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2005/04/20

甲斐源氏終焉の地へ下山

pict0045 数人の登山者が山小屋に着くなり「富士山の見えない大菩薩なんて・・・・・・」とぼやくことしきり、すかさず山小屋の主人の「明日は高気圧におおわれますからきっと大丈夫ですよ」の一声に救われて宿泊客はほっとして思わず缶ビールで乾杯でした。翌朝は早朝4時半出立、残雪の残る北斜面を懐中電灯を頼りに登りましたが天気予報通り、下界は雲海に覆われ、上空も春霞に霞んではいましたが、幻想的な御来光を仰ぐことができました。この稜線は距離が長く歩く人も少ないので、標高2000メートルから標高600メートルまで、次第に高度を下げながら終日富士山の展望を独り占めに快適な山歩きが楽しめます。

pict0066 標高が1,000メートルを切り山里に近くなってくると、まだ練習が足りないのか、うぐいすのたどたどしい鳴き声が聞こえ、気の早いつつじは一輪二輪と花を開いていました。さらにひとしきり下ると眼下に満開の桜に囲まれたお寺が見えてきてきました。今日の下山口景徳院です。ここは西暦1、582年3月織田・徳川連合軍に追われた武田勝頼がこの地に落ち延びて、妻妾五十余名ともども自刃した武田家終焉の地です。森羅三郎義光以来495年続いた甲斐源氏がここに滅亡したのですが、その三ヶ月後の六月に本能寺の変で織田信長が死ぬことになるとは、勝頼も草葉の陰でさぞ悔しかったことでしょう。旧武田家の家臣をそっくり手に入れた徳川家康は
pict0069 天下取りの大きな地固めをこの瞬間に築きました。七月に甲州入りした、家康がこの地に寺を建立し、勝頼主従の菩提を弔ったのも旧家臣団への配慮だったのでしょう。景徳院は勝頼の戒名でもあります。40年ほど前この寺の前を通った折は、なにもないひっそりとした静かなお寺でしたが、いまでは勝頼妻子の墓は墓前で拝むのも窮屈なほど片隅に追いやられ、お寺の周囲は観光用の「勝頼公御前」の幟が林立して賑わっています。しかしどうもしっくりしません。終焉とはやはり”ひっそり”が似つかわしいと思う僕としては、勝頼父子の辞世の歌碑を黙読して、昔とは違った寂しさを味わいながら景徳院を後にしました。
    おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端
                                                                 武田勝頼(37才)
  あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢
                                                                  信勝(16才) 
  あでやかに桜まといし景徳院 勝頼父子の無念散り散り
                                 雛鳳

                          

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コメント

郷土の歴史を掘り起こして学べば、郷土を愛するようになれると思いますね。日本国についても同じでしょう。日本人がもっと正しく歴史を学べば、日中、日韓、日米の問題も整理できると思います。靖国問題についてもね

投稿: 懐中電灯 | 2005/04/22 08:55

何もかもを商いにするのはどうかと、いうのはありますね。逆に多くのひとが歴史に触れる機会があることはいい事だと思います。

投稿: 雑草 | 2005/04/21 09:43

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