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2007/02/20

「与えられる夢」「与えられる感動」は本物?

 様々な分野で活躍されている、著名な方々がしばしば、「夢を与える」「感動与える」という言葉を使います。なにげなく使っているのでしょうが、僕にとってはとても耳障りな気になる言葉です。僕自身自分が特別な人間というつもりはありませんし、その方々の才能や業績を認めないわけではありません。
 「夢」とか「感動」は自分で気付いていなくても、自分の内にあるもので、外から与えられるものではないのです。「感動」はあくまで、内からこみ上げてきて表面に出てくるものですし、「夢」はまだ自分の内で、言葉にも、まして数字にも、ならない漠としたものです。他人から与えられたものは似非夢、似非感動です。似非感動に浸っていては己の行動に結びついていきません。
 我々庶民は、受身の似非夢、似非感動を捨てて、小さくても、自らの行動で、自らの内から、夢や感動を呼び起こす癖をつけたいものです。そうすれば、きっと次のより大きな行動、より大きな感動に繋がっていきます。
 大きな業績大きな感動は、世の大物に任せて、我々庶民は欲張らずに、自分の日々の小さな行動の中で、小さく感動しませんか。

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コメント

コメントありがとうございます
<会長さん>
会長さんの言うとおりですね。感動は「感じて動く」ことですね。自分自身のことで恐縮ですが、講演や研修の後で参加者から「先生感動しました」といってくれますが、そのとき「感動しなくていいから、明日から、感じたことを一つずつ実行してください。必ずや経営が変わります」と申し上げます。
 面白いことに「動」が先で「感」が後ということもあります。陽明学でいう「知行合一」や、メビウスの輪に通じるものがありますね。

投稿: 懐中電灯 | 2007/02/27 08:06

「夢を与える」「感動与える」という言葉には
前から違和感を感じていましたが
懐中電灯さんの日記を読んでなるほどな!!!と感じました。
感動とは感じて動く、似非感動にならずに内から表面に夢や感動を呼び起こせる様な人間になりたいです。。

投稿: 会長 | 2007/02/23 19:59

コメントありがとうございます。
<yumenosimaさん、アントニオさん>
 yumenosimasanのいわれる「夢」とは「空」で納得できますね。「空」は「無い」ではなくて、すべての始まりですから、「夢」は人間が生き抜くための、源ですね。アントニオさんのいわれる、「夢にとらわれるな」も、囚われた途端、「夢」ではなくなるということでしょうね。
<坂道登さん>
「神は自分の中にいる」同感です。老中になって、人生は、内なる「仏心」に気付く旅ではないかと思うようになりました。

投稿: 懐中電灯 | 2007/02/23 11:33

yumenosimaさん。
夢にとらわれるな。とらわれずに、夢のそのものを食いつぶしてしまえと僕は禅マスターから教わりました。
とらわれること、幻想への停滞であり、生への反逆であると。
僕は自由自在に生きたいと思っていますが、が、それ自体とらわれだと思っています。幼子には夢はありません。それこそ、素のままに 今を
生きています。自我を持つ、他者との違いを認識すると同時に、僕らは夢を持つ。すいません。どうしても禅的な見方からものをみてしまいます。これ自体禅が否定していることです。

内観研修、僕も奈良で10日間受けたことがあります。
おそらくその彼こそ、夢を真に与えてくれる人ではないでしょうか?
ある芽生えを引き出す、良い言葉ですね。
夢は声高に叫ぶものではなく、静かな、それこそ意識せずに相手に届くものだと思います。良い話ありがとうございます。

投稿: アントニオ | 2007/02/20 22:24

今、「千の風にのって」を効きながら、その歌詞の素晴らしさに感動しています。
そして日々息子の成長に夢を感じています。
さらに神は自分の心の中にあるものだと思っています。

