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2012/05/31

野田首相の「私の責任で判断」の「責任」の意味するところ

日頃寝つきのいい僕が昨夜は久々に寝つきの悪い夜を過ごしました。野田首相の「私の責任で判断」という言葉の先に、日本社会の暗い未来を想像し暗澹たる思いに沈んだからです。もちろん野田首相の消費税増税、大飯原発再稼働の意志を表明したことがその種子です。といって元々自分がこの二つの問題に反対しているという理由からではないのです。賛成、反対はそれぞれ、個々人意見の別れるところ、自分の意見と異なるからすべて駄目というほど頑迷ではないつもりです。野田首相の、この「責任」という言葉の使い方です。 暗澹たる思いの中ですっかり記憶の外にあった、子供の頃父親に教えられた言葉を思い出しました。
「男は軽々に『責任』という言葉を使うものではない!」
「軽々に『責任』を口にする男には気をつけろ!」
「一人の男が個人として『責任』を取れることは高が知れている!」
「だから古の武士は『切腹」という己の命で贖った」と。 

 「老中を生きる」、と口にする今になると父親のこの言葉の意味がよく理解できます。判断、決断、行動は「今ここ」においてなすもので、その結果は未来に起こることです。だから未来に起こることを「今ここ」で責任を取ることはできないのです。
 その証拠に福島原発事故で直接被害に遭っている福島の人々、事故処理の費用を負担する国民の今のこの惨状に誰一人責任を取っていません。これまで「安全」「安心」と国民を洗脳してきた「政、官、財、学」いわゆる原子力村といわれる住民の唯一人として「腹を切った」という記事にお目にかかることはできません。口を噤んで素知らぬ顔、むしろ責任はないことを証明するために、原発推進に狂奔する立場を取り続けているように見えます。
 まさに大東亜戦争を自ら止める事ができなかった当時の産軍複合体の権力者と同じです。大東亜戦争は惨禍に見舞われた広島、長崎の人々には申し訳ないことですが、米国の無慈悲な原爆投下の惨禍を見てやっと敗戦が確定しました。開戦時の首相、東条英機は「死んで虜囚の辱めを受けず」と国民を洗脳し鼓舞し死を持って戦線に留まることを強要していながら、自らは軍人でありながら、ピストル自殺にすら失敗(?)しています。このひそみに倣うと、もう一箇所、福井の原発が爆発するまで、止める事はできないのかもしれません。といってもその時はほぼ日本列島が全滅するでしょうから。止めても止めなくても問題はなくなるのでしょう。大東亜戦争は廃墟は廃墟以上でも以下でもありません。ですが、原発事故は放射能汚染という眼に見えない、大和魂をもってしても気の遠くなる未来まで再建不能な廃墟が広がるのです。
 四十数年専業主婦で世事に疎い家内でさえ「責任」ではなく「権限」というべきだと小声でつぶやいていました。そうです、野田首相としては「私の首相としての”権限で”判断」と発言するのが日本語の使い方だと思います。 
 「権限」といわれれば、ちょっと待って欲しい、三年前民主党に投じた一票には、この権限は付与されていないのです。鳩山・小沢の民主党への一票であり、必ずしもマニフェストの具体的な施策の進捗に拘るつもりはなくても、「消費税増税は次の総選挙で『信』を問う」、「コンクリートからひとへ」の旗は、「産業優先からひとの生活優先」、「経済は目的ではなく生活のための手段」という意味だったはずです。
 民主党党首として、全政治家の頂点としての首相個人の責任の取り方は、今直ちに切腹すること以外にないのではないでしょうか、武士道に殉じて。総理大臣として付与された権限を行使するなら、解散総選挙以外にはないのです。政治家の仲間たちに、せっかく当選して四年間安心して飯が食える立場を確保した仲間に、路頭に迷わせてすまない、しかしこの二つのテーマはせめて総選挙の争点にして、国民の責任に委ねることしかできないのだと。それが「今ここ」の責任の取り方だと僕は思います。 
 その上で国民も選挙民として、未来の日本列島、世界地図をイメージしてその上で暮らす未来の人々(他者)の生活を想像して一票を投じることが、今できる民主主義国家の国民の責任だと思います。
 「騙された」という言葉を発するのも自らの無責任さをさらけ出す言葉です。自らも二度と「騙された」と言わないために、核廃棄物処理の技術とその仕組み、福島原発廃炉の道筋、現在の五十余機の原発の100%安全という証を確かめてから。そして国家予算(税金)の使い方を改めるのを確かめてからでも遅くはないのです。国家財政が破綻してもその責任を負うできごとは、個々人の生活上に表れるのです。
 野田・小沢会談決裂を演出して大連立を画策している「政・官・財・学」の人々。国民は努々民主、自民、公明党との大連立を許してはならないのです。それはいつかきた道、大政翼賛会の道、庶民の悲惨な生活への道だからです。たとえ悲惨な道だとしても、己の手で選ぶ義務と責任が民主主義の有り様だと思います。いかなる政治体制下においても個々人としての己の責任は、己の命で贖う以外にないのですから。それは大東亜戦争の廃墟を思い出しても、国家社会主義の崩壊後のロシア、東欧の人々の暮らしぶりを見ても、明らかなことです。
 橋下徹大阪市長を始めとする関西広域連合の首長さんの協同声明文も明らかに馬脚を現しています。馬脚でなければ変節です。野田首相の決断に都合よくエールを送っているように僕には思えます。ここまで読んで下さった皆様はいかがでしょうか。リーダーが責任の意味を誤っている組織の未来、国家の未来に何を想像したらよいのでしょうか。
 
<追伸>
「責任」を広辞苑で引くと「人が引き受けてなすべき任務」とあります。やはり未来のことではなく、「今ここ」のこと、さすれば、日本の政治家の頂点に立つ野田首相の「今ここ」の責任と権限は、同じではないが、分けることはできない、消費税増税と脱原発の是非、二つの問題は解散総選挙で国民の責任に委ねことだと思います。
 
 
 

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