2020/03/21

<ポスト新型コロナウィルスの日本は、そして世界は?>

書  名「中国化する日本」-日中「文明の衝突」一千年史―
著  者 與那覇潤
出版社 文春文庫
初版 20144月10日(単行本初版2011年11月文藝春秋刊)
Photo_20200321132601 新型コロナウィルスのパンデミックでパニック下にある世界、とりわけ日本列島では東京五輪開催の去就もともなって、経済の先も見えない状況が続いています。その見えないという「先」は、目先の「先」、目先の切所は足元を用心深く一歩一歩歩いていく以外にないのでしょう。
  山を歩いていても、時に己れの未熟さゆえか、足元が震え、恐れおののく切所に遭遇します。しかし、その折も時に立ちどまって遠くを見、方向を確かめておかないと、気がついたら二進も三進もいかない進退窮まるところに身を置いてしまうことがあります。そんなわけで、ちょっと「ポスト・新型コロナ」の日本及び世界の様相を想像しておくのも一興かもしれません。
 1979年生まれという若い歴史(哲学)学者與那覇潤さんの「中国化する日本」論に耳を傾けてみるというのはいかがでしょう。タイトルが中国嫌いの方の心情を逆なでするかもしれませんが、決して中国に支配されるとか、宗主国がアメリカから中国に代わるという話ではありません。一度、嫌中観を脇において。
 人間社会の過去の復元力から想像しても、新型コロナのパンデミックを封じ込めるにはそれほど時間を要することはないのでしょう。しかし新型コロナ禍の原因は新自由主義による経済の世界化でもあり、それは又中国という国家が世界経済の主役級の一人として加わったことによるものでもあります。新型コロナウィルスが武漢発といわれることとも符合します。
 著者は「中国史を一か所で区切るなら唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と唱えた戦前の東洋史家内藤湖南の「宋代以降近世説」を視点にしています。紀元10世紀宋代に皇帝一人と官僚制による中央集権の専制国家の仕組みができあがり、貨幣経済が中国全土へ広がったと。そして以後中国の国家体制は現在の習近平政権まで、変わらぬ皇帝一人専制国家なのだ、と著しています。
 そのころ、日本では源平の政変で貨幣経済志向の平家が敗れ鎌倉武家政権が誕生しました。以来徳川幕府終焉まで12世紀から19世紀半ばまで封建制が続くことになりました。もし平家が勝っていたら、日本の近世は、明治維新を待つまでもなく天皇制専制国家がこのとき成立していたかもしれないと想像すると、「歴史のIF」は限りなく面白い。足利尊氏と争った後醍醐帝の目指していたものも、後鳥羽上皇の承久の変も、宋の政体を目指した政権構想だったのかもしれません。
 多くの日本人が信じて疑わない(己ももちろんその一人)、封建制と近世の切断面、明治維新を契機とする西欧化近代国家化へと歩んだ道は、同時に、象徴天皇制の専制独裁国家への道、中国化への道だった、そして、戦後の日本は再江戸化の道だった、と著者は語っています。「歴史は繰り返す形を変えて」、とすれば、この先の未来は。
 さて現在の安倍政権の国家運営の経緯を日々傍観していると、民主主義の終焉を想像させ、戦前への回帰を彷彿とさせるものがあります。専制独裁国家への道といえるのかもしれません。
 しかしこれは日本だけのことではなく、ロシアもプーチンによる独裁政権であり、現在のアメリカの二党政治も民主主義というにはほど遠いものがあります。新型コロナのパンデミックによる経済危機への対策として、各国の政府は今度ばかりは、供給(生産者)側だけでなく、需要(生活者)側へ直接現金を配ることをも考えているようです。それは、非正規雇用が定着し所得の不安定な格差社会へ移行しつつある日本の今こそ、低所得層の救済は喫緊の主題です。
 しかし仮にこの延長上にベーシックインカム政策が取り上げられるようになると、それはまさに日本国家の中国化、一党独裁専制国家の総仕上げになるのではないかと想像します。
 リーマンショックのとき、グリーンスパンFRB議長は議会証言で「100年に一度・・・・」と語ったと聞きかじっていました。あの時の議会証言は「We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami」だったそうです。「credit tsunami」とあります。「バブル崩壊」ではなく、「津波」です。
 「100年に一度の津波の真っただ中」だったとすれば、未だ10年余、今回の経済対策として主要国政府の通貨大増発の分も加わって、第二波の大津波はさらに巨大なものになって押し寄せてくるのかもしれません。さてそのとき己はどうすればいいのでしょうか。既に老人ホームでブツブツぼやいているのでしょうか。「That is a question」(苦笑)

| | コメント (0)

