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2018/01/10

そこはかといない不安はどこから、?

<「生物的実体」と「社会的実体」の絶対矛盾を生きる存在>
20180110

1.生物的実体
 宇宙誕生の初めビックバンから138億年が経ち、地球が誕生して46億年が経つという、そして微生物が誕生して38億年経ち、人類の祖先が誕生して600万年が経っている。しかしニコラス・ウェイド著「5万年前」によれば、現代人の祖先は5万年前に出アフリカを果たした150人の集団から始まったという。5万年で72億人にまでに増えたのだ。またリチャード・クラインは著書「5万円前に人類に何が起きたか」の中で、で西アフリカで人類の言語をつかさどる遺伝子に突然変異が起きたのも5万年前だと書いているから、ひょっとすると、あたかもモーゼの出エジプトの逸話のように、その人々が紅海を渡った150人なのかもしれない。150人の遺伝子は72億人にまで増殖したことになる。この遺伝子は個体の世代交代を繰り返しながら情報を伝えていく、生物的遺伝子だ。  

2.社会的実体
 経済学者岩井克人は著書「資本主義から市民主義へ」の中で「人間は、他の社会的生物と違って、言語・法・貨幣を媒介として社会関係をつくり、またつくらざるをえない。直接的な接触やむき出しの暴力や物々交換だけでは、真の意味での人間社会は生まれません」と著しています。

そして言葉によって意識が生まれ、意識は過去・現在・未来という時間軸に広がっていく。さらに主語と述語の関係性から自他の分離が、起こり空間軸が生まれる。時空の誕生である。

さらに言葉そのものが自他の間を媒介する、互酬の媒体として貨幣が生まれ、自他の約束を守るための法が生まれた。宗教や科学も言葉によって生まれてくる。他の生き物は群れを創るが、人間は他の生き物の群れとは機能の違う、家族、部族、国家、そして企業といった様々な形態の集団を形成するようになっていった。それらは文明とか文化と称されるが、それらはリチャード・ドーキンスがミームと名付けた環境遺伝子によって生物的遺伝子とは関係なく、独自に情報として時空を伝播していく。岩井克人はこれを社会的実体といい、人間は生物的遺伝子によって継承される生物的実体とミームによって個体とは無関係に継承されていく社会的実体との二重性を生きていく存在だ、といっている。

社会的実体の始源は「言葉」、新約聖書第一章には「初めに言葉ありき・・・」と記されている。言葉以前のところが神の領域ということなのだろうか。人間も誕生すると命名さる。命名されて始めて人間として扱われる。名前がなければ、生物的実体としては人間でも社会的実体としては人間ではないということになる。基本的人権も道徳も倫理も社会的実体なのだから。
3.自己循環論法
 この「言葉」を始源とする社会的実体は、すべて循環論法としてのみ存在する。と岩井克人さんはいう。神はひとが信じるから存在し、貨幣は他者が受け取るから使われ、将来も使えるであろうから、蓄えられる。そして貨幣を蓄えるのは、実在しない「時」を未来のエネルギーとして蓄えることでもある。   

この循環論法の神を実在とする一神教では、絶対唯一神の実在によって循環論を二元論として切断し、明瞭に迷いないものに進化させたのがルネ・デカルトの「我思う故に我あり」だ。二元論、因果(原因と結果)論といった近代西欧文明の暁の鐘を鳴らした開祖とも称されるほど画期の言葉なのだ。
岩井克人さんの不均衡動学から導かれる貨幣論は秀逸だ。今話題の「仮想通貨こそ究極の貨幣だ」という、ニクソンショック、リーマン・ショック、このショックの度に通貨は膨張し、リーマン・ショック後の米ドル、ユーロ、円、元といった先進国通貨の膨張は言語を絶するものだ。その行く末はハイパーインフレーションしかないとも語っている。そのときは、先進国通貨のいずれかを人々が信じられなくなったとき起きるのだろう。

ついでにいえば、正義とか、信義などという「義」もこの社会的実体だから、これを振りかざすと人と人との間に軋轢が起きる。言葉が起源なのだから、基本的人権も憲法に記載され法によって守られるときにのみ存在する循環論法の賜物なのだ。倫理も然り、経営理念もまた然りだ。
4.不一不二 

