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2020/01/28

<定義を変えるなら冠は「循環型」に>

Photo_20200128133601 ストックホルダ型資本主義からステークホルダ型への模索とあります。しかし資本主義をストックホルダ型とかステークホルダ型とか冠を取り換えて不公平、不平等を拡大したのは騒いだのは誰だったのか。
 記事には50年前ダボス会議の第一回にフリードマンが提唱したとありますが、その説を旗印に掲げて世の中を変えていったのは50回を数えるダボス会議に出席してきた世界を統べるリーダー達ではなかったのか。今さらただ冠を変えようといわれても、そのためにこの50年間の間に格差の闇に沈んでいった人々の霊は浮かばれないのではないでしょうか。世界の上位42人の超富裕層の資産総額(1兆5千億ドル)が世界の人口の下位37億人の富と同額だと報じています。日本の株主資本主義化はまだまだ途上にあり、とても冠を変えようという議論の起きる気配はありません。
古代の豊穣の祀り(お祭り騒ぎではなく)では収穫した品々を供物として捧げています。冠を変えるならまずは富裕層の富を供物として捧げ、清めた冠を頂いて欲しいものです。この記事にはステークフォルダとして図(1)にみるように、「①環境・②顧客・③仕入れ先・④株主・⑤社員・⑥地域社会」が⓪会社を中心に描かれています。環境から始まって右回りに地域社会まで円になっていて中心の会社と矢印(⇔)で繋がっています。
  Photo_20200128133603 形はとてもまとまっていてよいのですが、よく見るとつまるところ横文字の「stakeholder 」を片仮名に換えただけのようにみえます。会社という全体と①~⑥にリストアップした個の関係です。全体と部分の整合性のとれた関係、部分の和が全体であるという二元論的関係にみえます。
 これでは①~⑥とそれぞれが⓪会社とのウイン、ウインを円形にまとめただけのように見えます。「世間良し」もみえなければ、全体と個の矛盾する目に見えない関係性がみえないのです。例えば、ここに⑤社員とありますが、正確には従業員、その従業員は「労働者即消費者」という裏返しの絶対矛盾な存在なのですから、労働者の賃金を減らせば、全体としての消費は減るという当たり前な関係です。小売りサービス業にロボットを使って、労働者を排除すれば、全体としては消費は減る、全体と個の絶対矛盾です。
 今議論されている、SDGsの議論もこの図(1)に示された、⓪会社と①のウィンウィンの関係に終始しているように思えます。
   ①の環境は他の②~⑥から⓪会社まですべてを包んでいます。環境とは大自然のことであり、宇宙のすべてのことでもあるのですから。そして⑥の地域社会も①に包まれつつ⓪~⑤のすべてを包んでいます。そして②の顧客はそのまま⑤社員とも④とも重なっているはずですから。
 やはり横文字を日本人として日本語に翻訳するには、一歩引いて、日本列島に深く刻まれているであろう縄文の思想「森羅万象に神宿る」、それに続く最澄、空海の開いた「山川草木悉有仏性」を織り込んで二元論から脱して考えてみたいものです。
 西田哲学では「全体と個」の関係を「多即一・一即多」といっています。「個は全体に包まれ、全体は個に包まれる」と全体と個は絶対矛盾的自己同一であると。前半は、図(2)「全体は個を包み」のように表現できます。最奥の⑦宇宙(森羅万象)に⑥言語世界(人間世界)は包まれ、⑤文明・国家は⑥に包まれその上に①株主(資本)、②経営者、③従業員、④顧客と⓪会社にまつわる関係者がロシア人形のマトリョーシカのように包まれています。
Photo_20200128133602ここまでが「全体が個をつつむ」関係性です。この重なっている中心をTシャツを脱ぐように裏返すと図(3)「個は全体を包む」が現れるのです。この裏返すという逆説が「全体即個・個即全体」の西田哲学にいう絶対矛盾的自己同一であり、鈴木大拙の「即非の論理」です。
 最奥の宇宙から入れ子のように重なっている中心が会社という、いのちの活きです。中心に時が流れ、会社に関係する森羅万象あらゆるものの「いのちの活き」が時の流れと共にここを流れているのです。資本主義の始原のいのちの活きである「お金のいのちの活き」も例外ではなく、この中心を流れています。
 縄文文明の基層にある「森羅万象に神が宿る」最澄、空海の山川草木悉有仏性」、この神、仏性を「いのちの活き」とワープロ変換できれば、会社にも会社固有の「いのちの活き」があるといえると思うのです。
 ①~⑧の関係性の中心を森羅万象のいのちの活きが流れていると思える「循環型」を冠にした資本主義に進化して欲しいと願っているのです。
 現実はこの日経新聞の記事に第三の型として国家資本主義が書かれているように、資本主義も変化していくのですから、中国型の国家(一党独裁)型資本主義、アメリカ型の株主(資本中心)資本主義がこれからも奔流となって溢れていくのでしょう。ノアの箱舟の物語が未来を暗喩しているのかもしれませんね。さてさて箱舟に乗せてもらえるのは誰?
<2020年1月23日日本経済新聞朝刊-資本主義の再定義探るー>
ダウンロード - 20200123e697a5e7b58ce69c9de5888ae3808ce38380e3839ce382b9e4bc9ae8adb0e3808ce8b387e69cace4b8bbe7bea9e381aee5868de5ae9ae7bea9e3808d.pdf

