2020/06/15

<経済の「実」と「虚」(2)-オオカミは来るか、来ないか->

経済教室「物価高騰で収束シナリオも 危機時の財政金融政策」斎藤誠名古屋大教授

2020年6月12日日本経済新聞の経済教室に掲載された斎藤誠名古屋大学教授の論文です。論文の最後にこう著されています。
  「『ハイパーインフレが来る!』は羊飼いの少年の嘘かもしれない。だが『ハイパーインフレは来ないけれども.....……』という村の老人のためらいには耳を傾け、羊たちを守る必要がある。」と。
 「・・・・」の部分がタイトルの「物価高騰で収束」であり、50%程度の物価調整を覚悟しておくという老婆心です。
 50%の物価調整は1971年8月の「ニクソン宣言-米ドル金兌換一時停止」によって始まった物価高騰と同じです。会社は30%、30%、20%と三年間で賃金を2倍に調整してくれました。通貨円からみればちょうど物価調整50%です。賃金が上がったのではなく、通貨円の価値が半分になったのです。
 童話は子供のために書かれていますが、大人のためのたとえ話でもあります。イソップ童話「オオカミ少年」は、嘘から出たまこと(実)、来ないはずのオオカミが来て、大切な羊が襲われてしまう結末です。
 「虚」に口がつくと「嘘」になります。少年は嘘をついていたわけではなくオオカミというブラックスワンの出現を警告していたのかもしれません。村人は少年の「虚」に己れに都合よく口篇をつけて「嘘」だと思ったのかもしれません。そしてオオカミに喰われた羊は、村人たちのことを喩えているのかもしれません。
 MMT(現代貨幣理論)が巷間に流布されて多くの方々が「自国民が自国通貨を受け取る限り、国は自国通貨を発行し続けることができる」、「インフレはコントロール可能だ」というようになりました。
 コロナパンデミックの実体経済の損傷を修復するために、世界中の中央銀行が大量の通貨を増発し始めています。日本の財政赤字はコロナ以前、既にGDPの2.2倍、ポストコロナにはどこまで増えるのでしょうか。斎藤誠教授の警告に耳を傾けて、そのための備えを心掛けておくのも一考かもしれません。
 ブラックスワンの著者N・N・タレブは著書「身銭を切れ」の中でブラックスワンを考慮の内におくことを「身銭を切る」「リスクを取る」と表現しています。
 そして、「合理性とは、言葉ではっきりと説明できる要因によって決まるのではない。生存に役立つもの、破滅を防ぐものだけが、合理的なのだ。」、「起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものすべて、理由があって生き残る」と著しています。なぜなら「『生き残ること』がすべてに優先する」のですから。
 人間は論理的であること、己れに都合の良いことを合理的だと勘違いしがちです。「インフレはコントロールできる」は論理的なのか、タレブのいう合理的なことなのか、さてさて。
 考えておきたいもう一つの視点があります。借金(負債・借入金)の本質とは何か?ということです。借金は他者の未来の「いのちの活き」を借りて、己れの現在の「いのちの活き」として用いるものです。個人ならそれは己れの明日の「いのちの活き」で贖うことになります。用いたときすでに、身銭を切っているのです。不況期に中小企業の経営者の自殺が増えるといわれるのも、また然りです。
 国家の赤字国債は未来(次代)の国民の「いのちの活き」を現在の国民の「いのちの活き」のために用いることになります。それは主権在民の民主主義国家では、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うことになります。
 財政赤字を出す現在の為政者は、それを個人のように己れのいのちの活きで贖うことはできません。ですから、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うものであるという視点で慎重であらねばならないと思うのです。タレブのいう「身銭を切って」いないのですから。
  ここでは、明日(次代)は「虚」(みえないもの)、現在は「実」(みえるもの)ということになります。現在と明日を切断して思考する二元論的価値観ではなく、「虚と実」の即非の論理という価値観で明日(虚)の視点から現在(実)をみることが重要ではないかと思うのです。「身銭を切る」とは「虚」から「実」を見る視点をもって生きることでもあるのではないでしょうか。斎藤誠教授の視点から”今ここ”をみることも。
書 名「身銭を切れ」
著 者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/01/post-f08095.html

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2020/06/08

<経済の実と虚-1971年8月米ドル金兌換一時停止以前と以後ー>

<経済の虚と実-1971年8月15日(米ドル金兌換停止)以前と以後―>
1.「経済(お金)もいのちも!」と強欲に
 「経済よりいのちが大切!」と、安倍首相と小池都知事は張り切って「自粛」、「自粛」と事実上の都市封鎖に踏み切りました。直前まで東京五輪が中止にならないように裏で奔走していたことはおくびにも出さず、誰も知らないと思っているかの如くに、です。
東京五輪の目的だってスポーツの祭典でもなく、税金を投入しての経済成長狙いであって、人のいのちではなかったのです。それが証拠にマラソン競技の五輪出場選手を決めるために、たった0.1秒のために一億円を投じています。これがスポーツは建前の「お金」志向でなくて何といえばよいのでしょうか。
 20200605mmt 「いのち」と「経済」を都合よく二元論で切り分けて、己れ自身を騙しているのが、われわれ日本人の“今ここ”の姿なのではないでしょうか。現在の日本人の自粛による経済の萎縮も同じ二元論の真逆な現象の現れにほかならないと思うのです。
  今日、人間の生きる世界は、二元論で切り張りするほど単純ではない、経済無くして現代人の「いのち」は保てない、率直に「経済も『いのち』も」と強欲に叫んでみてはいかがでしょうか。もし東京五輪招致以前に叫んでいたら、今どうなっていたか。もし小泉・竹中政権の経済(目先の金)のための構造改革に対しても、「『お金(経済)』のために『いのち』を犠牲(いけにえ)にするのか!」と叫んでいたら、現在の格差社会もそしてポストコロナの日本を襲うであろうさらなる格差拡大も幾分は和らぐのではないか、と想像することもできるのではないでしょうか。お金、経済といっても、本当に人々の生活に必要なものは「モアモアマネー」ではなくて「サムマネー」なのですから。
2.1971年815日以前
  
