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2018/12/03

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2)

20181203

1. 1.資本も「いのちの活き」

「資本もいのちの活き」の視点から図(1)(2)を図(1-2)(2-2)に書き直してみた。貸借対照表の借方(左)に企業を成り立たせている資産が計上されている。生きものに譬えれば身体だ。その身体を成り立たせている「何か」が貸方(右側)に計上されている。生きものに譬えれば「いのち」だ。そのいのちを資本と名づけている。しかし経営用語としては、なにげなく、「資金調達」と云う。資金とは貸借対照表の借方の項目のことだから“こと”の本質からいうと、正確には「資本(いのちの)調達」というほうがその役割に気づきやすいと思う。そして他人資本とは「他者のいのち」のことであり、己れの未来のいのちの活きによって贖うものだ。株主資本は株主という「他者のいのち」のことだ。かつて株主資本を過去の内部留保も含めて自己資本と名づけていた。企業固有のいのちと錯覚していたのだ。本来企業という存在も、“今ここ”の関係性を生きている存在だから、自己自身として所有するものはなにもない。人間と同じ企業という自己(主体)も、虚無(からっぽ)の器だ。日本の株式市場に上場している企業人の多くが未だにこの変化を確かなものとして受け止めていないのではないだろうか。

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資本調達手段も投資ファンド、クラウド・ファンディング、起業ファンド、官民ファンド、はては年金基金等々と多様化し、資本という固有のいのちが、活発に蠢き始めたというのが昨今の人間(言語)世界の形相ではなかろうか。

ちなみに、今国会で決まりそうな水道事業民営化も、民営化ではなく資本といういのちの活きが蠢き力を発揮する場になっていくと思ったほうが実態にあうのではないかと思う。

2.企業のいのちの「全体と個」

図(1)では株式未上場企業や中小企業など、所有と経営の未分離の企業もあることから企業のいのちの関係性を株主(資本)と経営者を一つにして描いたが、ここはやはりはっきり分離しておいたほうがいいように思った。少子化の時代、所有と経営の未分離の企業も必ずしも世襲というわけにもいかなくなっている。企業固有のいのちを継続するためには資本といういのちを資本固有のいのちとして生かしていく必要があると思う。そんな視点から、図(1)(2)を図(1-2)(2-2)と描きなおしてみた。

3. 過去と未来その「あいだ」の現在

人間は言葉を紡ぎ過去と未来を意識するようになった。そしてその過去と未来の隙間を広げ、現在という言葉を置いて、過去→現在→未来という時の流れを意識するようになった。さらにその現在に自己をおき、その自己を主体性の拠りどころとして、主体と客体に分かつことでその隙間を広げ空間とした。その時間と空間の「あいだ」の“今ここ”の現在に立つ自己という主体が「いのちの活き」の始原である。

禅仏教には悟りの境地を表現する言葉として「生死(しょうじ)一如」がある。過去は「死」、「生」は未来だから、さすれば「生死一如」は、過去と未来の「あいだ」の現在のことになる。人間の意識では時は「過去→現在→未来」と流れているように思えるのだが、実際には今日の“今ここ”の現在は、一日経てば昨日の“今ここ”になり、明日の“今ここ”は今日の“今ここ”の現在になる。時は「未来→現在→過去」と流れているのだ。

未来と過去の「あいだ」の現在とは、未来から過去へ永遠にそして絶えることなく流れている「流れ」のことであり、いのちが活いている「場」のことだ。西田幾多郎は“今ここ”の現在を「永遠の今」と言い、「作られしものから作るものへ」の「場」と言っている。精神科医にして哲学者の木村敏さんは著書「あいだ」(ちくま学芸文庫)の中で「未来は方向であり、過去は蓄積だ」と言っている。「いのち」とは自己を主体性の拠り所として過去と未来の狭間に立っている。あの鯉のぼりの柱なのだ。

