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2006/11/08

本物と偽物の違い(2)

15年ほど前のことですが、中学生の娘と家内と三人で銀座の歩行者天国を歩いていた時のことです。通りのあちらこちらに托鉢僧をみかけました。みな熊谷寺と墨書した同じ袈裟をつけ、顔が見えないように傘を被っていました。娘にあれは偽の坊さんだから、お布施をすることはないんだよと教えたのです。その後テレビニュースでも、外国人のアルバイトに托鉢僧の姿をさせ傘の内側に般若心経を貼り付けて托鉢をさせていたという報道され、「お父さんどうして見破ったの」と娘に言われ面目を施したと思ったことがあります。

 ニュースも忘れられ数年たった上野公園で、同じ偽托鉢僧が立っていました。その近くを5~6才の子供を連れた若い夫婦が歩いていました。その子供が托鉢僧に気づくと、さっと小走りに走り寄って背伸びをして、托鉢鉢の中にチャリンとお賽銭をいれていました。その時の笑顔は満足一杯、幸せ一杯といった笑みを湛えていました。一瞬あんな幼い子まで騙すのかと思ったのですが、よくよく考えると果たして、幼い子は偽坊主にお布施をしたのか、とするとあの満面の笑みも偽物なのか、たとえ托鉢僧は偽者でもあの笑みは本物なのか?
 お社寺をお参りして、仏像の前で手を合わせ、お賽銭箱の前に立つと条件反射のようににお賽銭を投じます。仏像は本物?その社寺は本物?そこの住職は、神主は?なにが本物で、なにが偽物なのでしょうか。少なくても上野公園でみた幼児の微笑みは、間違いなく無垢の本物です。とすればその微笑みの縁を起こした托鉢僧も本物ではなかったか?
 そして己は?とても恥ずかしくて、本物とはいえません。さて冥土に行くまでに、少しは近づきたいと念じているのですが?

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コメント

懐中電灯さんへ
早速のお返事ありがとうございます。お坊さんと言っても大した修行もせず俗塵にまみれているんですから、普通に考えてもらったらいいんですよ。たまたま、そういう縁があって寺で暮らしているだけなんですから。
私もこうしてお返事を書くことで、自らの考えを整理することが出来て、とても感謝しています。それから、私の祖父も申しておりましたが、「本当の信心は在家(出家者でない素人)の中にある。少しぐらいお経を読んだからと、慢心するな。」とね。仏教は坊主の専売特許じゃありませんから。万人の為のものでしょう。
私はmixyは使っていません。(娘は使っているようなので教えてもらおうかな)
最近のブログに目も通さずに偉そうなことを書いたかな。と少し反省をしています。食や農業の問題は私たちの命に関わる大切なものですから、生産効率だけで考えては、間違うでしょうね。

投稿: 小僧 | 2008/02/22 06:00

コメントありがとうございます。
<小僧さん>
>あなたは闇夜を照らすお役をお持ちのようですね
 とてもそんな役には立ちませんが、<小僧さん>が仰るようにささやかでも、右手で一人、左手で一人、せめて両手で二人と手をつなぐことができればと思いながら、ブログを書き、Mixyを使っています。<小僧さん>はMixyはお使いですか?
 お坊さんとブログを通して、対話をさせていただいて、ありがたいです。コメントをいただき、感謝しています。
 生きている過程で、ぶつかったキーワードを逍遥(苦悶?)しながら、仏教にも虫食いのように雑学で、出会ってきました。人間は、自分のことを自分では自己認識できなくて、鏡に映る自分を自分と認識します。他人との出会いや、喧嘩やいがみ合いに、自分自身が出てきますね。喧嘩は自分に「因」があって、他人は「縁」ですね。きっと森羅万象すべてが自分に気付く鏡なのでしょう。<小僧さん>が仰るように、受信能力、己のアンテナを磨いていないと、森羅万象が何を語りかけているのか受信できないのですね。 
「因→縁→果」に気付きはじめて、少しずつ己にも変化が起きているように感じますが、老中になり、歳を重ねるにしたがって、ますます己の醜さが見みえてきて、自己嫌悪に陥ることが多くなるこの頃です。
 これも体内の毒をはきだしている過程にあるのだと、我田引水しています。
 ブログも発信するとまたこだまが返ってきます。そのこだまで自分に気付くことも多いですね。「こだま」って「木霊」とか「木魂」って書くんですね。