いつのころからか、実体経済、金融経済と経済を二元論的に分けて語るようになりました。生物学者今西錦司さんは著書「生物の世界」のなかで「生物(生きもの)とは空間的に構造的、時間的に継起的な存在である」と著しています。空間と時間は二元論ではなく、「生きもののいのち」は、「構造的『即』継起的」、「身体『即』いのち」の絶対矛盾的自己同一を生きているのだ、生物を西欧的物質主義的側面ではなく、「生きていること」「いのちが活いている」こと、の側面から捉えようとしていたのです。
  経済を実体経済と金融経済と分けるようになった、その起源は1971年8月15日のニクソン宣言「米ドル金兌換一時停止」にあるのではないかと僕は思っているのです。第二次世界大戦終了後、圧倒的な軍事力、圧倒的な経済力を背景にアメリカは自国通貨米ドルを世界の基軸通貨とする、と宣言したのです。金一トロイオンス(31.1㌘)と35米ドルとの交換を約束し、世界各国の通貨はその米ドルとリンクすることで各国通貨の安定を図る仕組み、いわゆるブレトンウッズ体制のはじまりです。「アメリカの約束」という前提で米ドルが、そしてその傘下で各国の通貨が信じられ、誰もが受け取るようになった瞬間でした。
  経済学者岩井克人さんのいう「貨幣は自己循環論法」が「アメリカの約束」によって成立したのです。通貨そのものは紙切れですが、約束が守られている限り、それは金(ゴールド)と同じだ、と。
  図1.にみるように経済は物的資産(もの・実)と通貨(こと・流動性)で循環していました。人と人との間を循環し、その通貨が間接的ではあれ、金(ゴールド)という物的資産と繋がっていた時代です。アメリカの保有する金(ゴールド)によって通貨発行に限度があり、たとえ基軸通貨といっても、通貨発行量(流動性)を上回る経済成長はできない時代でした。人間の「いのちの活き」の経済(お金)的側面も「金(ゴールド)との約束」に縛られていた時代です。たとえば株式上場企業の増資は既存株主割り当ての額面増資であり、株価と企業実態が大きく乖離することはありえなかったのです。20200605mmt_20200608142401
3.米ドル金兌換停止以後
  1971年8月15日突然アメリカは「米ドルと金の兌換一時停止」を宣言しました。それまでの約束を反故にしたのです。その瞬間まで後生大事にいつかは金(ゴールド)と交換できると信じて保有していた現預金、米ドルのみならず世界各国通貨、すべての通貨が反故紙になったのですから世界中の人々は大混乱です。
  それはそうですね。存在すると信じていた神が突然いなくなったのですから。拠り所をうしなった人間はどうしたらよいのか。皮肉なことに815日、それは日本人には忘れることのできない、記憶に刻み込まれた日付です。現人神、天皇陛下がご自身で「朕も人間だ!」と宣言された日付けと同じだったのです。アメリカはご丁寧にもその一か月前7月15日キッシンジャーは電撃的に中国を訪問し、日本の頭越しに米中和解の握手をしていたのです。
  その直後オイルショックといわれる紙切れになった通貨に対する「もの」からの反撃、ハイパーインフレが起こりました。われわれ労働者の賃金も3年で2倍に引き上げられ、かろうじていのちを繋ぐことができました。通貨が純粋紙切れになったとき、通貨が信じられないもの、怪しげなもの、「虚」になったとき、経済を改めて実体経済と金融経済と分けて語るようになったのだと思います。
  むしろ実体経済の対語として虚性経済と名づけたほうが、二元論的に別々のものにならないでよかったのではないかと思います。人間の生活(いのちの活き)を支えている経済も実体経済と金融経済、実と虚の絶対矛盾的自己同一なのですから。軽々に「経済よりいのち」と相対的なものとして語ることはできない「ものこと」なのです。(注.「実」と「虚」の二重性を「図2.即非の論理」としてまとめてあります)
3.通貨は政府の発行する債務証書
  
