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2005/03/20

早春の備中松山城

PICT0112山田方谷が智謀の限りを尽くして守り抜いた備中松山城は、いまでも高梁市を見下ろす山の上に凛として聳えています。小さい山城ですが、美しいお城です。時折、上空の黒い雲から春の淡雪が舞いお城の黒い板塀にあたって溶けていきます。どこのお城にも城には歴史の中の悲哀が漂っています。戦国時代この城を治めていた三村氏は毛利氏に臣従していましたが、宿敵宇喜多氏が毛利氏と手を組んだためやむなく織田信長側に組することになりました。毛利、宇喜多の大軍に囲まれると、織田信長の援軍もなく、半年の抵抗の後落城してしまいます。意思決定が正しいとか間違っていたという歴史の巻き戻しのできない苦渋の選択の結末だったのでしょう。江戸時代には水沢氏が三代にわたって統治しますが三代目勝宗に後継ぎが無く、水沢家断絶になります。そのとき幕府の使者として、城を受取の使者に立ったのが赤穂藩の家老大石蔵之助、明け渡す松山藩側は家老鶴見蔵之助です。「二人の蔵之助」で名を馳せたお城ですが、明け渡す側の家臣はすべてリストラされ、家族共々路頭に迷うわけですから鶴見蔵之助も必死です。大石蔵之助の真摯な説得で無血開城することができました。pict0138その後大石蔵之助が赤穂の城を明け渡す側の代表に立つのですから歴史は残酷なものです。忠臣蔵に描かれているとおり領民が戦禍に巻き込まれることも無く、無血開城することができました。その後山田方谷が無血開城しますが、ここでも城下は戦火に焼かれることなく、神社仏閣をはじめ城下町としての風情を今日に残しています。頼久寺には小堀遠州が作った枯山水の美しい庭も残っていて町並みは観光資源として今でも生きています。明治に入り明治政府の政策で各地で城が取り壊されてしまいます。いま考えるともったいないことをしたものだと思いますが、当時は廃藩置県で召し上げられ、お殿様は貴族として残りましたが、路頭に迷った不満武士団の溜まり場になることを恐れたための政策だったのでしょう。この備中松山城は山の上の小さなお城だったせいか見逃され放置されたお陰で、改修され町一番の目玉商品として今日に至っています。

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コメント

昨日は有難うございました。

山田方谷(歴史上の偉大な人物は敬称なしで)を紹介する本を頂き、有難うございました。

小生などまだまだ勉強不足です。

今日の講演会は如何でしたか?

米関係者相手で、「ヌカに釘」じゃ困りますが・・・

投稿: 市川 稔 | 2005/03/21 16:07

是非調べて語りましょう。自分の住む所を好きになることが、地元でビジネスをする第一歩です。このブログの左下に足助の経営者のブログ、黒石の経営者の地元を愛するブログがあります。クリックしてみてください。

投稿: 懐中電灯 | 2005/03/21 00:26

歴史を感じれるものが残されていることは素晴らしい事ですね。でもその歴史を語れる人がどれ位いるのでしょうか?私は語れない一人ですが地元の事を語れる事は大変素晴らしい事と思うのです。

投稿: 雑草 | 2005/03/20 15:59

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