投稿: 坂道登 | 2007/02/20 20:46

コメントありがとうございます
<三代目さん>
我が家にも一才柚子の木が一本あり、毎年小さい柚子が鈴なりに成ります。冬の間ずうっと柚子風呂を楽しむことができます。家の庭にも日々感動がありますね。お客様との出会いにも感動がありますね。 
<雑草さん>
 感じる癖ですね。感動は「感じて動く」ことで、「感動した」と叫ぶことではないんですね。時代の風を感じて行動したのですから、幕末の志士は感性豊かな人だったのでしょうね。陽明学です。「知→行→知」の連環です。
<ワイガヤ童子>
東京マラソンは、本来なら4月、5月にやるべきものでしょう。
事実上石原都知事の選挙運動なのでこの悪い時期に前倒し、雨はさぞかし残念だったでしょうが、自業自得ということですね。参加者には可哀相でしたね。
 我々老中も、無事これ名馬と自分を褒めることにしましょう。
<アントニオさん>
まさにそうですね。今日をしっかり味わい感じることなく、明日に先送りしてしまいがちです。青い鳥症候群ですね。
 概念を否定していると解釈しないほうがいいのではないでしょうか。いいとか、悪いではなく、すべては「空」、すべては眼、耳、鼻、舌、触のなせる業、己の内に「因」があり、外のことはすべて「縁」に過ぎないということでしょうかね。

投稿: 懐中電灯 | 2007/02/20 19:09

このお話を聞いて、亡くなった友人のY君を思い出します。
彼は私の生涯の友人でしたが、彼と話をするといつもこころがうきうきとし、夢をいっぱい与えられるような感じでした。
彼はやがて栃木県喜連川町に「瞑想の森内観研修所」を開き、生涯で4000人の内観者を導きました。

彼は夢を与えるために話していた訳ではなく、「こうしなさい」を言うことは一度もありませんでした。これは聞く方の中にある芽生えを引き出されるようなものなのでしょうか。

夢が感動を呼ぶのか、感動が夢を呼ぶのかについてですが、彼は
「逆境のとき生まれた夢は本物だ」といつも言っていました。つまりその時の夢がその人の生涯を決めるということのようでした。

逆境は感情が一番研ぎ澄まされた状態のときですから、夢の想念もそれだけ強いことになるのではないかと思います。

宗教的な「空、無」と夢については、「夢にとらわれるな」と言う風に解釈しては如何でしょうか。夢にとらわれる=計画する、ですから、つまり夢は空であり無である、と言うことですかね。
 仮説です(汗)。

投稿: yumenosima | 2007/02/20 19:08

ある友人からの手紙があります。
夢、目的、私、人生はすべて概念であり、幻想でしかない。あの幸せ、この幸せがあるわけではない・・・。
インドのグルの元で修行をした彼は、ときどき、ドキッとするような
手紙をくれます。

僕たちは、今ここでなく、いつか、あそこに、そこへ到達すれば、何か得られる、幸せになるのではという思いがあるようです。
人生に夢があるのか?目的があるのか?
禅思想、仏教で言えばあらゆるものは、空である。と。概念自体を否定しています。しかし、他の宗教ではどうなのでしょうか?

僕はこのように考えています。
松は松、竹は竹、僕は僕、それ以外の何もでもない。ただ、その素を楽しむこと。感動、夢とはその素を感じ、味わうことだと思っています。

投稿: アントニオ | 2007/02/20 16:05

「日々の小さな行動」⇒「小さな感動」、このフレーズまた頂きます。
大きな感動を与え、沢山の票を得ようとなされた大知事主催の「東京
マラソン」は、初っ端から水を注されて、果たして今後思惑通り事が
運ぶか?どちらに転んでも多分夢のない、感動もない結果が待ち受け
ていることでしょう。ゴールで待ち受けた有森裕子さんのご両親のお
姿と、多分彼女がそっと呟いたであろう“自分を誉めてやりたいです”
の名台詞を思い出して、小さな感動を覚えた「未走のランナー」でござ
います。

投稿: ワイガヤ童子 | 2007/02/20 14:10

「夢」「感動」を感じる感性を育てないといけないんですね。
本を読んだり、自分自身で色々な体験をしないと「夢」「感動」を感じることは、できませんよね。

投稿: 雑草 | 2007/02/20 12:16

まったく同感です。
「夢」「感動」は与えられるものでも、与えるものでもないと考えています。
日々、「夢」「感動」を感じようと心がけています。
先日「庭の花が咲いた」ことなど感動しました。

投稿: 三代目 | 2007/02/20 09:33

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