新型コロナショックの経済対策として米ドル、元、ユーロ、円と世界の中央銀行(国家)は通貨を大増発しはじめました。それ以前から日本はGDPの2倍を超える財政赤字を抱える借金大国です。2012年秋以来日銀の黒田総裁は物価上昇2%を掲げ、通貨円を増発していますが、しかし物価はピクリとも動きません。通貨の増発と物価上昇が結び付かなくなってしまったのです。
  昨秋L・ランダル・レイ著MMT(現代貨幣理論入門)が出版され俄かに、通貨はいくら発行しても国家は破綻しないという論者が増えています。「自国民が自国通貨を受け取る限り」という括弧つきです。括弧の部分を小声でいうのです。「受け取る限り」とは「信じている限り」ですから、神と同じことです。
  そしてMMTは本音で「通貨は政府が発行する債務証書だ」といっているのです。債務証書なら幾らでも発行できて当然です。現在、人びとが後生大事に貯めこんでいる現預金は政府の発行する借金の証文なのです。そして古今東西、国家が己れの借金を返済した試しは残念ながらありません。
  複式簿記的に表現すればB/S借方に権利として記載されている現預金の貸方(裏面)は義務を果たすつもりのない、怪しげなものと対になっているのです。通貨の本来は実体経済を円滑にさせる流動性を確保する道具です。ですから図3にあるように中央銀行が市中銀行を通じて実体経済の場へと注入するものです。物的資産(実)や人間(実)の「いのちの活き」(虚)を支えるものなのです。実体経済はこの流動性という「虚」と物的資産という「実」の二重性で生かされているといえます。それ以上でも以下でもないとMMTでもいっていますが、それが事実なのです。
  通貨は発行者にはシニョレッジ(通貨発行益)がついて回ります。紙切れを刷るだけで、ものが買えてしまうのです。図3.に記したように1971年815日以前は、金1㌘は1.13米ドル、日本円では405円で交換する約束でした。今では金1㌘56米ドル、日本円では6000円です。米ドルでは50倍、日本円では15倍ですから、アメリカは日本より3倍以上シニョレッジで得をしていることになります。長年の日本の貿易収支の黒字、余剰米ドルを金(ゴールド)に換えていたら、さてさて。もちろんそんなことアメリカが許すはずはないのです。今もって外貨準備に金(ゴールド)を保有していないのは日本政府くらいのものですから。
4.物的資産の金融商品化
  
金(ゴールド)から解き放たれた純粋通貨は以後基軸通貨米ドルを筆頭に大増発されていきます。それを吸収していったのが「実体経済の場」「、実」と「虚」の二重性の「場」である虚性経済(金融経済の場)です。物的資産を金融商品として金融市場(マーケット)に並べることにしたのです。
  株式会社も、実体経済の場の存在ですが、株式を上場すると、企業の所有権として、虚の場に陳列されてしまいます。そして賃貸ビル、ホテル等々「実の場」にあった物的資産も近年ではREITと称して金融商品化されその権利(資産)は「虚の場」に陳列されていきます。企業や不動産の経営で得た利益は本来「実の場」を循環するはずのものですが配当として、そこから抜けていきます。自社株買いに至っては、実の場の企業の内部留保がそっくり「虚の場」へ流出してしまうのです。生産性向上、賃金引き下げ、法人税引き下げ等々の利益増もことごとく「虚の場」へ流出していまいます。人間の生活を支えるはずの実体経済の場で創造した経済価値(粗利益=mPQ)が通貨の増発により虚体経済の場へ吸いあげられていくという様相です。
  構造改革の名のもとの民営化も見方を変えれば株式会社化であり、本来国民の物的資産であるはずのものが金融商品として通貨(債務証書)に置き換えられていったと考えると辻褄が合います。
  実体経済の「実の場」と「虚性経済」の「虚の場」は通貨(債務証書)の循環を媒介に目に見えないところで繋がっています。物的資産の金融商品化によって「虚の場」へ移った通貨は、そのまま「虚の場」で循環し、居心地がいいのでしょう「実の場」へ出てこないのです。
  2012年末から安倍・黒田マジックと称して、それまで禁じ手だった日銀の国債直接買い入れ、株式の直接買い入れをはじめました。日銀がそれらを買うことは、「虚の場」で通貨(債務証書)を増発することですから、以後日経平均はコロナパンデミック直前の20202月末まで8年余りで10,400円から23,800円と上昇しました。安倍・黒田マジックの目標インフレターゲット2%は「実の場」の目標ですが、増発した通貨は「実の場」へ出ることはなく「虚の場」を循環し続けていたのですから、目標を達成できないのは当然といえば当然のことです。
5.ポストコロナの実体経済
  
コロナショックで日経平均は2020年3月半ば一瞬16,400まで下げたものの2か月足らず過ぎた6月上旬にはほぼ2月末水準に戻っているのです。虚体経済(金融経済)虚の場は、あたかもコロナパンデミックの傷は癒えたかのようです。世界を襲ったコロナパンデミックの都市封鎖、日本も自粛とはいうものの事実上の都市封鎖です。その実体経済への影響はまだこれからだというのに。
  それにしても世界の中央銀行の通貨増刷はリーマンショックをはるかに超えています。リーマンショックのときと異なり、いきなりの実体経済の需要収縮の危機、労働者の失業の危機ですから、当然増刷した通貨は人々の生活の場である実体経済の場に投入されるはずです。株式上場していない企業の支援、労働者の生活の支援として使われるものは実体経済の中で需要を増加させ、循環していくはずです。
  しかし現実には増刷されたものの大半は既に金融商品化された株式上場企業への資本注入、運転資金支援として投入されることになりそうです。これらの通貨もしばし実体経済の場で事業支援として循環するでしょうが、株式上場企業の事業の復元は、株価の上昇を通して虚性経済(金融経済)の場へ吸収されていくのではないでしょうか。
  こんな様相を、異色の物理学者長沼伸一郎さんは著書「現代経済学の直観的方法」のなかで、物理学者らしい量子物理から譬えを引いてコラプサー(縮退)と表現しています。まさに直観的方法に相応しいたとえです。
  コラプサーとは「恒星の中心部が固着して温度調節機能が麻痺し、熱が際限なく中心部に溜まってしまう状態」のこと、日本語では縮退というのだそうです。恒星がブラックホールになっていく様相、恒星が死へ向かう様相のことのようです。
  図3.の実体経済の場にあるはずの物的資産が金融商品化して、虚体経済の場に吸収されていく様相と同じイメージではないでしょうか。実体経済の場で通貨が流動性(キャッシュフロー)として循環はしても物的資産として残らない状態です。だから人間の生活の場であるはずの、実体経済の場がシェアエコノミー、ギグエコノミーさらにはサブスクリプションとフロー化していくのではないでしょうか。これらのビジネス手法がイノベーションと語られることすら、みみちい仕業にみえませんか。ビジネスには違いないのですが、いかにも「掠め取る」といったイメージに僕には見えるのですが。
  実体経済の場と虚性経済(金融経済)の場は実と虚の絶対矛盾的自己同一の場であり、かつそれぞれ実体経済の場も、虚(通貨)と「実」(物的資産)の絶対矛盾的自己同一のあり方をしています。さらにその虚体経済(金融経済)の場も、「虚」(通貨)と「実」(金融商品)との絶対矛盾的自己同一の場になっています。二つの場を結び往来しているものが、純粋であるがゆえにつねに不安定で何か「実」と結びつきたい、なにものにも縛られない、金(ゴールド)の呪縛から解き放たれた通貨Bだということではないでしょうか。僕は浮遊霊と名づけています。
  危機の度に大増殖し、実体経済が生み出した経済価値(粗利益・mPQ)をその「実」の場にとどめ置くことなく、虚性経済(金融経済)の場へ吸い込んでいく通貨Bはポストコロナ社会の日本そして世界をどうしようとしているのでしょうか。今日の日経平均23,178円そしてNYダウ27,111円。
  ちょっとの間、善悪、好悪、美醜などなど二元論的価値観の眼鏡をはずして図2.即非の論理の眼鏡をかけてポストコロナ社会を眺めて、「さて、己れはいかに生きるか」考えてみるのも一興ではないでしょうか。かくいう己れは「愚や愚や己れを如何せん」と思案するばかりです。(苦笑)

