2022/12/03

<“敵基地反撃能力”と“敵基地攻撃能力”と>

 敵基地反撃も敵基地攻撃も「敵」を前提にした言葉ですから、つまるところ「反撃と攻撃」とに分けて論じている言葉の綾ですね。なにやら安倍政権の錦旗「成長なくして分配なし」と、岸田政権の錦旗「分配なくして成長なし」と同じ論理、同じ「言葉の綾」に過ぎないのでは?。
 戦争はウクライナVSロシアの悲惨を見るまでもなく、「攻撃→反撃→攻撃→」と終戦まで果てしなく続いていきます。ですから現与党のいう「攻撃能力ではなく、反撃能力だ」の論理はこの果てしなく直線的に続く「攻撃と反撃」をどこで切るかのまさに言葉の綾、「分配なくして成長なし」も同じ言葉の綾「成長→分配→成長→」のどこで切るかの詭弁に過ぎません。***************************************************************************************************** 書 名「誰が国家を殺すのか」-民主政は民主主義を自認する人々によって壊される-
著 者 塩野七生
出版社 文藝新書
初版日 2022年11月20日
Photo_20221203141601  今時の日本社会の混迷は偏に、政・官・財・学を統べるエスタブリッシュメントの巧みな言葉の綾が、語源のはずの美しい織物の綾とは似て非なるものに堕ちてしてしまっているところにその原因があるのではないでしょうか。しかしその織物で仕立てた着物を着ている我々一般庶民(選挙民)のセンスでもあるのかもしれません。
 大乗仏教哲学のひと、鈴木大拙さんなら「攻撃即反撃」と言葉にするのではないかと思います。攻撃と反撃は同じものではないが異なるものでもない、「非同非異」と。「成長と分配」は非同ではあっても非異ではなく、まったく異なる言葉を並べただけで綾どころか織物にすらなっていないのです。
 「鶏が先か卵が先か」は言葉をここで止めないで、「卵が先か鶏が先か」と続けて初めて「即」の意味が見えてきます。「鶏→卵→鶏→卵→」と非連続の連続と連鎖しつつ、不可逆的に変化(進化)していく循環の輪、メビウスの輪。
 森羅万象の「いのちの活き」はこの循環の輪を不可逆な流れとして流れているのではないかと思います。防衛費をGDPの2%にして、敵基地反撃(攻撃)能力を高めればその不可逆な循環の流れは一層加速することになるのは必定ではないでしょうか?
 塩野七生著「誰が国家を殺すのか」が出版されています。時宜を得た一冊です。月刊誌文藝春秋連載の著者のコラムをまとめた「日本人へⅤ」です。P111にこう著しています。
 「歴史に親しむ日々が重なるとメランコリックになるよ。・・・・・われわれ二人ともが三十代だった頃の高坂正堯だった。・・・・・智者は歴史に学び愚者は経験から学ぶ、ということになっているのに、愚者はせめて経験から学んでいるのに、智者も愚者もいっこうに歴史から学ばない。という現実を見ているとメランコリックにならざるを得ない、と思っていたからだろう。」と。今を去ること50年前、著者と保守政治学者高坂正堯さんとの対話の一コマです。
 「愚者はせめて経験から学んでいる」とあります。とすれば「誰が国家を殺すのか」は明々白々、犯人は歴史からさえ学ばない智者ということになるのでしょう。しかしここにいう智者とは、「政・官・財・学」を統べる現エスタブリッシュメントのことか?愚者とは、先の大戦の惨劇から78年、広島・長崎の原爆体験の悲惨、福島原発事故の悲惨の経験を忘れた、現我々一般庶民のことか。?
 鈴木大拙さんならこれも「即非の論理」で犯人は「智者即愚者」と言葉にするのでしょうか?

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2022/12/02

2022年11月29日日経新聞朝刊(2) <岸田首相「防衛費GDP2%、27年度に」 財源は年内決着>

2022年11月29日日経新聞朝刊一面(2)
 財政はすでに先の大戦で無条件降伏した時点の累積赤字を超えている事態。いくら敵基地攻撃装備を増やしても、既に継戦能力を欠いていて、戦わずして負けています。2%の増額でさらに財政赤字を積み増すというのですから、何をか言わんや、論語以前に算盤を。
岸田首相「防衛費GDP2%、27年度に」 財源は年内決着: 日本経済新聞 (nikkei.com)

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2022年11月29日日経新聞一面(1)<原発先細り、打開探る 建て替えや運転延長にカジ>

2022年11月29日日経朝刊一面(1)
 柊の微かな匂いに穏やかな心を得た刹那、一面の二つの記事に心は一気に暗転してしまった。先の敗戦前に生まれこの歳まで生きてきて、この国の民主主義は形だけだとは思ってはいたけれど、岸田政権恐るべしです。安倍元総理の国葬も原発再稼働も、防衛費2%、敵基地攻撃能力も勝手に決めてしまう。国葬にした意味はここにあるのかもしれませんね。憲法改正まで勝手にやって安倍政権の総仕上げのつもりか?
 40年の耐用年数を60年に延長し、返す刀で停止中の期間は、さらに加えて延長することができると。物理的劣化、経年劣化という熱力学の第二法則は神国の日本にははたらかないとでも思っているのでしょうかね。
原発先細り、打開探る 建て替え推進/運転60年超可能  技術・資金、民頼み限界 安全基準作成に時間 :日本経済新聞 (nikkei.com)


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2022年11月29日「玄関先の匂い柊の香り」

朝刊を取りに玄関を開けると微かに甘い香りが漂っている。匂い柊の穏やかな香り、微かがいい、微かが。
自然の画像のようです



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2022/10/23

<ひとはみな「己れが己れ自身を騙してる?」>

書 名 「経済学に騙されるな!」―人間らしい暮らしを取り戻す10の原則―
著 者 トマ・ポルシェ
出版社 NHK出版
初 版 2021年12月25日
Photo_20221023154801  帯には「失業は自己責任」「公的支出の負債は将来世代の負担」「市場は常に正しい・・・・」。それは「誰にとっての“真実”か?」とあります。そして「その常識を疑え!」とも。
 言葉を変えれば、「己れの内に問え!」、「己れを疑え、玉ねぎの皮を剝いて、真ん中に芯を見出すまでは!」と。「常識」とは、己れの有(も)つ固定観念だから。「常識とは教育がつくり出す偏見だ!」といったのはアインシュタインでしたか?。
 今時の円安の原因は?、物価上昇の原因は?、30年に及ぶ長期にわたる賃金の停滞の原因は?、膨大な国家の財政赤字の原因は?、日本は本当に終身雇用制といえるのか?、等々。 内なる己れに問う、そのための問いとして、著者は、最終章に下記の10項目を掲げています。
**********************************************************************************
  2012年12月に始る安倍・黒田ミックスによって①円安、②インフレ、③トリクルダウンが起きると日本人の多くが信じていました。10年を経て①②は確かに起きました。しかし③はいまだ起きていません。むしろ格差は広がっています。何故起きないのでしょうか、トリクルダウンは。
 GDPの2.5倍に及ぶ日本国の財政赤字も「MMT経済理論によれば、国債が国内で消化されているのだから問題はない」、という政治家、経済学者も多いのです。確かにそう思います。しかし「国内で消化されているうちは」という前提を聞き落としてしまいがちです。さらにMMT経済理論には後半があって、通貨の流通量は増税、インフレ、金利調整による通貨の為替調整によって調節する、だから問題ないといっています。今時のインフレ、円安はまさにMMT理論の後半部分が予言通りになりつつあるということかもしれません。
 MMTにいう“増税”に至っては、累進課税、法人税増税は通貨流通量の調節以上に、“強欲”を制御するためだ、とも記されています。さて今時のインフレ、円安に己れは如何に対応すればよいのか?他人を騙すためでも、他人に騙されるのでもなく、“己れ自身に騙されないためにも店頭での立ち読みも一興かもしれません。
<結論―支配的意見から身を守るための10の原則=>
第一の原則 どこでも処方可能で効果抜群とされる特効薬を警戒せよ
第二の原則 それ以上は不可能という言葉をうのみにするな
第三の原則 成功の原因も失敗の責任も個人だけにあるのではない
第四の原則 労働市場の柔軟性が失業対策になると考えてはならない
第五の原則 公的支出削減の必要性を信じずに、公的支出で何がまかなわれているかを知ろう
第六の原則 金融資本家を除けば、金融は誰の味方でもない
第七の原則 公的債務を心配するな
第八の原則 地球温暖化をめぐる聞こえのいい発言に耳を貸さず、行動を検証しよう
第九の原則 ヨーロッパを愛するなら欧州委員会に注文をつけよう
第十の原則 自由貿易がすべての人にとって有益であると信じるな

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2022/10/17

<「世間虚仮、唯仏是真」>

書 名「ぼくらは嘘でつながっている」
    -僕は嘘つきだ。そしてあなたも、嘘つきなのである。―
著 者 浅生鴨
出版社 ダイヤモンド社
初 版 2022年9月13日
20221017 この本、要約すると「世間虚仮、唯仏是真」という一語に尽きるように思います。聖徳太子がわれわれ後世に伝えた悟りの言葉、「世間はすべて虚妄であり、仏の教えのみが真実である」と。
 現生人類が他の生きものと別れ、世間とか現世といった人類固有の世界を生きるようになった契機は5万年前に言葉を使い始めたことによるものといわれています。言葉によって意識が生じ、「ものこと」の存在を認識するようになったからです。
 言葉によって、元来、分けることのできない「時空」を「時間と空間」とに分け、さらにその“時間”を「過去・現在・未来」と分けて時系列に並べました。そして“空間”を「己れと他者(他物)」とに切り分けたのです。
 それは、「ウクライナVS.ロシア」、「米国VS.中国」等々、現在人間社会を縦横無尽に切り裂いている“分断”の起源でもあります。
 聖徳太子の悟りといっても所詮は言葉、書名にある唯一の漢字「嘘」を「言葉」という漢字二文字に置き換えると、書名は「ぼくらは言葉でつながっている」と読み換えることができます。
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 「嘘と言葉」も色即是空「同じではないが別のものでもない」、「嘘“即”言葉」です。「色即是空」は「空即是色」と循環しますから、人間社会(現世)は「嘘“即”言葉→言葉“即”嘘」、「虚仮“即”仏→仏“即”虚仮」と永遠の循環を繰り返しながら不可逆的に変化していくということなのです。
 帯には「嘘の海に浮かぶ、それぞれの“真実”が、愛おしくなった。人が人と向き合うとき、本当に大切にするべきものをこっそり教えてもらえた気がした」と、あります。書店の店頭でこういうキャッチ・フレーズに出会うと、思わず胸が高まります。「どきっ」というか「キュン」というか、これも「どきっ”VS.“キュン」なのでしょうか。胸がときめきます。(苦笑)
 「VS」を「即」に変換すると言葉にできない「本当に大切にするべきもの」がみえてくるのかもしれません。それは「“真実”」、それはいつも言葉と言葉の“あいだ”にあると。 
 読後に、子供の頃、戦闘帽を被ったシベリア抑留帰りの父親に手を引かれ闇市を歩きながら耳にタコができるほど聞かされた言葉を思い出しましす。
 「他人を騙してはいけない。しかし他人を騙す力を有たないと他人に騙されてしまう。だから騙す力を有つて騙さない」と。齢八十、老いてこの言葉を思い出すと、父親は「まずは己れを騙ませ!」、といっていたようにも聞こえてきます。「己れすら騙せない者に他人を騙せるわけがない」ですからね。
<追伸>
 現在の日本の政治家にも是非、読んでいただきたい一冊です。「ばれる嘘はつくな、所詮嘘なのだから」と。「どおせ、わたしを騙すなら騙し続けて欲しかった」、所詮われわれ庶民は演歌の世界に生きているのですから。 

