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2017/08/23

書名「福岡伸一、西田哲学を読む」福岡伸一・池田善昭著

書名「福岡伸一、西田哲学を読む」-生命をめぐる思索の旅-
著者 池田善昭・福岡伸一
出版社 明石書店
Photo 美空ひばりの演歌の一節に「人生って不思議なものですね」とありました。こんな一節が口をついて出てくるのも年回りのせいなのでしょうかね。(苦笑)書店の店頭でのこの本と出逢ったときの感覚です。欠けているとは意識していなかったのですが、明らかに欠けていたジグゾーパズルのワンピース、それが見つかると、人生の未完成のジグゾーパズルの絵がまた少しだけ違ってみえてくるから不思議です。
 書店でこの本を手にした方は、理路整然と間違いを犯す、論理的思考からの開放、そして因果律の呪縛から解き放たれる一片の「不思議」のピースをこの本の中に見つけるかもしれません。
 生物学者福岡伸一さんは著書「生物と無生物のあいだ」で「生命とは動的平衡にある流れ」と定義しています。「もの」ではなく「流れ」です。帯には小さく「ロゴス<論理>対ピュシス(自然>」である」とも書かれています。

 分子生物学という科学的思考を極めた先に「いのち」の本質を「生命とは動的平衡にある流れ」、との言葉を紡ぐに至った福岡伸一さんと哲学者池田善昭さんの対話に導かれて一枚のピースを見つけた不思議を楽しみました。
 行き詰まりを思わせる世界の出来事は、西欧の近代科学を育んだ、二元論、因果論、論理的思考の行き詰まりの顕れです。
  第六章に「西田哲学をいまに活かす」と題してお二人が対論して最終章としています。P245に「ピュシス(自然)をロゴス(論理)によって分節化してしまったのが、西洋哲学であり、西洋科学でした。それに反して、分節化されものを本来のピュシス(自然)の姿としていかに回復していくかということを目指したのが西田哲学であった」とあります。
 大乗仏教にいう「無分別の分別」にも通じるものです。分別知、無分別智というひともおられますが、無分別智という知があるわけではなくて、それは、分別(主語と述語と)できない、言葉にできない「何か」なのです。
 動的平衡は西田幾多郎が晩年に紡いだ言葉、絶対矛盾的自己同一でもあり、鈴木大拙が紡いだ「即非の論理」でもあります。
 読んでいる内に、種田山頭火の「「分け入っても分け入っても青い山」が頭をよぎりました。言葉にしても言葉にしても、いくら俳句に読み込んでも、読み込めない「何か」がある、その「何か」を山頭火は「青い山」という言葉で紡いだのだ、といえるかもしれません。「分別しても分別しても『青い山』」と。
 方丈記の冒頭の「 ゆく川の流れは絶えずして、・・・・・ 」も動的平衡を通して読み直すと、「水」は時の顕現であり、時は上流(未来)から下流(過去)へと流れている。そして「ひとのいのち」とはその未来と過去との接点の“今ここ”の流れそのもの、「未来『と』過去」との刹那の間の「と」のことだといえるのかもしれません。
 「いのち」の本質を「動的平衡にある流れ」と、とらえると、企業も生き物、家庭も生き物、国家も生き物ととらえることができると思うのです。生き物ととらえると言葉にできない「と」が大切な存在になります。企業においては、経営者と株主、社員と社員、経営者と社員、企業と顧客、企業と取引先、企業と株主、企業と国家等々言葉では表わしきれない様々な種類の「と」が出てきます。家庭も妻と夫、妻と夫と子供、家庭と仕事、国家においては、国と国民、国民と国民、国と隣国、等々「と」は多種多様。
 その「と」で代表される様々な関係性こそが家庭、企業、国家という生き物の本質、「流れ」であり「活き」です。それを西田幾多郎は「“今ここ”の関係性こそ唯一実在」といっているのだと思います。
 今世界はトランプ政権という形になって顕れた、分断されつつあるUSAというアメリカ、格差社会という形で分断が顕れつつある日本社会、等々様々な分断線が顕になってきています。西欧的二元論の究極の姿です。分けることの毒といってもいいのではないでしょうか。
 企業を構成しているすべてのものの“今ここ”の関係性が企業そのものです。近年いわれる企業は株主のものという株主資本主義は、企業を生き物としてみていないのです。分断の毒がここにも顕れています。この本西田哲学の今日的意味を噛みしめる、時宜をえた一冊ではないかと思います。
 若い頃学生仲間の間では、「『善の研究』を読んだか?」と問われたら「ああ読んだよ。でも西田は難解だね」と答えれば、読んでいなくても読んだことになったんです。((苦笑)。西田哲学は難解だ、と思っていた昔の仲間達も、福岡伸一さんの生物学的、科学的アプローチに沿って歩き直せば、一歩も二歩も西田幾多郎に近づくことができるのではないかと思います。人生って不思議なものですね。

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コメント

田村元さん
>「今と、ここ」ではなく「今ここ」と一体化していることに
 そうなんです。今=時、ここ=空間、ですから“今ここ”は時空のこと、ですから分けることはできないんですね。「時即空」。時間は実体のないもので。客体の変化として認識するもののようです。

投稿: 明賀義輝→田村元さん | 2017/10/19 10:57

「今と、ここ」ではなく「今ここ」と一体化していることに何か深さを感じます。

投稿: 田村元 | 2017/09/02 06:57

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