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2020/04/26

<「私たちの祖先発見-古細菌を培養、進化の謎解明へ」>

2020年4月26日 「日経新聞朝刊ーサイエンスー」
<私たちの祖先を発見ー古細菌を培養、進化の謎解明へ>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58451160U0A420C2MY10
 新型ウィルスは新型といわれるだけに、いまだにわからないことも多いようです。この機会に「生物とは何か?」を考えてみるのも一興ではないかと思います。本記事はそのためにも格好の記事です。
 現在の地球上の生きものは①古細菌(アーキア)、②細菌(バクテリア)、③真核生物の三つのタイプに分類されるそうです。現在の動植物・キノコ等の菌類、もちろん人間も、③の真核生物に分類されています。
 無酸素下に生息していた最古の生きもの①古細菌(アーキア)にとっては、27億年前に登場した②細菌(シアノバクテリア)が光合成する際に生成する酸素は有毒物質でした。
 この酸素という有毒物質に耐えかねた①古細菌(アーキア)は苦し紛れにシアノバクテリアと共生し、それがミトコンドリアに進化(変化)したのだそうです。そしてそれは、さらに真核生物へと進化(変化)してきたのだと。
 生物学者中村桂子さんは著書「生命誌とは何か」(講談社学術文庫)に「進化を英語でいうとevolutionです。evoluveは巻物を開いていく時などに使われる言葉ですから、これも展開でしょう。どうも進化というと進歩とまぎらわしく、一定方向に進んでいくようなイメージを与えるのではないか」と著しています。
 ダーウィンが「種の起源」を世に問うたのは1859年あたかも産業革命の真っ只中、近代化の渦中でスペンサーの社会進化論と絡み合ってダーウィンの進化論も「進化とは進歩である」と直線的時間観の中に組み込まれていったのでしょう。
 日本語として「進化」という語ができるのもまさに明治期の近代化の真っ只中でした。ポスト・コロナの社会では進歩史観を卒業して、価値観を「進化とは変化であり、展開である」と転換したいものです。
 2020年4月25日の日経新聞朝刊の書籍紹介欄の記事と合わせて読むと一層興味深いです。 「生命の〈系統樹〉はからみあう」ー寄せ集めでできた我らの体ー
 デイヴィッド・クォメン著
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO58452030U0A420C2MY7000/?n_cid=SPTMG002
 評者の太田博樹東大教授は、「ヒトのゲノムの約8%がウイルスに由来する。「胎盤形成はウイルスの仕業」など、ウイルスが跳躍的進化の引き金になっている可能性は少なくない。ヒトの身体は約37兆個の細胞でできているが、その約3倍の細菌と共生している。」と記しています。
 新型コロナパンデミックへの対応も人間社会の新しい”展開”の一歩、生物誌の一ページに加えられることになるのでしょうか。

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2020/04/16

<「ウィルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡>

朝日新聞DIGITAL2020年4月6日から頂戴しました。(下のタイトルをクリックしてください。)
<「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡 >
 タイトルをクリックすると前半部分は読めるのですが、後半が読めないようです。無料会員登録でも読めるようになっていますが、念のため全文を転載させていただきました。著作権で叱られますかね。(苦笑)
<「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡>
 ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方――つまり、動的平衡の生命観に立てば――、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。
今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
 これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自(おの)ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
 それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。
 いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。
 かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。
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<書名「福岡伸一、西田哲学を読む」福岡伸一、池田善昭著>
 科学と哲学との邂逅。眼に見えるもの(現象界)を追い詰め続けてきた科学と、眼に見えないもの(非現象界)を追い詰め続けてきた哲学との出会いを語り尽くしています。
 サブタイトルに「動的平衡と絶対矛盾的自己同一」とあります。科学と哲学が薄皮一枚隔てたところで接しています。福岡伸一さんが細胞膜は眼には見えないものだが、膜の間を情報や物質も行き来していると著しています。その眼に見えない膜、西田哲学の最奥の「絶対無の場所」(相対を超越した薄皮一枚奥の絶対)の概念とも近接しているような、いないような。ちょっと生硬な理解か(苦笑)
 2017年この本と邂逅した折のブログです。

