2020/05/16

書名「エンデの遺言」河邑厚徳+グループ現代著」<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>
書 名 「エンデの遺言」ー根源からお金を問うことー
著 者 河邑厚徳+グループ現代
出版社 NHK出版
初 版 2000年2月
Jpeg_20200516142001  聖書MMTの預言にはこうあります。「各国の中央銀行は自国民が自国通貨を受け取る限りにおいて、無限に自国通貨を発行することができる」と。それは、経済学者岩井克人が「貨幣は貨幣だから貨幣である」と喝破した定義と同じ意味です。「自国通貨(お金)は他者(自国民)が受け取る限り自国通貨(お金)である」という意味において。
 そしてMMTでは「自国通貨は政府の借用書である」とも預言しています。国民個々人が資産だと思って保有している虎の子の現・預金残高は、政府の借用書の残高だと。それを無限に受け取ってくれるのですから、受け取ってくれるうちに増刷しておきたいと思うのは人情ですね。
 本当に借用書でしょうか。僕は徴税済領収書だと思っています。だって古今東西、時の権力者は国家債務を返済したことはないのですから。沢山持っている人が多額納税者なのかもしれません。
 この本は、童話「時間泥棒」の著者ミヒャエル・エンデが日本人に託した遺言をもとにNHKのドキュメント番組として放映されたものです。
 M・エンデは童話「時間泥棒」の中で人間たちが時間を盗まれ生活空間が暗闇になっていく様子を描いています。
 時間節約銀行の紳士(灰色の男たち)が街の中を「時間」を集めて回るのです。「時間節約こそ幸福への道!」、「時間節約をしてこそ未来がある!、「時間を節約しよう!」「時は金なり!」「時間を貯蓄しよう!」と称えながら。
 紳士はこっそりいいます。「人間に・・・知られないでいるあいだしか、仕事ができない・・・むずかしい仕事だ、人間から生きる時間を一時間、一分、一秒とむしり取るんだからな・・・人間が節約した時間は、人間の手には残らない・・・われわれがうばってしまうのだ・・・貯めておいて、こちらのために使うのだ・・・われわれは時間に飢えている・・・ああ、きみたち人間ときたら、じぶんたちの時間のなんたるかを知らない!」
 若い頃僕が「生産性」「効率」「コストダウン」と称えていた姿はこの灰色の男と同じだったのです。(苦笑)
 童話では、預金が増えれば増えるほど街に暗闇が拡がっていきます。主人公モモの活躍で街の人々も気がつき、街に光が戻ってきて、めでたしめでたしと。
 現行の通貨制度(変動相場制)下では、世界の片隅でつくりだしたささやかな価値(経済価値)も自国通貨(お金)と換えること、そして米ドルという基軸通貨(世界通貨)と繋がっていくことで、地域から中央へ、中央へ、世界の中心へと吸い上げられていき、価値をつくった地域にはなにも残らないのです。たとえ預金通帳残高に残ってはいても。
 M・エンデは本書の中でシルビオ・ゲゼルの貨幣の仕組みを詳細に紹介しています。あのケインズも自著「雇用、利子、および貨幣の一般理論」の中で絶賛した仕組みです。
 出版当時ベストセラーになりゲゼルの貨幣論を地域通貨の仕組みに生かそうと国内各地でブームになりました。いまでも飛騨の「さるぽぽ」、高田の馬場の「アトム通貨」といくつか成功例もあるようですが雨後の筍のように出ては消えていっているようです。
 本書を通してサブタイトルにもある「根源からお金を問い直して」みてはいかがだろうか。ポスト・コロナの社会に本格的に格差が拡大していくとすれば、M・エンデが日本人に残した遺言は、「地域おこし」「地域活性化」といった大きな旗印ではなく、人々の生活を支え「いのちの活き」を支えていく互助の聖書として活かしていく可能性を秘めているのではないかと思います。
 AI,IOT,ロボットと情報通信技術が一層発展していくこれから、梅棹忠夫のいう「内胚葉産業の外肺葉化」を地域通貨で下支えすることもできるように思います。
 己れ自身にとっては残り僅かではありますが、ポスト・新型コロナ社会を明るいペシミストとして、生き抜いこうと誓いつつ「セブンデイズチャレンジ」を終わることといたします。
 現在の日本社会の惨状を憂うあまり一つ一つが長いものになりました。ご容赦ください。どなたかバトンを受け継いでくれる方が出てくれることを祈りつつ。
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

