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2014/04/24

経営体験に観る「今ここ」(3)”今”と”ここ”は分けることはできない

 <経営体験に観る「今ここ」(3)“今”と“ここ”流離う心>

  古代の人々は、地平線から昇る太陽の神々しさに「神」を観、「生」を観、夕日が沈み、あたりが闇に包まれるのを感じて「死」の意味を悟ったのでしょう。「今ここ」は常に不可分にして一つでした。ところが人間は時計を発明し、“時”を測ることに成功し、時空から分離してあたかも“時”が独立して存在するかのように意識するようになりました。日の出から日没、翌朝の日の出と、一日はまだましなのですが、均等に24時間、60分、60秒とあたかも時は均等に同じ長さで過ぎてゆくかのごとく意識し、「ここ」から意識(心)が飛ぶことを覚えてしまいました。 

過去・現在・未来と時は直線で流れると想うようになったのです。心身一如が心と身体が分離するようになったのです。現代人は多忙です。「今ここ」に立っている心身は、時計をみて、心は一時間先、二時間先へ飛んでいきます。カレンダーを見て一ヶ月、一年、果ては10年、20年先、勢い余って死後の世界まで心が飛んでいきます。

  またあるときは「こんなはずではなかった」今の境遇を嘆き、後悔して、一ヶ月前、一年前へと心は過去へ飛んでいくのです。飛んでいくというと格好がいいのですが、未来と過去を彷徨っているといったほうがいいのではないでしょうか。

  過去・現在・未来と一口でいいますが、これは不可分の「今ここ」を「今」と「ここ」を切り離して意識しているのです。過去とは正確には「過去の今ここ」「未来とは「未来の今ここ」現在は「この瞬間の今ここ」なのです。だからお釈迦様は何故、すでに存在しない過去、未だ来たらざる、存在せざる未来を思い煩うのか、「今ここ」に留まれ、身体のある「今ここ」に心も留めておけ、心身一如というのです。(続く>

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