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2020/04/15

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>ー生命誌マンダラからみるとー

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>
 Img_2537 新型コロナウィルスは今も時々刻々と世界中へ蔓延し、留まることを知りません。こんな状況から、「新型コロナとの戦争だ!」とか、「新型コロナと闘う!」と、勇ましいフレーズが飛び交っています。子供のころから臆病で喧嘩に弱くっていつも逃げ回っていた僕にはこの「闘う」という言葉に出遭うとたちまちその場から闘争ならぬ「逃走」してしまいたくなります。
 眼に見えるものならいざ知らず電子顕微鏡でやっと見える微小な「生きもの」とどうやって「闘う」のでしょうか。現実に今、世界で行われている新型ウィルス対策も闘っているのではなく、ひたすら接触を避け、無用な闘いを避ける姿勢ではないのでしょうか。
 生物学では、ウィルスは生物と無生物の間の存在ともいわれています。生物学者福岡伸一さんは新しく「生命とは動的平衡にある流れ」と定義しています。この定義に従がえば新型コロナウィルスはれっきとした「生きもの」です。そして人間も「生きもの」。
 「生きもの」としての人間のゲノムには38億年前に地球上に誕生した「生きもの」のDNA(遺伝子)から今日まですべての「生きもの」のDNAがヒトゲノムとして連綿と受け継がれている(流れている)こともわかってきています。
 例えば人間の一つ一つの細胞にはミトコンドリアというかって独立した「生きもの」であった、生きものが独立したDNA(遺伝子)を保持したまま一つ一つの細胞の中に数百個存在しているといわれています。38億年の間の「生きもの」の動的平衡(破壊即創造)の流れの歴史がわれわれ人間のゲノムに書き込まれた歴史ですから、その歴史は都度の新しい「生きもの」やウィルスとの闘いの歴史ではなく、ひたすらの共生の歴史ではないかと思うのです。
 新型ウィルスを闘いの対象と考える思考には、人間は自然の外に立って、自然は人間のためにあり、征服するもの、利用するものと、知らず知らずのうちに、己れの立ち位置を、神に準じる場においているように思えるのです。
 3月15日のTIME誌に「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそグローバルな信頼と団結を-」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を読みました。「サピエンス全史」、「ホモ・デウス」と興味深く読んでいる読者の一人ですが、気になることがあるのです。ここにも「いかに闘うべきか」そのために「グローバルな信頼と団結を」とあります。立ち位置が人間主義に思えるのです。ウィルスとの闘いのための手段としての信頼と団結は、ウィルスを倒した後、次に闘う対象は、「誰に」、「何に」なるのでしょうか、今取りざたされている米中覇権の闘い、そしてそれは日本、EU、等々世界を分断する闘いの始まりでもあります。
 人間もそろそろ賢者のひそみに倣い、生命のひたすらの共生の「歴史に学び」、新型コロナウィルスとの共生のための「グローバルな信頼と団結」を目指したいものです。ところが、トランプ大統領は、すでに「WHOへの拠出金ゼロ」と叫んでポスト・コロナの世界へ向かって宣戦布告するという、哀しい現実があります。
 トランプ大統領、やハラリさんはさておき、人間も自然の内にあるもの、自然に「包まれつつ包む」存在という立ち位置から、“今ここ”の日本及び世界を見直して、ポスト・コロナの日本及び世界を考えてみるのも重要な一つの視点ではないでしょうか。
 中村桂子さんが著書「絵巻とマンダラで解く生命誌」に38憶年の生命の歴史を「生命誌」としてマンダラに描いています。空海の曼荼羅は中心に大日如来を置き森羅万象はすべて大日如来の化身という宇宙観、生命観を描いています。大日如来は「空」の化身、森羅万象は「空」の顕現ということになるのでしょう。
 著者はマンダラの中心、大日如来の位置に”受精卵”をおいています。受精卵には38億年の「いのちの活き」が、たたみ込まれて“今ここ”にあります。そしてそれが、地球上のすべての「生きとし生けるもの」へと顕現(展開)していく姿をマンダラとして描いています。
 著者が生命誌と名づけている「誌」は過去の歴史物語ではなくて、われわれ人間のゲノムに書き込まれてる“今ここ”の生きている「いのちの活き」のことです。
書 名 「絵巻とマンダラで解く生命誌」
著 者 中村桂子
出版社 青土社

