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2020/02/01

<時間は実在しない(1)存在と実在と>

書 名 「時間は存在しない」
著 者 カルロ・ロヴェッリ出版社
NHK出版
51ailjuhvjl_sx346_bo1204203200__202002021621011.存在と実在
 著者カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者です。その物理学者が「時間は存在しない」と言っています。帯には「時間とは人間の生み出すものだと、言ったらどう思いますか?」とあります。このところ書店の店頭でこの「存在」なる言葉が、気になって買い求めてしまいます。日本でも人気のドイツ人哲学者M・ガブリエルは「世界は存在しない」と著し、若い日本の哲学者與那覇潤は「なぜ日本人は存在するのか」と著しています。
 ここにいう「存在」とは「being」の「有る」のことです。人間が時間、世界、日本人という言葉(概念)で意識上につくりだすものです。一方同じ「有る」でも「実在」という言葉、「reality」の「有る」もあります。人間の意識とは別に独立的に不変のものとして、変化しないものとして「有る」、相対的な「有無」を超えたところにあるというものです。
 ですからこれらの書名は正確には「時間は実在しない」「世界は実在しない」「日本人はなぜ存在するのか」と解して読むと格段に読みやすく分かり易くなるように思います。我々は何故日々分刻みに運行される満員電車に乗り、ちらちら腕時計を見ながら通勤しているのだろうか。あたかも時間が独立不変のものとしてあるかのように縛られています。M・ガブリエルも日本に滞在中に新幹線、山手線に乗り、渋谷の交差点の人混みの中を泳ぎ、こう語っています。「日本ではすでにシンギュラリティは起きているのかもしれない。分刻みの列車を走らせるために存在しているのではないか」と。
 定年は60歳、65歳と時計年齢で区切られています。時計年齢の75歳になると、自動的に役所から後期高齢者というお墨付きのハガキが届きます。同じ75歳でも人それぞれ老い方は違っているのに、あたかも時間が実在するかのように、老化が一様に進行しているがごとくに、です。
2.時間と空間
 紀元前5世紀の人、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、「すべては『空』である」と悟りを開いたといわれています。「空」とは森羅万象すべては変化して止まないということですから、この宇宙のすべては存在ではあっても実在ではないといっているのです。
禅仏教の曹洞宗を開いた道元禅師は著書「正法眼蔵」に一章を「有時」として時間論を説いています。ここでは「我は時であり、我は有(存在)である」という。道元のいう時間とは主体的時間のことです。鈴木大拙の「即非の論理」でいえば、「自我-即-有―即―時」という表現になるのでしょう。己れとは時そのものであり人生とは時の流れのことであると。
 20世紀に入ってアインシュタインは科学(物理学)の視点から時間と空間は一つのものでわけることはできないと解き明かしました。「時即空」です。
3.機能と構造
 生物学者今西錦司は著書「生物の世界」(1941年)のなかで「生物は空間的時間的存在である。空間的には構造的存在であり、時間的には機能的存在である」と。生きものは身体をもつことで構造的であり空間(静)的存在ですが、一方でPhoto_20200201135502「生きている」存在ですから継起的であり時間(動)的存在です。ここでも「自我―即―有―即―時」が成立しています。
4.飛んでいる矢は止まっている
 古代ギリシャの哲学者ゼノンが後世に「飛んでいる矢は止まっている」という問いを残しています。いわゆるゼノンのパラドックスです。このパラドックスをたとえ話として、今西錦司流に飛んでいる矢を構造的機能的存在と見れば、構造的存在としての矢は刹那に空間的存在であり「止まっている」、継起的に非連続の連続として矢(主体)は「飛んでいる」存在でもあるのです。
 競馬に喩えてみましょう。鞍上の騎手と馬の関係では、疾駆する馬は流れている時の有り様であり、時の流れとともにある鞍は“今ここ”の刹那の場(空間)その上に騎乗している騎手が我(主体・自我)という存在と云えるのではないでしょうか。人馬一体の疾駆はそのまま、道元のいう「有⇔我⇔時」の現れ(相)といえます。人間も誕生からゴールまで「人生は競馬」、「生死一如」、時間とは鞍上の主体の人生そのもののことでもあります。
 今西錦司の師であり京都学派の祖、西田幾多郎の言葉を借りれば「時間即空間・空間即時間」、時間と空間は絶対矛盾的自己同一なのです。ゼノンのパラドックスの「飛んでいる矢」こそ、宇宙創成137億年爾来の「いのちの活き」のことであり、その矢の飛んでいる方向こそ「いのちの活き」の不可逆な方向性なのです。
5.エントロピー増大の法則
 C・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」のなかで人間が時間という概念でとらえているものはエントロピー増大の流れだといっています。「エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。」と。 分子生物学者福岡伸一は著書「動的平衡」に「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」そして「エントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に自ら細胞を破壊し再生することで個体を維持している」と著しています。「サステナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」と。この動的平衡の流れを人間は、「時間」という言葉にしたのでしょう。
 樹木(図1)は幹から枝へ枝から葉へ明瞭な区切りはなく天空に向かって伸びていて、その姿を丸ごとすっぽり空気が包んでいます。そして幹は地中に潜り、どこまでも深くそして広く根を伸ばしています。幹と根の区切りも明瞭ではなく、根は土との境目も不明瞭なままにそのまますっぽり土に包まれています。樹木をすっぽり包んでPhoto_20200201135501いる空気と土、それはそのまま大自然であり、宇宙そのものであり、樹木は丸ごとそのまま大自然に包まれつつ、大自然と一体の存在なのです。
 葉を通して炭酸ガス(CO2)を吸収し、大地からは根を通して水(H2O)や養分を吸収して幹を、枝葉を構成していきます。構成されたものは有機物(炭素化合物)であり、それはそのまま高エントロピーそのものです。樹木と大自然の接している接面の外の大自然が相対的に低エントロピーであり、そのエントロピーを吸収し構造(身体)化していく過程そのものが、樹木が「生きていること」なのです。
 この樹木の切断面(図2)を見ると切断面を巻き尺で計っています。それはそのまま一年に一輪ずつ、拡がっている年輪でもあります。「時間=空間」を証明しています。樹木は大自然に包まれつつ大自然を内に包み込んで年輪(構造・身体・過去)化しているのです。
 図(3)にみるように、樹木と大自然と接している接触面が“今ここ”の絶対現在です。その接触面の内が“今ここ”の刹那の過去であり、外が“今ここ”の刹那の未来です。樹木の身体は未来の過去化、低エントロピーから高エントロピーへの流れ、この「流れ」を時と名付けたのです。Photo_20200201142601だから「時間は概念として存在しても独立した不変の実在ではない」ということです。
  生きとし生けるものはすべてこの樹木のように大自然(宇宙)に包まれつつ、大自然(宇宙)を包み込んで生きている(流れている)存在なのです。だから、すべては流れている時であり、すべては変化して止まない、不変の実在はないということなのでしょう。
6.行く川の流れ
 方丈記の冒頭の一節は川の流れにたとえて、世の中も人も住処も水の流れと同じだ、と詩っています。 空間的存在としては川、時間的存在としては水の流れ、「川即水」を詩っているのではないでしょうか。
 「行く“時”の流れは絶えずして、しかも元の“時”にあらず。“時”の流れに浮かぶ、うたかたは、浮かびかつ消え久しくとどまりたるためしなし」と、そして「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と詩っています。
 人は時であり、川は人生だといっているようにも思えます。こんなことを考えるのも、潮騒の音も微かに聞こえてくる年回りになった徴なのでしょうか、己れも存在ではあっても実在ではない 、ということですね。

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