2020/03/02

「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」

書 名 「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
Image_20200302095901thumb12020年3月5日時宜を得た一冊がでました。リーマンショックから12年、久々の世界同時株安がやってきた、今この時に。今回の暴落は「新型コロナショック」とでも命名されることになるのでしょうか、それにはしばらく日時を要するのでしょうが、そうなっては、新型コロナにしてみれば迷惑至極なことでしょうね。「因」はお前たち人間の内にあり、俺は「縁」にすぎないと。
 貨幣論というとちょっと手元から離れて冷めて眺めてしまいますが、「欲望の"お金"論」と身近に引き寄せて読むと、個々人のこれからの生き方にも関わる意義ある一冊になるのではないでしょうか。2017年から続くNHKドキュメント「欲望の資本主義」今年は四年目、年頭に「欲望の資本主義2020」が放映されています。毎々登場する経済学者にして哲学の人岩井克人さんの発言が確かな語りで耳目に残ります。ここから生まれたのが本書です。
 岩井克人さんの貨幣論の本質は、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」にあります。デカルトの「我思う故に我あり」そして「神は、信じるから存在する」とも通じる、自己循環論法です。米ドル紙幣の裏面に「IN GOD WE TRUST」と印字されている所以にも繋がっています。
 岩井克人さんは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはすでに資本主義の今日を予言していたといいます。アリストテレスは人と人との間の交換の手段として生まれた貨幣、「善く生きるという『目的』のための『手段』」として生まれた貨幣がそのまま「手段」と「目的」との逆転が起きるというのです。「手段の目的化」の自己循環の始まりです。言葉を操る人間は未来の存在を知り、未来に生きようと欲して夢を見る、夢とは欲望の姿形でもあります。
 「夢は実現する!」と姿形のないもの、永遠の逃げ水を夢と名付けて追い求め、さらにその手段として貨幣を欲し、終には貨幣そのものを目的化してしまいます。
 個人の欲望には限度があります。それは死があるからです。それは貧しい農民から身を起こし天下を取った太閤秀吉の辞世の短歌「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも明らかです。ですが人間という普遍の存在の欲望は個の死を乗り越え、乗り越えて人類ある限り無限に自己循環的に増殖していきます。
 その貨幣に仮託された人間の欲望の自己循環的増殖の行き着くところはハイパーインフレーションという破局でしかない、と岩井克人さんはいいます。その言語由来の自己循環的増殖の破局を制御できるとすればそれは、同じ言語由来の倫理、カントの倫理を真理とする市民社会の構築が必要だと説いています。カント哲学(定言命題)には「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段としてはならない」とあります。「汝自身をも!」です。
 「お金を獲得することを目的として、他者はもちろん、己れ自身をもそのための手段として供してはならない」といっているのではないでしょうか。歯に衣を着せずにいえば「お金を目的に働くな!」「利潤を目的に経営するな!」、「お金」も「利潤」も、「より善く生きる」ための”手段”であって”目的”ではないのだと。
 西田哲学の初めの一書「善の研究」には「『善』とは、自他相忘れ、主客相没する境地」とあります。己れと他者の分別を忘れる境地、カントの定言命題と通じるところ大です。
 今横浜港に係留されている大型クルーズ船そのものがグローバリゼーションの象徴的存在であり、そこに封じ込められることを拒む新型コロナウィルスの蠢動もグローバリゼーションの象徴であり、いのちの活きの象徴といえるのではないでしょうか。そしてマスクの買い溜め、トイレットペーパーの買い溜めに列をなす人間の形相もまた、グローバリゼーションの現れなのでしょう。そして経済のグローバリゼーションこそ人間の欲望の形相ですから。「因」は己れの欲望の内にあり、と。
 「貨幣はモノとして価値があるわけではない。貨幣とは、それが貨幣として使われているから貨幣としての価値をもつ。法が強制力をもつのも、言語が意味をもつのも、同様です。それだからこそ、貨幣も法も言語も物理法則にも遺伝子情報にも根拠をもたない社会的な実在性をもつことができる。そして貨幣の上に資本主義があり、法の上に国家があり、言語の上に人間の文化のすべてがある。それらを支える根拠は純粋に形式的な自己循環論法でしかない。自らの根拠を自ら作り出しているだけなのです。」岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中でこう語っています。
 人間の存在は、生物的実体と社会的実体の絶対矛盾的自己同一ではないか、だからそのど真ん中にカントの定言命題を絶対の真理とせよ、と語っているのではないでしょうか。
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<今読む「資本主義から市民主義へ」岩井克人著」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2014/12/post-9c3f.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_8446.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(2)「日本への奇襲攻撃」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_4348.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(3)「ものの側からの反乱」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_ecb1.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(4)「第二の敗戦記念日」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_a625.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(5)「ヨーロッパの自立」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_736b.html

