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2005/11/18

映画「蝉しぐれ」を見て

映画「蝉しぐれ」のファーストシーンは、木立が道の両脇を覆って細いトンネルのようになって登っていく坂道、蝉しぐれのトンネルの小さな出口がぽっかりと空を切り取っています。一瞬、司馬遼太郎の「坂の上の雲」か?と想像しましたが、「坂の上の雲」の坂は広く大きく、その先は抜けるような清々しい青空に真っ白な雲が浮かんでいました。「蝉しぐれ」の坂道は胸が押しつぶされそうな、真っ暗ではないけれど、とっても重苦しい坂道の上に、空にぽっかり小さな窓が空いていたのです。

映画の前半は主人公牧文四郎(市川染五郎)の多感な少年期、父親(緒方拳)は政争に巻き込まれ処刑されてしまいます。その遺骸を文四郎はたった一人で引き取り、町の中を大八車で引いていきます。罪人の子として骸を引く文四郎は、衆人蔑視の町の中は引くことができても、あの蝉しぐれの坂道は幼い一人の力では登れないのです。汗を拭き拭き登りあぐねている瞬間に、坂の上の小さな空の穴から、幼馴染の”ふく”が駆け下りてきます。ふくの後押しでようよう坂を乗り越えていきます。若者を押しつぶしてしまいそうな理不尽な世の中、思い通りにならない人生の坂道を登る胸苦しい、重苦しさの中にも随所にかすかな明るさが見えます。文四郎は理不尽な境遇を振り払うように剣の修行に励み力をつけていきます。映画の後半は、幼馴染のふくが藩主に見出され、世継ぎ候補を生むことになります。父と同じようにいや応もなく、おふくが生んだ世継ぎを巡る政争に巻き込まれていきますが、己が磨いた剣が見事に母子を守ることになります。胸が押しつぶされそうな前半、から一転主人公文四郎の鮮やかな立ち回りもあり、晴れやかな明るさに彩られていきます。木村佳乃扮する”おふく”の静かな美しさ、すでに藩主に寵愛され幸せな姿がさらに明るさを加えています。不遇の中にもかすかな光があり、暗い現在の中にも明るい未来が見える前半とそのかすかな明るさが次第にまぶしい光になっていく後半、黒土三男監督の隅々まで行き届いた繊細なカメラワークによる映像は藤沢周平への想いがしっかり込められています。
 映画を見終わって気がついたことは、映画の前半の胸が締め付けられるような切なさ、重苦しさは、世の中の理不尽さ、不公正さをたっぷり味わいながら育った自分の十代を重ねてみていたせいなのでしょう。その理不尽さの中にも、見出すキラリとした光明、一筋の光明を掴み一筋に武道に励んでいく主人公牧文四郎は、映画の後半その励んだ自分の腕で、下級武士としての幸せを掴んでいきます。まだ藤沢周平の入り口に立ったに過ぎませんが、若い頃司馬遼太郎の世界に憧れ、今藤沢周平の世界に惹かれる自分を眺め、シルバー割引夫婦で二千円のスクリーンを背に、微苦笑している自分がいます。
 司馬遼太郎の、底抜けに青天井のように明るい、しかし生活臭のない世界に耽溺し憧れた我々の世代も、退職金や年金のソロバンが頭をよぎる老中になって、「少し違ったかな?」という微かな想いも抱きながら、藤沢周平の世界に惹かれているのかもしれません。

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コメント

光明はいつも個別具体的にひとそれぞれに違った形で注がれています。自分にのみ注がれている一筋の光明を捉えることができるのは、前向きな向上心というミットです。

投稿: 懐中電灯 | 2005/11/21 08:37

厳しい環境の中(不況)でも一筋の光明は在りますよね。その一筋の光明を掴む方法は、文四郎がしたように一つの事に力を集中させる事だと思いました。私も会社に落とし込みます。

投稿: 雑草 | 2005/11/18 08:31

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