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2004/11/14

河井継之助と山田方谷

若い頃、司馬遼太郎の「峠」を貪るように読んだ。司馬遼太郎が武士の中の武士と賞賛する河井継之助にただあこがれるばかりだった。ただ一点心に引っかかったのが、クライマックスの北越戦争に突入せざるを得なくなった小千谷会談決裂。英邁な河井継之助が知恵の限りを尽くし武装中立を宣言して、長岡藩を官軍、幕軍双方から距離をおいた。しかし官軍の居丈高な降伏勧告に膝を屈することができず、ついに官軍と戦端を開き長岡藩は焦土と化した。藩士はもちろん民百姓までを生き地獄の中に投じてまで、なぜ負ける戦に踏み込んだのか。何を守りたかったのか、膝を屈するべきではなかったのか。若い自分には答えが見つからなかった。この本を読んで豪放磊落、傲岸不遜な河井継之助が生涯唯ひとり師と仰いだ山田方谷も、備中松山藩を背負って同じ立場に立ったことを知った。徳川幕府最後の老中板倉勝静を藩主としていただく松山藩は賊軍として逃れようもない、ぎりぎりの交渉の末無血開城、血を流すことなく松山藩を存続させて明治維新を迎える。師山田方谷と弟子河井継之助の違いがここに現れている。 
 若い頃河井継之助にあこがれつつも心に残った微かな疑問が、30年後「炎の陽明学」を読み山田方谷を知るに及んでようやく解けた。朱子学、陽明学を究め、学んだものを「知行合一」の実学として用いた山田方谷の生き様を知ることで、「学ぶ」とはなにか「致良知」とはなにかあらためて確認できた。日本人一億二千万人個々の構造改革が求められている今、上杉鷹山も足元にも及ばない構造改革の真髄を知る上でも、「炎の陽明学-山田方谷伝」は二十一世紀の日本を導く立場の方々に是非読んでいただきたい一冊だ。

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コメント

昔は書籍がいかに貴重だったかもわかりますが、それを求めて江戸へ出てる、岡山へ出かけるという行動力そのものが、河井継之助の魅力であり、王陽明に通じる目に見えない共通の価値観があったのでしょう。このブログを書くに当たって、「峠」を持ち出して見直していたら、30年前に引いたアンダーラインの中に若い頃の自分を見つけました。「田舎の三年、京の昼寝」です。「田舎で三年勉強するより、京で昼寝をしていたほうが学べる」という意味ですね。僕がサラリーマンをやめる縁になった重要な一言です。読書は知らず知らずの内に密かに、自分を創っています。良い本との出会いが大事ですね。

投稿: 懐中電灯 | 2004/11/18 08:49

峠まだ少し読んだだけですが河井継之助の信念の強さを感じています。古賀塾に入った理由が王陽明全集があるからというのはなんとなくおかしかったです。自分が信じたことを継続していくことの大切さ、難しさ凄い人ですね

投稿: 山本権兵衛に憧れて | 2004/11/16 08:01

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