 



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2020/01/26

<「武漢封鎖!」からカミユの小説「ペスト」を思い出す>

 テレビ、新聞に踊る言葉。鉄路、空路そして陸路も封鎖したと中国政府は発表しています。テレビ報道でも沢山の重機が鎌首を上げ下げしながら、地上を動き回っている不気味な光景が映されています。感染者を収容する場所を用意しているのでしょう。
51wforw1bfl 小説はフランス領アルジェリアの港町オランにペストが蔓延し、フランス政府によって街を完全に封鎖された街の住民、たまたま旅行で滞在したために封じ込められた旅人、などなど、ペストを封じ込める一年余に渡る人々の死の恐怖に抗いながら暮らす、様々な心理模様を描いています。
 小説の主題はペストの蔓延と封じ込めを通して、人間が生きることの「不条理性」です。1947年の作品、著者はナチスドイツの占領下でレジスタンス運動の闘士として戦った経験もあり、ペストをナチスドイツに置き換えれば、そのまま占領下のフランス人の心情にも通じるのでしょう。
 「歴史は繰り返す形を変えて」どこで聞いた言葉か定かではないのですが、今を生きる我々世代にとって、ペストは「新型コロナウイルス」であり、「失われた30年」であり、「環境破壊」そのものでもあります。
 ジム・ロジャースは著書「お金の流れで読む日本と世界の未来」の冒頭に「重要なのは、『歴史は韻を踏む』ということである」と著し作家マーク・トウェインの言葉として紹介しています。「歴史は繰り返す形を変えて」もここに由来するのでしょうか、定かではありません。51ffedp0osl
 小説「ペスト」がモーツアルトの旋律のように揺らぎながら繰り返すということはペストが、企業の中高年のリストラ、格差拡大、環境破壊と姿形を変えて顕われ、主題の「不条理」が続いていくということなのでしょうか。
 「不条理とは」著者カミュは「シーシュポスの神話」にこう著しています。「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、その両者ともに、相対峙したままである状態」だと。
 あくまで合理的論理的に生きようとする人間の性、己れのその合理的論理的思考から想定の内と外として切り捨ててしまった非合理・非論理的「ものこと」との遭遇。その想定外の「ものこと」との遭遇と”対峙して生きる”ことが不条理を生きることだとすれば、それこそ「自己を生きる」ことなのだと思う。
 若い頃、世の中の「不平等」「不公平」を嘆きつつ、手にした折には掴み得なかった主題が、人生とは「不条理を生きることだ」と、気づくのになんと長い歳月を要したことか、と苦笑するばかり。

