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2018/12/31

「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」

   <図1.干支の循環>
20190101_2  明けましておめでとうございます。毎々の循環の賀状です。2019年の年頭に「お金と資本」を「いのちの活き」という視点で考えてみました。昨年末の株式市場の暴落をみて、すわリーマンショック再来かと胸騒ぎ、これも干支の循環と同じマネーの循環なのでしょう。21世紀の資本主義の風潮を「マネーゲームだ!」「資本主義の終焉だ!」「拝金主義だ!」と切って捨ててもその循環の流れを断ち切ることはできないことは明々白々。さてさて如何せん。
 
昨年は夢枕獏さんが著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」の中で空海の口寄せをして「言葉は器だ。この世で最も大きなものもこの器に盛ることができる。どんな小さなものもこの器に盛ることができる。」無限大の宇宙から極小の素粒子まで現世はすべて言葉の世界だと語っているのを見つけて思わず「これだ!」と膝を打って納得。

                    <図2-1.米ドルに刻まれた「神」の存在>
                     20181218_2

 

 

 
 
 

<図2-2.「資本も
        「いのちの活き}の仮名>
20181222_2
 この世とか現世と言葉に紡ぐ人間世界はすべて言葉で表現された限定された意識的世界だということをあらためて確認するとともに、言葉にできていない「何か」、言葉の器からこぼれてしまう「ものこと」の「何か」があるのではないか、と気づかされました。そして言葉を発信、受信するたびに、こぼれている「何か」があると自戒しなければならないと気づかされました。  しかしそれは考えてみれば当たり前のこと、人間が5万年前言葉を使い始める以前からこの無限大の宇宙は存在するのですから。 
 
宇宙と名づける以前の無限大の「何か」を老子は「名無きは天地の始め、名有るは万物の母」と語っています。仏教ではその無限大の「何か」を「無」とか「仏性」と言い、そうやって言葉に表したものすべてを仮名(けみょう)といい、それらはすべて概念であるといっています。今書店の店頭に平積みされている話題の「ホモデウス」の著者ユヴァル・ノア・ハラリが「すべては虚構だ」といっていることと符合します。
 西欧では旧約聖書で「光あれ」と神が言って天地をつくったといい、新約聖書で神が「はじめに言葉ありき」といい、人間世界をつくったといっています。西欧では言葉以前、光以前の「何か」をGODと仮名(かりの名)したのです。ユダヤ教もキリスト教もそしてイスラム教もこのGODを唯一実在の神としています。本来は概念のはずのものを、です。
 縄文期の日本列島では、「森羅万象に神が宿る」といっています。神というと宗教色が強くなり、毛嫌いされる方も多いのですが、無限大の「何か」を縄文期の日本列島では神と仮名し、仏教では無とか仏性と仮名したのですから、日本列島ではこの言葉の以前の無限大の姿、形も色も匂いもない「何か」は概念なのです。この「何か」をここでは以後「混沌(カオス)」と仮名しておきます。
 この混沌から素粒子が生まれ、銀河が生まれ、地球が誕生し、地球上に原生生物から人間まで生きとし生きるものが生まれ続けています。ですからこの混沌は空っぽではなく、生命のエネルギー(いのちの活き)が充溢しているのです。混沌とは「いのちの活き」のことです。縄文期の「森羅万象に神宿る」は、「森羅万象はいのちの活きの現われ」といっていることになりますし、仏教の「山川草木悉有仏性」も「山川草木すべてはいのちの活きの現われ」といっていることになります。
 さてここからが本論、図2は一ドル紙幣です。裏面に「IN GOD WE TRUST」、「われわれは神が宿ると信じる」と刻印してあります。この「お金」も「神」と仮名した、「いのちの活き」の現われということができます。このお金のいのちの活きを資本と仮名したのです。マルクスが資本論で、「資本は無限に自己増殖する」といったのですが、唯物論的に貨幣と資本と二元論的に分けて見ないで、貨幣と資本を貨幣と「いのちの活き」を絶対矛盾的自己同一という視点で見ても資本という「いのちの活き」は姿形を変えながら無限に自己増殖していくものであることには変わりはないのです。
  ニーチェが「神は死んだ!」と言ったのは19世紀半ばです。アメリカ合衆国で「IN GOD WE TRUST」が初めて硬貨に刻まれたのも同じ頃ですから不思議な縁と言うべきかもしれません。
 
世界の主要通貨は米ドル、ユーロ、円、元と呼び名は変わっても、すべては「いのちの活き」の現われです。西欧の唯一実在の神GODの身代わりとして拝資本教として信じるか、それとも日本の縄文期の森羅万象の八百万の神のひとつとして信じるかは、個々人の信心のあり方次第と言えるのではないでしょうか。唯一神を掲げる限り争いの種は尽きず、増殖の勢いはとまりません。願わくば、鎮守の森、路傍の道祖神、お地蔵様はては鰯の頭、といった八百万の神のなかの一神に留めておきたいものです。お金も言葉のひとつ、空海のいう器の一つですから、お金の器に盛れない「ものこと」を沢山五官で感じることができるようになるに違いありません。そこに個々人の生き方の多様性も現れて、お金の器に盛らない幸せもみえてくるのではないかと思うのです。人間社会はすべて、「信じるから存在する」「ものこと」、お金も神も例外ではないと思うのです。

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コメント

コメントありがとうございます。「いのち」というとつい「生きもの」の命を想定してしまうのですが、宇宙創成のビックバン(これも仮名)始めの未来(生)への方向性をもった「何か(エネルギー)」なんですね。「あいだ」という視点も言葉と言葉から漏れてしまう「あいだ」。主観と主観のあいだの間主観が真の己れの実在と言ったりしますね。
 元旦の渋谷の交差点はまさに混沌(カオス)ですね。エネルギーの充溢ですね。東急グループにとって重要な「場」だと思います。

投稿: 明賀義輝→田村元さん | 2019/01/01 16:02

明けましておめでとうございます
新年年頭より年末にご教示頂いた「いのちのはたらき」の意味が理解出来始めました。同じ「いのちの活き」であっても言葉の器の意味の深さとともに、お金の器には盛られないものへ目を向けることを学ばせていただきました。
本年もよろしくお願いします。

投稿: 田村元 | 2019/01/01 11:16

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