしょうね。「因」はお前たち人間の内にあり、俺は「縁」にすぎないと。
 貨幣論というとちょっと手元から離れて冷めて眺めてしまいますが、「欲望の"お金"論」と身近に引き寄せて読むと、個々人のこれからの生き方にも関わる意義ある一冊になるのではないでしょうか。2017年から続くNHKドキュメント「欲望の資本主義」今年は四年目、年頭に「欲望の資本主義2020」が放映されています。毎々登場する経済学者にして哲学の人岩井克人さんの発言が確かな語りで耳目に残ります。ここから生まれたのが本書です。
 岩井克人さんの貨幣論の本質は、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」にあります。デカルトの「我思う故に我あり」そして「神は、信じるから存在する」とも通じる、自己循環論法です。米ドル紙幣の裏面に「IN GOD WE TRUST」と印字されている所以にも繋がっています。
 岩井克人さんは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはすでに資本主義の今日を予言していたといいます。アリストテレスは人と人との間の交換の手段として生まれた貨幣、「善く生きるという『目的』のための『手段』」として生まれた貨幣がそのまま「手段」と「目的」との逆転が起きるというのです。「手段の目的化」の自己循環の始まりです。言葉を操る人間は未来の存在を知り、未来に生きようと欲して夢を見る、夢とは欲望の姿形でもあります。
 「夢は実現する!」と姿形のないもの、永遠の逃げ水を夢と名付けて追い求め、さらにその手段として貨幣を欲し、終には貨幣そのものを目的化してしまいます。
 個人の欲望には限度があります。それは死があるからです。それは貧しい農民から身を起こし天下を取った太閤秀吉の辞世の短歌「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも明らかです。ですが人間という普遍の存在の欲望は個の死を乗り越え、乗り越えて人類ある限り無限に自己循環的に増殖していきます。
 その貨幣に仮託された人間の欲望の自己循環的増殖の行き着くところはハイパーインフレーションという破局でしかない、と岩井克人さんはいいます。その言語由来の自己循環的増殖の破局を制御できるとすればそれは、同じ言語由来の倫理、カントの倫理を真理とする市民社会の構築が必要だと説いています。カント哲学(定言命題)には「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段としてはならない」とあります。「汝自身をも!」です。
 「お金を獲得することを目的として、他者はもちろん、己れ自身をもそのための手段として供してはならない」といっているのではないでしょうか。歯に衣を着せずにいえば「お金を目的に働くな!」「利潤を目的に経営するな!」、「お金」も「利潤」も、「より善く生きる」ための”手段”であって”目的”ではないのだと。
 西田哲学の初めの一書「善の研究」には「『善』とは、自他相忘れ、主客相没する境地」とあります。己れと他者の分別を忘れる境地、カントの定言命題と通じるところ大です。
 今横浜港に係留されている大型クルーズ船そのものがグローバリゼーションの象徴的存在であり、そこに封じ込められることを拒む新型コロナウィルスの蠢動もグローバリゼーションの象徴であり、いのちの活きの象徴といえるのではないでしょうか。そしてマスクの買い溜め、トイレットペーパーの買い溜めに列をなす人間の形相もまた、グローバリゼーションの現れなのでしょう。そして経済のグローバリゼーションこそ人間の欲望の形相ですから。「因」は己れの欲望の内にあり、と。
 「貨幣はモノとして価値があるわけではない。貨幣とは、それが貨幣として使われているから貨幣としての価値をもつ。法が強制力をもつのも、言語が意味をもつのも、同様です。それだからこそ、貨幣も法も言語も物理法則にも遺伝子情報にも根拠をもたない社会的な実在性をもつことができる。そして貨幣の上に資本主義があり、法の上に国家があり、言語の上に人間の文化のすべてがある。それらを支える根拠は純粋に形式的な自己循環論法でしかない。自らの根拠を自ら作り出しているだけなのです。」岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中でこう語っています。
 人間の存在は、生物的実体と社会的実体の絶対矛盾的自己同一ではないか、だからそのど真ん中にカントの定言命題を絶対の真理とせよ、と語っているのではないでしょうか。