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書名「新装版 場の思想」清水博著<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>
書 名 「新装版 場の思想」
著 者 清水博
出版社 東京大学出版会
初 版 2003年7月(新装版2014年9月)
Jpeg_20200516134901  著者は「場の理論」を提唱しています。「生物の世界」で、今西錦司は「生物は空間的に構造的、時間的に継起的存在である」といい、生物を「生きもの」「生きているもの」と捉えています。一方で著者は「生きているものを生命の活きという観点から見ることが私の場の理論の立場である。」と。「いのちの活き」という視点で今西錦司と響き合っています。
 「いのちの活く『ところ』」を「場」と定義しているのです。そしてその「いのちの活き」は局在的活き(局在的生命)という個という側面と、遍在的活き(遍在的生命)という生命相互の繋がりと空間的な広がりをもった二重性をもった存在だというのです。
 著者は例えばなしに卵を使っています。二個の卵を殻のまま器に入れても個のままでなにもおこりません。二つを割ると、黄身と白身になり、黄身は黄身のまま盛り上がっていますが、白身どうしは広がって繋がります。個々の黄身のいのちの活きが局在的いのちの活き、拡がった白身のところが遍在的いのちの活き。その拡がった白身を黄身がいのちとして「活く場」というわけです。白身と黄身それぞれのいのちの活きは局在と遍在の二重性、同じではないけれど分けることのできない絶対矛盾的自己同一を生きているというわけです。
 卵を夫と妻とすると、黄身は夫、妻、個々の(局在的)いのちの活きであり、またその関係性の空間的時間的につながった、白身としての家族(遍在的)といういのちの活きの二重性ということになります。卵が一つ増えると、夫、妻、子供三つの白身の溶けあった関係性が家族という固有のいのちの活きです。器が家族なのではなく、三つの黄身のいのちの活く場としての白身が家族のいのちの活きなのです。この「器か?、いのちの活きか?」が映画「万引き家族」のテーマでもありました。
 企業も従業員、経営者、株主、顧客、仕入先等々関係者すべての個(黄身)のいのちの活く「場」が白身としての企業のいのちなのです。
 すべては、個と全体のいのちの活きの二重性を生きている存在なのです。昨年の流行語「One Team」も個々の選手のいのちの活く場がチームのいのち、チームとチーム互いのいのちの活く場がピッチそしてスタンドを埋め尽くす観客のいのちの活きもそのピッチに同在している、そしてテレビの前の観客のいのちの活きも。その全体が「One Team」という一つの場のいのちとしてあったが故に熱狂したのでしょう。
 宇宙は無限大の器であり、その器の中に森羅万象様々な黄身と白身が重層的に、局在(個)的ないのち、遍在(全体)的ないのちとして活く場でもあると著者はいっています。
 新型コロナパンデミックで個人、家庭、企業、個々それぞれの「いのちの活き」が危機に瀕している今、国家も個人、家庭、企業のいのちの活く「場」なのですから、その場のいのちの活きを全きものに統べることを政治に願わずにはおれません。
 西田幾多郎は著書「善の研究」の第十三章に「完全なる善行」を立て、「善とは一言にていえば、人格の実現である。・・・・その極は自他相忘れ、主客相没する所・・・」と著しています。著者清水博のいう「場」における「いのちの活き」の「全機現している状態」のことをいっているのです。
<家族のいのちの活く場>
最奥の宇宙→人間界(言葉の世界)夫、妻、子供の重層的に重なった「場」のいのちの活きが家族のいのちの活きという遍在的生命であり、関係する個々の局在的いのちがそこで活いている。
<いのちの居場所、居場所のいのち>
「居場所つくり」書名「もしイノ」岩崎夏海著を読む
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書名「時間と自己」木村敏著<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>
書 名 「時間と自己」
著 者 木村敏
出版社 中公新書
初 版 1982年11月
Jpeg_20200516133101  精神病理の臨床医であり哲学者の著者は西欧の精神病理学を臨床しながら、西欧由来の精神病理学だけでは日本人に適合しないところがあるのではないかと考え、西田哲学を取り入れたら日本人ひいては東洋人ひいては人類に共通する東西融合の精神病理学ができるのではないかという仮説から西田哲学を取り入れた方です。 
 いつの頃からだろうか、それほど過去のことでもないと思うのですが、「ものからことへ」。だから「ものづくり」から「ことづくりへ」と語る方がとても多いように感じます。
 しかし「もの」とか「こと」と二元論の言葉の連発からはなにも見えてこないのではないでしょうか。一度”ものとは””こととは”と一つ一つ言葉の意味を吟味しないと本質はなにも見えてこないように思います。どこか、成長を止めた日本の行き詰まり感が日本の成功は「ものづくり」だった、だから、成功体験を捨てて「ことづくり」といっているように聞こえます。1985年(プラザ合意)以前の日本企業は本当に「ものづくり」で成功したのだろうか。
 2018年に上映された映画「KU-KAI」の原作者夢枕獏は原作「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の中、妖怪との問答を通して、空海に語らせています。「この世で一番大きなもの、それは言葉」「この世で一番小さいもの、それも器」と。そして「いかなる大きさのものも言葉で名づけることのよって言葉という器の中におさまってしまう」というのです。
 美醜も、大小も、剛柔から善悪もすべては人間に属性を有つ言葉だから、この宇宙にはない、と。人間の世界、現世は言葉でできている世界だといっています。だからこそ、救うたびに器からこぼれてしまう「何か」があることを自戒しなければいけないのだろう。しかし、いかに自戒しようとも永遠に掬えない何かがあるのです。
 「ものとは?」「こととは?」を問い直すことは「言葉とは?」を問い直すことでもあります。
 本書の第一ページが「第一部こととしての時間」そして「1.”もの”への問いから”こと”への問いへ」です。
 そして「”もの”が空間を満たしているということは、われわれの外部の世界についていわれうるだけではない。意識と呼ばれているわれわれの内部空間もやはり”もの”によって満たされている」と著されています。
 さて空間を満たす「もの」と意識の内部を満たす「もの」とはどこが同じで、どこが違いうのでしょうか?
 多くの識者がポスト・新型ウィルスの社会は価値観の変容が必須だと語っています。とすれば本書も価値観変容のための価値ある一冊になるのではないかと思います。
【目的】
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2020/04/26

