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2011/03/21

買い溜めするのは倫理観の差か?(2)

話しは変わりますが、今年一月に30数年ぶりの縁者(若い頃の勉強会)に再会しました。その縁者から精神科医V・E・フランクルの著書を紹介され、読み終えたばかりでした。
 ①「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル著
 ②「フランクルに学ぶ」     斉藤啓一著
  V・E・フランクルは「夜と霧」の著者、アウシュビッツ収容所から生還した数少ない人の一人です。死と向き合った収容所で、「己の死」を眼前にした、奪う人、差し出す人、人間の様々な体様をつぶさに見た人です。
 タイトルにあるように「それでも人生にイエスと言う」今の僕にはとてもこのような言葉を発する自信はありませんが。

そして②著書の中の一節です。
「われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が人生の”意味”を問われているのであり、答える責任があるのだ。そして、究極的な”意味”(人生の)は、われわれの理解を越えており、ただその”意味”の存在を信じるしかないのだ」②P95
「まさに今、現代人に必要なのは『生きる意味の発見』なのだ」②P110
「人間の可能性をダメにするある言葉とは?・・・『単なる・・・・に過ぎない』・・・『どうせ・・・・なんだ』という言葉である」②P112
「避けられない苦しみが訪れてしまったときにのみ、苦悩は飛躍へのジャンプ台となり、与えられた課題として、意味を持つようになる」P129
「意味ある行為に没頭しているとき『これに意味はあるのか?』などと問いかける自分は、そこにはいない。いわば『無我の境地』になっている」②P138

 等々数々の言葉は、共に同時代を生抜き、今老中を生きている三十数年ぶりに再会した縁者からの啓示に聞こえてきました。
 ②の著書のラストは、「人生における究極の”意味”とは?」”意味”を問うことを忘れる行為の中にあると結んでいます。「忘我の境地」お釈迦様のいう「自他合一」「自他不二」と同じこと、一生のテーマなのだと思った次第。

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