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<今読む「資本主義から市民主義へ」岩井克人著」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2014/12/post-9c3f.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_8446.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(2)「日本への奇襲攻撃」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_4348.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(3)「ものの側からの反乱」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_ecb1.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(4)「第二の敗戦記念日」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_a625.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(5)「ヨーロッパの自立」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_736b.html

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2020/02/01

<時間は実在しない(1)存在と実在と>

書 名 「時間は存在しない」
著 者 カルロ・ロヴェッリ出版社
NHK出版
51ailjuhvjl_sx346_bo1204203200__202002021621011.存在と実在
 著者カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者です。その物理学者が「時間は存在しない」と言っています。帯には「時間とは人間の生み出すものだと、言ったらどう思いますか?」とあります。このところ書店の店頭でこの「存在」なる言葉が、気になって買い求めてしまいます。日本でも人気のドイツ人哲学者M・ガブリエルは「世界は存在しない」と著し、若い日本の哲学者與那覇潤は「なぜ日本人は存在するのか」と著しています。
 ここにいう「存在」とは「being」の「有る」のことです。人間が時間、世界、日本人という言葉(概念)で意識上につくりだすものです。一方同じ「有る」でも「実在」という言葉、「reality」の「有る」もあります。人間の意識とは別に独立的に不変のものとして、変化しないものとして「有る」、相対的な「有無」を超えたところにあるというものです。
 ですからこれらの書名は正確には「時間は実在しない」「世界は実在しない」「日本人はなぜ存在するのか」と解して読むと格段に読みやすく分かり易くなるように思います。我々は何故日々分刻みに運行される満員電車に乗り、ちらちら腕時計を見ながら通勤しているのだろうか。あたかも時間が独立不変のものとしてあるかのように縛られています。M・ガブリエルも日本に滞在中に新幹線、山手線に乗り、渋谷の交差点の人混みの中を泳ぎ、こう語っています。「日本ではすでにシンギュラリティは起きているのかもしれない。分刻みの列車を走らせるために存在しているのではないか」と。
 定年は60歳、65歳と時計年齢で区切られています。時計年齢の75歳になると、自動的に役所から後期高齢者というお墨付きのハガキが届きます。同じ75歳でも人それぞれ老い方は違っているのに、あたかも時間が実在するかのように、老化が一様に進行しているがごとくに、です。
2.時間と空間
 紀元前5世紀の人、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、「すべては『空』である」と悟りを開いたといわれています。「空」とは森羅万象すべては変化して止まないということですから、この宇宙のすべては存在ではあっても実在ではないといっているのです。
禅仏教の曹洞宗を開いた道元禅師は著書「正法眼蔵」に一章を「有時」として時間論を説いています。ここでは「我は時であり、我は有(存在)である」という。道元のいう時間とは主体的時間のことです。鈴木大拙の「即非の論理」でいえば、「自我-即-有―即―時」という表現になるのでしょう。己れとは時そのものであり人生とは時の流れのことであると。
 20世紀に入ってアインシュタインは科学(物理学)の視点から時間と空間は一つのものでわけることはできないと解き明かしました。「時即空」です。
3.機能と構造
 生物学者今西錦司は著書「生物の世界」(1941年)のなかで「生物は空間的時間的存在である。空間的には構造的存在であり、時間的には機能的存在である」と。生きものは身体をもつことで構造的であり空間(静)的存在ですが、一方でPhoto_20200201135502「生きている」存在ですから継起的であり時間(動)的存在です。ここでも「自我―即―有―即―時」が成立しています。
4.飛んでいる矢は止まっている