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2022/09/26

<「国葬は是か非か」からの脱構築(二元論からの自由)>

書 名「現代思想入門」ー人生が変わる哲学-
著 者 千葉博也
出版社 講談社現代新書
初 版2022年3月20日
20220926 言葉による表現は二元論にならざるをえません。言葉がもつ本質です。人間が5万年前、言葉を使うようになって以来、人間社会は森羅万象の多様な関係性を言葉の器に掬い取ることによって分断し、かつ、その分断を再接続するという分断と接続の循環の流れのなかを生きているのではないでしょうか。
 安倍元総理の「国葬は是か非か」、争論渦巻く中、それは明日に迫っています。その当日には、国葬を「是」とする立場からは、「非」とする立場は切り捨てられてしまいます。あらゆる決断は「是と非」の分断を伴う「ものこと」ですからそれは止むをえないことではあります。
 ですが、「是」とする側は、是とする言葉の器からこぼれ落ちてしまう多様な「何か」があることに想いを致しておいて欲しいと、僕は願っています。その切り捨てた「何か」が、その分断によって起きるであろう未来の新しい対立を新しい言葉の器に盛ることで修復する契機になるのではないかと思うからです。
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 著者千葉雅也さんは、本書を通して、「是か非か」の「二項対立」(二元論思考)から自由になるために「脱構築思考せよ!」と、フランス人哲学者三人の哲学を論じています。
  デリダから「概念の脱構築」、ドゥルーズから「存在の脱構築」、フーコーから「社会の脱構築」を、と。「脱構築」は切り捨てられた「何か」に想いを致すことだとも言います。この言葉は、鈴木大拙が大乗仏教の真理を言葉に紡いだ、「即非の論理」と共振するところがあります。
 塩野七生さんは著書「ギリシャ人の物語Ⅲ-新しき力-」に「知力を鍛え、自分の頭で考えよう」と、「哲学」の有り様を下記のように著しています。
20220926_20220926160201①P185「アリストテレスは・・・・論理学の創始者というのに、次の一句でその乱用に警鐘を鳴らしている。『論理的に正しくても、人間社会でも正しいとはかぎらない』。「知識」と「知力」のちがいを痛感せずにいられない一句である」と。
②P186「哲学とはもともと、知識を得る学問ではなく、知力を鍛える学問なのである。」と。
③P187「なにしろ哲学そのものからして、自分の頭で考える重要性を教えているのだから。」と。
 本書「現代思想入門」の帯には「人生が変わる哲学」とあります。知力をつけると「生き方が変わる」といっているのでしょう。僕の読後の感想は書名と帯の言葉を入れ替えて欲しいなぁ、と。(笑)

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2022/09/11

<お金のいのちの活きの全機現(2)>

2022年9月11日(日)日本繋辞新聞朝刊―先読みー
「農業、脱炭素の主戦場に」ーEUが炭素貯留で法制化ー
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD267QJ0W2A820C2000000/
 炭素貯留農業(カーボンファミング)という新しい?言葉ができたようです。農地の土壌中にCO2を貯留し、それをカーボンクレジットとして売却できるようにするのだそうです。脱炭素と食糧安全保障の二兎を追う施策だそうです。
 これもCO2を媒介として農業補助金(税金)を”お金のいのちの活き”(資本)に換える政策のようにもみえますね。「法衣の下の鎧」という言葉も日本語にはあるのですが。唯々南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
2022911()
渡良瀬遊水池ウォーキング
 爽やかな風が池面を渡ってくる。若人は必死にオールを漕いで有り余るエネルギーを発散しています。老人の己れも歩くことでエネルギーを消費しています。余っているという自覚はないのですが。(苦笑)
20220911img_1570-002
堰堤の道の両側は先週とは様変わり。木々の緑は旺盛な毛虫の食欲に覆われて白々と痛ましい。この毛虫、戦後間もなく入って来た外来種アメリカシロヒトリ、我が家の庭も夏椿,もみじ、柿の木と旺盛に広がっています。
 20220911img_1568-002木々の葉は毛虫のいのちの活きの源、若人や老人の己れのエネルギーの源はお金のエネルギー(資本)を媒介しないと得られないのですが、毛虫のいのちの活き、木々の葉のいのちの活きはメビウスの輪にも象徴される食物連鎖の循環の中に全機しています。
20220911img_1572-002  オールを漕ぐ若人、老いの醜態を晒して歩く己れのいのちの活きの源が資本と名づけられたお金のいのちの活きを媒介しているとすると、さらにその源、お金のいのちの活きのエネルギーの源は一体何なのだろうか?。
  経済学者にして哲学の人岩井克人さんは「貨幣とは他人が受け取るがゆえに貨幣であり、他人が受け取るが故に己れは保有する」と定義しています。他人が受け取る可能性という”関係性”においてのみ、お金のいのちの活きの存在のエネルギーということなのでしょう。
20220911   人間のいのちの活きの全機現は、お金のいのちの活きの全機現と不可分の有り様(即非)をしているといえるかもしれません。安倍元総理の国葬問題、東京五輪の怪しいお金のいのちの活きの関係性は全機しているとはとてもえませんね。
  木々の葉と毛虫の食物連鎖も’関係性”、さすればすべてのいのちの活きの根源はこの”関係性”にあるといえるのかもしれません。縄文の思想「森羅万象に神宿る」の「神」もこの"いのちの活き"のことであり、このエネルギーのことですから。 

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2022/09/02

<資本(お金の”いのちの活き”)の全機現(1)>

2022年8月27日付日本経済新聞朝刊一面のトップ記事
「炭素クレジットに投機資金」

  1. (グリーンバブル)炭素クレジットに投機資金  仮想通貨への転換が取引の1割弱に 価格不安定、活用に壁 :日本経済新聞 (nikkei.com)
  2. カーボンクレジットとは 温暖化ガス削減効果を売買: 日本経済新聞 (nikkei.com)
  3. 脱炭素取引に浮かんだ謎 「幽霊クレジット」を追え: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 早くも「脱CO2!脱炭素社会実現!」の本質が露わになってきました。カーボンクレジットと名づけられた金融商品が新たに組成され、さらにそれが仮想通貨(原料は電気エネルギー≒CO2)と結びつき、そこに待機資金という名の実体経済の場に投資として循環されない余剰資金(資本)が流れ込んで、「脱CO2」実現に向けた投資の先取りをする仕組みが暴走しはじめています。名づけて「グリーンバブル」。
 資本(お金のいのちの活き)が「脱CO2」という未来の経済成長(実現するかどうかも不明な)の先取りをしてしまうのです。「脱CO2!」の旗印を掲げる人びとの人間第一主義の驕り、要素に還元していけば、すべては解決できるという還元主義の驕りが露骨に顕れているように思えます。リーマンバブル、コロナバブルの未だ冷めやらぬ、今、次はグリーンバブルだと。
 気候変動が人間の現在の生活を脅かしていることは明らかです。ですがその原因がCO2にあるとして「脱CO2!」と掲げるのはいささか短絡的に過ぎるように思います。
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20220902  成長機会の乏しくなった先進国の実体経済の場では活かす機会を失った余剰資金(お金のいのちの活き)を虚体経済(金融経済)の場で活かせる手段として、「カーボンクレジット」なる金融商品を組成したのではないでしょうか。虚体経済の場はケイマン諸島(租税回避地)とも直接つながっています。そこに流れ込む租税を回避した資本(お金のいのちの活き)は、機会さえあれば、そこから波状的循環的に虚体経済(金融経済)の場へと流れ込んできます。実体経済の場は、創造した資本(お金のいのちの活き)を吸い上げられるばかりで循環することはありません。
 日本の国家債務は既にGDPの1,25倍、先進国のみならず世界中の国々の国家債務の膨張をみれば、それはあきらかです。今現在、ケイマン諸島へ逃げ込む資金の流入源の第一はアメリカ、次いで中国、そして三位が日本だそうです。
Photo_20220902110001 宇宙の成り立ち、地球の成り立ち、そして生きものの成り立ちは人間の力で巻き戻せるほど単純ではないのではないでしょうか。なにしろ宇宙誕生から137億年、太陽系誕生から48億年、生命誕生から35億年、現生人類誕生から5万年と、現在の人間の時間的価値観では測り得ない想像を超える歴史の流れの渦中に“今ここ”の現在があるのですから。
 海洋プラスチックの問題も生態系に悪影響を及ぼしていることは間違いありません。すでに人間の血液中にもマイクロプラスチックが存在しているといいます。
 Photo_20220902144301眼にみえないCO2より、先ずは地球上の眼にみえる廃棄物をゼロにする活動が先決のように思います。さすれば廃棄物増加の最大の原因は、先進国の人間(富裕層)の過剰消費(=成長至上主義)にあるのです。そして世界人口の上位10%の超富裕層が富(余剰資本)の50%を占有し、CO2の50%を排出し、下位50%35億人の人々はCO2のたった7%しか排出していないのです。排出権取引のまやかしがここにも露呈してしています。
 余剰資本(お金のいのちの活き)を“全機現”させることが必須なのだろうと思います。さすれば核廃棄物の処分ですらできていない現在、そして福島原発事故を体験した今、原発再稼働、原発新増設といった短絡的な方向へは向かわないはずではないでしょうか。
 20220902_20220902151901“全機現”は禅の言葉です。「いのちの活き」を全機させることです。とかく「ひとの命の全機」という方が多いのですが、これも人間中心主義の顕れではないでしょうか。ひとのいのちの活きそのものがひと固有のものではなく、森羅万象のいのちの活きの関係性によって成り立っている“ものです。そこには「お金のいのちの活き(資本)」も関わっているはずです。「森羅万象に神宿る」の「神」とは大自然の「いのちの活き」のことですから。そしてその”いのちの活き“と”エネルギーの活き“も同義です。
 「禅とは何か?」については2022年3月に出版された、縁者小森谷浩志さんの「禅的マネジメント」が時宜を得た好著です。
「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<経済の実と虚-1971年8月米ドル金兌換一時停止以前と以後ー>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
<経済の「実」と「虚」(2)-オオカミは来るか、来ないか->: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)

