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2012/06/09

佐久協著 完訳「論語」

書名   完訳「論語」」-一気に通読できる-
著者   佐久 協
出版社 祥伝社新書

書名   孔子伝
著者   白川 静
出版社  中公文庫
 サブタイトル通り「一気に通読」できます。儒教、儒学は若い頃から好きになれませんでした。中国王朝では漢帝国、日本では徳川政権時代といった封建社会の権力者からの押し付けの匂いが強いからです。たとえそのお陰で、徳川250年の平和があったとしてもです。白川静著「孔子伝」を読んで孔子のひとそのものに触れ、一度色眼鏡を棄てて、論語を読み直そうと思いながら、果たせないままできました。 

 BS朝日で毎週月、火、18:00から孔子のドラマを放映しているのを見つけ録画して見ています。孔子が権力者に君子のあるべき姿を問いても、説いても挫折をするばかり、孔子の教えを取り入れる権力者は皆無です。挫折を繰り返しながら諸国を流浪する孔子とその弟子の姿が”さもありなん”と想像を逞しくさせてくれます。中国CCTV制作のドラマ「孔子」ですが、弟子の中で頭の良いことでは第一といわれる顔回の役を石田純一の長男いしだ壱成が好演しています。
 第一の高弟顔回が死んだとき、孔子は慟哭して止まなかった、と。儒家の「礼の掟」では肉親以外は哭いてはいけなかったのではと、弟子が師をたしなめると、「子曰く、顔回のために哭くのではない、己のために哭いているのだ」と。孔子自ら「掟も時と場合に依る、柔軟に!」と人間孔子として、身をもって教えていたのではないでしょうか。仁義礼智信もまた然りでしょう。
 孔子の偉大さは、その教えの言葉の中ではなく、理想を説き続けるその後姿、その後姿に随順する有能な弟子達、その孔子集団の後ろ姿にあるのではないでしょうか。白川静は第一章東西南北の人の冒頭でこう語っています。
「孔子の人格は、この一生によって完結したものではない。それは死後にも発展する。孔子像は次第に書き改められ、やがて聖人の像にふさわしい粉飾が加えられる。司馬遷がその仕上げ者であった。その聖像は、その後二千年にわたって、この国の封建的な官僚制国家の守り神となった。しかし旧社会が滅びたいま、孔子像はまた書き改められられなければならない」と。
 
 完訳「論語」は一気に通読できるだけでもありがたいのですが、「論語」は一つひとつが「子曰く・・・・」と素読で伝わっている名詩句でもあって、現代語訳が名訳であればあるほど、耳慣れた「子曰く・・・」と対称したくなります。この本はとても良く出来ていて、著者の現代語訳、原文、読み下し文も整理してくれています。解釈がわかって、素読で耳から入れて右脳に取り込めば自ずから行動にも表れるかもしれませんね。孔子の教えに対する弟子たちの言葉も弟子ごとに整理されていて弟子から見た孔子像も垣間みることができます。
 孔子にあまり褒められたことのない子路が、もっとも孔子を慕い、想い、守り、孔子からも頼りにされた弟子でした。子路は政治家として極めて有能だったようです。その子路を窘めた言葉を借りて、この本の構成をご紹介します。著者の訳に「武勇好みの」が一言加わっているので、子路の人となりが想像できますね。

<原文>
子路曰、君子尚勇乎、
子曰、君子義以為上、
君子有勇而無義為乱。
小人有勇而無義為盗。
<読み下し文>
子路曰く、君子、勇を尚ぶか。子曰く、君子は義をもって上となす。君子、勇ありて義なければ乱をなす。小人、勇ありて義なければ盗むをなす。
<著者-現代語訳>
武勇好みの弟子の子路がね、「君子は勇気を尊ぶでしょう」と言うから、「君子が第一に尊ぶのは正義さ、人の上に立つものに勇気があっても正義がなけりゃ、反乱でも起こすのが関の山だろう。小物に勇気があっても正義がないと強盗でもしかねないのと同じだよ」と話してやったよ。
 
 「孔子伝」の文庫化に際して著者白川静は「孔子の時代と、今の時代とを考えくらべてみると、人は果たしてどれだけ進歩したのであろうかと思う。たしかに悪智慧は進歩し、殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった。しかしロゴスの世界は、失われてゆくばかりではないか。『孔子伝』はそのような現代への危惧を、私なりの方法で書いてみたい思ったものであるが、もとよりそれは、おそらく私の意識のなかの、希望にすぎなかったのかもしれない。」と記しています。文庫化から21年、初版から40年を経た今、著者が今この世相を想えばさらにその感を深くしているのではないでしょうか。
 
 著者白川静は「孔子伝」で、孔子は国家を統べる君子のあるべき姿を説き続けることで反体制を貫いた人として描いています。僕が長年抱いていた体制維持のための洗脳の教えは、司馬遷が漢帝国維持のために作り変えたものだ、と。その仕組を徳川政権維持に取り入れた学者が林羅山なのでしょう。
 孔子の人となりの偉大なることを理解し、論語でその教えの根本を学べば学ぶほど、孔子の教えは国家を統べる君子ための学であることを再確認できます。再確認はできますが、己の小人ゆえ、弱者ゆえ、その偉大なる師の弟子の列の末端に、連なる気持ちの湧かない自分がいます。 今の日本国家を統べる政・官・財・学の君子への批判の気は大きくなり、腹ふくるる想いが募るばかり。 これでは老中を心穏やかに生きて生きていくことはできません。
  老子はまず初めに「大道廃れて仁義あり、智恵出て大偽あり」「道の道とすべきは常の道に非ず。・・・・故に常に無欲にして以って其の妙を観、常に有欲にして以って徼を観る」と説き起しています。小人ゆえ、弱者ゆえ、欲を捨てられない有欲のひとゆえ、「老子の道」の末端に連なって「ゆっくり行くものは遠くまで行く」を信じて、己の身の置き処を、己の手足の届くところと再確認した次第、今も昔も日本の庶民に必要なものは老子の生活優先、共同体維持の思想だと再確認した次第です。余談ですが、M・サンデル教授の論もまた、コミュニタリアニズム(共同体主義)でしたね。 
 
 
 

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コメント

コメントありがとうございます。歴史に洗われて残っているものは普遍なのでしょうね。権力者が権力維持のために利用する儒学から、個々人の心の指針へと再認識しておかないといけませんね。いまでも多くの日本人が儒学の呪縛から解き放たれていないようの思います。

投稿: 懐中電灯→吉沢アキラさん | 2012/06/10 10:31

古いものも現代社会に十分当てはまりますよね。

投稿: 吉沢アキラ@能力開発 | 2012/06/09 13:29

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