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2010/08/08

今ふたたび映画「楢山節考」を

このところ「”消えた高齢者”問題」として長寿として美談と語られてきた日本の長寿社会がにわかに崩れ去ろうとしています。しかしこの問題、倫理感の欠如、失われた道徳、ちぎれた家族の絆と、個人の心の問題として語る方が多いのですが、その方々はこれまでとても幸せな人生を送ってきた方々、消えた方々は無言のまま、僕など、もしかしたら紙一重、同じ立場に立ったかも知れないと、胸をなでおろすばかりです。
 人間の性(さが)を真摯に見つめれば、隠されていただけで、すでに起こった未来、起きていたものが表面化したに過ぎないのではないでしょうか。
 この問題は、血縁、地縁、社縁を断ち切ることで経済発展を謳歌し、豊かさを追い求めたきた負の遺産、偏に政治、行政(この問題に限れば地方自治体)の怠慢が原因です。「個人情報保護、個人の自由があり、限界がある」は言い訳に過ぎません。
 この問題を考えるに当たって、もう一度、日本中の老いも若きも、今村昌平監督の映画「楢山節考」を観なおしてみてはいかがでしょうか?
 そういえば、今夏の山歩きの帰路、篠ノ井線で伝説の里姥捨て山駅を通りました。今は千枚田、田毎の月で知られるようになり、観光スポットになっています。一度写真を撮りにいきたいと思っている所です。

深沢七郎が小説を世に問うたのは、日本が廃墟から立ち直り自信を持ちはじめた1956年、戦後11年目のことです。そして今村昌平監督が映画化して、カンヌ映画祭でパルムドール賞を取ったのが1983年、日本経済はすでに爛熟の兆しを見せ始めた時期にあたります。
 この物語を貧しい日本の農村で老人を棄てる、「棄老伝説」として読み、観た方が多いようです。しかし原作者深沢七郎そして映画化した今村昌平監督のメッセージは少し違うのではないかと僕は思うのです。次代のために年寄りが自ら身を引く物語と読み、観ることもできるのです。
 情報は「受け手の勝手、送り手の勝手」という原則があります。今再び多くの日本人がこの小説を読み、映画を観て、いかに受止めるか、その上で今の日本の問題を再考するのも、”問い”を深める一つの入り口になるのではないでしょうか?

ブログを書き始めた2004年に書いたものです。
<老中のための楢山節考>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2004/11/post_4.html

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