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2022/08/23

<”今ここ”にある危機>

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書 名「22世紀の民主主義」
著 者成田悠輔
出版社SB新書
出版日2022年7月15日
 「強者を徹底的に勝たせる『資本主義』」、「弱者に声を与える仕組みの『民主主義』」、とあるのは日経新聞朝刊8月6日の書籍広告のキャッチコピーです。そして三行目に「二人三脚の片足が、いま重症である。」と記されています。
 書名は「22世紀の資本主義」、ウクライナ戦争を巡ってウクライナ政権側を支持するか?、ロシア政権側を支持するか?、分断されている世界。分断は民主主義か権威主義かの分断でもあります。その一方の側の民主主義が重症だとありますから、おのずから、マウスはアマゾンへ跳んでいきました。(笑)
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 “今・ここ”の日本(に住む個人、家族、国家)の喫緊の課題(危機)は個々人それぞれ、軽重、長短、善悪、好悪はあれど列挙すれば、思いつくだけでも数限りなくあるのではないでしょうか。それらのすべては前後、左右、上下に無限大に広がっている関係性の網の結び目の一つ。個別に論じ、個別に解決策を見出し、仮に個としての問題は解けたとしても“今ここ”の現在の全体の課題は解決しない。全体という関係性の網の破れ目、それは新しい危機(課題)へと連鎖していくのではないでしょうか。
 一人の個としての人間として、個人、家族、企業、国家等々多様な「いのちの活き」を生き続けていくために、個々の「いのちの活き」は蜘蛛の網に捕らわれた蝶や蜻蛉のように往生するわけにはいかない。この関係性の網に中心はあるのか、ないのか、あるとすればその中心に蜘蛛はいるのか、いないのか。
 無限大に連鎖する関係性の網のどこへ逃れたら生き残れるのか、今こそ己れの頭と心とそして身体で思考する時なのではないでしょうか。それが個々の「いのちの活き」が危機に対処する唯一の途なのですから。己れの思いつくままに“今ここ”にある危機を上げてみました。
★国家の債務1.25千兆円(GDPの2.5倍)とは何か?
★ウイズコロナとは何か?
★GDPとは何か?
★成長とは、生産性・効率とは何か?
★脱炭素、SDGsとは何か?
★少子化とは何か?
★格差拡大とは何か?
★台湾有事(米中対立)とは何か?
★防衛予算GDPの2%とは何か?
★憲法改正とは何か?
★日米協定とは何か?
 下記の書籍も思考する導きの糸になるのではないか?と、書名とサブタイトルを列挙してみました。
☆「国家と資本主義支配の構造」佐藤優著
 -世の中は「虚偽の意識」に満ちている・だまされずに賢く生きるための思考法-
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☆「民主主義の非西洋起源について」デヴィッド・グレーバー著
 -「あいだ」の空間の民主主義-
<「民主主義VS.社会主義」そして「資本主義VS.コミュニズム」>: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
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☆「資本主義から市民主義へ」岩井克人著
  -社会・国家・資本主義の本質が1冊でわかる!-
今読む 書名「資本主義から市民主義へ」岩井克人著: ともだちの友達はともだちだ! (cocolog-nifty.com)
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2022/06/22

<映画「峠」を観て、思う>

Photo_20220622154401 2022年6月17日(金)コロナ禍で遅れに遅れていた、待ちに待った映画「峠」の公開初日早速家内を伴って観に行った。平日の昼間、主人公は河井継之助、そしてサブタイトルの「最後のサムライ」もあってか圧倒的に高齢者が多かった。
1.絶対矛盾的自己同一の場としての「峠」
 司馬遼史観にどっぷり浸かっていた若かった己れの宮仕えの頃、「坂の上の雲」の連載を読むために一時的に日経新聞を止めたことを思いだす。「峠」の主人公河井継之助と出会ったのもこの頃だ。「田舎の三年京の昼寝」の諺を知ったのもこの小説との出会いだった。己れが宮仕えを終える契機となった赤い線が今も鮮やかに残っている。
 映画は二つのシーンからはじまる。第一は徳川慶喜(東出昌大)の二条城での大政奉還のシーン。それは徳川幕府の終焉、新政府へのひたすらの恭順の道を歩む選択だ。第二は譜代大名長岡藩を代表する河井継之助(役所広司)と新政府軍を代表する軍監岩村精一郎(吉岡秀隆)の会談、世にいう小千谷会談のシーンから始まる。
 映画のタイトル「峠」を暗示する場、鈴木大拙のいう即非の論理、「戦即非戦」、西田幾多郎のいう絶対矛盾的自己同一の場だ。
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2.「非戦」は絶対の平和
  第一のシーンは「非戦」を象徴しているが、第二のシーンは「戦と非戦」の分かれ目、まさに小説、映画のタイトルの「峠」であり「即」であり「と」がテーマだ。
 ところが峠は二つの道の分岐点ではない。僕の山歩きはピークハントより幾つかのピークを結んで歩く縦走が好きなのだが、ピークとピークの間には馬の背のような“鞍部”と“峠”がある。鞍部は下ってきた道は一休みすると、次の高みへ向かっての上り道になる。
 しかし“峠”は山道と人里への道とが交わるところだ。真っ直ぐ次の高みへの道を目指すのか、東へ下るか、西へ下るか、三つの道の分岐点になる。「峠」に立った徳川慶喜は、立ち止まりひと時悩んだ末に、「戦“即”非戦」、”即“は「と」ではない、同じものではないが、異なるものでもない」ひたすら「非戦」の高みへ登っていく。「非戦」は「絶対の平和」の追求という困難な道だ。
 「武装中立」を掲げ、武士道、正義の形而上的高みを目指す河井継之助にも、新しい時代の流れを歩んでいる新政府軍岩村精一郎にも、出会った「場」そこに東西へ下る道は見えていなかった。二人にはそこは峠ではなく鞍部にしか見えていなかったのだ。
 しかし最後の将軍徳川慶喜が絶対の恭順の決断を下した後では譜代大名長岡藩には戦う大義どころか、武装中立の正義もない。膝を屈し道を譲ることしか選択の余地はなかったのだ。
  河井継之助の武士道の美学が描いた地図にはその道は記されていない。武装中立の道しか記されていない地図をもつ河井継之助を意思決定者にいただく長岡藩の領民は城も城下も大地も焼き尽くされ、維新後長きにわたって地獄の苦難を強いられることになる。
Photo_202206221545013.陽明学のひと二人
 河井継之助が藩政改革の師と仰いだ備中松山藩の家老山田方谷は共に行動の哲学陽明学の人であった。司馬遼太郎は小説「峠」の結末を上巻のP323(全体の1/6あたり)に方谷から見た継之助評、継之助から見た方谷評として予言している。
<山田方谷からみた河井継之助評>
 「どうも河井は豪(えら)すぎる。豪すぎるくせにあのような越後のちっぽけな藩に生まれた。その豪すぎることが、河井にとり、また長岡藩にとり、はたして幸福な結果をよぶか、不幸をよぶか」と。
<河井継之助からみた山田方谷評>
「『少し、人物が小さいな』その理由は、たかだか五万石の小藩の宰相だからである、小天地は、所詮はその柄にあう人物しか育てぬ。これは方谷先生の不幸である、といった。」と。
 映画の第一のシーン将軍徳川慶喜の傍らには老中板倉勝静がいた。その板倉勝静は備中松山藩の藩主。山田方谷はその藩主の留守を守り、困難な藩政改革を成し遂げ、大政奉還の秘策を藩主であり老中でもある板倉勝静を通してしたためている。河井継之助には山田方谷のその立ち位置の大きさはみえていなかったのではなかろうか。
 将軍徳川慶喜と老中板倉勝静は「戦即非戦」の絶対矛盾的自己同一のか細い非戦の道、を「ひたすらの恭順」として貫き、江戸城無血開城という世界史上奇跡の平和を成し遂げている。
 藩主板倉勝静の留守を預かる山田方谷も朝敵として新政府軍と開戦必至の状況で対峙している。河井継之助とまったく同じ立場に立ちながら、戦端を開くことなく、堂々と無血開城を成し遂げ城下を、領民を戦火に巻き込むことなく「戦即非戦」の絶対矛盾を矛盾のまま貫いた。そこに絶対の平和がある。
 陽明学徒は行動の哲学であるがゆえに非業の死を遂げる、といわれている。幕末の大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰又然りだ。河井継之助は先例に倣い、山田方谷は天寿を全うした。
4.師と弟子の明と暗
 山田方谷は藩政改革の渦中でもすでにその善政から領民に慕われていた。維新後にJR伯備線開通の折、地元の人びとは人家のないところに駅をつくらせ、方谷駅と名を残させていることにも表れている。JRには人名のついた駅は唯一ここのみと。そこは山田方谷が家老職にありながら、自ら開墾し続けた土地であり、河井継之助もそこで山田方谷と共に起居した場、高梁川を挟んで新政府軍と対峙した場でもあった。
 共に陽明学を奉じる師山田方谷と弟子河井継之助二人の明と暗は何処にあったのだろうか。答は小説「峠」に司馬遼太郎が記しているあとがきのなかにあるのではなかろうか。河井継之助の生き様と、それを小説に結晶化した司馬史観のなかに。
 そして古今東西、戦争はいつも政治家が起こす。己れの哲学のおもむくままに。
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2022/05/19

