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2012/09/26

「人生は競馬-60歳は第四コーナー」ー4つのステージ-

     <人生は競馬>
1映画「あなたへ」は我々老中世代の観客が多い、若い方々の感想は、淡々として、メッセージも明瞭でなく、物足りなさを感じた方が多いようだ。
しかし、この映画は平均寿命80歳の今だからこそ若い方々へ問いかけているメッセージだと思う。「人生とは?」
 「人生は競馬-60歳は第四コーナー」の話を始めたのは50歳の頃だ。己れ自身第三コーナーを回り始め、気づいたことだ。このことは、当ブログの初記事として書いたので、詳しくは下記アドレスをクリックしていただくとして、その後を急ぎたい。
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2004/09/post_4.html

映画「あなたへ」のテーマは主人公英二(高倉健)の第四コーナー、最後のカーブで起きた。生涯の伴侶であるはずの妻の死を巡る葛藤だ。
 明治維新以来日本人が追い続けてきた西欧文明は、壮年の文明、老いや死を敗北と考える、ポスト壮年の存在を認めない文明だ。その文明を生きる人間の理想は、0才から永遠の成長を志向し、壮年まで右肩上がりの直線の坂道を息を切らせず上り詰め、さらにその勢いに乗って、訪れる老いも、死をも認めず、闘い続ける戦士の姿だ。50歳から先のイメージが無い。曰く「アンチ・エイジング」曰く「スティ・ヤング」曰く「青春とは!」。曰く「生涯現役」と。
 しかしその走り切った先には後期高齢者というお墨付き、「ボケ老人」と称せられる暗闇の穴へ続々と落ちていく、ひっそりと。