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2020/02/01

<時間は実在しない(1)存在と実在と>

書 名 「時間は存在しない」
著 者 カルロ・ロヴェッリ出版社
NHK出版
51ailjuhvjl_sx346_bo1204203200__202002021621011.存在と実在
 著者カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者です。その物理学者が「時間は存在しない」と言っています。帯には「時間とは人間の生み出すものだと、言ったらどう思いますか?」とあります。このところ書店の店頭でこの「存在」なる言葉が、気になって買い求めてしまいます。日本でも人気のドイツ人哲学者M・ガブリエルは「世界は存在しない」と著し、若い日本の哲学者與那覇潤は「なぜ日本人は存在するのか」と著しています。
 ここにいう「存在」とは「being」の「有る」のことです。人間が時間、世界、日本人という言葉(概念)で意識上につくりだすものです。一方同じ「有る」でも「実在」という言葉、「reality」の「有る」もあります。人間の意識とは別に独立的に不変のものとして、変化しないものとして「有る」、相対的な「有無」を超えたところにあるというものです。
 ですからこれらの書名は正確には「時間は実在しない」「世界は実在しない」「日本人はなぜ存在するのか」と解して読むと格段に読みやすく分かり易くなるように思います。我々は何故日々分刻みに運行される満員電車に乗り、ちらちら腕時計を見ながら通勤しているのだろうか。あたかも時間が独立不変のものとしてあるかのように縛られています。M・ガブリエルも日本に滞在中に新幹線、山手線に乗り、渋谷の交差点の人混みの中を泳ぎ、こう語っています。「日本ではすでにシンギュラリティは起きているのかもしれない。分刻みの列車を走らせるために存在しているのではないか」と。
 定年は60歳、65歳と時計年齢で区切られています。時計年齢の75歳になると、自動的に役所から後期高齢者というお墨付きのハガキが届きます。同じ75歳でも人それぞれ老い方は違っているのに、あたかも時間が実在するかのように、老化が一様に進行しているがごとくに、です。
2.時間と空間
 紀元前5世紀の人、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、「すべては『空』である」と悟りを開いたといわれています。「空」とは森羅万象すべては変化して止まないということですから、この宇宙のすべては存在ではあっても実在ではないといっているのです。
禅仏教の曹洞宗を開いた道元禅師は著書「正法眼蔵」に一章を「有時」として時間論を説いています。ここでは「我は時であり、我は有(存在)である」という。道元のいう時間とは主体的時間のことです。鈴木大拙の「即非の論理」でいえば、「自我-即-有―即―時」という表現になるのでしょう。己れとは時そのものであり人生とは時の流れのことであると。
 20世紀に入ってアインシュタインは科学(物理学)の視点から時間と空間は一つのものでわけることはできないと解き明かしました。「時即空」です。
3.機能と構造
 生物学者今西錦司は著書「生物の世界」(1941年)のなかで「生物は空間的時間的存在である。空間的には構造的存在であり、時間的には機能的存在である」と。生きものは身体をもつことで構造的であり空間(静)的存在ですが、一方でPhoto_20200201135502「生きている」存在ですから継起的であり時間(動)的存在です。ここでも「自我―即―有―即―時」が成立しています。
4.飛んでいる矢は止まっている
 古代ギリシャの哲学者ゼノンが後世に「飛んでいる矢は止まっている」という問いを残しています。いわゆるゼノンのパラドックスです。このパラドックスをたとえ話として、今西錦司流に飛んでいる矢を構造的機能的存在と見れば、構造的存在としての矢は刹那に空間的存在であり「止まっている」、継起的に非連続の連続として矢(主体)は「飛んでいる」存在でもあるのです。
 競馬に喩えてみましょう。鞍上の騎手と馬の関係では、疾駆する馬は流れている時の有り様であり、時の流れとともにある鞍は“今ここ”の刹那の場(空間)その上に騎乗している騎手が我(主体・自我)という存在と云えるのではないでしょうか。人馬一体の疾駆はそのまま、道元のいう「有⇔我⇔時」の現れ(相)といえます。人間も誕生からゴールまで「人生は競馬」、「生死一如」、時間とは鞍上の主体の人生そのもののことでもあります。