<「私たちの祖先発見-古細菌を培養、進化の謎解明へ」>

2020年4月26日 「日経新聞朝刊ーサイエンスー」
<私たちの祖先を発見ー古細菌を培養、進化の謎解明へ>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58451160U0A420C2MY10
 新型ウィルスは新型といわれるだけに、いまだにわからないことも多いようです。この機会に「生物とは何か?」を考えてみるのも一興ではないかと思います。本記事はそのためにも格好の記事です。
 現在の地球上の生きものは①古細菌(アーキア)、②細菌(バクテリア)、③真核生物の三つのタイプに分類されるそうです。現在の動植物・キノコ等の菌類、もちろん人間も、③の真核生物に分類されています。
 無酸素下に生息していた最古の生きもの①古細菌(アーキア)にとっては、27億年前に登場した②細菌(シアノバクテリア)が光合成する際に生成する酸素は有毒物質でした。
 この酸素という有毒物質に耐えかねた①古細菌(アーキア)は苦し紛れにシアノバクテリアと共生し、それがミトコンドリアに進化(変化)したのだそうです。そしてそれは、さらに真核生物へと進化(変化)してきたのだと。
 生物学者中村桂子さんは著書「生命誌とは何か」(講談社学術文庫)に「進化を英語でいうとevolutionです。evoluveは巻物を開いていく時などに使われる言葉ですから、これも展開でしょう。どうも進化というと進歩とまぎらわしく、一定方向に進んでいくようなイメージを与えるのではないか」と著しています。
 ダーウィンが「種の起源」を世に問うたのは1859年あたかも産業革命の真っ只中、近代化の渦中でスペンサーの社会進化論と絡み合ってダーウィンの進化論も「進化とは進歩である」と直線的時間観の中に組み込まれていったのでしょう。
 日本語として「進化」という語ができるのもまさに明治期の近代化の真っ只中でした。ポスト・コロナの社会では進歩史観を卒業して、価値観を「進化とは変化であり、展開である」と転換したいものです。
 2020年4月25日の日経新聞朝刊の書籍紹介欄の記事と合わせて読むと一層興味深いです。 「生命の〈系統樹〉はからみあう」ー寄せ集めでできた我らの体ー
 デイヴィッド・クォメン著
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO58452030U0A420C2MY7000/?n_cid=SPTMG002
 評者の太田博樹東大教授は、「ヒトのゲノムの約8%がウイルスに由来する。「胎盤形成はウイルスの仕業」など、ウイルスが跳躍的進化の引き金になっている可能性は少なくない。ヒトの身体は約37兆個の細胞でできているが、その約3倍の細菌と共生している。」と記しています。
 新型コロナパンデミックへの対応も人間社会の新しい”展開”の一歩、生物誌の一ページに加えられることになるのでしょうか。

