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2015/03/08

「大塚家具の『父』VS『娘』の微笑ましくも激しい闘い」に想う

 3月6日薄日さす八甲田山の林立するモンスターの間を歩きながらふと思った。大塚家具の「父」と「娘」のマスコミに現身を晒して闘う姿を羨ましく、また美しいと。見事なまでに美しい樹氷のモンスター振りに誘われたのだろうか。八甲田のモンスターは青森トドマツが、日本海から太平洋に向かって吹き抜ける暴風雪に晒され氷や雪がついて育ったものだという。

テレビ報道の「父」と「娘」の闘いを父娘の醜い骨肉の争いと見ている方が多いように思う。マスコミの論調も概ね大同小異だ。中には「経営権を委譲した時、同時に株式を委譲しておかなかったことが原因だ」と語る経済評論家の姿もある。これはいつもの、現在の姿から過去に原因を求める、因果論的経営論の間違いだ。経営とはそれほど単純なものではないと僕は思う。

古を辿れば武田信玄は若くして父信虎を隣国今川領へ放逐している。以後父信虎は終生甲斐の富士を仰ぎ見ることはなかった。それでも今川家を通して養護料を送っていたのだ。わずか17才で家督を継いだ伊達政宗は畠山義継との和議の折隙をつかれ父輝宗を捕虜にされてしまうが、政宗は間髪を入れず、畠山義継もろとも父を鉄砲で撃ち殺したと語られている。お二人共その後は実弟をも殺している。父としての信虎、輝宗は冥土からその後の領国の繁栄を元国主として微笑ましく見ていたのではあるまいか。戦国の世の領国経営の習い、会社経営にもそんな一面もあるのではないか。
 

20150308 経営はなにも会社経営だけではない。個としての「いのち」を生き切るのが経営だ。個々人としての己れの「いのち」、家族という関係性の「いのち」、会社という関係性の「いのち」それぞれがそれぞれを生き切るために経営するのだ。「父」と「娘」という個のいのちは有限だからいずれ尽きる、しかし会社という「いのち」は永遠に生きる宿命を負っている極めて執着に満ち満ちた醜悪な生きものだ。だからこそ一筋縄で収まらず始末が悪い。
 
大塚家具の「父」と「娘」は図1-1.の個々の「いのち」のみならず図1-2のように「父と娘」という家族という関係性を生きる存在でもあり、又名経営者である「父」の薫陶に育まれた次を担う経営者というモンスターの誕生でもあるのだ。八甲田の青森トドマツが暴風雪に育まれモンスターに育った如く。                 20150308gif

八甲田のモンスターは春の訪れとともに融け消えて、元のトドマツに戻るが、経営者というモンスターは永遠の「いのち」を生き切る宿命を負っているがゆえに妖怪そのものでもあるのだ。そしてお二人は“今ここ”で、図2-1のような「父」と「娘」と「妖怪」の三つ巴の絶対矛盾の関係性の「いのち」を生きている。いずれ図2-2か図2-3の形に収まるのだろう。しかし図2-3の形に収まった後、有限の「いのち」尽きるとき、永遠の「いのち」を生きる生きものの苦悶が再びはじまる。次代を担う者は誰れぞ!。

 図2-1の絶対矛盾を矛盾として受け入れていけたら今のところ理想の会社経営といえるのだろう。しかしいずれの形も会社に「永遠のいのち」を保証するものではない、因果論的経営論では経営の未来は図れない。“今ここ”の関係性を一所懸命生き切るのみだ。そう思う時お二人の現身を晒した妖怪の闘いは、微笑ましくも思え、美しく見えこそすれ、決して醜い争いとは思えない。「父」としての妖怪は死闘の中で「やるなお主!」「流石我が娘!」と心のなかでつぶやいているのではなかろうか?。

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