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2007/01/08

自分もどこかで誰かの顧客(2)5つのKへ

 図2のように4つのKを重ねてみるとよくわかります。4つのKの中心に個人(自分)がいます。
図2.4つのK 
Photo_8  自分を犠牲にした家族は、家族ではあっても自分の家族ではないでしょう。仕事も、家族も個人の人生の一部、に過ぎません。人生の一部に過ぎない仕事のために、自分や家族を犠牲にしたとすれば、人生そのものにも意味がなくなってしまいます。自己責任が叫ばれる中で、自己責任と国家から押し付けられないうちに、軸足をしっかり、個人の真ん中に定めることが4Kの循環を円滑にすることになります。

 日本人は戦後50年、国家という枠組みを意識することなく、平和の配当を享受してきました。しかし21世紀はこの国家という第五のKを意識しなければならなくなりました。4Kの循環を守る枠組みが国家のKなのですが、昨年教育基本法の改正、防衛庁の省への昇格が矢継ぎ早に決まりました。今年はその国家の枠組みもしっかり意識する(させられる)年になりそうです。
 日本が産業社会の成功を謳歌していた、25年前未来学者のアルビン・トフラーは、背後から迫り来る情報化の大波を、予見して第三の波と命名しました。グローバル化、フラット化、国境線は限りなく薄く、限りなく脆くなっていきます。株式交換、三角合併、M&Aなど企業も国境を意識しないまま拡大していく時代がきています。
 国境線が薄く脆くなるほど、庶民も日常的に第五のKを意識した行動が必要になってきます。3K→4K→5Kの時代です。しかし、その中心は相変わらず個人です。
ここでいう第五のKは一般庶民を含めず、国家の枠組みを造っていく、「政、官、財」に限定して定義しています。小泉政権になってこの第五のKは「自己責任」を強調するようになりました。
 4Kの循環を始動するのは個人(自分)ですから、個人がどんな局面に立とうと「家族のせい、会社のせい、顧客のせい、国家のせい」にしないということでもあります。「XXXのせい」にしても、局面を打開するのは個人(自分)です。「自己責任」ですからね。だからこそ庶民も第五のKの枠組みの構造改革なるものを、しっかり監視していく必要があると思うのです。無関心でいても、第五のKは助けてくれません。答えは「自己責任」ですから。

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コメント

コメントありがとうございます
<アントニオさん>
「硫黄島からの手紙」はいかがでしたか?栗林中将以下21千名の将兵は自分を犠牲にして、家族のために死んだのでしょうか?もちろん国家のためでもなく、愛国心でもなく、本土の家族を守ることが自分のためだから死んだのではないでしょうか?
 家族を幸せにすることが、自分のためではないでしょうか。「他人のため」これが、諸悪の始まりではないでしょうか?
 企業の不祥事も「会社のため」だから大きくなってしまいます。「国家のため」といって愛国心を強要している人々は、家族共々最前線に立つことはありません。最前線に立つのは、愛国心溢れる庶民です。
 今日本の指導層が「自己責任」と声高に叫んでいることと、「自己の責任」とを分けて考えてください。古今東西を問わず、生きとし生けるもの、己の生存は「自己の責任」なのです。
 だからこそ、今なにが起こっていて、これからどうなっていくのかを想像して、可能な限り自分の手で愛する家族を守る手立てを打っていく必要があると思うのです。
 確かに市場原理主義、弱肉強食は日本古来の風土にはなかったものです。それは日本がモンスーン地帯の島国で、太平洋、日本海ともに暖流が流れていて、雨が多くて植物の再生が早い、恵まれた地域だったからです。在来生物が、持ち込まれた外来生物に負けるのもそのせいでしょう。その外来生物も時空の中で日本化していくと思います。
 もう市場原理主義は外来生物と同じで、持ち込まれてしまって、自己増殖しつつあります。日本化できればいいのですが時間がかかりますね。フラジリティを持っていれば、市場原理主義に負けることはありません。フラジャイルこそ日本的感性ですから、「弱者はけっして負け組ではない」を胸に秘めて」

投稿: 懐中 | 2007/01/09 10:13

コメントありがとうございます
<三代目さん>
流石に楽団をやっていると、自己責任の感覚がスッーとわかってしまうんですね。きっとその感覚、夫婦間でも家族間でも顧客との間も、間というものにすべて緊張感が必要ですね。そして周囲の状況に合わせながら流されないで、引っ張らない、調和というのでしょうか。自己責任と俺さえよければとは違いますからね。
<雑草さん>
日本の医療制度は経済学的にみても世界一です。国民皆保険、健康な人も広く薄く払うこれがいいんです。健康な肉体を神様から預かったお礼ですね。その制度がいま崩壊の真っ只中にいます。十年後位にあの時だったか?と日本中が思うことになるでしょう。
 年金問題は、簡単で、人生で思うようにいかなくて、生活の困窮するひとが老中を人間的に生活できる生活保護を支給すればいいので、後は自己の責任で準備するべきものでしょう。
 今の年金制度は、官僚が庶民を頼らせておいて、カネを集めて使ってしまおうと思って作った仕組みですからね。官僚から見れば、大成功しているのです。誤魔化されているだけです。過去の積み立て分を使わないで、真面目に積み立てておけば、破綻はしていないはずです。
<ワイガヤ童子さん>
お互いの老中の身同じ思いですね。「国家の品格」の著者藤原正彦氏とは同い年その上、多分お母上藤原ていさんに抱かれて、満州から引き揚げた引き揚げ船と同じ船で、自分も母親に抱かれて母国の土を踏んだのです。あの本に多くの方が賛同しながら、読者の多くは「自分は別にして」読んでいたのではないでしょうか?国家の品格ではなく「政、官、財」第五のKの枠組みを造っているわが国のエリートの品格が問われているのです。もちろん自分自身も含めてです。
 ワイガヤ童子さんとはきっと同じ想いです。昨年4月の僕のブログをクリックしていただけたら幸甚です。
 http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2006/04/post_ad1b.html