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2020/04/15

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>ー生命誌マンダラからみるとー

<本当に人間と新型コロナは闘っているのか?>
 Img_2537 新型コロナウィルスは今も時々刻々と世界中へ蔓延し、留まることを知りません。こんな状況から、「新型コロナとの戦争だ!」とか、「新型コロナと闘う!」と、勇ましいフレーズが飛び交っています。子供のころから臆病で喧嘩に弱くっていつも逃げ回っていた僕にはこの「闘う」という言葉に出遭うとたちまちその場から闘争ならぬ「逃走」してしまいたくなります。
 眼に見えるものならいざ知らず電子顕微鏡でやっと見える微小な「生きもの」とどうやって「闘う」のでしょうか。現実に今、世界で行われている新型ウィルス対策も闘っているのではなく、ひたすら接触を避け、無用な闘いを避ける姿勢ではないのでしょうか。
 生物学では、ウィルスは生物と無生物の間の存在ともいわれています。生物学者福岡伸一さんは新しく「生命とは動的平衡にある流れ」と定義しています。この定義に従がえば新型コロナウィルスはれっきとした「生きもの」です。そして人間も「生きもの」。
 「生きもの」としての人間のゲノムには38億年前に地球上に誕生した「生きもの」のDNA(遺伝子)から今日まですべての「生きもの」のDNAがヒトゲノムとして連綿と受け継がれている(流れている)こともわかってきています。
 例えば人間の一つ一つの細胞にはミトコンドリアというかって独立した「生きもの」であった、生きものが独立したDNA(遺伝子)を保持したまま一つ一つの細胞の中に数百個存在しているといわれています。38億年の間の「生きもの」の動的平衡(破壊即創造)の流れの歴史がわれわれ人間のゲノムに書き込まれた歴史ですから、その歴史は都度の新しい「生きもの」やウィルスとの闘いの歴史ではなく、ひたすらの共生の歴史ではないかと思うのです。
 新型ウィルスを闘いの対象と考える思考には、人間は自然の外に立って、自然は人間のためにあり、征服するもの、利用するものと、知らず知らずのうちに、己れの立ち位置を、神に準じる場においているように思えるのです。
 3月15日のTIME誌に「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそグローバルな信頼と団結を-」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を読みました。「サピエンス全史」、「ホモ・デウス」と興味深く読んでいる読者の一人ですが、気になることがあるのです。ここにも「いかに闘うべきか」そのために「グローバルな信頼と団結を」とあります。立ち位置が人間主義に思えるのです。ウィルスとの闘いのための手段としての信頼と団結は、ウィルスを倒した後、次に闘う対象は、「誰に」、「何に」なるのでしょうか、今取りざたされている米中覇権の闘い、そしてそれは日本、EU、等々世界を分断する闘いの始まりでもあります。
 人間もそろそろ賢者のひそみに倣い、生命のひたすらの共生の「歴史に学び」、新型コロナウィルスとの共生のための「グローバルな信頼と団結」を目指したいものです。ところが、トランプ大統領は、すでに「WHOへの拠出金ゼロ」と叫んでポスト・コロナの世界へ向かって宣戦布告するという、哀しい現実があります。
 トランプ大統領、やハラリさんはさておき、人間も自然の内にあるもの、自然に「包まれつつ包む」存在という立ち位置から、“今ここ”の日本及び世界を見直して、ポスト・コロナの日本及び世界を考えてみるのも重要な一つの視点ではないでしょうか。
 中村桂子さんが著書「絵巻とマンダラで解く生命誌」に38憶年の生命の歴史を「生命誌」としてマンダラに描いています。空海の曼荼羅は中心に大日如来を置き森羅万象はすべて大日如来の化身という宇宙観、生命観を描いています。大日如来は「空」の化身、森羅万象は「空」の顕現ということになるのでしょう。
 著者はマンダラの中心、大日如来の位置に”受精卵”をおいています。受精卵には38億年の「いのちの活き」が、たたみ込まれて“今ここ”にあります。そしてそれが、地球上のすべての「生きとし生けるもの」へと顕現(展開)していく姿をマンダラとして描いています。
 著者が生命誌と名づけている「誌」は過去の歴史物語ではなくて、われわれ人間のゲノムに書き込まれてる“今ここ”の生きている「いのちの活き」のことです。
書 名 「絵巻とマンダラで解く生命誌」
著 者 中村桂子
出版社 青土社