 今西錦司の師であり京都学派の祖、西田幾多郎の言葉を借りれば「時間即空間・空間即時間」、時間と空間は絶対矛盾的自己同一なのです。ゼノンのパラドックスの「飛んでいる矢」こそ、宇宙創成137億年爾来の「いのちの活き」のことであり、その矢の飛んでいる方向こそ「いのちの活き」の不可逆な方向性なのです。
5.エントロピー増大の法則
 C・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」のなかで人間が時間という概念でとらえているものはエントロピー増大の流れだといっています。「エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。」と。 分子生物学者福岡伸一は著書「動的平衡」に「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」そして「エントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に自ら細胞を破壊し再生することで個体を維持している」と著しています。「サステナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」と。この動的平衡の流れを人間は、「時間」という言葉にしたのでしょう。
 樹木(図1)は幹から枝へ枝から葉へ明瞭な区切りはなく天空に向かって伸びていて、その姿を丸ごとすっぽり空気が包んでいます。そして幹は地中に潜り、どこまでも深くそして広く根を伸ばしています。幹と根の区切りも明瞭ではなく、根は土との境目も不明瞭なままにそのまますっぽり土に包まれています。樹木をすっぽり包んでPhoto_20200201135501いる空気と土、それはそのまま大自然であり、宇宙そのものであり、樹木は丸ごとそのまま大自然に包まれつつ、大自然と一体の存在なのです。
 葉を通して炭酸ガス(CO2)を吸収し、大地からは根を通して水(H2O)や養分を吸収して幹を、枝葉を構成していきます。構成されたものは有機物(炭素化合物)であり、それはそのまま高エントロピーそのものです。樹木と大自然の接している接面の外の大自然が相対的に低エントロピーであり、そのエントロピーを吸収し構造(身体)化していく過程そのものが、樹木が「生きていること」なのです。
 この樹木の切断面(図2)を見ると切断面を巻き尺で計っています。それはそのまま一年に一輪ずつ、拡がっている年輪でもあります。「時間=空間」を証明しています。樹木は大自然に包まれつつ大自然を内に包み込んで年輪(構造・身体・過去)化しているのです。
 図(3)にみるように、樹木と大自然と接している接触面が“今ここ”の絶対現在です。その接触面の内が“今ここ”の刹那の過去であり、外が“今ここ”の刹那の未来です。樹木の身体は未来の過去化、低エントロピーから高エントロピーへの流れ、この「流れ」を時と名付けたのです。Photo_20200201142601だから「時間は概念として存在しても独立した不変の実在ではない」ということです。
  生きとし生けるものはすべてこの樹木のように大自然(宇宙)に包まれつつ、大自然(宇宙)を包み込んで生きている(流れている)存在なのです。だから、すべては流れている時であり、すべては変化して止まない、不変の実在はないということなのでしょう。
6.行く川の流れ
 方丈記の冒頭の一節は川の流れにたとえて、世の中も人も住処も水の流れと同じだ、と詩っています。 空間的存在としては川、時間的存在としては水の流れ、「川即水」を詩っているのではないでしょうか。
 「行く“時”の流れは絶えずして、しかも元の“時”にあらず。“時”の流れに浮かぶ、うたかたは、浮かびかつ消え久しくとどまりたるためしなし」と、そして「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と詩っています。
 人は時であり、川は人生だといっているようにも思えます。こんなことを考えるのも、潮騒の音も微かに聞こえてくる年回りになった徴なのでしょうか、己れも存在ではあっても実在ではない 、ということですね。

