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2005/01/24

希望格差社会の傾向と対策

パラサイ・トシングルという言葉をつくり流行させ、日常の言葉として定着させた著者がまたまた「希望格差」という言葉で、日本社会のおかれた状況を解き明かしてくれました。著者は日本社会はいま90年代バブルの精算を通して勝ち組、負け組という言葉に代表される二極化、リスクの普遍化が進行していて、将来に希望が持てる勝ち組と格差に絶望した負け組に分裂する過程にあると指摘しています。その分裂が社会をさらに不安定化していく、そんな日本の現状を希望格差社会と命名しました。昨年出版された「人口減少経済下の新しい公式」(著者松谷明彦)「封印された不平等」(著者橘木俊詔)との三冊を読むと21世紀の日本人が置かれている状況(足元)を認識することができます。
 まずおかれた状況を認識した上で、はたしてそこから抜け出すにはどうしたらいいのだろうか。それにはあらためて「希望」なるものを定義してみる必要がありそうです。そこには別な希望があるかもしれません。戦後の日本は格差を縮めることで成長してきたのではないでしょうか。都市と農村の格差、学歴格差、男女格差、地方と中央様々な様々な局面で格差を縮めることが経済成長を実現する種でした。私が小中学生のころは、お米屋、お酒屋さんが御用聞きに来る家はお金持ちと決まっていました。だからビンビールビンででガチャガチャ音がすることが大事でした。ミシンもピアノも大きな音がするから売れたのです。我々老中には耳元に「いつかピアノが持てたなら・・・・・・」金八先生の歌声「隣の車が小さく見えます」「大きいことはいいことだ」メーカーの掛け声が懐かしく聞こえてきます。高校生のころ夏休みのアルバイトで自転車の後ろにリヤカーをつけ体重の三倍、30貫(約120キロ)の氷を積んで東京の下町の豊かな家を一軒一軒回りました。電気冷蔵庫のなかった時代お金持ちの家ではその氷で冷蔵庫を冷やしたのです。目に見えるモノはすべてが憧れであり、スティタスシンボルだったのです。その目に見えるモノの格差は高度経済成長によって見事に消滅したのです。というより格差を解消することで高度経済成長を成し遂げたというべきでしょう。学歴格差も同じです。終身雇用制の下で高卒と大卒、大学と名がつけば有名無名とりあえず大きな差もなく、能力によって昇進に差はあっても、給与では目に見える差のない社会を実現したのです。行き着く先は課付課長、部付部長と屋上屋を重ねる組織を作って見た目の昇進さえ、見えなくしてしまいました。”もっともっと”と死ぬことさえ忘れて永遠の希望(?)に満ち溢れていました。一瞬格差が消滅したかに見えたその沸騰点がバブルだったのではないでしょうか。ブランドモノを買い漁り、少々多額でも背伸びをして住宅ローンを組めば誰でも持ち家を持つこともできました。目に見えるモノの格差という希望がすべて叶ったと思った瞬間でした。気がついたら二世代ローンで子供の未来まで巻き込んでいたのです。 ところがバブルの精算がはじまり15年、目の前で不沈戦艦だったはずの銀行、大企業がばたばたと倒れ、今は”もっともっと”悪くなるかもしれない、”もっともっと”失うかもしれないという不安に襲われて恐れ慄いています。
 これではまるで蜘蛛の糸を登りつめた犍陀多のようです。これまで希望という蜘蛛の糸を登ってきたとすれば、勝ち組は犍陀多、負け組は後に続いている罪人なのでしょう。糸が切れたら皆で仲良く元の地獄に落ちるだけです。糸が切れるか切れないか、犍陀多の心がけ次第かもしれません。逃げ切り世代と言われる我々老中も、やはり犍陀多のひとりとして後に続く次世代との格差を縮める努力をしなければいけません。糸が切れないうちに?それとも著者の論じるようにすでに犍陀多の下で切れてしまったのでしょうか。芥川龍之介は蜘蛛の糸を子供の童話として書いたのですが、これは芥川龍之介の創作ではなく、アメリカの宗教学者ポール・ケーラスの「カルマ」が下敷きになっているそうです。芥川龍之介は書かなかったのですが、その「カルマ」の最後に、地獄は「自分さえよければという利己心」であり、糸の先にあるであろう蓮の池は「いきとしいけるものの幸せを願う心」だと書いてあるそうです。著者が希望格差と喝破した日本は所詮地獄の中の有り様にすぎないのでしょう。アルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ仏教会長老)と養老孟司(科学として解剖学を究めつつ仏教哲学に到達した)の対談「希望のしくみ」(宝島社)の中に一つの答えがありました。「希望という名の渇愛が不幸の因」とあります。

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コメント

「希望のしくみ」近々ご紹介したいと思っています。自分の中で整理しているところです。希望とうのは「もっと・・・」になってしまいますね。「不幸=現状+希望」「不幸=不幸+希望」なぜかというと現状に満足していないから「もっと」になりますね。まず現在の中に「満足」現状の中に「幸せ」を感じないと、いつまでたってもよりよい幸せを求めてしまいますね。よりよい妻を、よりよい夫を、より出来る子を求めることから家庭の不幸がはじまります。親鸞の教えの「ひたすら感謝報恩の念仏」というのも救ってほしいから、助けてほしいから念仏を唱えるのでななくて、すでに阿弥陀様に救われているから感謝の念仏を唱えるのだそうです。僕は「幸せ癖」といっているのですが、日々の中に幸せを感じる癖をつけることではないかと思っています。加山雄三の歌にありましたね。「ぼくは幸せだな!君といるといつも僕は幸せなんだ!」ちょっと気障ですね。照れてはいけない。「いきとし生けるものの幸せを」は希望ではなく「願」と言ったほうがぴったりきますね。

 

投稿: 懐中電灯 | 2005/01/25 13:37

ん~。『希望という名の渇愛が不幸の因』難しいですね。私の感想的外れかもしれませんが、希望にも種類があると思うのです。種類というのがブログにも書いてありますように利己心が背景の希望と地球のみんながのような生きとし生ける者を願う心みんなが後者ならきっと『希望という名の渇愛が不幸の因』でわないと思います。

投稿: 山本権兵衛に憧れて | 2005/01/25 10:31

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