2020/01/28

<定義を変えるなら冠は「循環型」に>

Photo_20200128133601 ストックホルダ型資本主義からステークホルダ型への模索とあります。しかし資本主義をストックホルダ型とかステークホルダ型とか冠を取り換えて不公平、不平等を拡大したのは騒いだのは誰だったのか。
 記事には50年前ダボス会議の第一回にフリードマンが提唱したとありますが、その説を旗印に掲げて世の中を変えていったのは50回を数えるダボス会議に出席してきた世界を統べるリーダー達ではなかったのか。今さらただ冠を変えようといわれても、そのためにこの50年間の間に格差の闇に沈んでいった人々の霊は浮かばれないのではないでしょうか。世界の上位42人の超富裕層の資産総額(1兆5千億ドル)が世界の人口の下位37億人の富と同額だと報じています。日本の株主資本主義化はまだまだ途上にあり、とても冠を変えようという議論の起きる気配はありません。
古代の豊穣の祀り(お祭り騒ぎではなく)では収穫した品々を供物として捧げています。冠を変えるならまずは富裕層の富を供物として捧げ、清めた冠を頂いて欲しいものです。この記事にはステークフォルダとして図(1)にみるように、「①環境・②顧客・③仕入れ先・④株主・⑤社員・⑥地域社会」が⓪会社を中心に描かれています。環境から始まって右回りに地域社会まで円になっていて中心の会社と矢印(⇔)で繋がっています。
  Photo_20200128133603 形はとてもまとまっていてよいのですが、よく見るとつまるところ横文字の「stakeholder 」を片仮名に換えただけのようにみえます。会社という全体と①~⑥にリストアップした個の関係です。全体と部分の整合性のとれた関係、部分の和が全体であるという二元論的関係にみえます。
 これでは①~⑥とそれぞれが⓪会社とのウイン、ウインを円形にまとめただけのように見えます。「世間良し」もみえなければ、全体と個の矛盾する目に見えない関係性がみえないのです。例えば、ここに⑤社員とありますが、正確には従業員、その従業員は「労働者即消費者」という裏返しの絶対矛盾な存在なのですから、労働者の賃金を減らせば、全体としての消費は減るという当たり前な関係です。小売りサービス業にロボットを使って、労働者を排除すれば、全体としては消費は減る、全体と個の絶対矛盾です。
 今議論されている、SDGsの議論もこの図(1)に示された、⓪会社と①のウィンウィンの関係に終始しているように思えます。
   ①の環境は他の②~⑥から⓪会社まですべてを包んでいます。環境とは大自然のことであり、宇宙のすべてのことでもあるのですから。そして⑥の地域社会も①に包まれつつ⓪~⑤のすべてを包んでいます。そして②の顧客はそのまま⑤社員とも④とも重なっているはずですから。
 やはり横文字を日本人として日本語に翻訳するには、一歩引いて、日本列島に深く刻まれているであろう縄文の思想「森羅万象に神宿る」、それに続く最澄、空海の開いた「山川草木悉有仏性」を織り込んで二元論から脱して考えてみたいものです。
 西田哲学では「全体と個」の関係を「多即一・一即多」といっています。「個は全体に包まれ、全体は個に包まれる」と全体と個は絶対矛盾的自己同一であると。前半は、図(2)「全体は個を包み」のように表現できます。最奥の⑦宇宙(森羅万象)に⑥言語世界(人間世界)は包まれ、⑤文明・国家は⑥に包まれその上に①株主(資本)、②経営者、③従業員、④顧客と⓪会社にまつわる関係者がロシア人形のマトリョーシカのように包まれています。
Photo_20200128133602ここまでが「全体が個をつつむ」関係性です。この重なっている中心をTシャツを脱ぐように裏返すと図(3)「個は全体を包む」が現れるのです。この裏返すという逆説が「全体即個・個即全体」の西田哲学にいう絶対矛盾的自己同一であり、鈴木大拙の「即非の論理」です。
 最奥の宇宙から入れ子のように重なっている中心が会社という、いのちの活きです。中心に時が流れ、会社に関係する森羅万象あらゆるものの「いのちの活き」が時の流れと共にここを流れているのです。資本主義の始原のいのちの活きである「お金のいのちの活き」も例外ではなく、この中心を流れています。
 縄文文明の基層にある「森羅万象に神が宿る」最澄、空海の山川草木悉有仏性」、この神、仏性を「いのちの活き」とワープロ変換できれば、会社にも会社固有の「いのちの活き」があるといえると思うのです。
 ①~⑧の関係性の中心を森羅万象のいのちの活きが流れていると思える「循環型」を冠にした資本主義に進化して欲しいと願っているのです。
 現実はこの日経新聞の記事に第三の型として国家資本主義が書かれているように、資本主義も変化していくのですから、中国型の国家(一党独裁)型資本主義、アメリカ型の株主(資本中心)資本主義がこれからも奔流となって溢れていくのでしょう。ノアの箱舟の物語が未来を暗喩しているのかもしれませんね。さてさて箱舟に乗せてもらえるのは誰?
<2020年1月23日日本経済新聞朝刊-資本主義の再定義探るー>
ダウンロード - 20200123e697a5e7b58ce69c9de5888ae3808ce38380e3839ce382b9e4bc9ae8adb0e3808ce8b387e69cace4b8bbe7bea9e381aee5868de5ae9ae7bea9e3808d.pdf