<梅棹生態史観を海で包む、川勝海洋史観で考える「ウクライナの次」>

書 名「文明の海洋史観」
著 者 川勝平太
出版社 中公叢書
初 版 1997年11月1日

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1.梅棹生態史観を海で包むと
 梅棹生態史観にいう第一地域の西端(西ヨーロッパ文明)と第二地域(Ⅲ.ロシア文明)の“はざま”が今、戦争状態にあるウクライナです。そしてそこは中国の一対一路の陸の先端でもあります。中国は第二地域(Ⅱ.中国文明)であり、一帯一路構想は陸だけでなく東アジア-東南アジア-インド-中東へと連なる海路でユーラシア第二地域を一周する円環としての一帯一路を構想しています。とすると図1.梅棹生態史観のユーラシアには表現されていなかった海洋を視界に入れて考える必要がありそうです。
 著者川勝平太(現静岡県知事)さんは、図1.に海洋を書き加え、図2.川勝海洋史観(梅棹生態史観を海で包む)を提示しています。
Photo_202205191435012.ウクライナの次は東アジア?
 現在のウクライナに起きている問題、次は第二地域のⅠ.中国と第一地域の東端に位置付けられている日本との“はざま”の東アジアにおいて起こりうる問題です。中国の現在の国家体制(清朝帝国の継承)の続く限りにおいては。
 そこは、明治期から始まった日本の近代化が西欧を追随した植民地帝国主義として結実したことによって、蹂躙した韓半島、台湾、東南アジア、そして唯一日本本土の戦場として甚大な惨禍に見舞われた沖縄です。
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Photo_20220519143901 図2.に示した①沖縄は明治期には琉球王国という名称の独立した国家であり、清朝帝国と江戸幕府(薩摩藩経由)とに両属することで均衡を保ちつつ自立してきた国家です。1879年日本が主導して弱体化していた清朝帝国との関係を力づくで、断ち切り沖縄県として併呑してしまったのです。歴史上琉球処分といわれています。
 同じく①台湾は1895年日清戦争によって清朝帝国から割譲された地域、②韓半島(北朝鮮・韓国)は1910年に清朝に服属していた大韓帝国を併呑し日本帝国に組み込んだ地域です。そして③北方四島はロシアが第二次世界大戦の最終局面で大日本帝国からもぎ取った地域です。①②③は第二地域の中国、ロシアと東端の第一地域日本との“はざま”の地域であり、現在のウクライナ、東欧、北欧と酷似する問題を孕んでいる地域なのです。
 現在ウクライナを武器支援、経済的支援をしているG7(先進七か国首脳会議)のうち六カ国は図1.の第一地域西端の国々です。アジアでは唯一日本一国のみです。ウクライナ後に問題となるであろう地域は、生態史観的には、日本一国が中国、ロシアと対峙しなければならない問題なのです。 
 万一、日本が直接戦火を交えることになれば、ウクライナ同様にG6カ国からの武器支援、経済的支援は期待できても、勝ち負けに係りなく、日本列島はウクライナのような凄惨な廃墟が現出することは間違いありません。いずれが正義か?いずれが勝つか?負けるか?の二元論的対応をしてはならない絶対矛盾の切所に立つことになることは必定です。
 梅棹忠夫さんは著書(文明の生態史観)の中で、徳川幕府は何故鎖国をしたのだろうか?。天下分け目の関ケ原のとき、東西両軍の鉄砲の数は世界一、当然鉄砲の生産量も世界一、世界一の軍事大国だった日本列島は軍縮へと舵をきった。もしあのまま近代化、軍事大国化を推し進めていたら、日本はベンガル湾で日英戦争を戦い、コロラド山脈の西側で日米戦争を戦っていたかもしれない、と著しています。著したのは敗戦からたった12年後のことです。
3.進歩史観か生態史観か
 著者川勝平太さんは、梅棹生態史観を海で包み図1.を修正して、図2.を描き、それをを起承転結と4つの章を立て論じています。承之章を「歴史観について」と題して西洋的近代的歴史観(進歩史観)と西田幾多郎の系譜に連なる京都学派の歴史観を明らかにし、西欧の近代的歴史観(進歩史観)を“時間的視点”、京都学派の歴史観を“空間的視点”と表現し、P105に次のように著しています。
 「近代西洋の生んだ知的巨人、哲学者ヘーゲル、自然科学者ダーウィン、社会科学者マルクスがそれぞれ絶対精神の自己実現、生物の進化、社会の発展段階というように時間軸によって世界観を建てたのに対し、京都学派の哲学者西田幾多郎の場所、自然科学者今西錦司の棲み分け論、人文学者梅棹忠夫の生態史観は空間軸によって世界観を立てているのである。西洋文明の変電所の役割をもち、「後進日本」に向かって近代化の基礎を説いて大衆を啓蒙してきた東大アカデミズムの「進歩的立場」に対して、京都学派がアンチ・テーゼを出しつづけてきたのは、世界観を構成する枠組みが根本的に相違しているところによるといえるであろう。」と。
 ウクライナ後に起きるであろう、第二地域中国とユーラシア東端の第一地域日本の“はざま”に現出する難問に日本列島は、いかに対処すればよいのだろうか。価値観が問われる超難問です。
 今ここの現在において、「ウクライナVSロシア」に対峙している進歩史観(時間軸)に依るか、?それともアンチ・テーゼとしての京都学派の生態史観(空間軸)に依るか?。That is the question、「生くべきか、生かざるべきか」と。
書 名「文明の生態史観」
著 者 梅棹忠夫
出版社 新潮文庫
初 版 1974年9月10日
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2022/04/29

<ユーラシアという括りで歴史(時空の流れ)をみておくことも>

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 ウクライナVSロシアの戦争も三ヶ月目に入り、収まる気配はありません。プーチンの野望とか、「民主主義国家VS権威主義国家」とか、いわれるこの戦いは冷戦の最終局面ではないかともいわれています。しかし、遠眼鏡を目に当てて少し視点を引いて、ロシアに対する経済制裁に応じていない国々、地域(そこに生きる生きとし生きるもの)を含めて、「VS」ではなく、三極で考えると幾分か、違った見えかたをしてくるし、これから先の世界の有り様も変わって見え、今後の対応も又変わってくるのではないでしょうか。
 ロシアに対する経済制裁に応じていない第三極には中国、インド、中東アラブ諸国、イラン、さらにアジア・アフリカ新興国の多くも積極、消極と力の加減は違ってもかなりの数にのぼっています。
                                                                   書 名 「文明の生態史観」
                                                     著 者    梅棹忠夫
                                                                    出版社     中公文庫
                                    初 版    1974年9月10日
 __20220429134701梅棹忠夫さんは1957年に「文明の生態史観」を発表し「生態史観」なる言葉を造語しています。文明の生成発展に気候、風土といった自然の影響が大きいとして、「歴史と云うものは、生態学的な見かたをすれば、人間と土地との相互作用進行のあとである。べつなことばでいえば、主体環境系の自己運動のあとである」と著しています。
******************************************
 著書の中でユーラシア大陸を模式図に表現しています。この図の西端に西ヨーロッパ(西欧)文明、東端に日本文明を位置付けて第一地域とし、東端と西端の広大な“あいだ”を第二地域としています。その第二地域を、乾燥地帯を中心にⅠ.中国文明、Ⅱ.インド文明、Ⅲ.ロシア文明、Ⅳ.地中海・イスラム文明と位置付づけています。
 そして今時の「ウクライナVSロシア」、「民主主義VS権威主義」といわれる戦いは、この図の西ヨーロッパ(第一地域)とⅢ.ロシア(第二地域)のせめぎあいの“はざま”、東ヨーロッパの地域に起きています。
 今、世界の趨勢は“ウクライナは善”、“ロシア(プーチン)は悪“の二元論的論調が主流になっています。ところがロシア制裁に消極的な第三極はこの図の第二地域に属する国家群なのです。なぜ、そうなるのか。そして日本はなぜ”ウクライナは善“の立場に立って支援をしているのでしょうか。
書 名「文明の生態史観はいま」
編 者 梅棹忠夫
出版社 中公叢書
初 版 1997年11月10日
Photo_20220429132801  著者が日本を西ヨーロッパ(西欧)と同じ第一地域に位置づけた理由は、ユーラシア大陸の両端の第一地域は、遊牧騎馬民族の暴力的侵略、略奪を受けずに、封建体制がゆっくり成熟しブルジョワ階級が育った地域。東から西へ侵略したモンゴルもオスマントルコもウィーンまで迫ってそこで進撃は止まっています。日本もモンゴルの襲来を博多の水際で神風の助けを借りて撃退しています。
 第一地域では、そのブルジョア階級が革命を起こすに至っています。日本の明治維新もこのブルジョワ革命であり、日本の近代化は単なる西欧の模倣ではなく、封建体制の成熟の過程から必然的に、起きるべくしておきた平行進化だと著しています。
 「唯物史観が世界のすべての文明を通じての一元的な進化をかんがえるのに対して、生態史観はそれぞれの土地の生態学的条件に応じての多元的進化をかんがえるという点でおおきくことなっていたのです。」(「文明の生態史観はいま」―中公叢書―)
 歴史は単に時が流れたということではなく、時空の流れのなかに起きる変化が大地に、そしてそこに生きる、生きとし生けるものすべての心身に刻み込まれ、それが新たな関係性(縁)として刻々と変化を起こし伝わっていくというとこではないかと思います。
 第二地域は紀元前の昔から今ここの現在まで、帝国の興亡が繰り返され、その都度暴力と殺戮によって大地に生きる人々の呻きが刻み込まれた地域です。今、ウクライナの人々もその渦中に呻いています。
 史観とは“ものこと”をみる価値観のことでもあります。日本列島は西ヨーロッパと並行して近代化したとはいえ、幸いにも徳川期までの長い年月、日本列島に刻み込まれた「森羅万象に神宿る」という縄文史観、「山川草木悉有仏性」という大乗仏教史観、鴨長明が方丈記に残した無常史観といった価値観もあります。
 西ヨーロッパ由来の ヘーゲル的進歩史観、マルクス的唯物史観という近代主義の価値観から一度己れを解き放って、梅棹忠夫さんが日本の壊滅的敗戦からたった十余年後、東南アジア・インド・アフガニスタンと学術実地調査研究の旅の成果として世に問うた、梅棹的生態史観の視点から今時の日本、そして世界を見ておくのも意義あることではないかと思います。
                                書 名「遊牧民から見た世界史」
                                 著 者 杉山正明
                                 出版社 日経ビジネス人文庫
                                 初 版 2003年1月6日
Photo_20220429134701 さらに付言すれば杉山正明著「遊牧民から見た世界史」も梅棹忠夫さんが図に示した第二地域の世界史的意義を著した名著です。日本人が学校教育で学ぶ世界史は西欧史を中心に東を見、中国史を中心に西をみたものにすぎません。文字を持たないがゆえに書き物としての歴史を残さなかった遊牧騎馬民族の世界史的意義を学ぶ機会がなく、梅棹忠夫さんのいう第二地域についての意識が多くの日本人の歴史観から抜け落ちています。
 第二地域のⅠ.に位置付けられた中華帝国の興亡は、秦・漢から唐・元・清とその多くは遊牧騎馬民族の武力の下にまとめ上げられた帝国であることを日本列島に生きるわれわれは、意識する必要があります。それは社会主義政権を名乗る現在の中国もそれに連なる帝国的国家であることにおいてなんら変わることはないからです。それが第二地域の歴史的有り様なのですから。
 韓半島そして日本列島は、現在もその影響下にあることを忘れるわけにはいかないのです。梅棹忠夫さんの図をよくよくみると今まさに第二地域の中国が帝国的膨張を指向し、インドも経済強大国への道を歩んでいます。そこに東南アジアがあり、日本があります。今時の西端の東ヨーロッパの問題は、明日の中国と東南アジアそして日本の関係でもあります。
<追伸>
 清朝末期の1900年北京で勃発した義和団の乱 の折、居留自国民の保護を理由に派兵した列強は、①イギリス、②アメリカ、③ロシア、④フランス、⑤ドイツ、⑥イタリア、⑦オーストリア・ハンガリー帝国、⑧日本の八カ国でした。現在先進国の集まりとしてG7と称している国は③、と消滅した⑦を除いた六カ国に新たに⑨カナダを加えた七カ国です。
 なんと120年前ユーラシアで衰退期にあった、第Ⅰ地域中国文明に介入した六ヵ国は、今ウクライナVSロシアの戦争にウクライナ側に立って積極的に介入しています。そして台湾、韓半島をめぐって対立する米中対立でも米国側に立って中国と対立を深めています。
 習近平政権が旧清国の時代の覇権を志向している現在、地政学的にも生態(循環)史観的にもG7の六カ国と同じ立ち位置で米国に従うわけにはいかないのです。明治維新以前、大和朝廷以来の中国大陸との距離感。緊張関係を維持しつつ隣国として対峙する以外に策はなさそうです。台湾、韓半島どころか尖閣列島も日中国交回復時に棚上げにしてある地域なのですから。