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2020/03/02

「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」

書 名 「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
Image_20200302095901thumb12020年3月5日時宜を得た一冊がでました。リーマンショックから12年、久々の世界同時株安がやってきた、今この時に。今回の暴落は「新型コロナショック」とでも命名されることになるのでしょうか、それにはしばらく日時を要するのでしょうが、そうなっては、新型コロナにしてみれば迷惑至極なことでしょうね。「因」はお前たち人間の内にあり、俺は「縁」にすぎないと。
 貨幣論というとちょっと手元から離れて冷めて眺めてしまいますが、「欲望の"お金"論」と身近に引き寄せて読むと、個々人のこれからの生き方にも関わる意義ある一冊になるのではないでしょうか。2017年から続くNHKドキュメント「欲望の資本主義」今年は四年目、年頭に「欲望の資本主義2020」が放映されています。毎々登場する経済学者にして哲学の人岩井克人さんの発言が確かな語りで耳目に残ります。ここから生まれたのが本書です。
 岩井克人さんの貨幣論の本質は、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」にあります。デカルトの「我思う故に我あり」そして「神は、信じるから存在する」とも通じる、自己循環論法です。米ドル紙幣の裏面に「IN GOD WE TRUST」と印字されている所以にも繋がっています。
 岩井克人さんは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはすでに資本主義の今日を予言していたといいます。アリストテレスは人と人との間の交換の手段として生まれた貨幣、「善く生きるという『目的』のための『手段』」として生まれた貨幣がそのまま「手段」と「目的」との逆転が起きるというのです。「手段の目的化」の自己循環の始まりです。言葉を操る人間は未来の存在を知り、未来に生きようと欲して夢を見る、夢とは欲望の姿形でもあります。
 「夢は実現する!」と姿形のないもの、永遠の逃げ水を夢と名付けて追い求め、さらにその手段として貨幣を欲し、終には貨幣そのものを目的化してしまいます。
 個人の欲望には限度があります。それは死があるからです。それは貧しい農民から身を起こし天下を取った太閤秀吉の辞世の短歌「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも明らかです。ですが人間という普遍の存在の欲望は個の死を乗り越え、乗り越えて人類ある限り無限に自己循環的に増殖していきます。
 その貨幣に仮託された人間の欲望の自己循環的増殖の行き着くところはハイパーインフレーションという破局でしかない、と岩井克人さんはいいます。その言語由来の自己循環的増殖の破局を制御できるとすればそれは、同じ言語由来の倫理、カントの倫理を真理とする市民社会の構築が必要だと説いています。カント哲学(定言命題)には「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段としてはならない」とあります。「汝自身をも!」です。
 「お金を獲得することを目的として、他者はもちろん、己れ自身をもそのための手段として供してはならない」といっているのではないでしょうか。歯に衣を着せずにいえば「お金を目的に働くな!」「利潤を目的に経営するな!」、「お金」も「利潤」も、「より善く生きる」ための”手段”であって”目的”ではないのだと。
 西田哲学の初めの一書「善の研究」には「『善』とは、自他相忘れ、主客相没する境地」とあります。己れと他者の分別を忘れる境地、カントの定言命題と通じるところ大です。
 今横浜港に係留されている大型クルーズ船そのものがグローバリゼーションの象徴的存在であり、そこに封じ込められることを拒む新型コロナウィルスの蠢動もグローバリゼーションの象徴であり、いのちの活きの象徴といえるのではないでしょうか。そしてマスクの買い溜め、トイレットペーパーの買い溜めに列をなす人間の形相もまた、グローバリゼーションの現れなのでしょう。そして経済のグローバリゼーションこそ人間の欲望の形相ですから。「因」は己れの欲望の内にあり、と。
 「貨幣はモノとして価値があるわけではない。貨幣とは、それが貨幣として使われているから貨幣としての価値をもつ。法が強制力をもつのも、言語が意味をもつのも、同様です。それだからこそ、貨幣も法も言語も物理法則にも遺伝子情報にも根拠をもたない社会的な実在性をもつことができる。そして貨幣の上に資本主義があり、法の上に国家があり、言語の上に人間の文化のすべてがある。それらを支える根拠は純粋に形式的な自己循環論法でしかない。自らの根拠を自ら作り出しているだけなのです。」岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中でこう語っています。
 人間の存在は、生物的実体と社会的実体の絶対矛盾的自己同一ではないか、だからそのど真ん中にカントの定言命題を絶対の真理とせよ、と語っているのではないでしょうか。
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<今読む「資本主義から市民主義へ」岩井克人著」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2014/12/post-9c3f.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_8446.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(2)「日本への奇襲攻撃」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_4348.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(3)「ものの側からの反乱」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_ecb1.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(4)「第二の敗戦記念日」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_a625.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(5)「ヨーロッパの自立」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_736b.html