 



| | コメント (0)

2020/01/26

<「武漢封鎖!」からカミユの小説「ペスト」を思い出す>

 テレビ、新聞に踊る言葉。鉄路、空路そして陸路も封鎖したと中国政府は発表しています。テレビ報道でも沢山の重機が鎌首を上げ下げしながら、地上を動き回っている不気味な光景が映されています。感染者を収容する場所を用意しているのでしょう。
 小説はフランス領アルジェリアの港町オランにペストが蔓延し、フランス政府によって街を完全に封鎖された街の住民、たまたま旅行で滞在したために封じ込められた旅人、などなど、ペストを封じ込める一年余に渡る人々の死の恐怖に抗いながら暮らす、様々な心理模様を描いています。
 小説の主題はペストの蔓延と封じ込めを通して、人間が生きることの「不条理性」です。1947年の作品、著者はナチスドイツの占領下でレジスタンス運動の闘士として戦った経験もあり、ペストをナチスドイツに置き換えれば、そのまま占領下のフランス人の心情にも通じるのでしょう。
 「歴史は繰り返す形を変えて」どこで聞いた言葉か定かではないのですが、今を生きる我々世代にとって、ペストは「新型コロナウイルス」であり、「失われた30年」であり、「環境破壊」そのものでもあります。
 ジム・ロジャースは著書「お金の流れで読む日本と世界の未来」の冒頭に「重要なのは、『歴史は韻を踏む』ということである」と著し作家マーク・トウェインの言葉として紹介しています。「歴史は繰り返す形を変えて」もここに由来するのでしょうか、定かではありません。
 小説「ペスト」がモーツアルトの旋律のように揺らぎながら繰り返すということはペストが、企業の中高年のリストラ、格差拡大、環境破壊と姿形を変えて顕われ、主題の「不条理」が続いていくということなのでしょうか。
 「不条理とは」著者カミュは「シーシュポスの神話」にこう著しています。「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、その両者ともに、相対峙したままである状態」だと。
 あくまで合理的論理的に生きようとする人間の性、己れのその合理的論理的思考から想定の内と外として切り捨ててしまった非合理・非論理的「ものこと」との遭遇。その想定外の「ものこと」との遭遇と”対峙して生きる”ことが不条理を生きることだとすれば、それこそ「自己を生きる」ことなのだと思う。
 若い頃、世の中の「不平等」「不公平」を嘆きつつ、手にした折には掴み得なかった主題が、人生とは「不条理を生きることだ」と、気づくのになんと長い歳月を要したことか、と苦笑するばかり。

| | コメント (0)

