<「『信じる』とは己れが己れ自身を永遠に疑うこと」なのか?>
<「『信じる』とは己れが己れ自身を永遠に疑うこと」なのか?>
①古田徹也著「いつもの言葉を哲学する」-氾濫する言葉に溺れないために-
国家(国民)の明日の行方を左右する政治家の間でもSNS,動画サイトが乱用されフェイクニュースが飛び交っている。国会答弁でも明らかに嘘と思しき答弁が飛び交っている、詭弁、強弁も当たり前だ。
巷の「オレオレ詐欺」など霞んでしまう。そういえば我が家でも「私は大丈夫」と嘯いていた家内もあわやオレオレ詐欺寸前だった。腹を痛めたはずの息子の声も聴き間違えるらしい。どういうわけか用意したお金の受け取り場所に肝腎の受取人が現れなかった。お陰で難を逃れた。己れを騙したのは電話の向こうの他者か?それとも受話器を持つ己れ自身か?つまるところ他者に騙される前に、己れが己れに騙されているのだ。
「自己責任」とは、小泉・竹中政権もうまい言葉を流行らせてくれたものだ。今となってはこれほど時宜を得た言葉は無い。騙されるのもすべては「自己の責任」と言っているのだから。
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そういえば、1945年8月15日終戦のたった7日前、満州で現地召集され一度も鉄砲を担ぐこともなくシベリアへ抑留され、以後死ぬまで辛酸をなめた父親の口癖が、父親の生涯年齢を超えた今も、確かに耳に残っている。「決して人を騙してはいけない。しかし、騙す力を有たなければ騙される。騙す力を有って騙さない。ここが肝だ!」と。他者を超える騙す力があれば、自分以外に自分を騙すことはできない。まさに己れの思考力も自己言及性(Self-reference)の限界、盾と矛の絶対矛盾なのだろう。
都心の書店の店頭は貴重で、有難い。時宜をえたタイトルの書籍が買えよ、買えよと誘っている。ここは騙される心配はない。すべてはレジへ持参した「自己の責任」だから。
①の表紙のカバーに「言葉は思考の基盤であり、豊かな表現。言葉はときに世界の見方を更新する。生きる糧にもなる。しかし一方で、それらは自分や他者を欺き、傷つけ、使い方次第で人の命を奪う凶器にもなりえる。「言葉とは何か、「対話」とは何かを哲学する。----------ありがちな表現に逃げずに、「しっくりくる言葉」を選び取るために。相手の言葉を待ち、尊重するために。」とある。
②古田徹也著「懐疑論」-なぜ私たちは疑うのか?-
「懐疑論」の帯の裏に「人間の宿命に正面から向き合う」とある。そして「人間はつねに疑念を抱く生き物である。錯覚や幻覚、虚偽や真実、善や悪、陰謀論とどう付き合い、向き合うか。ヒントは古来、思想家たちが探求してきた懐疑=判断留保の哲学にある。------人間の思考の落とし穴を知り、心の平安にいたるための手引書」と記されている。
著者のいう人間の宿命とは言葉を有ったことだ。人間に言葉といういのちが宿ったことによって、幕が開いた人生劇のすべてが自分では自由に選べない悲劇であり喜劇であるということなのかもしれない。
悲劇であろうと喜劇であろうと、己れがその主役を演じ切るために思考力を鍛え続けることが必須なのだ。己れを騙し続けることが主役である己れを信じ、演じ切ることなのだろうから。
親鸞上人は古今東西第一の思想家、宗教家の一人と言えると思う。「念仏を唱えれば必ず極楽へ往生できると、法然上人に教えられた。結果としてたとえ地獄へいても構わない、所詮己れは地獄へいく身だから」と言い切っている。
個々一人ひとり己れが生きる世界という社会環境が想像を超えて激変しつつある現在、そして日本列島に生きる我々個々人一人ひとりにとっても日本社会という生きる場所も激変しつつある。個々一人ひとりが「如何に生きるか?」が激しく問われている。
著者が「懐疑論」から導き出した一つの応えは「懐疑主義」。「『懐疑=判断留保』の生き方」だ。懐疑主義は英語では「Skepticism」と表記される。仏教は「Buddhism」、資本主義は「Capitaiism」だ。「[ism]を生き方と言語化すれば、仏教は「森羅万象のいのちの活き専一の生き方」、資本主義は「お金のいのちの活き専一の生き方」、とも言葉化できそうだ。
とりあえず著者の導きに従って、“判断を留保しつつ”も、残りの人生は仏教的生き方を選択することにしようと思った。
この「----ism」に視点置くと仏教の源流のヒンズー教、バラモン教は、Hinduism、Brahmanismと表記される。イラン高原からインドへ侵攻したアーリア人の宗教だ。イラン高原ではゾロアスター教が成立しその後ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と影響し合っている。それらの標記はそれぞれ、Zoroastrianism、Judaism Isiamismとなっている。「----ism」だ。「生き方」と言えそうだ。表記は同じismなのだから。しかしなぜかキリスト教だけは、「-----ism」ではなく、「Christanity」と表記される。なぜなのか?キリスト教だけは「生き方」というわけにはいかないなにか別格の存在なのだろうか?とりあえず著者に従って判断留保しておくことにしておこうか。相変わらずの優柔不断の己れがいる。(苦笑)



































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