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2020/02/01

<時間は実在しない(1)存在と実在と>

書 名 「時間は存在しない」
著 者 カルロ・ロヴェッリ出版社
NHK出版
51ailjuhvjl_sx346_bo1204203200__202002021621011.存在と実在
 著者カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者です。その物理学者が「時間は存在しない」と言っています。帯には「時間とは人間の生み出すものだと、言ったらどう思いますか?」とあります。このところ書店の店頭でこの「存在」なる言葉が、気になって買い求めてしまいます。日本でも人気のドイツ人哲学者M・ガブリエルは「世界は存在しない」と著し、若い日本の哲学者與那覇潤は「なぜ日本人は存在するのか」と著しています。
 ここにいう「存在」とは「being」の「有る」のことです。人間が時間、世界、日本人という言葉(概念)で意識上につくりだすものです。一方同じ「有る」でも「実在」という言葉、「reality」の「有る」もあります。人間の意識とは別に独立的に不変のものとして、変化しないものとして「有る」、相対的な「有無」を超えたところにあるというものです。
 ですからこれらの書名は正確には「時間は実在しない」「世界は実在しない」「日本人はなぜ存在するのか」と解して読むと格段に読みやすく分かり易くなるように思います。我々は何故日々分刻みに運行される満員電車に乗り、ちらちら腕時計を見ながら通勤しているのだろうか。あたかも時間が独立不変のものとしてあるかのように縛られています。M・ガブリエルも日本に滞在中に新幹線、山手線に乗り、渋谷の交差点の人混みの中を泳ぎ、こう語っています。「日本ではすでにシンギュラリティは起きているのかもしれない。分刻みの列車を走らせるために存在しているのではないか」と。
 定年は60歳、65歳と時計年齢で区切られています。時計年齢の75歳になると、自動的に役所から後期高齢者というお墨付きのハガキが届きます。同じ75歳でも人それぞれ老い方は違っているのに、あたかも時間が実在するかのように、老化が一様に進行しているがごとくに、です。
2.時間と空間
 紀元前5世紀の人、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、「すべては『空』である」と悟りを開いたといわれています。「空」とは森羅万象すべては変化して止まないということですから、この宇宙のすべては存在ではあっても実在ではないといっているのです。
禅仏教の曹洞宗を開いた道元禅師は著書「正法眼蔵」に一章を「有時」として時間論を説いています。ここでは「我は時であり、我は有(存在)である」という。道元のいう時間とは主体的時間のことです。鈴木大拙の「即非の論理」でいえば、「自我-即-有―即―時」という表現になるのでしょう。己れとは時そのものであり人生とは時の流れのことであると。
 20世紀に入ってアインシュタインは科学(物理学)の視点から時間と空間は一つのものでわけることはできないと解き明かしました。「時即空」です。
3.機能と構造
 生物学者今西錦司は著書「生物の世界」(1941年)のなかで「生物は空間的時間的存在である。空間的には構造的存在であり、時間的には機能的存在である」と。生きものは身体をもつことで構造的であり空間(静)的存在ですが、一方でPhoto_20200201135502「生きている」存在ですから継起的であり時間(動)的存在です。ここでも「自我―即―有―即―時」が成立しています。
4.飛んでいる矢は止まっている
 古代ギリシャの哲学者ゼノンが後世に「飛んでいる矢は止まっている」という問いを残しています。いわゆるゼノンのパラドックスです。このパラドックスをたとえ話として、今西錦司流に飛んでいる矢を構造的機能的存在と見れば、構造的存在としての矢は刹那に空間的存在であり「止まっている」、継起的に非連続の連続として矢(主体)は「飛んでいる」存在でもあるのです。
 競馬に喩えてみましょう。鞍上の騎手と馬の関係では、疾駆する馬は流れている時の有り様であり、時の流れとともにある鞍は“今ここ”の刹那の場(空間)その上に騎乗している騎手が我(主体・自我)という存在と云えるのではないでしょうか。人馬一体の疾駆はそのまま、道元のいう「有⇔我⇔時」の現れ(相)といえます。人間も誕生からゴールまで「人生は競馬」、「生死一如」、時間とは鞍上の主体の人生そのもののことでもあります。
 今西錦司の師であり京都学派の祖、西田幾多郎の言葉を借りれば「時間即空間・空間即時間」、時間と空間は絶対矛盾的自己同一なのです。ゼノンのパラドックスの「飛んでいる矢」こそ、宇宙創成137億年爾来の「いのちの活き」のことであり、その矢の飛んでいる方向こそ「いのちの活き」の不可逆な方向性なのです。
5.エントロピー増大の法則
 C・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」のなかで人間が時間という概念でとらえているものはエントロピー増大の流れだといっています。「エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。」と。 分子生物学者福岡伸一は著書「動的平衡」に「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」そして「エントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に自ら細胞を破壊し再生することで個体を維持している」と著しています。「サステナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」と。この動的平衡の流れを人間は、「時間」という言葉にしたのでしょう。
 樹木(図1)は幹から枝へ枝から葉へ明瞭な区切りはなく天空に向かって伸びていて、その姿を丸ごとすっぽり空気が包んでいます。そして幹は地中に潜り、どこまでも深くそして広く根を伸ばしています。幹と根の区切りも明瞭ではなく、根は土との境目も不明瞭なままにそのまますっぽり土に包まれています。樹木をすっぽり包んでPhoto_20200201135501いる空気と土、それはそのまま大自然であり、宇宙そのものであり、樹木は丸ごとそのまま大自然に包まれつつ、大自然と一体の存在なのです。
 葉を通して炭酸ガス(CO2)を吸収し、大地からは根を通して水(H2O)や養分を吸収して幹を、枝葉を構成していきます。構成されたものは有機物(炭素化合物)であり、それはそのまま高エントロピーそのものです。樹木と大自然の接している接面の外の大自然が相対的に低エントロピーであり、そのエントロピーを吸収し構造(身体)化していく過程そのものが、樹木が「生きていること」なのです。
 この樹木の切断面(図2)を見ると切断面を巻き尺で計っています。それはそのまま一年に一輪ずつ、拡がっている年輪でもあります。「時間=空間」を証明しています。樹木は大自然に包まれつつ大自然を内に包み込んで年輪(構造・身体・過去)化しているのです。
 図(3)にみるように、樹木と大自然と接している接触面が“今ここ”の絶対現在です。その接触面の内が“今ここ”の刹那の過去であり、外が“今ここ”の刹那の未来です。樹木の身体は未来の過去化、低エントロピーから高エントロピーへの流れ、この「流れ」を時と名付けたのです。Photo_20200201142601だから「時間は概念として存在しても独立した不変の実在ではない」ということです。
  生きとし生けるものはすべてこの樹木のように大自然(宇宙)に包まれつつ、大自然(宇宙)を包み込んで生きている(流れている)存在なのです。だから、すべては流れている時であり、すべては変化して止まない、不変の実在はないということなのでしょう。
6.行く川の流れ
 方丈記の冒頭の一節は川の流れにたとえて、世の中も人も住処も水の流れと同じだ、と詩っています。 空間的存在としては川、時間的存在としては水の流れ、「川即水」を詩っているのではないでしょうか。
 「行く“時”の流れは絶えずして、しかも元の“時”にあらず。“時”の流れに浮かぶ、うたかたは、浮かびかつ消え久しくとどまりたるためしなし」と、そして「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と詩っています。
 人は時であり、川は人生だといっているようにも思えます。こんなことを考えるのも、潮騒の音も微かに聞こえてくる年回りになった徴なのでしょうか、己れも存在ではあっても実在ではない 、ということですね。