2019/11/21

書名「負債の網」エレン・H・ブラウン著を読む

70817876_2386559644723972_42173098806518
書名「負債の網」
著者 エレン・H・ブラウン
出版社 那須里山舎
 MMTのTは「Theory」のT、当然ながら極めて論理的に語られています。だから大部のわりにとても分かり易い、分かりやすいがゆえに著者が書き込めていない「こと」、読者が読み落としてしまう「もの」もあるのかもしれません。
 昨春公開された映画「KUUKAI」の原作者夢枕獏さんは空海に口寄せしてこう語っています。「この世で最も大きいものそれは言葉、最も小さいものそれも言葉だ」そして「言葉は器だ」と。この世のすべては言葉の器に盛ることができると。人間の生きる現世とは言葉の世界だといっているのでしょう。だからこそ言葉の器に盛れない五官で捉えることができない「何か」があるといっているのだと思います。今日企業でも多様性とかダイバーシティとか声高に語っていますが、器そのものは空っぽの虚の空間、さて多様性、ダイバーシティという器に何を盛るのでしょうか、経営者の価値観がそして経営哲学が問われています。 
 この「現代貨幣論入門」の中ほどに「『悪』に課税せよ、『善』ではなく」とあります。読者が見落としてしまいがちな大事なフレーズです。所得税の累進税率を上げるのは所得再分配の原資を得るためではなく、企業の経営幹部の悪行を減らすことだとあります。いくら稼いでも徴税されてしまうなら、程よく止めておこうと考えるかもしれない。竹中平蔵さんが声高に叫んだトリクルダウンが起きないことは始めから分かっていたことなのですから。
 平家の怨霊に取り憑かれないように耳なし芳一の身体に書いたお経のようなものなのでしょう。通貨は債務証明書と視点を移動したようにです。
 政府が雇用創出のために財政支出せよ、といったテーマにも多くのページを割いています。けっして福祉政策とか社会主義というステレオタイプの視点ではないのです。
 この「現代貨幣論入門」の器から漏れているのではなかと思われることを掬い上げている器と思われる書物が今年3月に出版された「負債の網」(エレン・H・ブラウン著)です。
 MMT理論の理解に深みをもたらし、今日の世界情勢を通貨の視点から見直す好著です。現代の不換通貨を成り立たせている、眼に見えない貸方は「何か」、その「何か」を浮遊霊にするか「いのちの活き」にするかも己れの価値観次第なのかもしれませんね。通貨も言葉から派生した器の一つですから。

 

| | コメント (0)

