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2007/06/25

映画「ルワンダの涙」が問いかける「あなたならどうする?」

1994年4月アフリカルワンダ共和国で起きた100日に100万人を虐殺したという、集団大量虐殺をテーマにした映画です。眼を覆いながら、映画を見る始末でした。映画館を出た途端に、人間という動物の恐ろしさと、自分も同じホモサピエンスである情けなさに震えがきました。できることなら今この一瞬に、この地球を吹っ飛ばしてしまいたくたくなりました。そんなことを想像することしかできない己の無力さに憤りを覚えるのです。
 人口の85%を構成する部族フツ族が、少数部族ツチ族に対しておこなった集団大量虐殺ですが、単なる大量虐殺ではなく、庶民であるはずのフツ族の一般大衆が、ツチ族の一般庶民に加えた残虐行為だということです。もし自分が、あの時あの場所にフツ族の中にいたらきっと、鉈をふるっていたに違いありません。
<ルワンダの涙HP>
http://www.r-namida.jp/index.html

 この映画が問いかける「あなたならどうする?」に対する答えの一つは、晩年の親鸞に寄り添った弟子唯円が書き残した”歎異抄”の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の”悪人正機説”の中にあるのではないかと思います。
 唯円は親鸞の言葉として、「我々が人を千人殺そうとしても一人も殺せないのも、自らの意志ではなく、それは業縁による。私の心がいいために人を殺さないということではなく、また、殺そうと思わなくても、百人千人を殺すこともある。我らは、たとえ一人も殺さないとしても、人を百人も千人も殺す可能性を心に持っているのである。そういう悪の可能性を持つ我らを救済するのが阿弥陀仏の慈悲なので、は往生の障りではない」(梅原猛著誤解された歎異抄)を残しました。後々「悪人正機説」として、この書物が浄土真宗の禁書として封印された所以の下りです。 
 映画は集団大量虐殺の是非を観客に、声高に問いかけたり、フツ族が加害者でツチ族が被害者という描き方をしていません。淡々と集団大量虐殺の光景を描きながら、観客に「あなたならどうする?」と問いかけてきます。
 ”平和監視”を任務に派遣されている国連軍は、駐屯地の外で繰り広げられている大虐殺を防ぐための、手を出そうとしません。手を出すことは”平和維持”であり、任務違反なのです。軍人としての任務と、起きている現実との狭間で苦悩するデロン大尉を、ドミニク・ホロウィッツが好演しています。「あなたならどうする?」と。
 駐屯地の公立学校に、2、500名のツチ族民衆が逃げ込んでくると、カトリック教会のクリストファ神父の要請でやむなくゲート内に収容します。国連は白人のみを救出し、デロン大尉の平和監視部隊を引き揚げてしまいます。デロン部隊が引き揚げれば、残された2、500名は学校を取り巻くフツ族民兵の鉈や棍棒で虐殺されてしまいます。クリストファ神父は引き揚げのトラックに乗らない決断をします。キリストの愛を説いてきた人々と、死を共にすることで、キリストの愛を説き続けたのでしょう。ジョン・ハートの抑揚を抑えた名演で「あなたならどうする?」と。
 神父は自分の命と引き換えに子供達の命を救うべく、トラックに子供達を乗せて、脱出を決行します。その子供達の中にクレア・ホープ・アシティ扮するマリーという女の子がいました。映画のラストシーンで、五年後マリーは好意を寄せていた英語教師、ジョー・コナーを訪ねてイギリスへ渡り、教師をしている学校を探し当てて再会します。
 大人の女性になったマリーは咎めるのではなく、淡々と「何故逃げたの?」と問うのです。 ヒュー・ダンシー扮するジョー・コナー青年は、理想に燃えて海外青年協力隊に志願し、英語教師としてルワンダへ渡ったのです。彼は集団大量虐殺の中、好意を抱いていたマリーに「自分が最後まで守る」と約束したのですが、彼は最後の最後、マリーに別れを告げることなく、引き揚げのトラックに飛び乗り去って行きました。。「あなたならどうする?」と。
 マリーは神父の運転したトラックから、抜け出し虐殺現場からひたすら走って遁走しました。走りながら思い浮かべたのは、ジョー・コナーの姿だったのです。「何故逃げたの?」ジョー・コナーの一言は「死ぬのが怖かった」です
 原題は「ShootingDogs」です。平和監視が任務のデロン大尉は、ひたすら駐屯地に籠もり、外でおこなわれている集団大量虐殺を阻止しようとはしません。しかし虐殺死体を野犬が漁っているのを見て、”衛生面”から野犬を射殺しようとします。そのとき、クリストファー神父は悲痛な顔で「ShootingDogs?」と叫びます。野犬を殺すために武器を用いても、虐殺から人を守るためには使えない悲しさからでしょうか。
  映画は徹底して神父、大尉そして青年と白人の側から描いています。そしてフツ族のツチ族に対する集団大量虐殺は、1994年4月に突然始まったわけではありません。部族間の憎悪を増幅させたのは、19世紀後半から20世紀半ば100年に渡って支配したドイツ、ベルギーが、植民地統治に部族間対立を利用したことにあります。デロン大尉の平和監視部隊がベルギー隊であることも、ここに”因”があるのかもしれません。
 そしてさらに”因”を遡れば19世紀初頭、少数部族ツチ族の王キゲリ・ルワブギリが多数部族フツ族を従えて、ルワンダを統一したという事実も忘れることはできません。
 広島、長崎も忘れることのできないアメリカによる国際法違反の、非戦闘員の大量虐殺です。しかし日本人は、広島に「リメンバー広島」とは記さず「過ちは二度と繰り返しませんから」と記しました。憎悪の連鎖を西欧の「因果応報」で未来に持ち込むことなく、仏教の「因、縁、果」としてその一瞬で、断ち切ろうという想いが込められているのではないか、と思います。
 