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2020/04/06

<ポスト・コロナの教科書は「子曰く、苛政は『新型コロナ』より猛なり」と書き換えられるのでしょうか>

<ポスト・コロナの教科書では「子曰く、苛政は『新型コロナ』より猛なり」と書き換えられるのでしょうか>
中学生の頃か、高校生の頃だったか、いつ習ったのだろうか、「苛政猛於虎也」を。いつの頃だったか記憶には無いが、老人になると身体が覚えています。教科書検定に文科省が介入している今日の学校教育でも教えているのでしょうか。
 「苛政」とは「何だ?」、何故、苛政は人食い虎より“猛”なのか。担任の先生は具体的な事例を教えることができるのでしょうか。ポストコロナの学校では、安倍政権の新型コロナ対策を事例として講じることになるのでしょうか。文科省が検閲するでしょうから、出版社は事前に忖度してしまうのでしょうね。
  安倍政権は2枚のマスクを5千万世帯に送付すると決めたそうです。2枚のマスクのコストは別としても、それを日本郵便が届けるという。その委託料、一件100円でも50億円位にはなるでしょう。孤独な老人に詐欺まがいに保険を売りつけ、それが発覚して苦境にある日本郵政Gに税金(未来の消費税)を投入するのだそうです。
 多くの国民がこの政策に憤慨しているようですが、安倍政権は、「してやったり」とほくそ笑んでいるのではないでしょうか。目的は税金投入にあるのですから、政策はそのための手段、目くらまし、稚拙であればあるほど、国民の批判が政策の稚拙さに目を奪われるのですから、そのほうが都合がいいのではないでしょうか。偏差値の高い政治家、官僚たちがその政策の稚拙さを分からないはずはないと思うのです。
 小池都知事も記者会見で「病院のベッドを開けるために無症状・軽症患者を地方自治体の施設及び民間施設へ移すことを決めた」と公表しました。ところがその日の内にアパホテルの女性経営者がテレビのニュースに「役に立ってうれしい」と誇らしげに顔を出しています。これから長期かつ万を超える病床数に税金を投入するのですから、できるだけコストのかからない地方自治体の施設が最優先ではないのでしょうか。  
 インバウンドが長期に続くのを当て込んで過剰とも思えるホテル建設を続けてきた企業に、どさくさに紛れて税金投入するのです。ここでも目的は国民の税金。そういえば築地市場の豊洲移転も、豊洲の土地開発の問題も闇の中です。
 この一ヵ月すでに自粛、自粛で売上急減の中小零細企業、派遣切りで職と一緒に住まいまで失う労働者等々、苦境に喘ぐ人々を救済する政策はいっこうに出てきません。孔子がこの日本列島の惨状をみたら、きっと「苛政は『新型コロナ』より猛なり」と記すに違いありません。経済という語の元は中国由来の「経世済民」だったはず、いつの間にか「済民」は忘れられてしまいましたね。

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2020/03/21

<ポスト新型コロナウィルスの日本は、そして世界は?>

書  名「中国化する日本」-日中「文明の衝突」一千年史―
著  者 與那覇潤
出版社 文春文庫
初版 20144月10日(単行本初版2011年11月文藝春秋刊)
Photo_20200321132601 新型コロナウィルスのパンデミックでパニック下にある世界、とりわけ日本列島では東京五輪開催の去就もともなって、経済の先も見えない状況が続いています。その見えないという「先」は、目先の「先」、目先の切所は足元を用心深く一歩一歩歩いていく以外にないのでしょう。
  山を歩いていても、時に己れの未熟さゆえか、足元が震え、恐れおののく切所に遭遇します。しかし、その折も時に立ちどまって遠くを見、方向を確かめておかないと、気がついたら二進も三進もいかない進退窮まるところに身を置いてしまうことがあります。そんなわけで、ちょっと「ポスト・新型コロナ」の日本及び世界の様相を想像しておくのも一興かもしれません。
 1979年生まれという若い歴史(哲学)学者與那覇潤さんの「中国化する日本」論に耳を傾けてみるというのはいかがでしょう。タイトルが中国嫌いの方の心情を逆なでするかもしれませんが、決して中国に支配されるとか、宗主国がアメリカから中国に代わるという話ではありません。一度、嫌中観を脇において。
 人間社会の過去の復元力から想像しても、新型コロナのパンデミックを封じ込めるにはそれほど時間を要することはないのでしょう。しかし新型コロナ禍の原因は新自由主義による経済の世界化でもあり、それは又中国という国家が世界経済の主役級の一人として加わったことによるものでもあります。新型コロナウィルスが武漢発といわれることとも符合します。
 著者は「中国史を一か所で区切るなら唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と唱えた戦前の東洋史家内藤湖南の「宋代以降近世説」を視点にしています。紀元10世紀宋代に皇帝一人と官僚制による中央集権の専制国家の仕組みができあがり、貨幣経済が中国全土へ広がったと。そして以後中国の国家体制は現在の習近平政権まで、変わらぬ皇帝一人専制国家なのだ、と著しています。
 そのころ、日本では源平の政変で貨幣経済志向の平家が敗れ鎌倉武家政権が誕生しました。以来徳川幕府終焉まで12世紀から19世紀半ばまで封建制が続くことになりました。もし平家が勝っていたら、日本の近世は、明治維新を待つまでもなく天皇制専制国家がこのとき成立していたかもしれないと想像すると、「歴史のIF」は限りなく面白い。足利尊氏と争った後醍醐帝の目指していたものも、後鳥羽上皇の承久の変も、宋の政体を目指した政権構想だったのかもしれません。
 多くの日本人が信じて疑わない(己ももちろんその一人)、封建制と近世の切断面、明治維新を契機とする西欧化近代国家化へと歩んだ道は、同時に、象徴天皇制の専制独裁国家への道、中国化への道だった、そして、戦後の日本は再江戸化の道だった、と著者は語っています。「歴史は繰り返す形を変えて」、とすれば、この先の未来は。
 さて現在の安倍政権の国家運営の経緯を日々傍観していると、民主主義の終焉を想像させ、戦前への回帰を彷彿とさせるものがあります。専制独裁国家への道といえるのかもしれません。
 しかしこれは日本だけのことではなく、ロシアもプーチンによる独裁政権であり、現在のアメリカの二党政治も民主主義というにはほど遠いものがあります。新型コロナのパンデミックによる経済危機への対策として、各国の政府は今度ばかりは、供給(生産者)側だけでなく、需要(生活者)側へ直接現金を配ることをも考えているようです。それは、非正規雇用が定着し所得の不安定な格差社会へ移行しつつある日本の今こそ、低所得層の救済は喫緊の主題です。
 しかし仮にこの延長上にベーシックインカム政策が取り上げられるようになると、それはまさに日本国家の中国化、一党独裁専制国家の総仕上げになるのではないかと想像します。
 リーマンショックのとき、グリーンスパンFRB議長は議会証言で「100年に一度・・・・」と語ったと聞きかじっていました。あの時の議会証言は「We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami」だったそうです。「credit tsunami」とあります。「バブル崩壊」ではなく、「津波」です。
 「100年に一度の津波の真っただ中」だったとすれば、未だ10年余、今回の経済対策として主要国政府の通貨大増発の分も加わって、第二波の大津波はさらに巨大なものになって押し寄せてくるのかもしれません。さてそのとき己はどうすればいいのでしょうか。既に老人ホームでブツブツぼやいているのでしょうか。「That is a question」(苦笑)