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2022/02/10

<「三方よし」と「ウィン・ウィン・ウィン」この似て非なるコトバ>

 2022年2月7日号日経ビジネスの連載「資本主義の再構築とイノベーション再興」の第四回「カギになるのは『三方よし』」です。経営学の泰斗ヘンリ・ミンツバーグ教授の経営論です。
 自分も1991年出版の著書「人間感覚のマネジメント」以来、大のフアンです。この本を手にしたのはサブタイトルの「行き過ぎた合理主義への抗議」そして第3章「左脳で計画立案し、右脳でマネージする」の言葉に反応した結果です。「きわめて日本人的だなぁ」!と。
1img_1079 今回の記事でもミンツバーグ教授ご自身が「私の前世は日本人だったのでしょう。」と語っています。記事はミンツバーグ教授と日経ビジネス編集長磯貝高行さんとダニエル・ヘラー中央大学教授との対談です。                                                            
 記事はミンツバーグ教授の経営論は今世間で声高に語られている「CSR」、「SDGs」、「ESG]よりも近江商人の「三方よし」に最も近いとあります。本記事のサブタイトルにある「ポストコロナの資本主義」がミンツバーグ経営論のようでありそれが、日本の商いのお手本といわれている近江商人の「三方よし」と一致するとしたら、ひとりの日本人としてこれほど有難く、うれしいことはありません。
 2img_1081 ところが読み進むとミンツバーグ経営論とも「三方よし」とも違和感のある記述があります。言葉(論理)の本質に潜む危うさなのかもしれません。
①「視聴者の85%の方がCの『三方よし』、売り手・買い手・世間のウィン・ウィン・ウィンを選んでいます。」(P62)
②「「三方よし」の順番は売り手→買い手→世間だと思います。利益目的の会社は、利益を上げなければ残りの2つに取り組めません」(P65)とあります。
 ①の違和感は「よし」を「ウィン」と翻訳してよいのか。?さらに、売り手と買い手は個ですが世間は個ではない全体(無限の個)のことですから、三方を個としてつなげると「三方よし」はたちまち崩れてしまいます。世間とは「あいだ」のこと、売り手と買い手それを包み込んでいる全体(世間)のこと、「と」で表現される「自・他」のあいだ、「間主観」のことです。
3img_1082  哲学者永井均さんが著書「西田幾多郎」(NHK出版)の冒頭に「国境の長いトンネルを抜けると雪国にであった。」、川端康成の小説「雪国」の有名な書き出しの一節を紹介して、「トンネルを抜けたのは誰なのか、日本語には主語がない」と日本語の特徴をあげています。トンネルを抜けた先の雪国という名の世間から主人公島村と駒子の関係性が立ち上がります。
 西田幾多郎が「善の研究」の冒頭で「純粋経験を唯一実在としてすべてを説明してみたい」とご自身の哲学の始点においた「純粋経験」。そして晩年に紡いだ西田語「絶対無の場」、そこから自他の分別がはじる、と西田幾多郎はいいます。売り手と買い手の関係性の立ち上がる刹那の前に有る世間(間主観)、そこに「三方よし」の関係性があります。
 翻訳者サイデンステッカーは悩んだ末に汽車を主語に「The train out of the long tunnel into the  snow country」と翻訳せざるをえなかったのではないでしょうか。英語では個としての主語は必須なのですから。トンネルを抜けたのは汽車でもない、乗客の島村でもない、あえていうなら、その“こと”そのものが主語(主体)なのだ、と永井均さんはいいます。だから読者も冒頭から何のためらいもなく、雪国へ滑り込んでいくのかもしれません。
 ミンツバーグ教授ご自身が「前世は日本人だ」というほどの日本通、個と個の「あいだ」の「世間よし」がご自身の経営論に自ずから盛り込まれているではないでしょうか。ミンツバーグ経営論に日本人フアンが多いのもうなずけます。この記事を読むだけでもその雰囲気が伝わってきます。
 「ウィン・ウィン・ウィン」では駄目なのです。「三方よし」でなければ。ましてや「よし」を「ウィン」と、訳すなんて言語道断だと僕は思います。僕が英語音痴のせいでしょうか。
Img_1082  ②のところでは、「売り手→買い手→世間」と「よし」になる順序が示されています。その理由が「会社の目的は利益」「利益を上げなければ残りの2つに取り組めない」とあり、ここにも言葉(論理)の有つ本質に潜む危うさが見え隠れしています。
 「あいだ」という空間的な存在も、言葉で解説しようとすれば「“売り手”と“買い手”と“世間”」の有り様をあたかも順序があるように語ってしまいがちです。しかし「と」は順序というクロノス的時間的なことではなく刹那の同時存在という空間的な有り様です。さらに困ったことにこの文章では「会社の目的は利益」とスタートが「売り手」ですから必然的に順序がついてしまいます。「三方よし」の本質は「世間よし」に尽きるのです。売り手も買い手も個として世間という全体に包まれているのですから。
 ミンツバーグ教授の著書「H.ミンツバーグの経営論」P389にも「私にとっての組織とは、ある共通の使命を追求する集合的な行為を意味します。経済学において、組織は『合理的』で何とか利潤を最大化する実体と見られていますが、そのような組織を私はみたことがありません。」とあります。この”共通の使命”こそ「三方よし」にほかなりません。
Irqc1ciol_sx361_bo1204203200_ 安倍政権が掲げた「成長なくして分配なし」には必ず起きると公約したはずのトリクルダウはおきませんでした。「成長の器から滴り落ちるはずが、器そのものが先んじて膨張してしまうからです。成長の別名は欲望です。「もっともっと」と。
 0_ml2_菅政権を経て政権を継承した岸田政権は「新しい資本主義」の旗を掲げ、「分配なくして成長なし」と安倍政権とは一見真逆の言葉を語るのですが、これは「成長→分配→成長」の流れの切り取る部分をずらしただけです。
 「会社の目的は利益」という流れの根源が変わらない限り「成長なくして分配なし」に行き着いてしまいます。なぜなら利益(G)は粗利益(mPQ)から固定費(F)を引いた残りです。分配といっている賃金はこの固定費(F)の一項目ですから。賃金を分配という次元の言葉として扱う間違いか、それとも故意の欺瞞か。
 短命に終わった菅元首相の所信表明演説にも同じ論理的誤謬(欺瞞?)がありました。「自助→互助→公助」と時系列に並べて、民主主義国家の宰相としてのご自身の役割の最重要課題の一つである「公助」を最後にしてしまったのです。まさに「法衣の下の鎧」がチラリどころか丸出しにしていました。「自助・互助・公助」も“今ここ”の現在の場、「人と人との“あいだ”」、世間という間主観に同在していなければならない“こと”なのですから。 
 ポストコロナの資本主義にミンツバーグ経営論が織り込まれ、株主資本主義の鎧を脱ぎ棄てて「世間よし」が日本のエスタブリッシュメントの法衣になってくれると有難いのですが。さてさて・・・・本当に字義通り「有難い」ことです。