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2020/01/28

<定義を変えるなら冠は「循環型」に>

Photo_20200128133601 ストックホルダ型資本主義からステークホルダ型への模索とあります。しかし資本主義をストックホルダ型とかステークホルダ型とか冠を取り換えて不公平、不平等を拡大したのは騒いだのは誰だったのか。
 記事には50年前ダボス会議の第一回にフリードマンが提唱したとありますが、その説を旗印に掲げて世の中を変えていったのは50回を数えるダボス会議に出席してきた世界を統べるリーダー達ではなかったのか。今さらただ冠を変えようといわれても、そのためにこの50年間の間に格差の闇に沈んでいった人々の霊は浮かばれないのではないでしょうか。世界の上位42人の超富裕層の資産総額(1兆5千億ドル)が世界の人口の下位37億人の富と同額だと報じています。日本の株主資本主義化はまだまだ途上にあり、とても冠を変えようという議論の起きる気配はありません。
古代の豊穣の祀り(お祭り騒ぎではなく)では収穫した品々を供物として捧げています。冠を変えるならまずは富裕層の富を供物として捧げ、清めた冠を頂いて欲しいものです。この記事にはステークフォルダとして図(1)にみるように、「①環境・②顧客・③仕入れ先・④株主・⑤社員・⑥地域社会」が⓪会社を中心に描かれています。環境から始まって右回りに地域社会まで円になっていて中心の会社と矢印(⇔)で繋がっています。
  Photo_20200128133603 形はとてもまとまっていてよいのですが、よく見るとつまるところ横文字の「stakeholder 」を片仮名に換えただけのようにみえます。会社という全体と①~⑥にリストアップした個の関係です。全体と部分の整合性のとれた関係、部分の和が全体であるという二元論的関係にみえます。
 これでは①~⑥とそれぞれが⓪会社とのウイン、ウインを円形にまとめただけのように見えます。「世間良し」もみえなければ、全体と個の矛盾する目に見えない関係性がみえないのです。例えば、ここに⑤社員とありますが、正確には従業員、その従業員は「労働者即消費者」という裏返しの絶対矛盾な存在なのですから、労働者の賃金を減らせば、全体としての消費は減るという当たり前な関係です。小売りサービス業にロボットを使って、労働者を排除すれば、全体としては消費は減る、全体と個の絶対矛盾です。
 今議論されている、SDGsの議論もこの図(1)に示された、⓪会社と①のウィンウィンの関係に終始しているように思えます。
   ①の環境は他の②~⑥から⓪会社まですべてを包んでいます。環境とは大自然のことであり、宇宙のすべてのことでもあるのですから。そして⑥の地域社会も①に包まれつつ⓪~⑤のすべてを包んでいます。そして②の顧客はそのまま⑤社員とも④とも重なっているはずですから。
 やはり横文字を日本人として日本語に翻訳するには、一歩引いて、日本列島に深く刻まれているであろう縄文の思想「森羅万象に神宿る」、それに続く最澄、空海の開いた「山川草木悉有仏性」を織り込んで二元論から脱して考えてみたいものです。
 西田哲学では「全体と個」の関係を「多即一・一即多」といっています。「個は全体に包まれ、全体は個に包まれる」と全体と個は絶対矛盾的自己同一であると。前半は、図(2)「全体は個を包み」のように表現できます。最奥の⑦宇宙(森羅万象)に⑥言語世界(人間世界)は包まれ、⑤文明・国家は⑥に包まれその上に①株主(資本)、②経営者、③従業員、④顧客と⓪会社にまつわる関係者がロシア人形のマトリョーシカのように包まれています。
Photo_20200128133602ここまでが「全体が個をつつむ」関係性です。この重なっている中心をTシャツを脱ぐように裏返すと図(3)「個は全体を包む」が現れるのです。この裏返すという逆説が「全体即個・個即全体」の西田哲学にいう絶対矛盾的自己同一であり、鈴木大拙の「即非の論理」です。
 最奥の宇宙から入れ子のように重なっている中心が会社という、いのちの活きです。中心に時が流れ、会社に関係する森羅万象あらゆるものの「いのちの活き」が時の流れと共にここを流れているのです。資本主義の始原のいのちの活きである「お金のいのちの活き」も例外ではなく、この中心を流れています。
 縄文文明の基層にある「森羅万象に神が宿る」最澄、空海の山川草木悉有仏性」、この神、仏性を「いのちの活き」とワープロ変換できれば、会社にも会社固有の「いのちの活き」があるといえると思うのです。
 ①~⑧の関係性の中心を森羅万象のいのちの活きが流れていると思える「循環型」を冠にした資本主義に進化して欲しいと願っているのです。
 現実はこの日経新聞の記事に第三の型として国家資本主義が書かれているように、資本主義も変化していくのですから、中国型の国家(一党独裁)型資本主義、アメリカ型の株主(資本中心)資本主義がこれからも奔流となって溢れていくのでしょう。ノアの箱舟の物語が未来を暗喩しているのかもしれませんね。さてさて箱舟に乗せてもらえるのは誰?
<2020年1月23日日本経済新聞朝刊-資本主義の再定義探るー>
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2018/12/31

