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2013/06/10

対オーストラリア戦に見る次代の輝き、そして日本人に突きつけられた「今ここ」の課題

日頃サッカーへの関心も薄く、テレビ放映の試合すら滅多に見ることもなく過ごしてきた僕ですが、今回の対オーストラリア戦はなんとなくテレビの前にいた。一所懸命相手ゴールを攻めているようには見えるが、素人目にはなんとなく物足りなさを感じていた。そして前半の最後、あっけなく一点取られて、「やっぱりなぁ」「駄目だなぁ」「あの攻めでは」「このまま負けるのだろう」と思った。

 試合前から、W杯出場には、この試合の引き分けで決まる、ここで負けても、まだ次がある、といった漠然とした余裕の雰囲気が日本選手の中に、そして応援しているサポーターの中にも漂っていたのではないだろうか?
 ところが本田佳祐がゴールを狙って外して、吠えたあの顔、鬼気迫るものがあった。そしてそれがPKへと繋がっていく。PKを待つ時計的には短い時間、試合に没入している選手、サポーターには長すぎる時間、本田佳祐がボールを抱えたまま立っている姿、ルールを知らない僕は、てっきり本田佳祐が蹴ったボールで起きたPKの機会だから、本田佳祐が蹴る決まりなのだろうと思っていた。そうではないことが後でわかった。誰にも蹴らせない、この微かな機会は誰にも渡さない、オール・ジャパンのこのメンバーの中で”今ここ”のこの責任を果たせるのは、俺しかいないという責任感の表出だ。誰に与えられた権利でも権限でもない、役割を引き受ける”己の責任”だ。そして見事にその責任を果たした。
 翌日の記者会見もテレビニュースで見た。口々にチームワークを語り喜びに溢れるオールジャパンの面々しかし向かって左端に座る本田佳祐は一人終始さらに左を向いていた。昨日のヒーローが「どうして真ん中にいないの?」と又不思議に思った。ここも「今ここ」あのPKの刹那の再現だ。本田佳祐のスピーチがまた素晴らしかった。責任を果たした男に相応しいスピーチだ。
  チームワークは我々日本人には生まれながら持ている当然のもの、その上に”個”を磨かなければ世界で戦えないと語っていた。あのPKを外したとしても、すでにあの瞬間ボールを抱えた瞬間に責任は果たしていたのだ。責任とは未来のどこかにあるものではなく、「今ここ」にあるのだから。あのPKを蹴る一瞬に本田佳祐の「死生観」を見た思いがする。
 翻って今、安倍首相はしきりに「日本を取り戻す」「美しい日本」と語る。そして多くの日本人も「日本は素晴らしい!」「日本のものづくりを見直そう!」「日本の伝統を活かそう!」と言う。しかしそれらは、本田佳祐がいみじくも語ったように、すでに今生きている日本人には、生まれながらに持っているもの、与えられたものだ。歴史的時間の中で育まれきた所与のものだ。哲学者西田幾多郎も「今ここ」を「作られしものから作るものへ」と語っている。
 外国人から「日本は素晴らしい」と褒めてもらったら素直に喜んでいいと思う。しかし日本人同士が「日本は素晴らしい」と慰めあっても、「作るもの」としての未来は開かれてこない、「今ここ」の刹那こそ”個”を磨く「場」なのだと思う。個と全体も絶対矛盾、個人、企業、家庭、国、4つのKそれぞれ、”個”を磨くことが唯一、生長(成長ではなく)なのだと思う。
 DJポリスも素晴らしかった。本田佳祐もDJポリスも二十代の若者、共に過去(作られしもの)に縛られることなく、「今ここ」の責任をきっちり果たしている頼もしい姿が見える。

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