投稿: 懐中電灯 | 2007/01/09 09:08

仕事は人生の一部、そしてそのために家族や自分を犠牲にしてしまう。
おそらくほとんどの人がそうではないでしょうか?
僕自身、生活の半分を仕事に時間を捕られています。だからと言って、犠牲にしているとは思っていませんが、何故、僕らは仕事にこれほどの時間を費やすのでしょうか?
僕の友人のひとりにイギリスに住むフランス人がいます。
彼はいつも僕に、日本人は働き過ぎ、お前もそう。と言います。
彼は自由のない人生なんて無意味と良く言っています。まったく自由に
彼は好きなように生きています。以前、1年日本にいたときは、なんとストリートミュージャンでの稼ぎのみで滞在していました。

さて、ここから問題ですが、だからフランス人が偉く、日本人はダメというわけではないと思うのです。
文化の差ではないかなと思います。
以前ある本を読んでいたら労働に関する感じ方が西欧と日本では違うというのです。キリスト教圏内では、労働は悪。しかし、日本の神々は神話の中、意気揚々と働いている。そう労働は喜びなんですね。
そこで、今何が問題となっているかと。
日本における労働から喜びというものを奪ってしまったのですね。
これは、懐中電灯さんも再三指摘しているように、マネーが神となり、
労働イコールマネーのために働く、働かざるをえない、市場原理主義になってしまったからではないかと推測しています。
僕はマネーのためではなく、労働喜びを自分のものにしたいと思っています。

自己責任という言葉ですが、これはぴんとこないですね。
以前のように日本国が富の再分配ができなくなり、市場原理主義をとりざるえを得なくなり、そのために都合の良い言葉・・それが自己責任。
日本は社会主義国と言われるぐらい、国民への面倒が良かったと時代がありました。
しかし、財政は崩壊し、人口減少、そして右肩上がりの経済の終焉。もうお前らの面倒は見れないよ、これからは自分で見なさい。
そして、どこそこからの国からの自己責任という言葉を流通させた。

日本は本来、なんとなく皆で責任をとり、なんとなくそれでうまく回っていた。それはそれですばらしいではないかと思います。
この自己責任という言葉、これまた西欧、キリスト教文化圏のものではないかなと思います。西欧における個(自己)とは、神と対峙する個であり、その神というものが存在しなければこの個というものは存在しないと思います。それに比べ僕ら日本人は外に神(一神教)がいるのではなく、八百万の神というくらい、いたる所に神が存在しており、対峙するというより境界線が曖昧となっていると思います。そのため個という観念が育たなかったのではと思います。したがって、日本の文化、土に自己責任という言葉は合わないのではと思っています。
長くなりましたが、感じた事を勝手気ままに書かせていただきました。
論理的におかしな点はおゆるしください。

投稿: アントニオ | 2007/01/08 20:44

今回の論考(1)(2)を通読させていただき、改めて藤原正彦氏の「国家の品格」が
何故かくもの大ベストセラーとなったのか?と思いを巡らしています。
頑固頭の私は、従来ともすれば自分の国の人々を「軽佻浮薄で右顧左眄を恥じない集団」
と決め付けていました。

こう言えば、愛国心の欠片もないオヤジと非難を浴びそうですが、「愛国心」の拠って立つ
ところを私なりに考えて素朴な結論に至りました。それは「自分の国の素晴らしい文化の
存在を確認し、それを誇りをもって周囲(他国)に伝え・伝承すること」にあると。世の中には
目立たずコツコツと「日本文化」を育み、伝承に全身全霊を捧げておられる方々が沢山お
られます。

先日TVで安藤忠男・三宅一生の両氏が近々東京にオープンする美術館の目的が、この
人たちに陽を当てることだ、と述べておられ大変意を強くした次第です。いささか的外れ
ではありますが、「第五のK」を考える中でこんなコメントになってしまいました。

投稿: ワイガヤ童子 | 2007/01/08 12:40

年金、医療福祉費など「国が守ってくれる」と思っていては、いけないんですね。
「自己責任」ですものね。

投稿: 雑草 | 2007/01/08 08:07

常に緊張感を持ち「自己責任」を考えようと思います。
本業以外でバンド(楽団)をしているのですが、私の担当はベースです。
ベースはベースであり、演奏中、他の楽器とのバランスを常に考えています。
飛び出る音や、聞こえなくなってしまいそうな音などを、いかにバランスをとることがテーマです。
上手くバランスがとれることが出来れば、その曲は心地良く流れます。
しかし、放っておけば、その曲は死にます。
演奏中に「自己責任」を感じることが多いです。
弁えて緊張感を持ち続けることが大切と思っています。

投稿: 三代目 | 2007/01/08 07:17

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