「紅白の南天」のお正月」

<紅白の南天>

20190101_3 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。我が家の紅白の南天がたわわに実っています。南天は我が家に10本ほどありますが、すべて野鳥が運んできたものです。この紅白の南天も例外ではありません。庭で大きくなり実ったものは、野鳥の越冬の食になります。住居から遠いところから実がなくなっていくので、この紅白の南天もこれから春にかけて野鳥が食べにくるのでしょう。そして落とした糞からまた新しい芽が伸びてきます。鳥類は恐竜の進化したものだそうですが、この循環が鳥類の「いのちの活き」の循環であり、繁栄の道なのでしょうね。
2019

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「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」

   <図1.干支の循環>
20190101_2  明けましておめでとうございます。毎々の循環の賀状です。2019年の年頭に「お金と資本」を「いのちの活き」という視点で考えてみました。昨年末の株式市場の暴落をみて、すわリーマンショック再来かと胸騒ぎ、これも干支の循環と同じマネーの循環なのでしょう。21世紀の資本主義の風潮を「マネーゲームだ!」「資本主義の終焉だ!」「拝金主義だ!」と切って捨ててもその循環の流れを断ち切ることはできないことは明々白々。さてさて如何せん。
 
昨年は夢枕獏さんが著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」の中で空海の口寄せをして「言葉は器だ。この世で最も大きなものもこの器に盛ることができる。どんな小さなものもこの器に盛ることができる。」無限大の宇宙から極小の素粒子まで現世はすべて言葉の世界だと語っているのを見つけて思わず「これだ!」と膝を打って納得。

                    <図2-1.米ドルに刻まれた「神」の存在>
                     20181218_2

 

 

 
 
 

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2018/12/11

「円相中の夢」と「胡蝶の夢」と

<「円相中の夢」-龍澤寺 鈴木宗忠老師>
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長年の縁者から「円相中の夢」が届いた。三島にある龍澤禅寺の鈴木宗忠老師の墨蹟とある。墨蹟に詳しく禅僧とも親しい縁者からの禅問答か。さっそく床の間に懸けてしばし坐して眺めていた。円相は宇宙とか「無」といった禅の悟りの境地を筆にしたものと聞いている。
 宇宙は
無限の広がり、境目はないのだから理屈をいえば、無地の白紙をそのままで描いたことになるのだろうが、それでは書にならないから円を描くのだろう。それにしても宇宙の中に「夢」とはなんだ。「無」のなかから夢が湧いてくるのか。西田幾多郎は相対界の有無と分けるためか「絶対無」と「西田語」を紡いだ。相対界の有無が生じる、万物が生じる泉であり場のことだ。夢もこの「絶対無」から湧いてくるのか。