投稿: 懐中電灯→小僧さんへ | 2008/02/13 09:18

<懐中電灯さん>
早速のお返事、ありがとうございました。あなたは闇夜を照らすお役をお持ちのようですね。私も万物の仏性を感じながら生きて行きたいと思っています。しかし、なかなか心はままなりませんな。困ったことの多い外界を変革することも大切なことですが、それを受け止める私の心も塵を払って受信感度を向上させていきたいものだと思っています。世の中の出来事を「けしからん」と怒っていても始まりません。言っても仕様のないことを言うのを愚痴といいますから、愚かなことなのでしょう。まずは自分の手の届く範囲から変えていくしかないのでしょう、ちょうど箒の届く範囲から掃除を始めるように。

投稿: 小僧 | 2008/02/12 22:19

コメントありがとうございます
<小僧さん>
 本当のお坊さんからコメントをいただいて恐縮です。
仰るとおりですね。僕もそのことを書くために、例えとして、(1)で一休禅師の衣のことを書き、(2)で偽坊主のことを書きました。布施する心が本物です。
 もう一歩突っ込んで、偽坊主も本物のお坊さんだと言いたいのです。仏像とどう違うのか?
 子供の心に、喜捨を目覚めさせたのですから、偽坊主は実は本物のお坊さんですね。賢しらに、真贋を言い立てて、偽だといって、喜捨できない僕の心が偽物です。
 「山川草木悉皆仏性」自分の心に潜んでいるはずの、慈悲、理智を目覚めさせる方便として、仏様が存在し、教え主として、お坊さんが存在するのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか?

投稿: 懐中電灯→小僧さんへ | 2008/02/12 08:38

結論から申し上げれば、お坊さんは偽者でも、お布施は本物ではないでしょうか。世に「情けは人の為ならず、回り回って己が為。」と申します。お布施は施すこと自体が目的なのです。「人様に施しが出来る今の幸せ」を実感し、与えられた幸せを社会に還元するのです。とりあえず使わない財がある人は財を施せばいいし、電車で席を譲ることだって立派な布施です。相手がお坊さんである必要はありません。社会の善化活動に汗を流すのも立派な布施です。私も小さいながらお寺に住んでいます。生計を立てるほど寺の収入はありませんから、兼業です。いわば偽者です。施主さんに「お布施はいかほど?」と問われたら「あなたが感謝して出せる額でけっこうです。」と答えることにしています。100円でも惜しい人は10円でも1円でも結構。布施は喜捨とも言います。喜んで捨てること。捨てた後はどう使われようともこだわらないこと。惜しいと思って出すのは教えの本意ではありません。無償の愛が行き交う世の中が、仏の国なのですから。本当の仏様は犠牲というものを好まれないと思います。積んだ徳は、坊主が返してくれなくても、いずれ返してくださると思いますよ。

投稿: 小僧 | 2008/02/10 16:50

コメントありがとうございます
<雑草さん>
なにが本物か、アントニオさんやしじみさんのコメントにもあるように、まず自分の心が決めるものなのでしょう。しかし自分の心を高めていかないと間違ってしまいますね。
<しじみさん>
「汝試すなかれ」という言葉もありますね。確かめる必要はないんですね。
「お金とひとの物語」何度も読み直しています。そのたびに新しく赤線を引くところが出てきます。ブログでも紹介したいのですが、もう手に入れ難いのでやめています。
<アントニオさん>
 そうですね。両親と一緒で幸せな自分、その幸せを布施して、その子供もそのとき仏になったのでしょうね。

投稿: 懐中電灯 | 2006/11/08 20:05

しじみさん、アントニオです。
たしかに、自分の心がそう動いたらそれは自分にとって真である、その通りですね。

投稿: アントニオ | 2006/11/08 08:43

僕は托鉢僧にアルバイトさせて、わずかなお金をチャリンなんて、昨今のオレオレ詐欺に比べればかわいいものと感じました。

そのアルバイトは偽であっても仏に対して縁ができ、布施をした人もこころは仏に向いたわけですですから、人間の善悪で判断するのは難しいかもしれませんね。

上野公園の托鉢僧は仏が姿を変え、その子供の前に現れたように感じます。方便として、その僧は存在していたのかもしれません。

投稿: アントニオ | 2006/11/08 08:41

先日「お金とひとの物語」を読ませて頂き感じた事をふまえて、、
僧や仏像の真偽を確かめる必要はないと考えます。
自分の心がそう動いたらそれは自分にとって真であり、お金は間違いなく紙切れ以上のものを手に入れた事になると思います。
だから自分の心が動かなかったら相手が本当の真であっても自分にとっては価値のない存在なのではないでしょうか。
「オズの魔法使い」の話しもよかったですね。

投稿: しじみ | 2006/11/08 08:39

何が本物で何が偽者なのでしょう。
難しいです。

投稿: 雑草 | 2006/11/08 07:57

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