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2004/11/26

「努力が報われる社会」の嘘

このところしきりにT大臣や著名な経済学者がテレビ、新聞などで「努力が報われる社会」ということを喧伝しています。しかしよくよく耳を澄まして聴き、眼を凝らして観ると微かに『カネ」の二文字が浮んできます。実は「努力が『カネ』で報われる社会」と言っているのです。この世の中「努力すれば必ず報われる」といいきれるほど単純ではないことは、庶民はみんなわかっています。だから世のリーダーであるはずの政治家や大企業の経営者、テレビにしばしば登場する学者たち、テレビに登場して語れるほどすでに努力が報われてしまった幸運な方々がさらに「努力が『カネ』で報われる社会に」といわれると、一般庶民は「ここまで努力して報われないのにまだ努力が足りないといわれるのか」としらけてしまいます。さらに親や周囲の人達から努力する能力をもらい損なった者はどうしたらいiのでしょうか.。一億総中流が崩壊して二極分化(中流の没落)が鮮明になりつつある今日この流れを少しでも遅くするために、幸いにも努力する能力や向上心を育むことができた世のリーダー層に席を持つ方々は、是非「カネ」以外にももっと大事なものがあることを喧伝し、啓蒙することを切にお願いしたいものです。

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2004/11/14

河井継之助と山田方谷

若い頃、司馬遼太郎の「峠」を貪るように読んだ。司馬遼太郎が武士の中の武士と賞賛する河井継之助にただあこがれるばかりだった。ただ一点心に引っかかったのが、クライマックスの北越戦争に突入せざるを得なくなった小千谷会談決裂。英邁な河井継之助が知恵の限りを尽くし武装中立を宣言して、長岡藩を官軍、幕軍双方から距離をおいた。しかし官軍の居丈高な降伏勧告に膝を屈することができず、ついに官軍と戦端を開き長岡藩は焦土と化した。藩士はもちろん民百姓までを生き地獄の中に投じてまで、なぜ負ける戦に踏み込んだのか。何を守りたかったのか、膝を屈するべきではなかったのか。若い自分には答えが見つからなかった。この本を読んで豪放磊落、傲岸不遜な河井継之助が生涯唯ひとり師と仰いだ山田方谷も、備中松山藩を背負って同じ立場に立ったことを知った。徳川幕府最後の老中板倉勝静を藩主としていただく松山藩は賊軍として逃れようもない、ぎりぎりの交渉の末無血開城、血を流すことなく松山藩を存続させて明治維新を迎える。師山田方谷と弟子河井継之助の違いがここに現れている。 
 若い頃河井継之助にあこがれつつも心に残った微かな疑問が、30年後「炎の陽明学」を読み山田方谷を知るに及んでようやく解けた。朱子学、陽明学を究め、学んだものを「知行合一」の実学として用いた山田方谷の生き様を知ることで、「学ぶ」とはなにか「致良知」とはなにかあらためて確認できた。日本人一億二千万人個々の構造改革が求められている今、上杉鷹山も足元にも及ばない構造改革の真髄を知る上でも、「炎の陽明学-山田方谷伝」は二十一世紀の日本を導く立場の方々に是非読んでいただきたい一冊だ。

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2004/11/11

おしんの「しん」は親切の「親」

 おしんの「しん」は辛抱の「辛」ではなく革新の「新」だと書きました。実はもうひとつ隠れたキーワードがあります。おしんの「しん」は親切の「親」です。今言うところの顧客満足です。日本髪の技術を流行りはじめの洋髪にむけて成功したのですが、その時の顧客は当時流行りはじめたカフェの女給です。伝統的な日本髪を結う女性が多い中で、洋髪を結いはじめたのはやはり貧しさから抜け出すために新しい仕事に就いた女性たちだったのです。彼女たちの多くは文字を書くことが出来ないのです。山形の奉公先で読み書きをしっかり仕込まれていたおしんは、達筆な文字で彼女たちの恋文の代筆をしたのです。それがリピート、口コミを支えたのです。「技術がいい」は当然ですが、それを支えたのが恋文の代筆でした。少々同業者より高くても選ばれるのです。伊勢で魚の行商をはじめたときも当然先発の行商人がいるわけですから、後発のおしんが子連れで箱車を押して一日中足を棒にして歩いてもさっぱり売れません。お客だって当然馴染みの行商人に不義理をする嫌な思いまでして、店を変える気にはなれないのです。変えるには相当の理由が要ります。夕暮れまで歩いてさっぱり売れないおしんは、とうとうタダで魚を配ってしまい箱車を空っぽにして戻ります。諦めたのではなのです。翌日また箱車に魚を満載して、今度は魚の価格を幟に大書して回りはじめるのです。いままで相対売買で不透明な価格をはっきり明示しました。今度は夕暮れを待たずに完売です。それもそのはず昨日配ってしまいましたから、今日の魚は売れ残りは一匹もありません。新鮮そのもの、その上に昨日タダでもらった義理があります。義理は子連れの姿への同情に変わります。その上に価格は明示されリーズナブルとくれば売れない訳はありません。高品質、義理人情、価格と三拍子揃っています。まさに親切の「親」ここに極まるです。顧客満足経営の元祖、戦後のスーパーも大成功です。「辛」「新」「親」三つの「しん」があればいつの時代乗り切っていけることをおしんは身を持って教えてくれています。若いひとたちには老中がまた「辛抱」という価値観を押し売りするという先入観を捨てて、「新」「親」の視点で一度は見て欲しいドラマではあります。