この生物的実体と社会的実体の二重性は、一つではないのだが、二つに分けることはできない「不一不二」、同じではないのだが、異なるものでもない。「二つにして一つ」、「一つでもなく二つでもない」という矛盾を孕んだものなのだ。日本人の日本人による哲学を編んだ西田幾多郎は晩年このことを「絶対矛盾的自己同一」という言葉で形にして示した。その友であり欧米に日本的大乗仏教の普及に努めた、鈴木大拙もまた、これを「即非の論理」と造語した。

生物的実体の生き物としての人間自身が「肉体『と』いのちの活き」という二重構造になっていて、これも不一不二、絶対矛盾的自己同一なのだ。いのちの活きを失った肉体は、モノではあっても、すでに人間ではないのだから。

さらにこの生物的実体と社会的実体の絶対矛盾を生きる人間は大乗仏教哲学的表現をすると、「色即是空・空即是色」の般若心経の教えであり、自我(意識的自己)と真の自己(内なる自己)の不一不二を生きているといえる。
5.不安も安心も安全も言葉から
 今日本人が抱いているそこはかとない不安はどこからくるのだろうか。すべてはこの言葉を起源とする社会的実体の膨張にあると思う。言葉によって過去と未来という時間軸を意識化におき、主体(己れ)と客体(他者・他物)の区別という空間軸を意識化においたことから、ひとは未来や他者・他物に不安を抱くようになった。しかしその不安は意識によって生じるのだから、己れの生物的実体を犯すものと意識すれば、不安になるし、生物的実体を拡張するものと意識すれば、期待になる。未来も他者・他物も意識化の客体だから、己れの意識次第ということになる。
とはいえ、IOT、AIと科学技術の進化のスピードはべき乗的に早くなり、貨幣(仮想通貨も)べき乗的にデリバティブしていく。すべて社会的実体の拡大スピードが生物的実体の感覚と著しく乖離していく時代が情報社会というもの有り様なのだ。
医学という社会的実体も進歩し、臓器移植という技術で生物的実体をも侵襲し始めている。とうとう「脳死を死とする」などと生物的個体の死をも法律で決めるようになった。生物的個体の死は、本来すべての細胞の死。かってひとは九相図や釈迦の涅槃図を眺めて、いかなる生き物も、悟りを拓いた釈迦でさえ、必ず死を迎えることを学んだ。

脳死は生物的実体の自(おの)ずからの死ではなく、社会的実体である法律の規定によって与えられた社会的実体としての「死」なのだ。米国で法的に認められている代理母制度の利用が増加しているという。中国人富裕層の夫婦の利用が90%を超えている、と報道している。「脳死がひとの死」ならひとの誕生はいつだろう、生物的実体としては精子と卵子の融合したときなのだろうが、脳死がひとの死なら、母親の胎内で卵子が受精したときではなく、胎内で受精卵が分割を繰り返し脳の機能が生じたときとなるかもしれない。それ以前は「ひと(いのちの活き)」ではなく「もの」だから取り出して使うことも法的に認めようというときがくるのだろう、ひとの寿命も法という社会的実体が縮めていく。岩井克人さんが「資本主義には『倫理』が必須だ」という所以である。そしてその資本主義の申し子の存在である企業経営にも経営理念が必須な所以でもある、ただし「理『即』念」の不一不二、絶対矛盾的自己同一として。
.過去・現在・未来
 人間は言葉を使うようになって、現在を真ん中に、過去、未来を意識化においた。「原因と結果の法則」も「時」の意識化だ。仏教では過去世、現世、来世という。死後に生まれ変わると輪廻転生を固く信じる人も、微かに信じる人もいる。現世を四苦八苦して生きている僕にとっては、「生・老・病・死」「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」の来世なんてまっぴらごめん今生で十分だ、と思う。でも過去。現在、未来は言葉が作り出した自我という自分が意識として見ているものだとすると、過去世、現世、来世も実在するものではなく、社会的実体といえるだろう。過去、現在、未来も、「“今ここ”の関係性こそ唯一実在」という「人間的実体」なのだ。
「前世の業の祟り」とか「親の因果が子に報い」などと脅かされて、信じてもいないのに神社仏閣を回って手を合わせる、初詣では七福神巡りに精を出す。僕も結構好きな行事ではある。
 仏教哲学をじっくり学んでみると、過去・現在・未来の三世は“今ここ”の現在にあるのだといっている。このことも、この社会的実体という存在が分かると納得できるではないか。己れの誕生以前の社会的実体を過去世というのではないだろうか。とすると、己れが人生を生きる中でつくり出した他者との「縁」、仕事上で残した作品、アイディア、等など社会的実体は数限りなく多様に存在している、それらの引き継がれていく社会的実体が己れの業(行い)の証しとして日々つくり出して明日という未来へ引き継いでいる。生物的実体は遺伝子情報として次代へ引き継がれ、己れの生物的実体は死を迎えても、己れのつくり出した社会的実体は死を迎えることもない。仏教にいう「不生不滅」とも、「輪廻転生」己れの生まれ変わりともいえる。その証拠に己れの人生で経済的に大成功して富を蓄えたが故に親族が相続争いで殺し合ったりする。また学問的に高い業績を残したがゆえに、その業績が次代に引き継がれ、発展しつつ社会的実体として生き続けていく。
格差が広がり続ける今日、貧困の連鎖が語られているが、まさに「親世代の因果が子供世代に結果(報い)として輪廻転生していくのだ。教育の負の連鎖も、国家の借金も又然り。格差拡大は、「自己責任」「自業自得」と突き放すのではなく、現世を生きる我々世代の責任として縮める努力が必要だと思う。社会的実体と生物的実体の絶対矛盾を生きる人間の「自己の責任」として。
.自我と自己

