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2018/06/04

映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-

 昨日(6月3日)都心に出なければ観ることができないと思っていた映画が二日間だけ隣町で先行上映されると聞いて慌てて出掛けた。そして映画館を出た。家内の第一声が「パルム・ドール賞をもらったというけど、フランス人にわかるのかなぁ」。映画のテーマは“今ここ”の日本人家族の物語に観えるが、「家族とは何なのか?」人間社会の家族の普遍的な本質を、日本社会の家族にまつわる“今ここ”の諸々の現象を社会現象としてではなく、生のままの家族の有り様として提示することで、表現した物語だと思う。もう一段階普遍的にいうと観客に「本質とは何か?」を問いかける物語でもあるのではないか。今この日本列島に生きる我々に「『本質とは何か?』を問うこと」を問いかけているようにも思える。

 国会の混迷にも「国家とは何か?」が問われてる。日大のアメフト問題は、学生スポーツの本質、ひいてはアマチュア・スポーツの本質、ひいては大学教育の本質が問われている。日本の大企業の日々の不祥事のニュースも「企業とは何なのか?」と企業の本質を問う「できごと」にも見えるのではないだろうか。問われているのは“今ここ”の日本列島に生きている我々だ。

 安倍政権の憲法改正案も問題が第九条に集中しているように見えるが、改正案に込められた家族主義への回帰は直接この映画の主題と重なる。戦前の家族主義に回帰することで「日本を取り戻し」「戦後レジュームから脱却する」ことができるのか。「取り戻すべき日本」の「本質とは何か?」「戦後レジューム」の「本質とは何か?」を日本列島に生きる我々が、「個」の人間として、己れに問うことをこの映画は求めているのではないだろうか。
 映画の主題としての家族は、五人の家族に、父親の家庭内暴力によって疎外された幼い女の子が加わるところから始まる。この五人もまったく血縁はないままに、柴田姓を名乗る疑似家族だ。この柴田一家は、年金暮らしの老女(樹木希林)の家で暮らしている。疑似祖母の僅かな年金と疑似夫、治(リリー・フランキー)の日雇いの賃金、疑似妻、信代(安藤サクラ)の非正規賃金と、疑似娘(松岡菜優)の風俗の場で得る稼ぎと、疑似息子、翔太(城桧吏)と疑似父、治の万引きの稼ぎで成り立っている。一つ一つが、当てにできない僅かな稼ぎで成り立っている疑似家族のつかの間の僅かな幸せと、その崩壊の物語だ。
 疑似祖母が死んで葬儀費用に困った疑似家族は、床下に疑似埋葬してしまう。バレなければ年金も受け取れる。しかし疑似はいずれバレる。疑似家族を演じていた「こと」のすべてがバレて警察で尋問を受ける疑似嫁、信代の一言にこの物語のすべてが凝縮されている。警察官から死体遺棄の罪を問われる信代は「棄てたんじゃない、拾ったんです。棄てた人は他にいるんじゃないですか?」と応える。血縁の家族から棄てられた六人で構成する疑似家族、その疑似家族のつかの間の営み(こと)の中に「家族の本質」があるのではないか?、という是枝裕和監督の問いかけなのだろうか?。その問いには、“今ここ”の日本列島に生きる人々の多くは「家族の絆」と答えるのかもしれない。がしかし、問いも、答えもそれほど簡単ではない。3.11の直後から「地域の絆」、「家族の絆」と「絆」なる言葉が流行している。
 「絆」を広辞苑で引くと、いの一番に「馬・犬・鷹など動物をつなぎとめる綱」とある。係累、緊縛ともある。「紲」とも書くようだ。むしろ「糸偏に世」この方が眼にみえる意味が濃いのかもしれないと思う。個と個を複雑に、繋ぎとめて個の自由を奪っている糸、切り捨ててしまいたい糸にもみえる。6月2日(土)のNHKドキュメントのテーマは「ミッシング・ワーカー-働くことをあきらめて-」であった。親の介護のために離職し、親の死後、働く意欲も失い、働く場所もないままに過ごしている。失業率にも表れない他者の眼に見えない哀しみにおおわれている100万人を超える人々。もし親子の絆に縛られていなかったら、陥ることのなかった哀しみかもしれない。是枝裕和監督がこの映画を通して提示するテーマは家族内で、学校内で、企業内で論議してみる価値があると思う。これが正しいと答えを求めない永遠の問い「家族の本質とは?」、「学校の本質とは?」「企業の本質とは?」そして「国家の本質とは」と。
 「本質」そのものは実体ではない。しかし切り棄てられた本質を集めた家族の形は疑似家族のまま崩壊しても、六人個々の心身に「家族の本質」として活き続ける余韻を残して映画は終わる。「棄てる『こと』」によって「守っている『もの』」とは「何なんだろうか?」。一方で「守る『こと』」のために「棄てている『もの』」とは「「何なのであろうか?」。「「もの」『と』「こと」」とは「と」を中心にして入れかわる。「夫と妻」「母と子」「父と子」「父と母と子」「兄と弟」「姉と妹」等など様々な関係性、「と」という関係性(あいだ)に「家族のいのちの活き」がある。本質とは「もの」と「もの」とをつないでいる「と」のことではなかろうか?「と」とは「いのちの活き」のことだ。個人、家族、そして企業にも、国にも固有の「いのちの活き」がある。多様な「と」があると思う。是枝裕和監督は「本質」を見失って日本列島に流離う我々の両肩を掴んで、揺さぶっているのではないか、「己れの内に本質を問え!」と。 
「いのちの居場所・居場所のいのち」
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「居場所づくり」

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