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2004/11/06

おしんの「しん」は革新の「新」

 中小企業経営者の集まりで、「景気が良くなったといわれているのに、ちっとも回ってこないのはなぜか?」という問いをいただきました。今は昔、景気は飛行機の離着陸に喩えられていました。景気が良くなる離陸のときは、機首に喩えられる大企業、都会の景気が良くなって、最後に尾翼の中小企業、地方の景気が回復します。景気が悪くなる着陸のときは、まず後輪が着地して最後に前輪が着地します。以前は早い遅いはあっても辛抱してれば回ってきましたがいまは、辛抱していても回ってこないのです。大企業も史上最高利益、とかバブル後最高利益とか新聞のタイトルが踊っている企業は、リストラを完了させた企業と長年新技術、新商品にこだわってきた企業であって、辛抱して待っていた企業ではないのです。問いをいただいてしばらくは、どんな答えを期待しているのか真意が良く理解できなかったのですが、二十年前に拙著「戦略経営の実践」に書いたり、おしゃべりしてたお話を思い出してお話しました。
 私の答えはいたってシンプルです。「もうしばらく我慢して」とか「頑張りましょうもうすぐ夜明けです」といった答えを期待している方には、期待する答えにはならないのですが、昔のように辛抱して待っていても回ってこないのです。「待ち人来たらず」です。 「おしん」が大ヒットしていた、二十年以上前から私の答えはひとつしかありません。「おしんの『しん』は革新の『新』」です。おしんをみる度に、日本人はテレビや居間の調度品、鏡の中の自分を眺めながら「おれも昔は貧乏だったなあ!」「良く辛抱したもんだ!」「よくここまできたもんだ!」と昔を懐かしんでいました。アジア、アフリカ世界中で大ヒットしましたが、貧しい低開発国の人々は、「日本も昔は貧乏だったんだ」「それなら俺たちだって辛抱すれば」と思いながら見ていたのでしょう。キーワードは「おしんの『しん』は辛抱の『辛』」でした。そもそもそれが間違いだったのです。「時の流れ」に身を投じないで、岸にしがみついて、辛抱していても流れに取り残されるばかり,そのうちに力尽きて溺れてしまうのが落ちです。
 おしんは辛抱して成功したのではないのです。もちろん人一倍の努力をしましたが、それは当たり前、努力は当然でそれはおしんの成功の原因ではありません。おしんは困難に遭っても、過去に成功したことを繰り返したことはありません。16歳で山形から逃げるようにして上京したおしんは髪結いの修行に入ります。普通は12~13歳で修行に入り十年の修行で独立するのですから16歳では遅すぎたのですが、おしんは19歳三年で独立しました。持ち前の努力と辛抱で十年の修行を三年に縮めたわけではないのです。当時流行りはじめの洋髪を結って独立した最初の月に、当時希少価値だった大卒の初任給25円の二倍の50円を稼いでしまいます。当時一人前の日本髪の技術者は流行りはじめのあやしげな洋髪を結おうとしなかったのですが、伝統的な日本髪の技術を新しい流行に応用したおしんのイノベーションが成功の要因です。ぼんぼんの夫が経営する羅紗屋が経営不振に落ちいったときも、彼女は得意の髪結いに戻らないで、当時流行りはじめた子供服の既製服を製造販売して大当たりします。その後、嫁いびりに耐えられず独立、伊勢で魚の行商から身を起こしお店を持つまでに成功し、戦後はスーパーへと変身していきます。
このおしんの自己革新が成功の秘訣であり、チャレンジとは時の流れに流されるのではなく、流れに乗ることです。 実は古来より舶来の知識技術を取り入れて自分たちに合うように磨き上げてきた、この自己革新能力こそ日本人の真骨頂だったのではないでしょうか。個人、中小企業など弱者こそ自己革新が生長(ながいき)の原動力であって、辛抱、努力は必要条件ではあっても十分条件ではないことをおしんの物語から学びたいものです。

 

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2004/11/01

老中のための楢山節考

政府は年金の支払いを減らしたいために、定年延長を唱えています。当の中高年の多くも自分のことを考えると、確かに定年を延長してもらったほうがいいように思えます。しかしもし定年を65歳にしたらどうなるのでしょうか?団塊の世代もあと十年近く企業に残留することになります。アメリカ型になりつつあるとはいえまだまだ儒教精神の残る日本の職場で、かっての上司を部下にし、部下を上司にするお互いの気まずい空気の中で仕事をして、仕事が円滑に回るとは思えないのです。当事者同士では表立って発言できないタブーですが現実にはお互いに気まずい空気の中に日々を過ごすことになるのではないでしょうか。建前では割り切っても本音のところで割り切れないのではないでしょうか。老中(老いの中を生きる)にとって大事な人生のわずかな残りを気まずい空気の中で過ごすのは、企業にとっても本人にとってももったいないと思うのですがいかがでしょうか?
 さらに今、社会問題は若年層の失業率の高さです。「近頃の若い者は・・・!」といわずに若い世代に譲るとう発想をしてはいかがでしょう。拙著の中でも紹介したことがあるのですが、ピラミッドの壁の落書きを考古学者が必死に解読したら「近頃の若い者は!」と書いてあったそうですから、古来から綿々と続く年寄り言葉のようです。60歳以後も元気で意欲のあるひとは、新しい環境で過去の経験を生かして新しい仕事をしたほうが精神衛生上もいのではないでしょうか。そのためには第三コーナーあたりから「おカネ」以外のモノ、ゴトを大事にする価値観を身に着けておく必要があり、この価値観こそが第四コーナーを走り切るノウハウになると思うのです。

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