 コトバによって想起する主体(主語)と客体(述語)、その主体が「意識的自己」いわゆる「自我」、そして意識的自己と分別された無意識的自己の刹那の前にある己れが「真の自己」「内なる自己」といわれるものであり、仏教では「仏性」といったりするものだろう。   「社会的実体と生物的実体の不一不二」は、そのまま「『自我』と『自己』の不一不二」と重なる。「自我と自己の絶対矛盾的自己同一」が人間的実体なのだ。だからこそ禅仏教では不立文字といい、莫妄想(妄想するな!)という。そして禅的瞑想でコトバの想起する前の“今ここ”の関係性の「場」に触れることを勧めている。近年盛んになってきた宗教色を抜いたマインドフルネス瞑想もこの「場」に触れることで社会的実体の膨張によって引き起こされる、そこはかとない不安を鎮めることを勧めているのだと思う。 

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コメント

ありがとうございます。
短いメールでは応答し難い問答になりそうですね。深入りは避けましょうね。会って話さないと無理なテーマですね。結論を先に申し上げておくと、タキ衛門さんは言葉の限界である二元論の枠内で論じておられます。大乗仏教は二元論に収まらない、収めてはいけない「何か」に迫ろうとしているのではなかと思います。
>「不一」の部分の一つじゃないというのを言いたいわけではないと考えます。
 「心身一如」も同じことですが、言葉で表現すると「心」と「身」を別々に説明することになり、「いのちの活き」という刻々と変化する「ものこと」を捉えきれない、言葉の限界があります。一つの考えて、目に見えるものに拘ると唯物になり見えないものに拘ると唯心になるのではなでしょうか。大乗仏教では「唯識」になりますね。
>粒子なのか波なのかの問題があり
 観察者の関与の問題ですね。ですから「眼にみえる」という視点、「言葉で表せる」という視点の限界、近代科学の限界がそこにあります。
 映画「KU-KAI」の原作者夢枕獏さんが空海に「この世で一番大きなものは、それは言葉、一番小さいもの、それも言葉」と語らせています。そこに言葉の限界があると言っていると思います。言葉で表せるものがすべて、というのが科学万能主義、二元論主義です。言葉で表せないものを神に委ねてしまえば楽なんです。人間の思考の及ばない何かがあると考えるのが謙虚な生き方、仏陀の悟りだと僕は思います。
>「空」ではなくて、「仏」の方がいい
 タキ衛門さんの言う「仏」は「仏性」のことですね。「仏」というとモノになってしまいますからね。そして「空」は「仏性」であり、西田哲学の「絶対無」であったりしますね。様々言葉できないけれど言葉にしないと伝えられないなにかのことです。釈迦の悟りの境地、境地ですから言葉にならない、スニャータ、漢訳すると「空」とか『空っぽの器」と言葉にする、言葉にすると言葉にとらわれてしまいますね。言葉に表せない大きな「ものこと」、鴨長明が方丈記の冒頭で「河の流れ」に譬えた「何か」だと思います。あえて言葉にすると「変化してやまない」ということです。
>「仏」の定義は、宇宙全体であって、神様っぽいのを指
 そうですね。それが大乗仏教の特徴ですものね。ですが、宇宙ではなくて「宇宙の理」約150億年前のビックバン(仮称というべきでしょうか)以来「変化して已まないこと」が「唯一変化しないこと」なので、それをスニャータと言葉にしたのではないでしょうか、宇宙といってしまうと「もの」になってしまいます。「宇宙の理」という「こと」として言葉にするのではないでしょうか。
 「変化して已まないこと」が唯一「変化しないこと」であるという絶対矛盾なのでしょうね。