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2020/01/28

<定義を変えるなら冠は「循環型」に>

Photo_20200128133601 ストックホルダ型資本主義からステークホルダ型への模索とあります。しかし資本主義をストックホルダ型とかステークホルダ型とか冠を取り換えて不公平、不平等を拡大したのは騒いだのは誰だったのか。
 記事には50年前ダボス会議の第一回にフリードマンが提唱したとありますが、その説を旗印に掲げて世の中を変えていったのは50回を数えるダボス会議に出席してきた世界を統べるリーダー達ではなかったのか。今さらただ冠を変えようといわれても、そのためにこの50年間の間に格差の闇に沈んでいった人々の霊は浮かばれないのではないでしょうか。世界の上位42人の超富裕層の資産総額(1兆5千億ドル)が世界の人口の下位37億人の富と同額だと報じています。日本の株主資本主義化はまだまだ途上にあり、とても冠を変えようという議論の起きる気配はありません。
古代の豊穣の祀り(お祭り騒ぎではなく)では収穫した品々を供物として捧げています。冠を変えるならまずは富裕層の富を供物として捧げ、清めた冠を頂いて欲しいものです。この記事にはステークフォルダとして図(1)にみるように、「①環境・②顧客・③仕入れ先・④株主・⑤社員・⑥地域社会」が⓪会社を中心に描かれています。環境から始まって右回りに地域社会まで円になっていて中心の会社と矢印(⇔)で繋がっています。
  Photo_20200128133603 形はとてもまとまっていてよいのですが、よく見るとつまるところ横文字の「stakeholder 」を片仮名に換えただけのようにみえます。会社という全体と①~⑥にリストアップした個の関係です。全体と部分の整合性のとれた関係、部分の和が全体であるという二元論的関係にみえます。
 これでは①~⑥とそれぞれが⓪会社とのウイン、ウインを円形にまとめただけのように見えます。「世間良し」もみえなければ、全体と個の矛盾する目に見えない関係性がみえないのです。例えば、ここに⑤社員とありますが、正確には従業員、その従業員は「労働者即消費者」という裏返しの絶対矛盾な存在なのですから、労働者の賃金を減らせば、全体としての消費は減るという当たり前な関係です。小売りサービス業にロボットを使って、労働者を排除すれば、全体としては消費は減る、全体と個の絶対矛盾です。
 今議論されている、SDGsの議論もこの図(1)に示された、⓪会社と①のウィンウィンの関係に終始しているように思えます。
   ①の環境は他の②~⑥から⓪会社まですべてを包んでいます。環境とは大自然のことであり、宇宙のすべてのことでもあるのですから。そして⑥の地域社会も①に包まれつつ⓪~⑤のすべてを包んでいます。そして②の顧客はそのまま⑤社員とも④とも重なっているはずですから。
 やはり横文字を日本人として日本語に翻訳するには、一歩引いて、日本列島に深く刻まれているであろう縄文の思想「森羅万象に神宿る」、それに続く最澄、空海の開いた「山川草木悉有仏性」を織り込んで二元論から脱して考えてみたいものです。
 西田哲学では「全体と個」の関係を「多即一・一即多」といっています。「個は全体に包まれ、全体は個に包まれる」と全体と個は絶対矛盾的自己同一であると。前半は、図(2)「全体は個を包み」のように表現できます。最奥の⑦宇宙(森羅万象)に⑥言語世界(人間世界)は包まれ、⑤文明・国家は⑥に包まれその上に①株主(資本)、②経営者、③従業員、④顧客と⓪会社にまつわる関係者がロシア人形のマトリョーシカのように包まれています。
Photo_20200128133602ここまでが「全体が個をつつむ」関係性です。この重なっている中心をTシャツを脱ぐように裏返すと図(3)「個は全体を包む」が現れるのです。この裏返すという逆説が「全体即個・個即全体」の西田哲学にいう絶対矛盾的自己同一であり、鈴木大拙の「即非の論理」です。
 最奥の宇宙から入れ子のように重なっている中心が会社という、いのちの活きです。中心に時が流れ、会社に関係する森羅万象あらゆるものの「いのちの活き」が時の流れと共にここを流れているのです。資本主義の始原のいのちの活きである「お金のいのちの活き」も例外ではなく、この中心を流れています。
 縄文文明の基層にある「森羅万象に神が宿る」最澄、空海の山川草木悉有仏性」、この神、仏性を「いのちの活き」とワープロ変換できれば、会社にも会社固有の「いのちの活き」があるといえると思うのです。
 ①~⑧の関係性の中心を森羅万象のいのちの活きが流れていると思える「循環型」を冠にした資本主義に進化して欲しいと願っているのです。
 現実はこの日経新聞の記事に第三の型として国家資本主義が書かれているように、資本主義も変化していくのですから、中国型の国家(一党独裁)型資本主義、アメリカ型の株主(資本中心)資本主義がこれからも奔流となって溢れていくのでしょう。ノアの箱舟の物語が未来を暗喩しているのかもしれませんね。さてさて箱舟に乗せてもらえるのは誰?
<2020年1月23日日本経済新聞朝刊-資本主義の再定義探るー>
ダウンロード - 20200123e697a5e7b58ce69c9de5888ae3808ce38380e3839ce382b9e4bc9ae8adb0e3808ce8b387e69cace4b8bbe7bea9e381aee5868de5ae9ae7bea9e3808d.pdf