書名「MMT-現代貨幣理論入門ー」を読む

70297290_2384862991560304_28118904785285
書名「MMT-現代貨幣理論入門」
著者 L・ランダル・レイ
出版社 東洋経済新報社
 話題の書を読みました。現代のドル、ユーロ、元、円といった通貨はご存知の通り不換紙幣といわれいます「もの」としての価値はまったくありません。近年コンピュータ内の記号になっりつつあって、紙や金属でもなくなりつつあります。
 僕は密かに浮遊霊と名付けてきました。耳なし芳一に取り憑いた平家の落ち武者の怨霊のように、「もの」とか「人」とか「何か」に取り憑いていないと安定しないからです。紙や金属や記号が取り憑くはずはないので、それを成り立たせている「何か」眼に見えないものが取り憑くのだと思っているのです。その何かを僕は浮遊霊と名付けてみたのです。1971年8月15日のニクソンショック以後の通貨ですね。なぜ8月15日だったのでしょうか、謎ですね、今もって僕には。
 浮遊霊はしばらく取り憑いて取り憑かれたものが有頂天になると、あっという間に離れていきます。今年になって金価格が1980年以来の高値を付けたとにぎわっています。金一㌘は古代から一㌘なのにおかしいですね。
1971年8月は一㌘  405円( 1.13米ドル)
2019年8月は一㌘5,000円(48.23米ドル)
 金の本質は同じ一㌘なのに48年前と今とでは、円では12倍、米ドルでは43倍になっています。円高、米ドル高ではなく計る物差しが動いている証しです。今でも日本は輸出立国(貿易立国ではなく)と思っておられる方が多いのですが、さてこの金という視点からみれば、48年間の日本の貿易黒字(米ドルと交換した労働力や資源)の累積は米ドル(紙切れ)と交換することで、単純にいうと3分の一に目減りしたともいえるのです。浮遊霊といわずして何というか。金がいいというわけではなく、視点をどこに置くかで見え方が変わってくるといいたいのです。
 このMMT理論では一国の視点でみれば「輸入は便益であり、輸出は費用である」とあります。紙切れで他国の「もの(労働力・資源)」を買うのですから視点を変えれば、どちらが得しているのかはあきらかです。
 又MMT理論では「自国で通貨を発行している主権国で変動相場制を採用している国なら自国通貨をいくらでも発行できる」ともいっています。プライマリーバランスと言い募っての消費税2%増税の大騒ぎが馬鹿に思えてきます。
 現代の通貨は政府の債務証明書にすぎないともいいます。そうなんです。個人が現預金を資産と思って持っていると複式簿記では、個人の貸借対照表(以下B/S)の借方(左)に記載されています。同時に同額が発行した政府のB/Sには貸方(右)に記載されているはずです。
 だって左と右が必ず一致する複式簿記の恒等式が当てはまるのですから。個人が現預金で納税すると個人のB/Sの借方(左)が減り、政府のB/Sの貸方(右)が減るのです。政府は徴税したお金を事後的に政府支出として使うのではなく、あらかじめ債務証明書としての通貨を発行しておいて、後から徴税して債務を消すのだとMMTはいいます。
 ですから幾ら通貨を発行してもハイパーインフレにはならないと。そしてその債務に本来金利を払う必要もないと。国民は現預金を資産と思って大事にしていても、国家の負債を後生大事に抱えているだけだ、ともいえます。黒田マジックのインフレターゲットも、国家の負債を減らすための旗印、ゼロ金利は国民の預貯金に利子をつけないための旗印なのかもしれません。これでは国民の1、000兆円余りの預貯金は踏んだり蹴ったりです。
 「世界は一家、人類はみな兄弟」と高らかに語ったのは故笹川良一氏でしたが複式簿記的にも必ず誰かの借方(左手)は誰かの貸方(右手)と繋がっています。人類70億人がそして国家はもちろん、企業の、家庭のB/Sも全部右手と左手で手を繋ぎ、その網の上を現代通貨(不換紙幣)が流れているのだと思います。流れているものは紙や金属といった形のあるものではなく、眼に見えない浮遊霊でもあり、「いのちの活き」でもあります。
 複式簿記の借方(左)貸方(右)のイメージを膨らませて読むとこの500ページの大著もとても読みやすくなります。不換紙幣である現預金を借方(左)からみるか貸方(右)からみるかの視点(始点)の移動ができるか、そして借方貸方という西欧的二元論から、東洋的循環論へと視点を移せるか否かではないかと思います。
 読了して引っかかる点が二つ残りました。一つは、政府の貸方と繋がっているさらに奥(始原)の眼に見えない借方(左)は、誰の借方(左)か?、大自然か?、神なのか?。MMT理論では国民の納税義務だ、といっています。ですが、義務は「空」で貸方(右)のはずですから、政府の貸方(右)とは直接つながることはできません。徴税権として繋がっているはずです。通貨発行は徴税権の先行行使なんです。とするとその権利行使(借方)のその奥に控えている貸方(右)は「何か?」、民主主義国家の原理では徴税権を与えているのは国民、さすれば、奥の貸方は国民全体の生活に対する国家が負っている義務ということになるのではないでしょうか。封建国家では国王、専制国家では皇帝の貸方(右)に絶対権力が神のようにあったのでしょう。
 もう一つの疑問は、MMT理論では前提条件を三つ挙げています。
①主権国家で自国の通貨を発行している
②変動相場制を実施している
③政府と中央銀行が一体である。それは政府のB/Sと中央銀行のB/Sを100%連結できること。 
 EU加盟国でユーロを使用している国では、欧州中央銀行(ECB)が加盟国から独立して主権の及ばない上位にあるので、MMTは当てはまらないことになります。今の中国は為替管理をしているとすれば②のところで当てはまるのか否か疑問符が付きます。日本の政府と日銀の関係はどうか?アメリカの中央銀行である連邦準備制度(FRS)とアメリカ政府の関係はどうか?MMT理論では問題にしていませんが、気がかりなところです。
 いずれにしろ国家を統べるリーダー達が視点を変えることができるかどうかにかかってますし、いかなる経済理論も運用を間違えれば、今日のような格差拡大を惹き起こしたり、バブルを起こしたり、紛争戦争といった憎しみの連鎖、果てはハイパーインフレーションといった災危から逃れることが出来ないことには変わりありません。すべては色即是空なのですから。

| | コメント (0)

2018/11/24

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題

201811224 「経営とは何か?」を学ぶ若い方々にとって、今日の日産の経営問題は、格好のそしてなにより生々しい生きた教材だ。それだけに、カルロス・ゴーンさんの金銭に関わる個人的なことがらを善悪や好嫌といった二元論的視点に囚われない俯瞰的な視点が必要に思う。