 古代ギリシャの哲学者ゼノンが後世に「飛んでいる矢は止まっている」という問いを残しています。いわゆるゼノンのパラドックスです。このパラドックスをたとえ話として、今西錦司流に飛んでいる矢を構造的機能的存在と見れば、構造的存在としての矢は刹那に空間的存在であり「止まっている」、継起的に非連続の連続として矢(主体)は「飛んでいる」存在でもあるのです。
 競馬に喩えてみましょう。鞍上の騎手と馬の関係では、疾駆する馬は流れている時の有り様であり、時の流れとともにある鞍は“今ここ”の刹那の場(空間)その上に騎乗している騎手が我(主体・自我)という存在と云えるのではないでしょうか。人馬一体の疾駆はそのまま、道元のいう「有⇔我⇔時」の現れ(相)といえます。人間も誕生からゴールまで「人生は競馬」、「生死一如」、時間とは鞍上の主体の人生そのもののことでもあります。
 今西錦司の師であり京都学派の祖、西田幾多郎の言葉を借りれば「時間即空間・空間即時間」、時間と空間は絶対矛盾的自己同一なのです。ゼノンのパラドックスの「飛んでいる矢」こそ、宇宙創成137億年爾来の「いのちの活き」のことであり、その矢の飛んでいる方向こそ「いのちの活き」の不可逆な方向性なのです。
5.エントロピー増大の法則
 C・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」のなかで人間が時間という概念でとらえているものはエントロピー増大の流れだといっています。「エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。」と。 分子生物学者福岡伸一は著書「動的平衡」に「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」そして「エントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に自ら細胞を破壊し再生することで個体を維持している」と著しています。「サステナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」と。この動的平衡の流れを人間は、「時間」という言葉にしたのでしょう。
 樹木(図1)は幹から枝へ枝から葉へ明瞭な区切りはなく天空に向かって伸びていて、その姿を丸ごとすっぽり空気が包んでいます。そして幹は地中に潜り、どこまでも深くそして広く根を伸ばしています。幹と根の区切りも明瞭ではなく、根は土との境目も不明瞭なままにそのまますっぽり土に包まれています。樹木をすっぽり包んでPhoto_20200201135501いる空気と土、それはそのまま大自然であり、宇宙そのものであり、樹木は丸ごとそのまま大自然に包まれつつ、大自然と一体の存在なのです。
 葉を通して炭酸ガス(CO2)を吸収し、大地からは根を通して水(H2O)や養分を吸収して幹を、枝葉を構成していきます。構成されたものは有機物(炭素化合物)であり、それはそのまま高エントロピーそのものです。樹木と大自然の接している接面の外の大自然が相対的に低エントロピーであり、そのエントロピーを吸収し構造(身体)化していく過程そのものが、樹木が「生きていること」なのです。
 この樹木の切断面(図2)を見ると切断面を巻き尺で計っています。それはそのまま一年に一輪ずつ、拡がっている年輪でもあります。「時間=空間」を証明しています。樹木は大自然に包まれつつ大自然を内に包み込んで年輪(構造・身体・過去)化しているのです。
 図(3)にみるように、樹木と大自然と接している接触面が“今ここ”の絶対現在です。その接触面の内が“今ここ”の刹那の過去であり、外が“今ここ”の刹那の未来です。樹木の身体は未来の過去化、低エントロピーから高エントロピーへの流れ、この「流れ」を時と名付けたのです。Photo_20200201142601だから「時間は概念として存在しても独立した不変の実在ではない」ということです。
  生きとし生けるものはすべてこの樹木のように大自然(宇宙)に包まれつつ、大自然(宇宙)を包み込んで生きている(流れている)存在なのです。だから、すべては流れている時であり、すべては変化して止まない、不変の実在はないということなのでしょう。
6.行く川の流れ
 方丈記の冒頭の一節は川の流れにたとえて、世の中も人も住処も水の流れと同じだ、と詩っています。 空間的存在としては川、時間的存在としては水の流れ、「川即水」を詩っているのではないでしょうか。
 「行く“時”の流れは絶えずして、しかも元の“時”にあらず。“時”の流れに浮かぶ、うたかたは、浮かびかつ消え久しくとどまりたるためしなし」と、そして「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と詩っています。
 人は時であり、川は人生だといっているようにも思えます。こんなことを考えるのも、潮騒の音も微かに聞こえてくる年回りになった徴なのでしょうか、己れも存在ではあっても実在ではない 、ということですね。

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«<定義を変えるなら冠は「循環型」に>