4. 企業固有のいのちの誕生

日本の縄文期には「森羅万象すべてに神宿る」と信仰してきた。それは無限の宇宙を「いのちの活き」とし、森羅万象すべてはそのいのち活きの顕現と想う思想だ。「企業のいのち」の誕生は森羅万象の自己限定として、まず資本(資本金)調達、資本金という他者のいのちを継承することを始原とする。「人間のいのち」が父母の精子と卵子の合体(死)を契機とした受精卵(それを成り立たせているいのちの活き)を始原とすることと符合する。共に他者のいのち(過去・蓄積)を未来(生)への始原としているのだ。

誕生した刹那に企業固有のいのちは、図(1-2)(2-2)よのうに①~⑧の「全体と個」の絶対矛盾的自己同一の関係性を生きていく。この関係性を「宿命(いのちに宿る)」というのではないだろうか。そして運命とは、この、いのちに宿った関係性の変化(未来志向)――①~⑧固有のいのちの活きの変化――を受容しつつ主体的に自己の命(いのち)を運んでいくことではないかと思う。

5.「製・商品・サービス」も「いのちの活き」だ

 企業は、企業固有のいのちの活きとして生み出す「製・商品・サービス」を通して顧客との関係性を生きている。したがって「製・商品・サービス」そのものも“今ここ”の現在の関係性の絶えざる変化(未来志向)を生きている「いのちの活き」なのだ。

 企業には企業固有のいのち、そこは“今ここ”の現在の関係性を生きる「生死一如」の「場」、だからそのいのちにも老いがあり寿命がある。それは関係性の乱れから始まる。関係性の乱れは、真っ先にこの「製・商品・サービス」と顧客との関係性の乱れに現われる。

近年ビジネスの場でイノベーションという言葉が声高に語られているが、少々違和感を禁じ得ない。“今ここ”の顧客との関係性のずれ(変化・差異)を違和感としてとらえ、感じて対応しているか否か、ではないだろうか。未来の“今ここ”の現在に立ったとき、あの日あのときがイノベーションだったと、作られたものとして過去形で語られるものがイノベーションではなかろうか。企業のいのちの老化は真っ先にこの「製・商品・サービス」に現れる。「イノベーションを起こす」という語り口に論理的思考先行の無理がありはしないだろうか。企業のいのちの活きは“今ここ”の現在の行動にあるのだから。

6. 日産の「いのちの活き」の行方

 ゴーンさんの金銭問題、コンプラアンス違反、それを見過ごした西川さんたち日系の経営者個々の問題はすでに過去(死)である。日産としての個のいのちは、いのちの活きとして未来(生)を志向している。生きている限り。それが日産の今日的課題だと思う。

 図(1-2)(2-2)の関係性からみると20年前に日産はすでに死んでいる。しかし企業という生きものは醜悪なる生きものだ。図(2-2)の個としての資本(①)、経営者(②)のいのちを入れ替え、さらに従業員(③)のいのち、下請企業のいのちを切り捨てて蘇ろうとする。ゴーンさんはそれを見事にやり遂げ仏系日産として蘇らせることに貢献した。しかし今、ゴーンさんの逮捕によって、日産固有のいのちの主体性に乱れ(破壊)が起きた(起こした)。いのちは、新たな動的平衡に向かって瞬時もとどまることなく流れていく。

 このところ日産は日本国内に新車を投入していないとも聞く、日本の顧客を軽視していることの証しだろうか。今回の問題を契機として日産車のルノー工場(フランス)での生産も始まろうとしていること、インドにおける日産の事業のルノー(フランス)への移管のこと、日産・三菱のルノーへの統合なども日本人の眼前に晒された。そして日産の株式の43.4%を、ルノーを通してフランス政府が握っていることも。日産のいのちの活きの行方は、日本人全体のいのちの活きにもかかわっている。①~⑧の関係性、「全体即個」「個即全体」、鈴木大拙の紡いだ言葉、大乗仏教の真理「即非の論理」としてダイナミックに。

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