1.「いのちの活き」

 「いのちの活き」は生物固有のものではなく、家族、部族、民族、国家といった人間が集う集団にも、集団を構成する個の命とは別の、集団固有の「いのちの活き」がある。だから企業には企業固有の「いのちの活き」がある。日産の今日的問題も「日産のいのちの活き」という視点から凝視する必要があるし、そこが経営的課題ではないかと思う。

続きを読む "「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/11/05

マイケル・ムーア監督映画「華氏119」を観て。

いよいよ明日はアメリカ中間選挙。112日公開初日にマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏119」を観た。20年後の日本社会の姿を暗示しているようにも観える。変化のスピードを考えるとさらに10年は早まるのかもしれない。映画で強く描かれていたことは、ブッシュ親子、トランプといった共和党政権、クリントン、オバマといった民主党政権、保守とリベラル、赤と青と区分けされていたはずの政権の活動資金の出所が同じだということだ。これがアメリカ社会の格差を広げてきた大きな要因だと映像は訴えている。リーマンショック直後ブッシュ政権からオバマ政権へ、共和党から民主党へ政権が移行した折、政権交代のはざまで7兆米ドルの資金が巨大金融機関の救済に投じられていた。当時からすでに語られていることではあるが。

続きを読む "マイケル・ムーア監督映画「華氏119」を観て。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/10/27

<「自己責任」と「自己の責任」と>-己れの命は己れで守る-

20181027

ジャーナリストの安田純平さんの救出劇を巡って、またまた「自己責任」なる言葉がマスコミやSNS上を飛び交っている。この言葉を流行らせたのは、小泉・竹中政権だったと記憶しているのだが。

 15年前の2003年8月10日還暦記念にと、赤いちゃんちゃんこを持参して北アルプス裏銀座を縦走した。照れくささも手伝って山頂で三脚を立て、いそいそとちゃんちゃんこを纏ってカメラの前に立った己れを思い出す。初日の烏帽子岳の山頂に真新しい少し華奢な鎖が垂れ下がっていた。鎖の前に立て看板がある。「岩がもろいので『自己責任』で」と書いてある。当時「自己責任」の言葉は反射的に時の大臣竹中平藏さんの顔が浮かんでしまう。「むっと」して思わずシャッターを切った。山小屋に入ると食堂にも「自己責任」の張り紙がある。さらに「むっと」して、泊まるのをキャンセルして、次の山小屋まで3時間歩いた。着くころにはすでに日没が迫っていた。

続きを読む "<「自己責任」と「自己の責任」と>-己れの命は己れで守る-"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/06/04

映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-

 昨日(6月3日)都心に出なければ観ることができないと思っていた映画が二日間だけ隣町で先行上映されると聞いて慌てて出掛けた。そして映画館を出た。家内の第一声が「パルム・ドール賞をもらったというけど、フランス人にわかるのかなぁ」。映画のテーマは“今ここ”の日本人家族の物語に観えるが、「家族とは何なのか?」人間社会の家族の普遍的な本質を、日本社会の家族にまつわる“今ここ”の諸々の現象を社会現象としてではなく、生のままの家族の有り様として提示することで、表現した物語だと思う。もう一段階普遍的にいうと観客に「本質とは何か?」を問いかける物語でもあるのではないか。今この日本列島に生きる我々に「『本質とは何か?』を問うこと」を問いかけているようにも思える。

続きを読む "映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/21

「内部留保課税」は非富裕層へのリップサービス?、それとも簿記の原理を知らない言説か?

20171021_2
1.「いのち」に課税できるのか
大企業の内部留保が300兆円と増殖していることからこのところ内部留保課税を掲げる政治家や経済評論家が出現して、様々な意見が噴出しています。ですが、これは賃金減少に苦しむ非富裕層へのリップサービスのひとか、真面目に提起しているとすれば、複式簿記の構造を知らない無知のひとの言説です。図のように複式簿記は4象限になっています。右(貸方の合計と左(借方)の合計は必ず一致するのです。
 
 第一象限には「負債・資本」、第二象限には「資産」、第三象限には「費用(利益処分を含む社外流出)第四象限には収益(売上等)が記載されています。
上下二つに切断して、第一、第二象限を貸借対照表(以下B/S)、第三、第四象限を損益計算書(以下P/L)命名されています。

続きを読む "「内部留保課税」は非富裕層へのリップサービス?、それとも簿記の原理を知らない言説か?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