 言葉にできないことではあるが、言葉にしないと伝えることができないので、やむを得ず言葉にするのが方便、譬え話、釈迦の説法はすべて譬え話になっているのはそのためです。空海はスニャータを「大日如来」と方便し、親鸞は「阿弥陀如来」を方便として「南無阿彌陀佛」といって、「変化して已まないことを」信じる、と言ったのです。
 結局「自然法爾」「“今ここ”にあるがまま」ということになるのでしょう。 
 ただ断っておきたいことは、これらはすべて、現在まで僕の学んできた諸々から得た今の僕の想いです。これが正しい、とか、タキ衛門さんに強制するものではありません。

投稿: 明賀義輝→タキ衛門さん | 2018/04/01 13:36

>「不一不二」は「一つではないが二つでもない『なにか』」です。
>般若心経の「色と空」も道元のいう「修即証」も親鸞のいう「信即証」
>も、そして「心身一如」も不一不二ですね。

 難しいですね。
 「修即証」、「信即証」、「心身一如」も凡人は2つが別々に見えるが、本来は1つだと言っていると思います。つまり、これらは1つだと言いたいわけで、「不一不二」の「不一」の部分の一つじゃないというのを言いたいわけではないと考えます。

>物理学でも素粒子は物質(色)でもあり波動(空)

 物理学で、光や電子は、粒子なのか波なのかの問題があり、あまりはっきりと解決していないのは承知しております(二重スリットの実験)。
 ただ、 波動(空)の表現は違和感があります。この後に続く、明賀先生の「空」の理解は、波動とは整合性が取れないように考えます。

 あと、↓ここのページは好きなページの一つです。
http://noexit.jp/tn/saiMenu.html


>僕の理解している「空」はブッダが悟ったという言葉にならない「何か」

 この定義は初めて聞きました。言葉にならない宇宙全体という意味でしたら、「空」ではなくて、「仏」の方がいいと思います。禅仏教の場合、「仏」の定義は、宇宙全体であって、神様っぽいのを指しているわけではありません。
 
 また、「空」については、wikiが正しいわけではありませんが、Wikiにも「空=実体がない」といった説明ですので、それを使った方がいいと考えます。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

投稿: タキ衛門 | 2018/03/25 19:06

田北陽一さん
コメントありがとうございます。
>「実体」の表記について
 社会的実体、人間的自体については岩井克人さんの記述をそのまま表記しました。田北陽一さんの仰る意味では、実在(変化しない固定のもの」という意味で実体をつかったのではないのです。存在というほうがいいのかもしれませんが、これもしっくりしません。
>「不一不二」の言葉は、
 「不一不二」は「一つではないが二つでもない『なにか』」です。般若心経の「色と空」も道元のいう「修即証」も親鸞のいう「信即証」も、そして「心身一如」も不一不二ですね。鈴木大拙は即非の論理と言葉を紡いだし、西田幾多郎は絶対矛盾的自己同一という言葉を紡いだだと思います。物理学でも素粒子は物質(色)でもあり波動(空)でもあるといっていますね。「物事」も「もの即こと」ですからね。人間という存在もあえて分けると社会的実体(空)と生物的実体(色)の不一不二であり、その生物的実体そのものも身体(色)といのち(空)の不一不二。
>「空」もしくは「無我」というようです
 僕の理解している「空」はブッダが悟ったという言葉にならない「何か」であり、言葉にすると誤解が生じるけれど、言葉にしないと広く伝えられないので、それをサンスクリット語で「シューニヤ」と言葉にしたのでしょう。中国に入って漢訳されて「空」になり中国語になると、おのずから老荘思想が入ってくる(こざるをえない)のでしょうね。

