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2014/01/09

映画「かぐや姫」を観て(1)ノベライズ

    <金色の平等院鳳凰堂>
20101009dsc024071 古今東西の名作といわれる物語や小説,が沢山映画化されています。小説を映画化したものは期待はずれに終わるから観るな、という方も多いのですが、僕は積極的に映画化されたものを観ることにしています。小説を読んで己が勝手に思い描くその持てる意味と、作家が書こうとした意味との差異を知ることもできません。情報は受信も発信も己の主観を出ることはできないのですから。そこで映画監督はいかなる意味を引き出してくれるのかが楽しみなのです。しかし映画を観ても、それが監督の引き出した意味にそっているのか否かも又確かではない、そこにもまた密かな己の楽しみがあるのだと思うのです。
 高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は上映に先がけて脚本を小説化した小説「かぐや姫の物語」がでました。ノベライズというのだそうです。映像の元になった脚本の文章から、自分がイメージできる「かぐや姫」や高校生の頃に古文のテキストとして記憶している竹取物語との違いはどこにあるのだろうか。と映画を見る前に小説「かぐや姫の物語」を読みました。

                                                             <平等院鳳凰堂の浄土>
                    20101009dsc024151_2
映像から小説化してあるためか、読者である僕にとっては、とてもビジュアルにイメージの広がる物語になっています。とりわけラストのかぐや姫が月よりの迎えの使者に連れ戻されるシーンです。「もう少し」「もう少し」「ここに留まらせて欲しい」と懇願します。己が地上の喜怒哀楽に疲れ「迎えに来て」と叫んでしまったことに呼応してきた、そのお迎えに対して、いざ迎えに来ると「もう少し」と名残を惜しむ姫の姿です。月よりの使者は淡々と近づいてきます。月よりの使者は阿弥陀如来自身です。

 この小説のラストで平等院鳳凰堂の阿弥陀如来来迎図のイメージが湧いてきました。かの寺を建立した藤原頼通は阿弥陀如来の指から垂らした赤い糸と己の指を結び浄土へ旅だったそうです。藤原の栄華を極めた頼通でもかぐや姫のように「もうすこし」「もうすこし」と懇願しながら逝ったのでしょうか。かぐや姫も頼通も今生でやり残したことがあったのでしょう。人生には、お釈迦様のいう四苦八苦「生老病死」「愛別離苦」に疲れ思わず口にしてしまう場面に遭遇します。「迎えに来て」「死にたい」と叫んでしまうこともあります。写真は2010年秋偶々遭遇した平等院鳳凰堂のライトアップ、神々しい光に包まれた阿弥陀如来が頼通のこころを映しているかのように池面に揺れていました。三脚禁止で手ブレを抑えられなかった己の未熟さか、頼通のこころが己の手に伝わったのか手ブレしてしまったのが心残りです。ですが、偶然の重なりで得たシャッターチャンス僕にとっては貴重な写真です。
 かぐや姫の「もう少し」「もう少し」からもう一つ思い出すのが鎌倉瑞泉寺にある歌碑、詩人にして良寛研究の人吉田秀雄の歌碑です。参詣人の履物で磨り減った苔むした長い石段を登り切ると山門があります。その左手に吉田秀雄の歌碑はあります。
    死をいとひ 生をもおそれ
    人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ
 一月は水仙、蝋梅が香りそして二月は白梅紅梅黄梅と、この時期花の色香に惑わされるお寺、久しぶりに訪ねたくなりました。訪れる度に目をとめるこの歌が気になる年回りになりました。
<平等院鳳凰堂にある浄土とは>

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