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2012/06/13

対オーストラリア戦のラストシーンの「無常」

「事実は小説より奇なり」より、「人生はドラマだ!」でしょうか。サッカーはもちろんスポーツ音痴、あまり関心のない僕ですが、昨夜、テレビのスイッチを入れた瞬間、本田圭佑のFKの後ろ姿が目に飛び込んできた。無常(無情でも非情でもない)のタイムアウト、試合終了だ。
 
 「1:0」でも「0:1」でもない「1:1」、次の一瞬、ボールはゴールを目指しただろう。入ったのか、入らなかったのかそれはわからない、未来のことだ。結果はどうでもいいのだ。パパもいうだろう「これでいいのら!」と。だから劇的。
 「0:1」ではプレーヤーにとっては哀しすぎる、「1:0」なら観客にとってはどうでもいい、悲劇にも喜劇にもならない。「1:1」だからあの一瞬にすべてが宿っている。と僕は思う。

 あの一瞬を観て、プロのプレーヤーにとって一試合一試合が人生のすべてなのかもしれないと思った。人生をプロとして生きる人間一人ひとりが、死の間際にきっと夢の中であのボールをグランドに置いて本田圭佑のように考えるのだろう。刹那の一瞬、そして審判の無常(無情ではない)のホイッスルが鳴る。そのとき、後一刹那あったら、と思うか思わないかそれはわからない、未来のことだ。でも「今ここ」では「思わない」と思う自分がいる。
 プロのプレーヤーにとっては一蹴りの一瞬が一刹那、一試合も一刹那、そして一試合が一人の人生そのものだ、とすると、人生も一刹那といえるのだろう。仏教には有後心と無後心とがあるそうだ。後があると思うか思わないかの違いだそうだ。
 何をもってプロというのだろうか?それは一刹那に「いのち懸け」か否かだと思う。だからひとは一人ひとりみんなプロだ。「生きている」ことはそのまま「いのち懸け」なのだから。
 サッカー門外漢の僕にはよく分からないが、試合中の審判のジャッジが批判されているようだ、観客はあのままホイッスルを一刹那遅らせてくれてもよかったのにと思っただろう。、門外漢の僕もそう思う。しかしそれはどうでもいいことだ。それが人生なのだ。理不尽であり、不条理であり、無常ということだから。「ああ無情!」ではなく「ああ無常!」を人生の早いうちに味わうとその後の生き方はグッと楽になると思う。
 お釈迦様は入滅のとき、弟子たちに「私の指を見るな、指の先を見よ」といったそうだ。本田圭佑の背番号4番が菩薩の背中にも見える。きっと「俺のつま先を見るな、その先のゴールを目指して飛んでいくボールのその先を見よ」というのだろうか?劇的なラストシーンから不条理、理不尽、無常を感じることができたら、今日から、日々の景色も少しだけ変わってみえるのではなかろうか? 

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