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2020/01/02

書名「身銭を切れ」

書名「身銭を切れ」
著者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社

Photo_20200102113201 原題は「SKIN IN THE GAME」そして日本語の書名は「身銭を切れ」とても語感がいい。そして帯には「『リスクを生きる』人だけが知っている人生の本質」とあります。著者は「ブラックスワン」のタレブです。これだけでもうレジへ直行です。
「犬も歩けば棒に当たる」、これだから都心の大型書店で店頭を当てもなく歩くのは面白い、アマゾンの店頭では味わえない醍醐味です。
 原題を拙い己れの英語力で直訳すると「ゲーム(人生)に肌を晒す」でしょうか。雪山を歩いているとき露出した頬を刺す風、凍える指先の感覚でしょうか。確かにこのときは「生きている!」と実感する刹那です。さてそれを「身銭を切れ」と訳すとは。
 経営用語としても「リスクテイキング」という言葉が気軽に企業人の口から放たれるのを耳にします。「リスクを取る」というときの「リスク」とは何なのでしょうか。一方で「責任を取る」ともいいます。しかし「取る」というのは現在の行為、現在の行為の結果は未来が来ないとわかりません。未来の結果を”今ここ”で取るというのはどういうこのなのでしょうか。この現在と未来の間に不確実性という想像を超える非対称があります。この想像を超える非対称な未来へ向かって”今ここ”生きる心構えを「身銭を切れ」というのでしょうか。
 童話「星の王子様」にもこの「身銭を切れ」の寓意があります。王子様が自分の星を離れ「何か?」を求めて地球にやってきて、砂漠で狐に出遭うシーンです。王子様が「友達を探している」というと狐は「それなら僕を懐かせればいいんだ」といいます。懐かせるとは、絆を結ぶこと、自分にとって世界にたった一匹のかけがえのない狐にすることだというのです。それなら自分の星に残してきた我がままで高慢ちきな一輪の赤いバラの花は既に友達だったのだと気づきます。
 たまたま飛来した種子に水をやり風を防ぎ大切に育てて、やっと咲いた一輪の赤いバラ。王子様は己れが「身銭を切って」いたことを狐に出逢って気づくのです。
 童話「100万回生きたねこ」にもタレブのいう「身銭を切る」生き方が描かれています。その書き出しには「100万年も死なないねこがいました。100万回も死んで、100万回も生きたのです。りっぱなとらねこでした。100万人の人が、そのねこをかわいがり、100万人の人が、そのねこが死んだとき泣きました。ねこは、一回も泣きませんでした。」とあります。
 輪廻転生を100万回繰り返しても一回も悲しいと思ったことがないのです。悲しいと思ったことがないということは、100万回愛されても一回もうれしいとも幸せだとも思ったことがなかったのでしょう。
 100万と1回目に生まれ変わったとき、愛してくれる人はいませんでした。しばらくして、自分が愛する白ねこを見つけ、とらねこはその「白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。」でも今度はその白いねこが先に死んでしまいます。とらねこは100万回も泣いて悲しんでそして死ぬのですが、二度と転生することはなかった、という結末です。
 「愛されるねこから愛するねこ」へ、「身銭を切らない生き方」から主体的に「自ずから愛する生き方」へ、という「身銭を切る生き方」への転換が「不確実で予測不可能な世界で私たちがとるべき『生き方』」ではないか、と著者タレブは読者に問いかけています。
 本文中には「特定の種類の爆発的リスクを隠して安定した儲けをあげ、教科書のなかでしか成り立たない学術的なリスク・モデルを使い(学者はリスクについて無知も同然なので)、いざ銀行が吹っ飛ぶと急に不確実性(目に見えない予測不能なブラック・スワンと、例のものすごく頑固な作家)の話を持ち出してきて、過去の収入はちゃっかりそのまま懐に収める。これこそが私のいうローバート・ルービン取引だ。」(本文P35)ロバート・ルービンとはご存知のゴールドマン・サックスの元会長にして、第70代(1995年~1999年)USA財務長官のことです。
 さらに「身銭を切っていない人間の代表格ともいえる人物・・・・その名も元連邦準備制度理事会議長のベン・バーナンキだ。」(本文P45)。そして第5部には「生きるとはある種のリスクを冒すこと」ともあります。
 「身銭を切れ」、安倍・黒田マジックの賞味期限切れが囁かれ、新しい時代への対応が喫緊の課題になっている日本企業、日本人には令和初の新春に好適なキーワードかもしれません。

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