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2019/11/22

元祖MMT実践者-山田方谷の事績を尋ねて

<温故知新の匂いをと、備中路に山田方谷の事績を尋ねる>20191027dsc08383
  2019年10月26日松江の企業研修を終え、翌日同行の縁者の車で、古代より人々や文物が出雲と吉備を往還していたであろう山道を走った。今回の備中路を辿る目的は陽明学の泰斗にしてその実践者山田方谷の事績を尋ねることであった。15年前も同じ縁者と山陽道から分け入ったところだ。
 山田方谷は今風にいえば元祖MMT(現代貨幣理論)の実践者といえる。幕末の最後の老中板倉勝静に仕える家老として松山藩の藩政改革(財政改革ではなく)をたった8年で成し遂げた政治家だ。江戸期の藩政改革は米沢藩主上杉鷹山の名が知られているが、鷹山は質素倹約財政改革に100年を要しているが、山田方谷は財政のみならず軍政,民政の改革まで藩政のすべてを改革した真の政治家だ。その顛末は矢吹邦彦著①「炎の陽明学」②「ケインズに先駆けた日本人」に詳しい。74674479_2471012839611985_33939411007029
 山田方谷は藩財政の悪化で信用を失っていた藩札(不換紙幣・浮遊霊)を新しい藩札と交換し、ハイパーインフレで帳消しにしたり、預金封鎖で召し上げることなく、8年で10万両(時価数百億円)の藩の負債を10万両の資産に化かしてしまった。  
 新しい藩札といえども不換紙幣には違いなく、不換紙幣が使われる根拠は発行者に対する信頼であり信用である。その根源は山田方谷に対する藩民、商人からの信頼であり信用だ。上杉鷹山の改革など霞んでしまう。
 山田方谷は陽明学の泰斗だが、陽明学徒がとかく分別したがる朱子学をも重視していた。王陽明の知行合一も論理の学朱子学で基礎を作っておかなければ極めて暴力的な危険な行動に走ってしまうと考えていた。「陽明学の強烈な魅力にひそむ、危険な毒の魔力を、鋭く感じ取ったからである」と著者矢吹邦彦は著している。
 吉田松陰門下の優秀な人材の多くが松陰の残した留魂録の毒にあたり非業の死を遂げ、松陰の残した幽囚録の毒は昭和の日中戦争に続く対米戦の廃墟として現出することを暗示していたのかもしれない。74453049_2471013099611959_32700131007319
 英邁なる陽明学徒と知られた河井継之助は、山田方谷を訪ね、学び、ただ一人方谷を師と仰いだ。しかし藩政改革には成功したものの刹那のズレが藩を賊軍として北越戦争へ導き廃墟にし会津へ向かう道すがら命を落としている。これも陽明学の毒の魔力の性であろうか。
 MMT(現代貨幣理論)はすでに安倍・黒田マジックとして実験されつつあるともいわれている。EUやアメリカでも可能性を探っているが山田方谷が実践したのはまず、藩民の生活の安定、仕事づくり、本来あるべき殖産興業である、トリクルダウンの政策とは真逆、MMT(現代貨幣理論)の毒を制して良薬となすなら、山田方谷の事績の本質を体得することが必須ではないかと、松山城に登城し天守から城下を見下ろしながら思った。20191027dsc08382
<河井継之助と山田方谷>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2004/11/post_6.html
<備中松山城>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2005/03/post_4.html
 ブログを書き始めた15年まえにも山陽道から一度山田方谷を尋ねたことがあった。越後の英傑河井継之助の最後の決断とその結果もたらされた長岡藩の惨状と本人継之助の非業の死、それが陽明学の必然の帰結なのか。山田方谷の業績を知り長年の疑問が解けたからであった。

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