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2010/07/15

映画「必死剣鳥刺し」を観て

 藤沢周平作品の映画化と聞いただけで、家内を連れ立ってささやかな娯楽を兼ねて、映画館に足を運びます。
 藤沢周平の小説は、封建社会のしきたり、その中で精一杯生きる人々の物語、権力の側、弱者の側、それぞれの立場、その心情の陰翳を描ききっています。そしてそれはそのまま、現代の日本の風光に重なって見えています。それが今、藤沢周平人気の表れなのでしょう。さて、「必死剣鳥刺し」は如何に。
 豊悦演ずる主人公兼見三左ェ門は、権力者岸部一徳扮する津田民部に秘剣の名の由来を問われて、「必死剣と名づけた所以は、この技を使うときは、”半端死んで”おります。故に必死剣と名づけた。」と言うのです。この一言は映画の最終場面に権力に翻弄されざるを得ない弱者の、封じ込めても封じきれない怒りとして、弱者を使い捨てにする津田珉部に対して「死中に死」の一刺として使うのです。息を呑むラストです。

 「死中に活」ではなく「死中に死」を求める秘剣の先に「活」が残されています。もし役目を果たして、無事戻ったら、共に生きようと心に決めた愛しい女、その身体に宿る命、もし役目を果たしても、戻れなければ、罪人の一族として殺されることは必定と、役目を果たしたら、迎えに行くと約束して、遠地の縁者の元に送り、後事を託します。
 ラストシーンは池脇千鶴扮する里尾が乳飲み子を抱き、村のはずれの神社の境内で、迎えに来るはずのない未来の夫を待つ姿です。
 「死中に活」の「活」は、強者にとっては己の「活」なのかも知れませんが、弱者にとっては己の「活」ではなく、次代へ託す「活」だ、ということを暗示しているのではないでしょうか。
 藤沢周平の小説には、人間社会の理不尽な掟に翻弄されながらも、誰に誇示するでもなく、黙々と己の意志を貫く美学があります。この作品でも、敵役として現れる吉川晃司扮する帯屋隼人正と、主人公とは、本来なら貧しい領民を想い、弱者を労わる「恕」をもった、志を同じくする武士同志、夫々の立場で、夫々の場面で共に藩主を諌める行動に出る。その行動の場面の違いで、対決させられる「縁」に巡りあってしまう。
 それを仕掛ける、権力者にして中老津田民部の周到さ、ずる賢さは弱者の思考の及ぶところではないのです。その中老すら、暗君とはいえ藩主の下では弱者なのです。秘剣の一刺しで絶命し藩主は生き残るのです。絶命の中で「半端死んでおります」の意味を理解したに違いありません。弱者を甘く見た強者の隙、その隙を突く必死剣鳥刺し。

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コメント

コメントありがとうございます
<近藤隆二さん>
>何も変えることができなかった虚しさを感じます
 改革は権力の側からしか起こせない、という現実を再確認する物語ですね。しかし、それでも次代に望みを託す物語でもある、という明るさを弱者は忘れてはいけない、それが「自立心」だと思います。
 同輩と闘うシーンが壮絶、刃を返し峰打ちで対峙するも、中、下級武士の勤め虚しさに、刃で切りあう。
 最後にやはり藩主が残るんです。暗愚とは下から見ての価値観。リーマンショック、ドバイショック、ギリシャ危機といいますが、そのたびに太るのは金融資本。
 また新たな危機が近そう。今度は日本本土直撃? 

投稿: 懐中電灯→近藤隆二さんへ | 2010/08/09 10:20

ご無沙汰をしております。
「必死剣 鳥刺し」私も観てまいりました。
先生のおっしゃる通り、今の日本の姿をだぶらせてしまいました。
三左ェ門の自分の命をかけた行動が、何も変えることができなかった虚しさを感じます。
しかし、世の中はこのような人々のおかげで成り立っているのだと思います。

投稿: 近藤隆二 | 2010/08/08 19:00

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» 『必死剣鳥刺し』お薦め映画 [心をこめて作曲します♪]
藩を現代の会社だと考えても十分納得のいく内容である。ラストの壮絶な戦いすら、我が身に置き換えることのできる方がいらっしゃるかもしれない。運命の不条理を描く大人のための時代劇。... [続きを読む]

受信: 2010/08/05 00:14

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