投稿: 明賀義輝→田北陽一さん | 2018/03/24 20:59

明賀先生

 お世話になっております。以下、コメントいたします。

 ・「実体」の表記について。
  「実体」はないので、「実体」という言葉は、別のものに置き換える等したほうがいいと思います。ご存知かと思いますが、「実体」がないのを仏教で、「空」もしくは「無我」というようです。ただ、明賀先生の「空」の理解とは、異なるかもしれません。

 ・「不一不二」の言葉は、一般的でもないと思うので、別のものに置き換えた方がいいと思います。Yahoo辞書にもヒットしませんでした。

 ・「絶対矛盾」も、もちろん西田の言葉だと思いますが、これも一般的でないので、別のものに置き換えたほうがいいと思います。
  個人的には、西田の「絶対矛盾的自己同一」は仏教の「絶対差別・絶対平等」の言い換えではないかと推察します。
  「絶対差別」=すべてバラバラで、異なる。思考が対象を分割する場合、無限に細分化でき、すべて違う。→西田の「絶対矛盾的・・」
  「絶対平等」=思考が対象を分割する以前に留まれば、すべて一つで別れていない。私=世界である。→西田の「自己同一」
   ただ、この「絶対差別」と「絶対平等」。検索してみても、ほとんどヒットしないので、概念としてはマイナーなのかもしれません。

>言葉によって意識が生まれ、
 言葉が、自他の分離感を強化しているとは思いますが、言葉によって、意識が生まれているわけではないと考えます。仮に言葉をもたない少数民族があった場合でも、意識はあると思います。


 ・ドーキンスの「ミーム」の定義によると思いますが、イメージとしては、遺伝子以外の情報群で自己複製能力をもつものです。例えば、宗教・流行・慣習・規範。
  水色の○で囲まれた中にある家族・部族・国家・企業は、情報としての自己複製能力をもっている感じがあまりせず、その定義の中に入らないような気がします。

 ・このPPTで明賀先生が何をおっしゃりたいのかわかりませんが、遺伝子的なハードウェアの視点と社会的なソフトウェアの視点の2つがあるという事でしたら、1Fをハードウェア、2Fをソフトウェアで見ればいいのではないかと思います。
 【PCの場合】
 PCの世界でも、大雑把に1Fがハードウェア、2FがOS、3Fがアプリケーションで見たりすると思います。
 【ネットワークの場合】
  ネットワークの部分で細かく分類すると7階層に分割したOSI7層モデルがあります。↓
 https://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

 階で分割する特徴は、自分の階の仕事だけきちんとやればよく、上下の階とのやり取りは、規格に基づいたデータをきちんと渡せばよいだけです。
  PCの場合でみると、通常のWindowsPCは、AT互換機?というハードですが、このハード(1F)の上には、Linuxなどの別のOSを乗せる事も可能です(2F)。
  また、その上に(3F)、ブラウザとしてCromeを使ったり、Firefoxを使ったりしますが、これらも相互に置き換え可能です。階層が違えば、置き換え可能になります。
 生命の場合、遺伝子によって特にハードウェアの構造が規定され、人間の場合は、それが1500ccクラスの脳になるわけです。この1500cc相当の脳の計算能力、つまりハードウェア性能を担保できれば、その上に、文化・宗教等のミームが乗ってきてもOKなわけです。

 ということで、長くなりましたが、階層構造で見るといいのでは?と思います。

投稿: 田北陽一 | 2018/03/24 14:35

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