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2018/02/04

北極星は動かない-瞑想の薦め-

   <北極星は動かない>
20180204 1.コトバから生じる自我
 人間が猿と袂をわかった生物的由来は二足歩行にあるといわれている。しかし決定的な別れ、現代人への別れの由来は5万年前に現在の言語発声の始まりとなった突然変異にあるといわれている。経済学者にして哲学者岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中に「人間は言葉を使う猿である」と書いている。人間はコトバを使うようになって、主体と客体、自他の分別が生じ、空間認識をするようになった。と同時に、“今ここ”を中心に過去と未来を分別するようになった。この主体が意識的自己であり、自我の目覚めである。意識的自己は、自利(自己中心的価値観)を育て、未来の己れ(自我)のイメージを様々描くようになる。いわゆる夢だ。そして、その夢を実現するための目標を設定し「P→D→C→A」のサイクルを回すようになる。しかしその夢の多くは叶わない。その理由は簡単だ、意識的自己(自我)が描く夢は極めて自己中心的なイメージであり、他者の存在に思いが及んでいない。そこに常に不確実性が待っているからだ。

.夢も煩悩の所産か

ここにいう他者とは客体のことだから、未だ来ない未来という時と客体は、自我がコトバで作り出す論理的な空想上の時空のものごとである。さらに中々気づけないことなのだが、未来の己れの姿さえ、“今ここ”の意識的自己がコトバでつくり出すイメージの産物だから、未来の己れも、未来の時空における他者なのだ。未来において、未来の意識的自己が同じ夢を見ているかどうかはわからない。他者は常に意識的自己(自我)の論理的想定を超え不意打ちを食らわせてくる。“今ここ”の環境も、未来の環境も意識的自己(自我)にとっては客体なのだ。3.11の折に、流行した「想定外」という言葉、地震も、原発事故も、意識的自己(自我)たちが論理的に自己の都合で想定しなかったのだ。「未来はいつも想定外」ではなく、「己れの想定を超える」「己れの都合を不意打ちする」、だから意識的自己(自我)がつくりだす夢がそのままの形で叶うことはない。

.北極星は動かない

意識的自己(自我)がつくり出す夢、夢だと思ったイメージは己れの煩悩の欲望がつくり出すものなのだ。煩悩のつくり出す夢は、叶ったと思っても一時的、自信を深め、もっともっとと膨らんでいく。意識的自己(自我)は煩悩の大海を彷徨う小舟だ。大海を無事に渡りきるためには航海術が欠かせない。もし大海を流離っていることに気づけたら、星座の知識があれば、そしてそこが北半球なら北極星を探すことになる。北極星は夜ごと不動の一天から光を発し、闇の中の小舟を照らしている。親鸞ならそれを阿弥陀如来の「利他の光」に譬えるだろう。利他の光が照らす、“今ここ”の「場」は自他の区別なく、徧く照らしている。西田哲学では、この場のことを純粋経験とか「絶対無の場」と名付けている。コトバによって主体と客体を分け、意識的自己(自我)を立ち上げる前の“今ここ”の自他未分の森羅万象の関係性のことだ。

.真の夢とは

利他の光に徧く照らされた「場」から生じる「夢」、さらに夢から生じる目標は必ず達成し、その夢は必ず叶う。何故なら今日も明日も明後日も、いつも“今ここ”の自他未分の場所に立っているのだから、そこには他者が割り込んで不意打ちを食らわせる隙間はないのだ。