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2022/01/27

<“サトシ・ナカモト”は“神”になるか?>

-週刊東洋経済2022年1月29日号特集(暗号資産&NFT)-
Photo_20220127134701 週刊東洋経済2022年1月29日号は「暗号資産&NFT」特集です。ブロックチェーン技術の使い道のこれからということがテーマでしょうか。日本人“サトシ・ナカモト”の開発した技術ということですから、富士山の9合目あたりに社をつくり「サトシ・ナカモトノ命」として「サトシ・ナカモト神社」に祀る日も近いかもしれません。なにしろ「無」から「有」を生み出す“術”を編み出したのですからね。そしてなによりその姿をみせないのですから。
 2021年7月30日に坂本龍一さんがBunkamura Studioで演奏した「戦場のメリーリスマス」の右手で奏でたメロディー595音の一つ一つに価格がつき暗号資産(NFT)として昨年末のクリスマス・イヴにオークションにかけられています。これまで演奏として刹那に消えていた音、CDどころか楽譜どころか音符でさえない、演奏会場でしか味わえない刹那に消えていくたった一つの唯一無二の音の流れが「存在する“もの”」として商品になったのです。その存在の確かさ、唯一性を保証しているのがブロックチェーン技術です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20220125nft_20220128145201  釈迦の悟りの「空」は、この宇宙(大自然)のすべては関係性によって変化して止まない。不変なものとして実在するものはなにもない。というものです。
 現在使われている米ドル、元、円といた通貨も、「他人が受け取るから自分も受け取る」という循環論法、いいかえれば「信じるから存在する」→「存在するから信じる」といった神の存在と同じ循環論法です。図に示した矢印の方向の時の流れを逆さまに巻き戻していけばそこは「絶対無の場」。この“術”日本人サトシ・ナカモトから生まれたというのも象徴的です。西欧では始源が実在の神GOD、「有」から始まる、巻き戻すことのできない直線的歴史観ですから、この「関係性により変化して止まない」という循環的歴史観には立てないのでしょう。
 その変化して止まない、関係性の変化の連鎖をチェーンで繋ぎ眼にみえる“もの”するというのです。「無」を「有」に変える神技、神の“術”といわずしてなんといえばいいのでしょう。
20220326 人間の文明は古来より「“嘘”が“虚”になり“虚”が“実”になる」と変じてきた社会です。昔「人間が空を飛ぶ」といえば「嘘つき」と罵られたものです。ところが、それを夢と信じた人たちは、鳥の真似をして崖から飛び降り夢に命を捧げてきました。ところがライト兄弟が飛んだとき、“嘘”から口篇が取れて“虚”(もしかしたら)になったのです。今は「空を飛ぶ」は“実”(当たり前)になりました。そしてかっての“嘘”は誰もが信じる“夢”に変じていきました。
  ブロックチェーン“術”によって生み出されたビットコインは仮想通貨と呼ばれていましたが、今では暗号資産と命名され資産という“実”に変じています。しかし釈迦の悟り「空」に従えば、宇宙(大自然)の”すべては空”であり、人間社会といえども関係性による変化の流れは止まることなく変じていきます。
 20220326_20220326142401  この”流れ”そのものが「いのちの活き」という”もの”の正体なのかもしれません。さすれば、この“術”が存在を保証する“もの”も、この「いのちの活き」の大河の流れの一滴なのでしょう。
 図の中の蛇が象徴する言葉「己己已巳」は、「己れは己れであることによって已に巳である」と読むのだそうです。「我が!我が!といっている我、その巻いているとぐろの真ん中は“無”」ということ、人間とは、げに恐ろしく、面白い生きものです。「嘘から出た実」ではなく「無から出た無」、ポストコロナ社会も面白くなりそうです。さてさて「価値とは何ぞや!」。

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2021/11/07

<宇宙を統べる熱力学の法則の視点から考える>

書 名「宇宙を解く唯一の科学熱力学」 
著 者 ポール・セン         
出版社 河出書房新社
初 版 2021年6月20日
 _ 突然の軽石の大襲来、なにやらコロナに似ているような。そしてそのコロナパンデミックへの対策として米ドル、日本円、ユーロ、中国元といった先進国通貨の大膨張、「脱炭素第一主義」への奔流も、軽石大襲来のアナロジーなのかもしれません。
  軽石は汚染物質を吸着するので、汚水の浄化にも使えるとか、放射能も吸着するのではないかともいわれています。この実験がうまくいったらありがたいですね。願わくば福島の汚染水浄化にも。
 ポール・センの「宇宙を解く唯一の科学熱力学」には、この宇宙は、熱力学の第一法則と第二法則が統べている、とあります。熱力学の法則の第一法則は「宇宙に存在するエネルギーの量は一定である」、と。そして第二法則は「宇宙のエントロピーは増えていく」とあります。
 さらにこの二つを一つに言い換えると「エネルギーが流れることで、宇宙はエントロピーを増大させる」とあります。”エントロピーの法則”なる言葉が日本に広く流布するきっかけは、糸川英夫著「第三の道」、ジェレミー・リフキン著「エントロピーの法則」ではなかったでしょうか。共に1982年9月発刊、今を去ること40年前のことです。
                                       書 名「第三の道」
                                       著 者 糸川英夫
                                       出版社 CBSソニー 
                                    初 版 1982年9月10日
20211101_2 糸川英夫は著書のサブタイトルにあるように、インド社会の低エントロピー構造と当時二度にわたるオイルショックを克服した日本の産業の省エネルギー志向から、これから人間社会が進むべき「第三の道」を示しています。リフキンも老荘の思想、仏教の思想に熱力学の法則からの解放の答えがあるのではないか、と示唆しています。
 そしてなにより「エントロピーの法則」の翻訳者にして物理学者・啓蒙家竹内均さんはあとがきに「現在日本で開発されつつある技術の中では太陽電池に注目している。数十万円の設備費をかければ、それ以後それぞれの家庭で使う電力やエネルギーのすべてを賄う太陽電池が、ここ10年以内に確実に現れるであろう。念のために言えば、それでもって大工業のエネルギーを賄うことはけっしてできない。太陽エネルギーは拡散したエネルギーであり、その利用には大きな面積が必要である。日本中の家の屋根に太陽電池を設備して、それぞれの家のエネルギーを賄うのがせいぜいである。しかし、その『せいぜい』がたいへんなことであり、世界中のほとんどすべての人が現在まだ、その『せいぜい』の段階にも達していないのである。」と著しています。
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書 名 「エントロピーの法則
著 者 ジェレミー・リフキン
出版社 祥伝社
初 版 1982年11月20日
20211101 当時のインドの人口は7億人、そして今は14億人、モディ首相はCOP26で演説する立場に立ち、日本は二年連続で化石賞を受ける立場に立っている。歳月の不思議です。
 1853年「突然の黒船来航」は庶民にとっては“突然”でも時の政府や知識人にとっては“突然”ではなかった。だからこそ明治維新の回天がおきました。しかしこのときの西欧追従思考の志向性が先の大戦の敗戦の日本列島の大破局に行き着いてしまったように思います。さらに対米従属、西欧追従の流れは“今ここ”の「脱炭素第一主義」への追従にも現れているようにも思えます。
 一旦立ち止まって、「なぜ脱炭素なのか?」、「気候変動とは?」「成長と分配とは?」「SDGsとは?」といった狭義の人間社会の問題を超えて、宇宙を統べる熱力学の法則の視点から考えておくのも意味のあるのことではないかと思います。
 明治期以前の日本列島を統べる権力者、知識人はいつも海外の文化文明を採り入れるにも一呼吸おいて己れの地頭で考え取捨選択、必死の日本化を試み、模索してきたように思います。老荘の思想も大乗仏教思想も中国大陸そして韓半島を経由してこの東海のはずれの小島に漂着し、この日本列島の縄文以来の長い歴史の中で列島人の地頭で成熟してきたのですから。
 第一法則はアインシュタインが特殊相対性理論として解き明かしたもので、「エネルギーは物質の質量に光速の二乗をかけたものに等しい」と「E=mc2」の式で表した。物質とエネルギーは同じものだ、ということの証明であり、原子爆弾製造への道を開いた式でもあります。それが広島・長崎への投下につながってしまったことも西欧追従の帰結とは哀しいものがあります。
 宇宙はこの二つの法則で成り立っているということですが、宇宙という「何か」があるわけではなく、この二つの法則そのものが宇宙であり、宇宙を成り立たせている「いのちの活き」そのものであるといえます。
 「這えば立て 立てば歩めの親心 我が身に積もる老い(エントロピー)を忘るる)と詩われている「成長と老い」、二律背反に思える“成長”と“老い”に見る人間の心の有り様も、上の句が第一法則であり下の句は第二法則。この詩も熱力学の法則も西欧的二律背反ではなく、大乗仏教の「即非の論理」の表現されたものといえそうです。 
20220326_20220326150001 軽石も海底火山噴火のエネルギー放出の証しとしてのエントロピーの形相。コロナに抗った人間のエネルギー費消(物質代謝)の証しとして膨張した通貨もエントロピーの形相にほかならない。さすれば今現在、世界の10%の超富裕層が保有する世界の富の50%もきっとこのエントロピーの形相に違いない。
 なにしろその10%の超富裕層が排出するCO2が全人類の排出するCO2の50%を占めていて、下位50%の35億人が排出するCO2はたったの7%だといいます。CO2も人間のエネルギー消費(物質代謝)によって生成されたエントロピーの形相です。
 「覆水盆に返らず」はエントロピー増大の譬えでもあります。「脱炭素社会」「CO2排出ゼロ社会」のために投入する投資という名のエネルギー費消はさらなるエントロピー増大の契機、宇宙の「いのちの活き」は「エネルギーが流れることで宇宙はエントロピーを増大させる」のですから。
 20220326_sx344_bo1204203200_ 若き俊英経済学者斎藤幸平さんの出世作「大洪水の前に」のサブタイトルも「マルクスと惑星の物質代謝」とあります。物質代謝はエネルギーの費消であり、同時にエントロピーの増大です。マルクスは、人間の労働力と自然は剰余価値生産の場では再生産できないと資本論に著しています。剰余価値生産の場とは商品生産の場であり、実体経済の場のことでもあります。
 エントロピーを再びエネルギ(物質)へ戻すことはできない、それは「覆水盆に返らず」なのですから。それが宇宙と仮名した「いのちの活き」の不可逆な流れ、宇宙は絶えざる膨張の途上にあることの形相ではないでしょうか。「That is the question 」

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2021/11/06

<映画「最後の決闘裁判」を観て

映画「最後の決闘裁判」を観ました。14世紀フランスの実話がベースですが、ラストーシーンを観終えて、現代だからこそ描きたい、そして描けたテーマではないか、14世紀の実話を借りた”今ここ”にあらまほしきテーマではないかと思いました。
 二人の男と一人の女、我々世代の若い頃のような安手の騎士道、美しく、か弱いヒロインといった物語ではなく、三人が三者三様に、神の前で己れの命を懸けて、己れの真実を守る、そしてそこに神が審判を下す。
 芥川龍之介の短編「藪の中」、黒澤明が「羅生門」として映画に描いたテーマと同じ語り口。この映画でも三人がそれぞれ己れの真実を語る筋立てになっています。異なるのは西欧には神が実在し、日本には実在しない。だから日本では真実は「藪の中」で、西欧では「神の前」で、と。
 騎士道、権力、世間、男、女そして神、一筋縄ではいかない人生を生きる道々、「己れの真実を貫くこと」の困難さ、そしてその意味が深く丁寧に描かれています。神によって選ばれ、神によって世間の前に己れの真実を保証された女性と幼い息子の幸せなラストシーンが深く心に残った映画でした。
 余談ですが、監督リドリー・スコットの描く二人の決闘シーンも迫力があり見応えがありました。