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コメント

この映画は見たことがないので一度見てみます、
色々な登場人物の目線で見ていて
その人物がどのように感じているか、
様々な捉えかたが出来るとだろうと思うので
登場人物のなったつもりで見てみます。

投稿: 会長 | 2007/06/28 18:50

コメントありがとうございます
<KJさん>
 戦争体験を見聞しても、世界で起きている虐殺報道を見ても、企業の不祥事を見ても、自分は絶対あんなことはしない、出来ないと、安易に「絶対に」という日本人が多いですね。温泉の爆発、北海道の牛肉偽装事件、テレビ報道を見ている多くの人々がそう思いながら非難しています。そうではなくて、自分が同じ立場に立ったら、同じことをしている可能性は高いのです。いわく「背に腹は換えられない」
 そうではなくて、そうしなくてすんでいる今に感謝したほうがいいし、そういう立場(切所)に立たなくてすむように、日頃の生き方を制御しておくことが大事だと思います。
 6月の講義でお話した「因→縁→果」の「縁(リスクカード)」ですね。カードを引かなくてすんだことに感謝するのみです。悪いことをするかもしれない、「因」はすでに生まれたときにこの身体に持っているんですね。業縁に出会わないでここまで、生きてこれたことに感謝ですね。親鸞は救われるために祈るのではなく、すでに救われているから、感謝報恩を念ずるのだといっています。
 7月はもう最終講義ですね。さて7月の経営体験はいかに。

投稿: 懐中電灯→KJさんへ | 2007/06/26 08:24

私もこの映画を以前に観ました。この映画を観た後に、曽野綾子の本に、書籍名「受けるより与える方が幸いである」に出会い、この中にルワンダの悲劇について書かれている下りがありました。その章のタイトルは「日本人の幼児性」です。ルワンダでの下りは、フツ族の老女が、自分の娘がツチ族の男性と結婚し産んだ孫を殺した。「お前が本当にフツ族ならツチ族の血が入った孫を認めるわけがない。もし殺さないならお前を殺す」と言われたからだったとあります。この事実を前に私なら僕なら絶対そんな事はしないと言えてしまうのが幼児性と書かれています。オール・オア・ナッシング、わかりやすさの尺度でもし仮に考え、そして世の出来事を見ることができるなら、世の中ある意味心地よく、生きやすいかも知れません。しかし、大抵の世の中にある多くの事は、白か黒の様にわかりやすいものではなく、もしそう感じるのであれば自身の感じる力をもう一度振り返りつつ、本当にそうなのだろうかと常に行間を考える事の大切さを思い出させてくれる映画だった事を思い出しました。感じる事があったので、返信致しました。世の平和を祈りつつ。

投稿: KJ | 2007/06/25 23:53

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