.北極星はなぜ動かない

闇夜の大海なら北極星は光り輝いて見えるのだが、人が現実に生きているこの世は太陽のギラギラ照りつける荒海、照りつける太陽の下、煩悩の荒海に揺れ動く小舟の上で、北極星を探し求めても見つけることはできない。そこで、親鸞はひたすら「南無阿弥陀仏」の称名念仏を勧め、道元は「ただ座れ」と「只管打坐」を薦める。言っていることは違ってもふたりとも、「瞑想しろ」と勧めているのだ。親鸞や道元を引っ張り出すと「どうして仏教なの?」と食わず嫌いの無宗教信者は苦言を呈する。そのせいか宗教色消してマインドフルネス瞑想を薦める人も多くなった。世界の多様性を考えるとそのほうがいいのかもしれない。私は日本人と思考する人は、是非大乗仏教的瞑想をお勧めしたい。大乗仏教は本来極めて論理的に精緻に組み立てられた哲学でもある。そして哲学は本来、己れの価値観を磨き、知力を鍛え思考を深めるためにあるのだから。

瞑想すると、コトバで考えることを止めた状態になる。意識的自己(自我)が一時的に退潮する、眠ってしまったわけではない、眼は覚めているのだが無意識になっている、闇夜ではないのだが、意識的暗闇(無意識)のなかにいる、そこはコトバによって意識的自己(自我)が立ち上がる前の“今ここ”の森羅万象の関係性の「場」だ。その「場」に触れるとき、そこに北極星からの光が届いている。北極星は己れの身体の外の世界にあるのではなく、身体の内にあるのだ。「真の自己」といったり「内なる自己」といったりする、西田哲学にいう「絶対無の場」だ。大乗仏教では、そこを「仏性」と呼ぶ。己れの内にあるものだから、本来動かないのだ。いつも己れとともにある。だから北極星は動かない。

「真の自己」とは“今ここ”の刹那の森羅万象の関係性のこと。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教いわゆる一神教は、神を身体から切り離して実在とした、普遍化したのだ。ところが日本列島では縄文の時代から「森羅万象に神が宿る」と実在の神を立てなかった。森羅万象が神の化身というという思想だ。一万二千年の長きに渡って続いた文明は古今東西に存在しないと、今考古学会でも注目している。この「森羅万象に神宿る」の証しなのかもしれないと思う。

そして古代と称される大和朝廷成立前夜に国家鎮護を目的に大乗仏教が日本に導入された。大乗仏教も宗教でありながら、実在としての神仏を立てなかった。仏教の開祖の釈迦も実在の神にはならず悟りを拓いた至高の人として「仏」と称したがあくまで人間として入滅した。

その大乗仏教が日本に導入され普及していく。空海は高野山に真言宗を開き、最澄は比叡山に天台宗を興し、共に涅槃経の「山川草木悉有仏性」を重視して唱えることになる。「森羅万象に神が宿る」の縄文の思想と極めて相性がよかったのだろう。日本的大乗仏教の教えの眼に見えない「芯」として親鸞、道元へと引き継がれていくことになる。

.分別と無分別

「分別知・無分別智」という言葉がよく使われる。しかしこの言葉を使う人の中に時折、「無分別智」という「智」があると思っておられる人がいる。日々の現実の世界は意識の働いているコトバの世界、「有る」「無い」の相対的な世界だからそこで働くのは「分別知」だ。

コトバによって自我と自己とが別れる刹那に二元論が始まる。主体と客体の分離、自他分離による三次元空間が拡がり空間認識が起きる。そして“今ここ”の「今」は時のことだから、そこから過去と未来とに分別され時間が生じる、時空の誕生だ。それは同時に“今ここ”に意識的自己(自我)が生じる刹那でもある。

だから「絶対無の場」とは「無分別の場」ということができる。道元のいう「無分別の分別」は瞑想によってこの「場」に触れて、そこからあらためて、立ち上がる分別はそれ以前の分別とは異なっているということだろう。「無分別の分別」は丁寧に「分別Ⅰ→無分別の場→分別Ⅱ」という流れと解釈したい。
 
 瞑想の中で、“今ここ”の森羅万象との関係性に触れた後の「分別Ⅱ」はそれ以前の「分別Ⅰ」とは異なるものになる。この「分別Ⅱ」を「無分別智」というのだと思う。

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