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2021/10/21

<「公助」と「分配」の勘違い>

「このままでは国家財政は破綻する」財務次官による"異例の寄稿"本当の狙い(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
<「公助」と「分配」の勘違い>
 縁者中野一宏さんからいただいた情報です。縁者が何故この小論を紹介してくれたのかは定かではありません。が、たまたま僕もこの小論が気になって読んでいました。日頃から、「情報は送り手の都合(勝っ手)、受け手の都合(勝っ手)」と、受発信していますので、この情報も、己れの都合(勝っ手)で受け止めてみました。(苦笑) 
 今回の衆議院議員選挙の公約では、いつも以上に与野党こぞって「分配」、「分配」と声高に叫んでいます。そして財務官僚のエリートは本小論でそれを「バラマキ」、「バラマチ」、「このままでは財政は破綻する」と財務省のいつもの持論を展開して、岸田文雄総理大臣の公約の火消しのアドバルーンを上げています。
 しかし本小論の著者の立論、与野党の公約の根っこにも、菅義偉前総理大臣の所信表明の「自助→互助→公助」、岸田文雄新総理大臣の「成長と分配」の公約と同じ言葉の勘違い(それとも隠された意図があるのか?)にもとづいているように思います。
1.「バラマキ」でも「分配」でもなく「公助」ではないか 
 掲載誌は日本のオピニオン・リーダー誌文藝春秋11月号です。書き手は現職の財務事務次官というエリート官僚です。そこには「わが国の財政赤字(「一般政府債務残高/GDP」)は256.2%と第二次大戦直後の状態を超えて過去最悪・・・・」と書かれています。
 さらに本小論には「バラマキ」なる言葉が乱発されています。国民は主人がばら撒くであろう餌を求めて、口をパクパクさせながら池の縁に集まる鯉の如くみえているのでしょうか。これが「心あるモノ言う犬」の言葉とは。「その心とは」。
 今回の衆議院議員選挙の与野党の公約も同工異曲、選挙民からその場限りの言葉だけ、手ばたきだけの餌もどきで一票を得るつもり、安倍政権下では「成長なくして分配無し」、「トリクルダウンで滴り落ちる、口を開けて待っていろ!」と。しかし足掛け9年余、一般パン庶民には一滴たりとも滴り落ちることはありませんでした。   
 著者は、国民の医療、福祉、教育、そしてなによりコロナ禍の初手から困窮生活に陥ってしまった人びとへの税金投入を「バラマキ」「バラマキ」と連呼してあたかもGDPの2.6倍にのぼる借金の原因でもあるかのように書いています。
 しかし「バラマキ」「バラマキ」といっているもの、その中身、それは民主主義国家の国民に対する義務としての「公助」ではないかと僕は思います。
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2.「自助」「互助」「公助」は時間軸ではなく空間的有り様
 人間以外の生きものには自助も互助も当然、公助などありません。なぜ人間世界だけに「自助・互助・公助」が語られるのでしょうか。それは人間が言葉を操るようになって、自然界とは別の人間だけの棲息空間を意識下に置くようになったからです。
 自然界は偶然(ゆらぎ)という「縁」に支配されていますが、人間はそれを不平等、不公平、不条理と捉えます。「縁」に出会ったときそれを自助(己れの責任)だけでは避けられない、リカバリーしきれないからではないでしょうか。そこで「互助」としての家族を、部族を、民族をそしてなにより民主主義国家をつくってきたのではないか。
 さらに「自助」、「互助」の網目から漏れてしまう人間の個としての「いのちの活き」を支えるのが「公助」。したがって菅義偉前総理大臣が所信表明演説で、「自助」あっての「互助」、「互助」あっての「公助」と、時系列に語ったのは「時空」の一如性を失念した論理的な間違いではなかったか。“今ここ”の現在の絶対空間に「自助・互助・公助」が同時存在でなければ人間世界は格差は拡大し崩れていきます。時系列に扱う限り、「縁」に出会うたびに、強いものはより強く、弱いものはより弱くと、格差の地獄は深まるばかりです。
3.「公助」は「分配」ではない
 人間の生活空間である実体経済の場に必須の「自助と互助」では「縁」によって零れ落ちてしまう「ものこと」を修復することはできません。実体経済の場は「分配」の場ではないからです。
 経済学的、企業会計的にも労働者の賃金は企業が支払うコスト(削減の対象)ではあっても、剰余価値(≒付加価値)分配の対象ではないのです。同じ企業活動に従事する人間でありながら経営者の報酬は、剰余価値(≒付加価値)分配なのです。それは役員報酬が税引き後利益から支払われるという企業会計の流れにも現れていることです。
 たとえ岸田文雄総理大臣が「成長と分配」を声高に語っても企業は分配できない、成長と分配は「場」が異なるのです。賃金は「実体経済(剰余価値生産)の場」、分配は「虚体経済(金融経済)の場」の有り様なのですから。
4.国家債務は簿記の貸方、貸方は「いのちの活き」のこと
 ことあるごとに、日本国家の借金がGDPの2.6倍になっていることが喧伝され「このままでは財政破綻する」と多くの経済学者が語り、財務省もいつもいつも「健全財政」を喧伝しています。本小論もそのいつもの一つです。「モノ申す」とか「心ある犬」というほど大袈裟な発現ではないと僕は思います。中学生の頃でしたか、授業で「国家は”出ずる”を計って”入る”を制す」「家庭は”入る”を計って”出ずる”を制す」と習ったのを思いだします。
 複式簿記では借方と貸方は「一つの如し」、「身心一如」と同じ「一如性」のもの。そしてここにいう「心」は著者のいう「心ある犬」の「心」ではなく、「いのちの活き」のことです。借方の「身」は資産のこと、日本国の私有・公有の資産との一如性という有り様をしているのだと思います。破綻するとすればそのとき、その分だけ国民全体の資産が大きく既存するだけです。著者のいう「第二次大戦直後を超えて最悪」、その事態を招いたのは誰、その後始末をさせられたのは誰なのか。?国体を護持した人びとではなく、戦争の悲惨を身をもって体験させられ「いのちの活き」を脅かされた一般の国民、個々の一人一人です。
 麻生前財務大臣は昨年のコロナ給付金10万円が国民の預貯金で残っていて無意味だった、と語りますが、複式簿記の原理を理解しておられないのでしょうか。借方貸方が同額増えているのですから問題はないはず。むしろ給付金を得た国民の「身」に「いのちの活き」が漲ったのですから、それだけでも免疫力は上がるはずですから。いやいや財務大臣を長年務めた方が、複式簿記を知らない、そんなはずありませんから、きっと給付金はお上からの下々への下賜金と思っておられるに違いありません。
 日本国が仮初めにも主権在民の民主主義国家であるなら、国家の貸方としての義務は国民の「いのちの活き」を守ることです。それは「公助」であって「分配」ではないと僕は思います。「公助」の原資は成長の果実ではなく、もっぱら徴税にあり、それを司っているのが財務省ではないかと僕は思います。「成長と分配」ではなく、「公助のための徴税権」を委ねるのが民主主義国家の選挙であり、貴重な一票ではないかと。
 先の大戦敗戦の債務処理をも国民に負わせた後、再び国家破産を危惧するほどの国家債務を積み上げてきた、とすればそれはもっぱら“徴税のあり方”、“財政支出のあり方”に問題があったのではないか。
 何時、誰が、誰のために使い、何処(誰の借方)へ流れていったのか?。そこから立論していただきたいものです。それを司ってきたのが財務省でありそのトップエリートが著者なのですから。 

