映画「武士の一分」に「弱者の一分」を観た!(1)
映画「武士の一分」を観ました。キムタクが木村拓哉になったという印象です。「一分」を通した木村拓哉の演技を観て、時代劇に新しい役者の誕生を予感した観客も多いのではないでしょうか。主役の剣士が筋骨隆々は昔のこと、美男子で、しなやかで「一分」を持って、腕も一流、なんとあらまほしい姿ではありませんか。
なんと絶妙なタイミングに上映されたことか、どうして今回の郵政造反組の復党劇に、あきれて、情けなさを感じたのか、この「一分」の中に答えがありました。
ぜひ今回の復党劇に自民党執行部にも復党組にも双方にあきれたり、情けないと感じた方はなぜあきれるのかを確かめてください。
「強者と『勝ち組』」「弱者と『負け組」」それぞれの一線を画すものが、言葉で言い尽くせないこの「一分」にあるように思います。そしてこの映画の中に、弱者にも”弱者の一分”があることを発見しました。
強者が”強者の一分”を失ったとき、それは単なる「勝ち組」の一人に過ぎないのです。そして「強者の一分」を失った「勝ち組」はいずれ「敗け組」になります。弱者にも一分があり、弱者がそれを捨てたとき、弱者はダイレクトに「負け組」になってしまうのです。
木村拓哉扮する三村新之丞は三十石取りの下級武士で、藩主の食事の毒見役です。坂東三津五郎が演じる敵役、島田藤弥は上級武士の番頭です。そして映画の中では多くを語らない老藩主がいます。この三者は士農工商の”武士”としては共に強者の立場にあります。そして武士階級という内なる世界、そこにも藩主、上級、下級という強者と弱者の関係がありました。
木村拓哉は役目の毒見で失明し禄を失い路頭に迷う危機に瀕してしまいます。役目に殉じて禄を失うのですから、理不尽なことではありますがそれも世の常。元宝塚の檀れい演じる美貌の妻加世共々「負け組」への切所に立たされることになります。
加世は生活のため家禄の一部でも安堵してもらえないかと、番頭島田籐弥に頼みにいき、引き換えに手篭めにされてしまいます。島田籐弥はこのとき、身の置き所を強者から「勝ち組」に立場を変えてしまいました。それを知った新之丞は、愛する妻を離縁し失意の日を送ります。
(つづく)
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コメント
コメントありがとうございます
<アントニオさん>
「ぎりぎり『誇り』」ぎりぎりが大事ですね。安易に「誇り」→「プライド」→「面子」などと広がってしまうのは怖いです。ですから、いつも「弱者は強者に対して、卑怯でいい」といっているのです。
徳平は問います。「盲目の者が免許皆伝の者に敵うはずがないのに、そこまでして、なぜ?」新之丞は「言葉にできない『一分』としかいいようがない」と言っています。果し合いの申し状でも「盲目とて努々油断めさるな」と事前にいっています。
広辞苑には「一身の面目」「職責」と書いてあります。大事なことは憎しみや、復讐心ではないことも大事なことです。止めを刺ささなかったことで表現しています。
僕は「人間の尊厳」のようなもの、これを失ったら人間では無くなってしまう、というほどの大事なものだと思います。
投稿: 懐中電灯 | 2006/12/10 08:28
アントニオです。前回からコメントを書こうと思っていたのですが、この一分の意味をわからず、辞書でも調べたのですが、のっていませんでした。
文脈から理解するとぎりぎりの誇りみたいなものでしょうか?
投稿: アントニオ | 2006/12/09 21:01
コメントありがとうございます
<yumenosimaさん>
ぜひ見てください。「知らないほうがよかったのか?・・・・」重いセリフです。
<ワイガヤ童子さん>
僕も家内と20:00過ぎの上映をみました。夫婦で二千円は手ごろな料金でありがたいですね。「勝ち組」は嘘をつく?を書いたばかりでしたから、島田籐弥の登場に家内は笑っていました。単純な勧善懲悪ではなくて、「負け組」に落ちる配役がいないもいいですね。
投稿: 懐中電灯 | 2006/12/09 19:05
山田監督の大ファンですが、「キムタク」主演ということで躊躇しておりました。
懐中電灯さんの評を拝見して急にムラムラ、21:25~のレイトショーをネット予約(妻と二人で2,000円!)しました。
邦画人気が復活の兆し、とのこと喜ばしい限りです。先日もTVで「3丁目の夕日」を観ながら涙しました。
今夜も涙腺が緩むことでしょう。動機付け有難うございました。
投稿: ワイガヤ童子 | 2006/12/09 14:21
早く観にいかなくちゃ~‼‼。
投稿: yumenosima | 2006/12/09 08:08