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2014/12/01

今読む 書名「資本主義から市民主義へ」岩井克人著

書名 「資本主義から市民主義へ」
著者 岩井克人
出版社 ちくま学芸文庫
 いわく、グローバル資本主義、金融資本主義等々 XXXX資本主義とタイトルした本が花盛り、資本主義の終焉、資本主義の崩壊といったタイトルも眼を引きます。今日の世界経済、世界の政治状況から、そこはかとない不安に駆られ、手にする読者も多いのでしょう。かくいう己れもその一人。先日もある会合で「資本主義は崩壊するんでしょうか?」と若い方から問われました。10年余、著者岩井克人の思想の一端に触れている僕の答えはノーです。資本主義は崩壊することはない、終焉することもない、パニックに見まわれ混乱することはあるだろうが、また変化をし新たな道を切り開いていくのだろうと思う。

 資本主義の定義、資本主義という言葉から連想するものが、著者によって、また読者によって微妙に異なる、唯々販売のためのキャッチコピーとして、針小棒大に命名されているものも多いようにみえます。この本は文庫本になっていて買い求め易くなってはいますが、その手のものとは一線を画すものです。
 著者の長年の研究領域マクロ経済の視点からとらえた”貨幣とは”、”資本主義とは”といった根源からの問いとその先を見据えた理論が展開されています。マクロ経済学者岩井克人の論点はきわめて明快です。人間とは言語・法・貨幣を使う猿だといいます。人間の存在は生物的自体と社会的実体の二重性によって成立している。「生物的実体は基本的には遺伝子情報によってその性質が規定される物質」によって成り立っており、「社会的実体は、言語・法・貨幣によって成り立っている」と。
 法の上に国家が、貨幣の上に資本主義が、そして言語の上に人間の文化のすべてがあります。その言語・法・貨幣は自己循環論法によって成立している、言語も法も貨幣も人間が使うから成立している物理的実体のないものだというのです。
生物的実体である個々の人間は死んでも、この言語・法・貨幣による社会的実体は遺伝子に還元されることなく、そのまま社会的実体として自己循環論法的に存在し続けていきます。突然変異によるのであろうか言語を使い始めた現生人類の祖先は、物々交換から偶然、貨幣を派生(デリバティブ)し、法を派生し、それらは自己循環的に派生を繰り返し今日に至っています。その自己循環の始原は偶然だから根拠はないのです。
ニコラス・ウエィド著「5万年前」によれば、現在地球を覆っている全人類70億人の子孫は、五万年前に出アフリカを果たした150人の集団だそうです。最近の遺伝学では人間の遺伝子に突然変異が起きて言語を使うようになったのもちょうど五万年前と突き止めたそうですから、言語を使い集団をつくり目標を定めて紅海を渡ったのかもしれません。そして言語を使い過去、未来を想像し、己れの存在の無根拠性に恐れ慄き、西に旅した者たちは神を実在として一神教を立て、根拠なき実在の不安を「有」を始原とすることで繋ぎ止め、不安を鎮めることにしました。 
東に旅した者たちは大自然を神とし多神教を立て、東の果ての日本列島にたどりついた者たちは、四季の循環に死と再生、大地の凶暴性に無常を、そして森羅万象に神を観て、森羅万象悉有仏性と、実在としての神を立てず、存在の無根拠性を死と再生の循環に求め、その始原を「無常」、「無」を始原とすることで、不安を繋ぎ止めることにしたのです。「森羅万象悉有仏性」として、釈迦の悟った「法」、「空」へとつながっていきます。
 般若心経にいう色即是空です。般若心経と聞くだけで、日本人の多くは、脳裏に「色即是空」が浮かぶと思いますが、お経は「色不異空-空不異色」「色即是空-空即是色」と続きます。五感でとらえる眼にみえるものを「色」とし、そして色不異空、色は空にほかならない、その空は色にほかならないといいます。空は「無」とか
眼にみえないものと言葉の表の意味のままにとらえると、眼にみえるものはそのまま眼にみえないものである、となって雲をつかむようなわけのわからない話になってしまいます。人間の物理的実体である肉体を色、空を眼にみえない”いのち”ととらえると、膝を打ってわかるのです。人間の生物的実体も肉体と”いのち”の二重性で成り立っている、そしてそれは色不異空、空不異色の自己循環論法で成り立っているのです。西田哲学の言葉を借りればそれは絶対矛盾的自己同一なのです。
 そして人間が人間であるゆえんは、その肉体と”いのち”の生物的実体を「色」とし、言語・法・貨幣による社会的実体を「空」とする、絶対矛盾的自己同一の色即是空、空即是色の二重の自己循環論法で成り立っているのです。色即是空の自己循環の始原、釈迦が諸行無常ととらえた「空」、西田幾多郎はそれを「絶対無の場」という言葉に紡いでいます。そこは人間主義にもとづくカントの定言命題をさらに森羅万象、宇宙の生きとし生けるものにまで広げた”絶対無の場”、
「有と無」相対的な「有・無」ではなく、有を孕んだ無、すべてが生じる場なのです。
 国家の暴走、資本主義の暴走の先に自己循環論法のパニックをみて、不安を掻き立てられる今、著者岩井克人の掲げる「資本主義から市民主義へ」に耳を傾ける意味は大きいのではないでしょうか。書店の店頭で是非手にしてみてください。

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