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2020/01/28

<定義を変えるなら冠は「循環型」に>

Photo_20200128133601 ストックホルダ型資本主義からステークホルダ型への模索とあります。しかし資本主義をストックホルダ型とかステークホルダ型とか冠を取り換えて不公平、不平等を拡大したのは騒いだのは誰だったのか。
 記事には50年前ダボス会議の第一回にフリードマンが提唱したとありますが、その説を旗印に掲げて世の中を変えていったのは50回を数えるダボス会議に出席してきた世界を統べるリーダー達ではなかったのか。今さらただ冠を変えようといわれても、そのためにこの50年間の間に格差の闇に沈んでいった人々の霊は浮かばれないのではないでしょうか。世界の上位42人の超富裕層の資産総額(1兆5千億ドル)が世界の人口の下位37億人の富と同額だと報じています。日本の株主資本主義化はまだまだ途上にあり、とても冠を変えようという議論の起きる気配はありません。
古代の豊穣の祀り(お祭り騒ぎではなく)では収穫した品々を供物として捧げています。冠を変えるならまずは富裕層の富を供物として捧げ、清めた冠を頂いて欲しいものです。この記事にはステークフォルダとして図(1)にみるように、「①環境・②顧客・③仕入れ先・④株主・⑤社員・⑥地域社会」が⓪会社を中心に描かれています。環境から始まって右回りに地域社会まで円になっていて中心の会社と矢印(⇔)で繋がっています。
  Photo_20200128133603 形はとてもまとまっていてよいのですが、よく見るとつまるところ横文字の「stakeholder 」を片仮名に換えただけのようにみえます。会社という全体と①~⑥にリストアップした個の関係です。全体と部分の整合性のとれた関係、部分の和が全体であるという二元論的関係にみえます。
 これでは①~⑥とそれぞれが⓪会社とのウイン、ウインを円形にまとめただけのように見えます。「世間良し」もみえなければ、全体と個の矛盾する目に見えない関係性がみえないのです。例えば、ここに⑤社員とありますが、正確には従業員、その従業員は「労働者即消費者」という裏返しの絶対矛盾な存在なのですから、労働者の賃金を減らせば、全体としての消費は減るという当たり前な関係です。小売りサービス業にロボットを使って、労働者を排除すれば、全体としては消費は減る、全体と個の絶対矛盾です。
 今議論されている、SDGsの議論もこの図(1)に示された、⓪会社と①のウィンウィンの関係に終始しているように思えます。
   ①の環境は他の②~⑥から⓪会社まですべてを包んでいます。環境とは大自然のことであり、宇宙のすべてのことでもあるのですから。そして⑥の地域社会も①に包まれつつ⓪~⑤のすべてを包んでいます。そして②の顧客はそのまま⑤社員とも④とも重なっているはずですから。
 やはり横文字を日本人として日本語に翻訳するには、一歩引いて、日本列島に深く刻まれているであろう縄文の思想「森羅万象に神宿る」、それに続く最澄、空海の開いた「山川草木悉有仏性」を織り込んで二元論から脱して考えてみたいものです。
 西田哲学では「全体と個」の関係を「多即一・一即多」といっています。「個は全体に包まれ、全体は個に包まれる」と全体と個は絶対矛盾的自己同一であると。前半は、図(2)「全体は個を包み」のように表現できます。最奥の⑦宇宙(森羅万象)に⑥言語世界(人間世界)は包まれ、⑤文明・国家は⑥に包まれその上に①株主(資本)、②経営者、③従業員、④顧客と⓪会社にまつわる関係者がロシア人形のマトリョーシカのように包まれています。
Photo_20200128133602ここまでが「全体が個をつつむ」関係性です。この重なっている中心をTシャツを脱ぐように裏返すと図(3)「個は全体を包む」が現れるのです。この裏返すという逆説が「全体即個・個即全体」の西田哲学にいう絶対矛盾的自己同一であり、鈴木大拙の「即非の論理」です。
 最奥の宇宙から入れ子のように重なっている中心が会社という、いのちの活きです。中心に時が流れ、会社に関係する森羅万象あらゆるものの「いのちの活き」が時の流れと共にここを流れているのです。資本主義の始原のいのちの活きである「お金のいのちの活き」も例外ではなく、この中心を流れています。
 縄文文明の基層にある「森羅万象に神が宿る」最澄、空海の山川草木悉有仏性」、この神、仏性を「いのちの活き」とワープロ変換できれば、会社にも会社固有の「いのちの活き」があるといえると思うのです。
 ①~⑧の関係性の中心を森羅万象のいのちの活きが流れていると思える「循環型」を冠にした資本主義に進化して欲しいと願っているのです。
 現実はこの日経新聞の記事に第三の型として国家資本主義が書かれているように、資本主義も変化していくのですから、中国型の国家(一党独裁)型資本主義、アメリカ型の株主(資本中心)資本主義がこれからも奔流となって溢れていくのでしょう。ノアの箱舟の物語が未来を暗喩しているのかもしれませんね。さてさて箱舟に乗せてもらえるのは誰?
<2020年1月23日日本経済新聞朝刊-資本主義の再定義探るー>
ダウンロード - 20200123e697a5e7b58ce69c9de5888ae3808ce38380e3839ce382b9e4bc9ae8adb0e3808ce8b387e69cace4b8bbe7bea9e381aee5868de5ae9ae7bea9e3808d.pdf

