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2018/12/11

「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と

<「円相中の夢」-龍澤寺 鈴木宗忠老師>
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長年の縁者から「円相中の夢」が届いた。三島にある龍澤禅寺の鈴木宗忠老師の墨蹟とある。墨蹟に詳しく禅僧とも親しい縁者からの禅問答か。さっそく床の間に懸けてしばし坐して眺めていた。円相は宇宙とか「無」といった禅の悟りの境地を筆にしたものと聞いている。
 宇宙は
無限の広がり、境目はないのだから理屈をいえば、無地の白紙をそのままで描いたことになるのだろうが、それでは書にならないから円を描くのだろう。それにしても宇宙の中に「夢」とはなんだ。「無」のなかから夢が湧いてくるのか。西田幾多郎は相対界の有無と分けるためか「絶対無」と「西田語」を紡いだ。相対界の有無が生じる、万物が生じる泉であり場のことだ。夢もこの「絶対無」から湧いてくるのか。

しばし眺めていると、「夢」の一字がこちらに向かってくるようにみえる。また、円相の向こうにあって、己れが吸い込まれていくようにもみえる。さらにじっと見ていると円相の墨の太さ、濃さのせいか後者の、己れが吸い込まれていく想いが強くなってくる。きっと「夢」は「絶対無」の刹那の前にあるのだろう。親鸞は浄土の手前に正定聚というところがあって、南無阿弥陀仏の名号を称えてとりあえず正定聚へいって、そこから戻ってこいといっている。そうすればそこは浄土へ直結しているから、いつでも安心して浄土へいくことができる。と、往相還相の思想を説いている。

「夢は必ず叶う」「努力は必ず報われる」と鼓舞する人がいる。己れは成功者と思っている方に多いように思う。それはそうだ、失敗したと思っている人は思わないだろうから。僕は「夢は叶わない」「努力は報われない」と思っている。「夢はみるもの」だし「努力はするもの」だと思っているから。もし叶ったら、その人はさらにまた新しい夢をみる。だから夢は永遠の逃げ水の如し、だ。生きているうちに叶ったらそれは欲望の証しであって夢の証しではない。欲望を否定しているわけではない、欲望は「永遠の生」を生きる、方向性であり、生きるためのエネルギーなのだから。

「円相の中の夢」その真ん中の一字をじっと眺めているうちに、この老師の「夢」の一字は「死」と同じものではないかと思えてきた。老師は迷い多き僕にはまさか「死」と書くわけにもいかず「夢」と書したのではないか。ひとは己れの死を知ることはできない、一人称の死は無いのだ。あるのかもしれないが、確かめることはできない、同じことを「夢」と「死」と二つの言葉に分けたのかもしれない。どちらも己れ自身は生きているあいだ、確かめることのできない明日のことだ。そして個々人の「生」は「絶対無」から生まれ「有限の生」を終え無限の「絶対無」の中へ帰っていく。

精神科臨床医にして哲学者木村敏さんが著書「時間と自己」(中公新書)のあとがき(P191)に下記の言葉を残している。「死」という主人公が見ている夢が「己れの人生」かもしれない、と。

「私たちは自分自身の人生を自分自身の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、誰かによって見られている夢ではないだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの『だれか』に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。

夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの『だれか』をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、そういった『時と時のあいだ』のすきまを、じっと視線をこらして覗き込んでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持ち主が夢を見はじめたときに、わたしはこの世に生まれてきたのだろう。そして、その『だれか』が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名を持っているのではないのか。」と。

この円相の中から一匹の蝶が翔んできた。そうだ荘子の胡蝶の夢もこの夢の一字かもしれない。

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