                                                                <四住期・四諦と八正道>
                        2_3
東洋(インドを東洋の範疇に含めるにはいささか躊躇するが、伝播してきた源という意味で)には老いも死も含めてワンセットで人生という思想がある。
 ブログを書き始めて8年が経ち、自分自身も第四コーナーを回り、「老中(老いの中)を生きる」と思い定めて、自戒しながらホームストレッチを走ること10年余、山折哲雄著「愛欲の精神史①性愛のインド」に導かれながら「人生は競馬」に、インドのマヌ法典の四住期、釈迦の四諦、さらに「人生四時の循環あり」を重ねてみた。
<四住期>
 インドの宗教バラモン教・ヒンドゥ-教の経典マヌの法典には人生を学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)と4つに区分してそれぞれの時期に、その時期にふさわしい生き方(心の有り様)を規定している。カースト制度の最上位バラモンの教え、四住期にいう学生期は、師について戒律を学び、身に付ける、ひたすら学習し学ぶ時期。家住期は結婚し子育てをする、実直に働き清き生活をし、財を積む時期。林住期は子育てを終え家族への義務を果たした後は妻を子に託し蓄えた財や権力とも距離を置き、森に入り自然に帰る時期、そして次の遊行期への移行の時期。そして最後の隠遁の遊行期を迎える。 
 作家五木寛之は著書「林住期」の中で四住期を現代に置き換えて、学生期を0~24歳、家住期を25~49歳、林住期50~74歳、遊行期75~90歳を提案している。
<四諦>
 カースト制度のクシャトリアから出た釈迦は四つの真理、四諦として、苦諦・集諦・滅諦・道諦の教えを後の世に残した。「人生は「苦」である」と。今風にいうなら「人生は、自分の思い通りにはならない」と、いったのだ。思い通りにしようとするところから「苦」が生じると。そしてその原因は「集」にあると。「集」とは集めること、欲望、我欲、執着だ。だから「苦」を滅するために我欲、執着を離れ滅するための「道」が必要だとして八正道を説いた。
 仏教哲学のひと山折哲雄は著書「愛欲の精神史①性愛のインド」にこう書いている。
「人間は心身的な成長をとげていくとき、さまざまな葛藤に直面する。希望と挫折(学生期ー苦)、愛と憎しみ(家住期-集)、生と死(遁世期-滅)。自己処罰と救済(林住期-道)といった葛藤が次々と襲ってくるであろう。そしてそのような葛藤を、犠牲と抑圧の方法によってではなく、昇華と再生の方法によって解決しようとしたところに、仏教やヒンドゥー教の思想の特異な性格をみとめることができるように思う。」と。 
 仏教を学び始めると「我を捨てよ、無我になれ」「執着を棄てよ、欲を離れよ」と「滅」に囚われて悩むことしきりだ。しかし生まれた「いのち」が生き切る源泉はこの執着にあるのではないだろうか。自他を分け、自利を中心に据えて生きるところに「生きるためのエネルギー」がある。「集」はこのエネルギーの源泉だと思う。しかるに「無我」に囚われると、この活力を失ってしまうのではなかろうか。
<人生四時の循環あり>
 吉田松陰は三十歳の死に臨んで留魂録に「人生四時の循環あり」と書き残している。春に種を蒔き、夏に実り、秋に収穫する、そして冬には秋の収穫で醸した酒を楽しむと。今三十歳で死ぬ己れには、その三十歳の中に四季が備わっている。十歳で死ぬ子供は短いように思えるが、その十歳の中に春夏秋冬があると。
<人生は競馬>
 人生を競馬のレース展開に擬えてみよう。ゴール板を通過するのに、4つのコーナーがあり4つのステージがある。第一コーナーを十歳、第二コーナーを二十歳、第三コーナーを五十歳、第四コーナーを六十歳とすると、第一ステージは、家庭の躾け第一のときを過ぎ、第一コーナーから第二コーナーのカーブを走る。学業第一、自立の芽生え、心身を鍛えるときである。社会人として向こう正面を走るための好位置を占める大事な時期だ。しかし極めて大事な、要注意のカーブの場だ。
 第二ステージは、家庭作り、子育ての時期であり、かつ仕事でも成果の定まる時期でもある。気力体力共に盛りのとき。
 第三ステージの五十歳から六十歳は競馬場のカーブを回るとき、気力は十分でも、そろそろ体力が衰え始め、気力と体力のギャップが現れ始めるときでもある。さらに正面スタンドの歓声が聞こえてきて、ゴールが気になて焦りが出る時期でもある。
 第一ステージは学生期、学業に、自立にまつわる葛藤に耐える時期。まさに「苦諦」そのものだ。第二ステージの向こう正面は、家住期、生きるためのエネルギーが最も必要な、煩悩の燃え盛るとき、そうでなければまた生き抜くことの難しいときでもある。第三ステージは、カーブの続くあぶない10年、手綱を締めエネルギーを抑えるとき、正面スタンドを走る移行期、林住期だろう。
 第四ステージの正面スタンド、観客のすべては固唾を呑んで、ここの走りを見つめてる。競馬場では観客は皆、馬券を握り占めている。しかし人生の競馬場では、己れの馬券を買っている観客は一人もいない。女房さえ買っていないのだ。いや買ったとしても、向こう正面の途中で破り捨てていることだろう。信じていないからではないのだ。無理をさせないためにだ。だからここは誰かのために走る必要はない、誰かのためにから解き放たれて、天馬のように軽やかに走ってはどうだろう、遊行期なのだから。 
 吉田松陰の「人生四時の循環あり」に従えば、第一ステージは「春」、ひたすら良い種子を蒔く季節、第二ステージは「夏」、暑さの中に実の稔る季節だ。そして第三ステージは収穫の「秋」、秋は一日も短くそして忙しい季節だ。第四ステージは「冬」の季節、収穫した穀物で酒を醸し、囲炉裏で干したイワナを炙って、肴にして酒を酌む。背中を丸めて干し柿を食す姿だ。寒いようでいて、外では静かに春の芽吹きの準備が進んでいる。囲炉裏を囲んで「昔々あるところに・・・・」と老いの智慧を次代へ授けるときでもあるのではないだろうか。 
 21世紀に入って世界は混迷を深めている、それは、明らかに西欧の思考の行き詰まり、歪みの現れだと思う。幸い4つのステージという東洋の叡智もある、この叡智を取り入れ、
人生をとりあえず0歳から80歳と定め、4つのステージをイメージして、そのステージに応じた己れの意識を準備してはどうだろうか。「無事これ名馬」の格言もある。「生きる」目的は「生き切る」ことにあるのだから。 
 0歳から80歳、生から滅へ向かう大きな循環があり、その中に春夏秋冬があり、朝夕の循環もある。山折哲雄さんは著書の中で一生の大きな循環に「苦」・「集」・「道」・「滅」とあてはめてくれている。朝夕という日々の小さな循環の中にも「苦」「集」「道」「滅」をあてはめて生きろとお釈迦様は戒めを残したのだろう、長い人生を煩悩の火で焼き尽くさないようにと。

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