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2016/04/08

今読む 書名「日本的霊性」 著者 鈴木大拙

書 名「日本的霊性」
著 者 鈴木大拙
出版社 岩波文庫・中公クラシックス
書 名「神殺しの日本」
著 者 梅原猛
出版社 朝日文庫
Photo 曰く「日本を取り戻す」「日本は素晴らしい」「日本のおもてなし」「日本のものづくり」このところ日本国内に「日本」「日本」の大合唱がこだまする。外国人観光客が日本国内で消費することをインバウンド消費というらしい。日本語の便利な表現形式に外来語を片仮名表記する方法がある。インバウンドを外国人観光客と意訳したのだろうか。英語には「in-bound」は境界内、内向きという意味があるそうだ。国民の国内消費が低迷しているから、外国人のお金を当てにしようという意味にも取れる。一方で第二次安倍政権の経済政策、円安誘導で輸出企業が潤いトリクルダウンが起きるそうだ。結局ここも外国人頼みに見える。共に内向きの姿勢の表出ではないだろうか。
 取り戻す「日本」とは何なのか、日本文化のことか、戦前の天皇制のことか、愛国心のことか、日本人の心のことか、日本の領土のことか。日本を取り戻さなけれえばならないとすれば、今の日本は日本ではないのか、誰から取り戻すのか。へそ曲がりの僕は「ちょっと変だぞ!今の日本人」と首を傾げたくなる。日本人の文化は、自分のことをあからさまに自慢するの嫌う文化ではなかったか。人間の尊厳とは、一人の人間として他者に依存せず、個として自立した心の有り様ではなかったのだろうか。

  Photo_2昨日(2016年4月7日)パナマ文書なるものが公になった。かねてから指摘されていた超富裕層による税金逃れ、金融資産隠しタックスヘイブンの情報である。そこには著名な日本企業、著名な個人の名も数多く見える。これはほんの一部に過ぎないという。今更のことではあるが、日本の富裕層の不道徳、腐敗があからさまになってあらためて不快感を催す。
 どうしたんだ日本人!ここで宗教哲学者梅原猛が著書「神殺し日本」に著した「日本人は神を二度殺した」を思い出した。日本人は明治維新の廃仏毀釈、そして昭和天皇の人間宣言と二度にわたって神を殺してしまった。そこに日本人の道徳心の腐敗があると。読み直してみると、日本人が取り戻すべき日本とは、心の虚無の闇に葬り去られた「日本的霊性」ではないかと思い至った。まだ日本列島の森羅万象に宿る霊性として残っていることを祈るのみだ。
 宗教者にして宗教学者でもあった鈴木大拙は昭和19年秋、著書「日本的霊性」を著した。ときあたかも日本がアメリカとの戦いに敗れに敗れ廃墟となりつつあるときだ。敗戦を見据え、敗戦後の日本列島の蘇生に欠かせないものとして、「日本的霊性」なるものを提起したのであろう。神国日本、生きて虜囚の辱めを受けずと、大和魂を奉じて対米戦争へ突入していった軍部の独走、それを止めるどころか鼓舞さえしてみせた日本の神道、仏教といった宗教に対する日本国民の心の虚無の闇を照らす「活き」として、灰燼に帰した日本の国土の廃墟の中、日本人の心の闇の中から「霊性」なるものを覚醒させたかったのではないだろうか。
 著者は「霊性」について、こう著している「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということを免れない。それでは人間はどうしても。生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つではなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」と。
 第一次世界大戦で国家総力戦の愚かさを身に沁みて分ったはずの人類が、三十年を経ずして再び第二次世界大戦の廃墟に立った。そして今再び、世界は超富裕層の貪欲を契機に国際通貨システムの崩壊による廃墟の瀬戸際に立っている。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」に代表される西欧の物質文明の行き詰まりだと思う。「われ思うゆえにわれあり」「主体と客体」「自と他」を統合する「何か」が今求められている。著者が提唱する「霊性」がそれにあたるのではないか。
 日本人は大いなる覚醒で江戸期から明治期への転換を果たした。「維新」といわれる所以だ。しかしそこに日本の今日の混迷の「因」があったと思わざるをえない。幕末から維新へ「和魂洋才」が声高に叫ばれ、積極的に洋才として西欧の物質文明の成果を取り入れて近代化に成功した。さらに明治新政府は、明治天皇を現人神とする一神教への転換を急いだ。西欧の二元論の根源に「神の実在」があるから、洋才を徹底するには一神教が欠かせないとでも思ったのだろうか。
 新政府樹立の1868年10月に遡ること半歳、神仏分離令を発令している。そして廃仏毀釈、神神統合による国家神道を確立していった。かなり早い段階から天皇を神とする一神教を想定していたことがうかがわれる。それが軍隊の統帥権の天皇への直属、軍部による統帥権の乱用から対米無条件降伏というあられもない敗戦を迎える遠因となった。そして昭和天皇の人間宣言において日本人の心に止めの一殺が加えられた。明治政府によって殺された八百万の神々と諸仏、最後の神、現人神の死。
 敗戦よって物的資源が灰燼に帰した日本人は心のなかも神仏を失って虚無の闇に放り出されたことになる。心の虚無は敗戦から経済的再生を果たすには好都合であったのだろう。虚無の闇を埋めたのが「神」ならぬ「紙」という紙幣、虚無のブラックホールにアメリカの「紙」を吸い込んで高度経済成長を現出し、そして津波のように繰り返し襲ってくる紙幣バブルの生成と崩壊、日本社会の今日的混迷だ。
 著者が昭和19年にこの「日本的霊性」を著し、この日本列島には「日本的霊性」がある、それは鎌倉期に道元の禅仏教、法然・親鸞の浄土教、日蓮の法華教として覚醒したのだと説く。それら開祖はみな比叡山から大衆の元へ降ってきた。比叡山には最澄の「山川草木悉有仏性」という天台思想がある。「森羅万象に神が宿る」という縄文期の思想と仏教思想の融合である。平安期に「和魂漢才」といった和魂はやまとごころ、やまとごころは、この融合のこころではないだろうか。日本書紀・古事記にみる国つ神と天つ神の融合も、菅原道真の怨霊を鎮めた天神様に代表される敗者を神として祀る仕組みもまた然り。
 明治政府による近代化国家の樹立、そして対米戦敗戦の廃墟からの経済的発展は二つながら世界史上の奇跡であることは間違いはない。しかしその世界史とは西欧の物質文明の世界史である。その物質文明は今世界史的崩壊の渕にある。
 日本もこの物質文明の崩壊から新しい文明へ移行する転換期、「取り戻す日本」とは、鈴木大拙の「日本的霊性」のことではないだろうか。著者は「日本的霊性」の顕現として道元の禅仏教、親鸞の浄土教をあげている。そこに流れる通奏低音は、西田幾多郎が「善の研究」に紡いだ言葉「『善』・・・・その極は自他相忘れ、主客相没するという所」ではないか。「コギト・エルゴ・スム」「自他分離」の「二元の論理」から「自他未分」、「修即証」「信即証」の「即非の論理」への再覚醒なのではなかろうか。
 <追伸>
 岩波文庫は1972年に初版、中公クラシックは2008年初版で出版されているが、岩波文庫では、カットされている「第五篇金剛経の禅」を収載してある中公クラシックがお薦め。

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