 



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2020/01/26

<「武漢封鎖!」からカミユの小説「ペスト」を思い出す>

 テレビ、新聞に踊る言葉。鉄路、空路そして陸路も封鎖したと中国政府は発表しています。テレビ報道でも沢山の重機が鎌首を上げ下げしながら、地上を動き回っている不気味な光景が映されています。感染者を収容する場所を用意しているのでしょう。
51wforw1bfl 小説はフランス領アルジェリアの港町オランにペストが蔓延し、フランス政府によって街を完全に封鎖された街の住民、たまたま旅行で滞在したために封じ込められた旅人、などなど、ペストを封じ込める一年余に渡る人々の死の恐怖に抗いながら暮らす、様々な心理模様を描いています。
 小説の主題はペストの蔓延と封じ込めを通して、人間が生きることの「不条理性」です。1947年の作品、著者はナチスドイツの占領下でレジスタンス運動の闘士として戦った経験もあり、ペストをナチスドイツに置き換えれば、そのまま占領下のフランス人の心情にも通じるのでしょう。
 「歴史は繰り返す形を変えて」どこで聞いた言葉か定かではないのですが、今を生きる我々世代にとって、ペストは「新型コロナウイルス」であり、「失われた30年」であり、「環境破壊」そのものでもあります。
 ジム・ロジャースは著書「お金の流れで読む日本と世界の未来」の冒頭に「重要なのは、『歴史は韻を踏む』ということである」と著し作家マーク・トウェインの言葉として紹介しています。「歴史は繰り返す形を変えて」もここに由来するのでしょうか、定かではありません。51ffedp0osl
 小説「ペスト」がモーツアルトの旋律のように揺らぎながら繰り返すということはペストが、企業の中高年のリストラ、格差拡大、環境破壊と姿形を変えて顕われ、主題の「不条理」が続いていくということなのでしょうか。
 「不条理とは」著者カミュは「シーシュポスの神話」にこう著しています。「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、その両者ともに、相対峙したままである状態」だと。
 あくまで合理的論理的に生きようとする人間の性、己れのその合理的論理的思考から想定の内と外として切り捨ててしまった非合理・非論理的「ものこと」との遭遇。その想定外の「ものこと」との遭遇と”対峙して生きる”ことが不条理を生きることだとすれば、それこそ「自己を生きる」ことなのだと思う。
 若い頃、世の中の「不平等」「不公平」を嘆きつつ、手にした折には掴み得なかった主題が、人生とは「不条理を生きることだ」と、気づくのになんと長い歳月を要したことか、と苦笑するばかり。

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2019/11/21

書名「負債の網」エレン・H・ブラウン著を読む

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書名「負債の網」
著者 エレン・H・ブラウン
出版社 那須里山舎
 MMTのTは「Theory」のT、当然ながら極めて論理的に語られています。だから大部のわりにとても分かり易い、分かりやすいがゆえに著者が書き込めていない「こと」、読者が読み落としてしまう「もの」もあるのかもしれません。「MMT-現代貨幣理論」を裏うちする書として押さえてきたい一冊です。
 昨春公開された映画「KUUKAI」の原作者夢枕獏さんは空海に口寄せしてこう語っています。「この世で最も大きいものそれは言葉、最も小さいものそれも言葉だ」そして「言葉は器だ」と。この世のすべては言葉の器に盛ることができると。人間の生きる現世とは言葉の世界だといっているのでしょう。だからこそ言葉の器に盛れない五官で捉えることができない「何か」があるといっているのだと思います。今日企業でも多様性とかダイバーシティとか声高に語っていますが、器そのものは空っぽの虚の空間、さて多様性、ダイバーシティという器に何を盛るのでしょうか、経営者の価値観がそして経営哲学が問われています。 
 この「MMT-現代貨幣論入門」の中ほどに「『悪』に課税せよ、『善』ではなく」とあります。読者が見落としてしまいがちな大事なフレーズです。所得税の累進税率を上げるのは所得再分配の原資を得るためではなく、企業の経営幹部の悪行を減らすことだとあります。いくら稼いでも徴税されてしまうなら、程よく止めておこうと考えるかもしれない。竹中平蔵さんが声高に叫んだトリクルダウンが起きないことは始めから分かっていたことなのですから。
 平家の怨霊に取り憑かれないように耳なし芳一の身体に書いたお経のようなものなのでしょう。通貨は債務証明書と視点を移動したようにです。
 政府が雇用創出のために財政支出せよ、といったテーマにも多くのページを割いています。けっして福祉政策とか社会主義というステレオタイプの視点ではないのです。
 この「現代貨幣論入門」の器から漏れているのではなかと思われることを掬い上げている器と思われる書物が今年3月に出版された「負債の網」(エレン・H・ブラウン著)です。
 MMT理論の理解に深みをもたらし、今日の世界情勢を通貨の視点から見直す好著です。現代の不換通貨を成り立たせている、眼に見えない貸方は「何か」、その「何か」を浮遊霊にするか「いのちの活き」にするかも己れの価値観次第なのかもしれませんね。通貨も言葉から派生した器の一つですから。

 

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