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2018/10/27

<「自己責任」と「自己の責任」と>-己れの命は己れで守る-

20181027

ジャーナリストの安田純平さんの救出劇を巡って、またまた「自己責任」なる言葉がマスコミやSNS上を飛び交っている。この言葉を流行らせたのは、小泉・竹中政権だったと記憶しているのだが。

 15年前の2003年8月10日還暦記念にと、赤いちゃんちゃんこを持参して北アルプス裏銀座を縦走した。照れくささも手伝って山頂で三脚を立て、いそいそとちゃんちゃんこを纏ってカメラの前に立った己れを思い出す。初日の烏帽子岳の山頂に真新しい少し華奢な鎖が垂れ下がっていた。鎖の前に立て看板がある。「岩がもろいので『自己責任』で」と書いてある。当時「自己責任」の言葉は反射的に時の大臣竹中平藏さんの顔が浮かんでしまう。「むっと」して思わずシャッターを切った。山小屋に入ると食堂にも「自己責任」の張り紙がある。さらに「むっと」して、泊まるのをキャンセルして、次の山小屋まで3時間歩いた。着くころにはすでに日没が迫っていた。

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2018/06/04

映画「万引き家族を観て」-「家族とは何か?」・「本質とは何か?」-

 昨日(6月3日)都心に出なければ観ることができないと思っていた映画が二日間だけ隣町で先行上映されると聞いて慌てて出掛けた。そして映画館を出た。家内の第一声が「パルム・ドール賞をもらったというけど、フランス人にわかるのかなぁ」。映画のテーマは“今ここ”の日本人家族の物語に観えるが、「家族とは何なのか?」人間社会の家族の普遍的な本質を、日本社会の家族にまつわる“今ここ”の諸々の現象を社会現象としてではなく、生のままの家族の有り様として提示することで、表現した物語だと思う。もう一段階普遍的にいうと観客に「本質とは何か?」を問いかける物語でもあるのではないか。今この日本列島に生きる我々に「『本質とは何か?』を問うこと」を問いかけているようにも思える。

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2018/02/04

北極星は動かない-瞑想の薦め-

   <北極星は動かない>
20180204 1.コトバから生じる自我
 人間が猿と袂をわかった生物的由来は二足歩行にあるといわれている。しかし決定的な別れ、現代人への別れの由来は5万年前に現在の言語発声の始まりとなった突然変異にあるといわれている。経済学者にして哲学者岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中に「人間は言葉を使う猿である」と書いている。人間はコトバを使うようになって、主体と客体、自他の分別が生じ、空間認識をするようになった。と同時に、“今ここ”を中心に過去と未来を分別するようになった。この主体が意識的自己であり、自我の目覚めである。意識的自己は、自利(自己中心的価値観)を育て、未来の己れ(自我)のイメージを様々描くようになる。いわゆる夢だ。そして、その夢を実現するための目標を設定し「P→D→C→A」のサイクルを回すようになる。しかしその夢の多くは叶わない。その理由は簡単だ、意識的自己(自我)が描く夢は極めて自己中心的なイメージであり、他者の存在に思いが及んでいない。そこに常に不確実性が待っているからだ。

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2018/01/10

そこはかといない不安はどこから、?

<「生物的実体」と「社会的実体」の絶対矛盾を生きる存在>
20180110

1.生物的実体
 宇宙誕生の初めビックバンから138億年が経ち、地球が誕生して46億年が経つという、そして微生物が誕生して38億年経ち、人類の祖先が誕生して600万年が経っている。しかしニコラス・ウェイド著「5万年前」によれば、現代人の祖先は5万年前に出アフリカを果たした150人の集団から始まったという。5万年で72億人にまでに増えたのだ。またリチャード・クラインは著書「5万円前に人類に何が起きたか」の中で、で西アフリカで人類の言語をつかさどる遺伝子に突然変異が起きたのも5万年前だと書いているから、ひょっとすると、あたかもモーゼの出エジプトの逸話のように、その人々が紅海を渡った150人なのかもしれない。150人の遺伝子は72億人にまで増殖したことになる。この遺伝子は個体の世代交代を繰り返しながら情報を伝えていく、生物的遺伝子だ。  

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