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2021/09/19

<「ウイズ・コロナ」は”いのちの活き”と”いのちの活き”の共生>

書 名「大洪水の前に」―マルクスと惑星の物質代謝-
著 者 斎藤幸平
出版社 堀之内出版
初 版 2019年4月25日
202109141.共生
 コロナパンデミックの昨年の早い時期に「ウイズ・コロナ」と高らかに宣言したのは小池百合子都知事でしたか。その後の為政者のコロナ対策は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」など勇ましい進軍ラッパ、「ウィズ」、「共生」ではなく「ゼロ・コロナ」コロナとの闘いの明け暮れです。その経過は第五波の波に打ちのめされた日本社会の現状に明らかです。第五波の波の引き波は、総裁選に続く衆院選の後の第六波のエネルギーを蓄えているようにもみえます。
 人間の身体そのものが生命誕生以来、過去のウィルス、細菌、気候変動とのひたすらの「共生」の証しなのですから。そろそろ闘いの矛を収めて、「共生」の道を探ったほうが賢明だと思うのです。「共生」も字面とは異なり極めて厳しいものです。アフリカのサバンナでライオンがシマウマを襲う映像を見て「弱肉強食」と言葉にするのは人間の驕り、あれもシマウマが草を食む姿も必死の共生(食物連鎖)の一断面なのですから。
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2.いのちの活きの流れ
 137億年前宇宙(大自然)を創成したビクバンの創造のエネルギー、というよりこの創造のエネルギーそのものを宇宙とか大自然と言葉にしたのではないでしょうか。それは48億年前に地球を創成し、38億年前の生命の誕生へ連綿とつながっている「いのちの活き」の流れです。
 その流れの先端に存在するのが人間という生きものです。個々の人間もその38億年の流れを母体に育まれつつ走馬灯の如く、十月十日で追体験してこの世に生を受けています。38億年、いや138億年の生死の循環の流れ(いのちの活き)の最先端にいるといえるのです。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんは著書「資本主義から市民主義へ」」に「人間は“生物的実体”と“社会的実体”の二重性を生きている」と著しています。生物的実体は遺伝子情報に刻まれた「いのちの活き」の流れ。社会的実体は、人間が言語を使い始めて以来、人間社会に継承されてきた、文化、文明、家族、国家、法、貨幣、等々言語による概念によって構成された“もの”で生物的実体に関わりなく、過去から現在そして未来へと継承されていきます。
20210918_20210920142701  「もの“と”こと」でいえば社会的実体は「もの」、生物的実体は「生きている“こと”」、「いのちが活いている“こと”といいいかえることができます。
 「もの“と”こと」の二重性これは二元論ではなく、大乗仏教の般若心経の表現「色即是空」を借りるなら「もの即こと」「こと即もの」となります。「生物的実体“即”社会的実体」、「社会的実体即生物的実体」という止揚することなき絶対矛盾的循環です。
20210919_4.物質代謝とは「いのちの活き」のこと
 若き俊英、斎藤幸平さんの「人新生の資本論」が昨秋(2020年9月22日)出版されベストセラーになっています。そのベースになっているのが、俊英を俊英、たらしめた著書「大洪水の前に」です。サブタイトルに「マルクスと惑星の物質代謝」とあります。
 マルクスが「資本論」に描き込まないまま終わった後期マルクスの学究の後を渉猟し資本主義と自然破壊の関係に警鐘を鳴らしています。「SDGsは大衆の阿片だ」と。
 物質代謝はエネルギー代謝のことでもあります。38億年の「いのちの活き」の流れを維持し、進化(変化)させてきた“こと”と、このエネルギー代謝の循環と相即の関係にあります。
 人間の生物的実体の流れを支えているものは、食物連鎖と言い換えたりします。それは大自然の物質代謝(エネルギー代謝)の循環の流れであり、人間自身がその流れのなかで生死している「いのちの活き」そのものなのです。
コロナウィルスとの“共生”は、まずは、コロナウィルスのいのちの活きと人間の生物的実体としてのいのちの活きとの応酬、ウィルスの進化(変異)との落としどころを求める応酬、それは否応のない、大自然の進化(変化)の流れの有り様そのものです。
5.社会的実体の物質代謝
 20210918_20210920144001 面倒なことに人間は他の生きものとは異なり言語を使い概念という「ものこと」を生滅させ、社会的実体を生み出してしまいました。そして個々人の善悪好悪に関わりなく、人間自らを、その二つの実体の不即不離を生きる存在にしてしまったのです。生物的実体の物質代謝とは別に不即不離の関係で存在し続ける、社会的実体のいのちの活きとしての物質代謝の流れが存在します。
 それが、マルクスが「資本論」で資本主義の本質として明らかにした「労働力の商品化」と「剰余価値の無限の自己増殖」です。そして強調しておかなければいけないのは、「自然と労働力は、剰余価値生産の過程では再生産できないということです。
 生命的実体としての「いのちの活き」の物質代謝は、いのちの活きとしての生死の循環の大きな流れの中で再生産されながら、進化(変化)していきます。
 しかし剰余価値生産の過程で使われる素材、大自然によって作られた素材はコストゼロです。そして労働力も資本によって、商品(労働力)として、コストとして費消されます。ですが、受け取った賃金(商品)によって再生産されることはありません。コストゼロの素材(自然)と賃金というコストによっては再生産できない労働力は、大自然のいのちの活きの循環過程から永遠に取り除かれてしまいます。これが、自然破壊が止まらない所以です。
20210918_6.資本との共生は
 岩井克人さんは著書「貨幣論」に「『貨幣は他者が受け取る限りにおいて貨幣である』という循環論法」だ、と著しています。「生きものとは“いのちが活いていること”、と同義です。貨幣が人と人の間を循環することは貨幣の”いのちが活いていること“です。
 ものことはすべて「色即是空・空即是色」の有り様をしているのですから、貨幣は貨幣を「色」、「空」であるいのちの活きが「資本」です。「貨幣即資本」という有り様をしているといえます。道元のいう「我有時」に譬えれば「貨幣は、空間的に貨幣であり、時間的に資本である」ということができるのです。
 貨幣は過去に大自然由来の素材と労働力によって産出された剰余価値の痕跡ですから、大自然のいのちの活きは永遠に循環的に貨幣(資本)に置き換えられていくのですから、現在の人間社会の有り様では、自然破壊は止まるどころか、加速することはあっても減速することもありません。
 それは1971年8月15日のニクソン宣言、「米ドルと金の兌換停止」によって微かにつながっていた“もの”としての金とのつながりを断ち切られ、貨幣(通貨)は剰余価値生産の増殖(大自然のいのちの活き)とも“無縁”に自ら自己増殖する正真正銘の“無”、浮遊霊と化してしまったのです。
 自然破壊を減速し人間社会の不安定さを幾分なりとも和らげるにはこの浮遊霊化した「貨幣のいのちの活き」との共生を模索する以外にないように思えます。
 書道家にして仏教哲学の表現者相田みつをさんは「お金がすべてではないがあると便利、ないと不便」と詩っています。菅義偉首相の就任演説の「自助・共助・公助」の失言も道元の「有時」を理解していたら防げた失言だったのではないでしょうか。
 「自助・互助(共助)・公助」は時系列な、時間的有り様ではなく、”今ここ”の現在に空間的に同時存在している“こと”なのです。「いのちの活き」は、まさにこの“今ここ”の現在の有り様のこと“ですから。「ないと不便」な程度は公助で支えて欲しいものです。コロナのいのちの活きとの共生のためにも、貨幣のいのちの活きとの共生が必要なのですから。
 ブロックチェーン技術の賜物、ビットコインなど仮想通貨といわれた怪しげなものも、いつしか暗号資産と呼ばれ色即空の有り様が露わになってきました。ブロックチェーン技術はNFTアートなどへといのちを吹き込んでいきます。地域通貨への応用は国家管理の通貨のグローバルさに宿す非情さを和らげ、貨幣(資本)との共生を助けてくれる存在になってくれるかもしれません。あたかも日本列島に遍く棲む神々の“活き”似て。

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2021/08/16

<映画「パンケーキを毒見する」を観て>

<2021年8月12日「映画「パンケーキを毒見する」を観て」>
 久々に所用で都心に出る機会ができて65%くらい前のめりになって出かけた。12時間余、新宿→東京と徘徊した。その間必要時間は息子世代の若い縁者との2時間の会食、残りは”不急”?でしょうかね。線引きが難しい往復の車中も3時間余。(苦笑)
 まずは新宿で田舎の薬局の店頭には売られていない、抗原検査キットを2種6セット購入した。これで第三目標はクリア。次回都心で縁者に会うときはせめてこれで事前チェックを、と。 次いで、予てから必見と思っていた、映画「パンケーキを毒見する」を観た。新宿の映画館に平日の昼間というのにわずか3席だけ残っていた。パンフレットにも記されているが、「政治ドキュメントではなく政治バラエティ」に仕上がっているのが肩が張らなくてとてもいい。もちろん、それでも映画館を出るときには監督の制作意図はしっかり伝わっているのではないかと僕は思う。
 20210816 とりわけ上西充子法政大学教授が菅首相と野党との間の国会答弁を切り取って、イデオロギーを押さえて、言語コミュニケーションの流れとして論理的に整理しているところは見どころだ。テレビ報道でも多く切り取られている場面、断片的には見覚えはあるのだが、時間をおかず時系列に並べてくれているので、言葉のキャッチボールがよくみえる。
 己れが長年「どこかおかしい」、「何かおかしい」と疑問をいだいてきた、政権与党の国家統治のスタイルに答えがみえた思いがする。小泉・竹中政権以後、時を経るごとに自信を深めてきた政権与党の国民に対する政治姿勢が明白に映像化されているようにみえる。長年、何故総理大臣は野党の質問にまともに応えないのだろう、与野党の質疑が嚙み合わないまま国会答弁が放置されているのはなぜなのか?
 僕の疑心は膨れ、未来に対する希望の心は、「折れる」ことはないが、萎えていく。長年井筒俊彦さんの言語哲学、大乗仏教哲学の唯識論にも触れているので、人間社会そのものが言語由来の相対界なんだ!、仕方のないことか、?と思いつつ。それにしても教養ある政治家・官僚の方々の国会の質疑が交わることもなく、日本国民の頭上で、表層で、言葉だけの空中戦を交わしているのはなぜなのか?それがコロナパンデミックの政治家・官僚の対応で一層明らかになり疑心は膨らみ、心は萎える。
 与党政治家が野党の答弁に答えていないのはそれが意図的に行われている与党の政治姿勢なのだ。「答え」るどころか「応え」ることすらしていない。官僚の書くメモを読み、ひたすら時間切れを待つのみ、罵声に耐える強心臓と根気さえあればいいのだ。言葉の空中戦だから言葉の弾がいくら命中しようと命に別状はなく、墜落することもない、国会会期という燃料の切れるまで飛び回っているだけでいいのだから会期延長も無用、操縦技術も稚拙なままでかまわない。国民が「菅義偉総理は無能だ!」といってくれたら万々歳、支持者の罵詈雑言は激励の証しなのだから。
 映画館を出るとなぜか空は青かった。己れの心の疑念が晴れたからか。横山紘一さんの「やさしい唯識」の第一章は「一人一宇宙」、人間は個々人、言葉によって意識化した己れの心の内なるスクリーンの影像をみている、とはじまる。己れの内なる影像のぼやけは映画館のスクリーンにピントが合った。
 さて次のポストコロナの己れの心の内なるスクリーンに映る影像は如何に。菅義偉総理大臣、小池百合子都知事をはじめ政権を統べる政治家・官僚の心の内なるスクリーンも覗いてみたい思いに駆られる。果たして映画館のスクリーンの影像と同じように映っているのだろうか。
 東京五輪の喧騒も終わった。古代ローマの詩人ユウェナリスの詩った「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」は、軍国主義の下、兵士の養成のための確信犯的誤訳だそうだ。そして昭和16年には人口政策「産めよ、増やせよ、国のため」を閣議決定した。共に国民皆兵制の下の兵士増産が目的だった。かくいう僕はその渦中、2年後の満州生まれだ。戦後は優生保護法を施行し、人口抑制を図っている、今日の少子化の要因だ。国家権力とはかくも身勝手なのだ、と己れの内なるスクリーンには映っている。
 ユウェナリスご本人が詩った本意は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」、唯識哲学の言葉を借りれば、「心身一如」、「健全なる身体は健全なる識(こころ)によって育まれる」となるのだろうか。コロナパンデミック下の政権運営に心を萎えさせることのないように、時には己れの内なるこころ(深層意識)に触れてみるのも、己れ自身でできるコロナ対策のひとつかもしれないと僕は思う。

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«<大乗仏教哲学の要のひとつ唯識論、「人の世は唯々識(こころ)の有り様のこと」と>