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2009/01/22

もう”消費者”を止めて”生活者”として生きる(1)

1.消費者と呼ばれて

経済学では抽象化するために、生産者と消費者を一対の言葉として使っています。しかしそれは経済学の定義上の話のはずです。ところが現実の日々の生活場面でも、テレビのニュース、新聞報道様々な場面で、政治家、官僚、企業人から一般庶民まで、消費者という言葉をなんの疑問も持たずに気軽に使っています。

企業経営者もテレビ取材のマイクの前で、なんのためらいもなく「消費者は・・・・」と発言します。企業経営では自社の製品、サービスを買ってくれる人をお客様、顧客と定義をしているはずです。どんなに世の中の趨勢に遅れた会社でも1990年代以降は、社員にも“顧客満足(CS)の追求”と叱咤してきたのではなかったか。

 しかし自社の顧客は、コマーシャルは見ても、テレビのニュースを見ない人たちだと思っているのでしょうか?、ニュース報道の、インタビューのマイクの前では経済人という公人になってしまって、背負っている個別企業の光背の存在を忘れてしまい油断してしまうのか、「消費者は・・・・」と語ります。そのことをとやかく言うつもりはないのですが、高度に発達した資本主義の下で暮らしてきた我々は、誰もが消費者という言葉にすっかり慣れてしまって、自分が消費者であることになんの疑問も持たなくなってしまっていると申し上げたいのです。 

 広辞苑には、消費とは「欲望の直接、間接の充足のために財、サービスを消耗する行為」と記されています。人間を消費者、財やサービスを消耗する者と捉えると、勢い能動的に供給者として働きかける生産者側(サプライサイド)の思考が強くなります。生産者と消費者、動物園の、檻の中の動物と、餌の入ったバケツを持った飼育係との対話ような風情にも見えます。
2.勿体がない
 
長年この動物園の風情で、大量生産大量販売大量消費を生んできました。動物園で餌を与えられている動物は、己の大量廃棄にまで思いは至りません。消耗、消費という言葉には大量のゴミを出すイメージはないのです。動物園と違って、大量廃棄は自然任せ、ここでは飼育係も動物の自己責任と、無関心を装ってしまいます。檻の中は汚物にまみれています。
 
日本語の「勿体無い」という言葉がエコロジーを代表する言葉として使われるようになってきました。ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境活動家ワンガリ・マータイが「MOTTAINAI」としていう言葉で広めています。勿体(物の本体)無いは「捨てては勿体無い」「ものの値打ちが生かされていない」“非消費”ですから、消費の背景からは「勿体無い」は見えてきません。
 
100年に一度、未曾有の大不況といい、様々な経済対策が国会の場でも議論されていますが、目先の需要の喚起策ばかりが取り上げられています。定額給付金を貰っても一時的な消費に回るだけですが、曰く「緊急時だから」曰く「需要を喚起するから」です。それなら生活困窮者の生活費の足しになるように配ればいいのです。高額所得者にまで配っては、それこそ経済対策の目的が生かされずに「勿体無い」のです。
<続く>

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