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2010/09/29

映画「悪人」を観て

タイトルの「悪人」が気になっていました。その上、深津絵里がモントリオール世界映画祭で主演女優賞受賞と重なって、是非見ておきたいと、いつもの調子で家内と観にいきました。
  タイトルどおり、期待通り、親鸞が自問し続けたテーマ 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。」がこの映画の根底に流れる通奏低音になっています。逆説的な鋭い言葉であるだけに、唯円が歎異抄に書き残した、親鸞のこの言葉の前半部分が、ともすると誤解されがちですが、阿弥陀如来は、善人でさえ救うのだから、悪人を救わないはずがない、「なぜならば」と、自身の」著書「教行信証」で解き明かしています。終生法然の一弟子に過ぎないと自ら語りつつ、法然の専修念仏の教えを超えた究極の教えです。
 善人とは?、悪人とは?善とは?悪とは?。妻夫木聡演じる主人公清水祐一の出会い系殺人はなぜ悪なのか?なぜ保険外交員の佳乃は殺されなければならなかったのか?佳乃の心を弄び人気のない夜の峠道に放り出し、裕一に殺人を犯す動機をつくった金持ちの放蕩大学生は悪人ではないのか?

  実の子祐一を棄てて、己の幸せのみ求めた母親の心に「悪」はないのか?。樹木希林演じる育ての母親、房枝はうすうす祐一の犯した罪を知りながら、じっと黙って見過ごしている。この寡黙の弱者である老女は爪に火を点すようにして貯めた、なけなしのお金を、健康食品の詐欺商法に騙され奪われてしまう。善人、被害者を演じて生きてきた人生が、周囲の人に罪を犯させてはいないのだろうか?。
 全編を流れる久石譲の調べに救われながら、佳乃の父親役の柄本明、母親役の宮崎美子などなど、ワキを固める名脇役の演技の細部に宿る、「善と悪」とを阿弥陀如来の下に相対化していく。そして李相白監督は殺人者の母親、樹木希林に群がる残酷なマスコミ取材陣の「悪」をも見逃してはいない。 
 映画を観て、これは吉田修一の原作「悪人」を読まねばならないと思ったのです。これは平成の「出家とその弟子」ではないかと?。倉田百三の戯曲「出家とその弟子」は若き唯円の恋を主題におき、親鸞と唯円の会話を通して歎異抄のテーマ「悪とは、善とは」を明らかにしています。
 映画では、本当の出会いが欲しいと思いつつ、出会い系サイトにはまり込む祐一、祐一の佳乃との出会いから殺人への道程、同じ出会い系サイトで、同じように「本当の出会いが欲しかった、深津絵里扮する光代との出会い。逃亡の道々で深まっていく、「恋」と「愛」との葛藤は、この「出家とその弟子」の主題でもあります。祐一、佳乃、光代三人は三人とも本当の出会いを求めて、メールを出しながら、深く傷つくことを恐れ、表層のセックスと、お金で一線を引いてしまっていたのではないだろうか。
 倉田百三は親鸞と唯円の口を借りて語っています。(新潮文庫「出家とその弟子ーP84~85)

唯円-「恋は罪の一つで御座いましょうか。」
親鸞-「罪に絡まったものだ。この世では罪をつくらずに恋をすることは出来ないのだ。」
唯円-「では恋をしてはいけませんね。」
親鸞-「いけなくても、誰も一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が眼の前に展けるのだ。この関所の越え方の如何で多くの人の生涯はきまると云ってもいい位だ。」
唯円-「そのように重大なものですか。」
親鸞-「二つとない大切な生活材料だ。真面目にこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての智慧の芽が一時に目醒める。魂はものの深い本質を見る事が出来るようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向えば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所の此方で精力が耗きてへとへとになってしまうのだ。」
唯円-「では恋と信心は一致するもので御座いましょうか。」
親鸞-「恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識に入り込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみが解るのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。」
唯円-「では私は恋をしてもよろしいのですか。」
親鸞-「お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも云わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。」
(同書-P87)
唯円-「凡そ悪の中でも偽善ほど悪いものはないのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。」
親鸞-「その通りだ。百の悪業に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んで己の悪を認めぬ偽善者の方が仏の愛にもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。悪人のための救いなのだからな。」
 映画「悪人」には祐一の逮捕されたその後の結末は描かれていない。そして、祐一と出会う前の生活に戻った光代も既に出会う前の光代ではない。二人は親鸞の云う関所を越えることはできたのだろうか。
 逃亡の間、ひたすら寄り添う光代は、祐一にとって阿弥陀の化身だったのではないだろうか。そして己の内なる悪に目醒めた祐一は、内なる悪を見つめながら一歩一歩歩んでいくであろう。光代もまた修羅の道をいく祐一との出会いで、己の心に刻み込まれた宿命を、己の歩みの中で、一歩一歩変えていくことであろう。悟りの道とは、救いの道とは、己の内なる悪に目醒め、悩みながら命を運んでいく旅なのであろうか。「山川草木悉皆仏性」の言葉の意味は深い。

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