 



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2020/01/26

<「武漢封鎖!」からカミユの小説「ペスト」を思い出す>

 テレビ、新聞に踊る言葉。鉄路、空路そして陸路も封鎖したと中国政府は発表しています。テレビ報道でも沢山の重機が鎌首を上げ下げしながら、地上を動き回っている不気味な光景が映されています。感染者を収容する場所を用意しているのでしょう。
51wforw1bfl 小説はフランス領アルジェリアの港町オランにペストが蔓延し、フランス政府によって街を完全に封鎖された街の住民、たまたま旅行で滞在したために封じ込められた旅人、などなど、ペストを封じ込める一年余に渡る人々の死の恐怖に抗いながら暮らす、様々な心理模様を描いています。
 小説の主題はペストの蔓延と封じ込めを通して、人間が生きることの「不条理性」です。1947年の作品、著者はナチスドイツの占領下でレジスタンス運動の闘士として戦った経験もあり、ペストをナチスドイツに置き換えれば、そのまま占領下のフランス人の心情にも通じるのでしょう。
 「歴史は繰り返す形を変えて」どこで聞いた言葉か定かではないのですが、今を生きる我々世代にとって、ペストは「新型コロナウイルス」であり、「失われた30年」であり、「環境破壊」そのものでもあります。
 ジム・ロジャースは著書「お金の流れで読む日本と世界の未来」の冒頭に「重要なのは、『歴史は韻を踏む』ということである」と著し作家マーク・トウェインの言葉として紹介しています。「歴史は繰り返す形を変えて」もここに由来するのでしょうか、定かではありません。51ffedp0osl
 小説「ペスト」がモーツアルトの旋律のように揺らぎながら繰り返すということはペストが、企業の中高年のリストラ、格差拡大、環境破壊と姿形を変えて顕われ、主題の「不条理」が続いていくということなのでしょうか。
 「不条理とは」著者カミュは「シーシュポスの神話」にこう著しています。「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、その両者ともに、相対峙したままである状態」だと。
 あくまで合理的論理的に生きようとする人間の性、己れのその合理的論理的思考から想定の内と外として切り捨ててしまった非合理・非論理的「ものこと」との遭遇。その想定外の「ものこと」との遭遇と”対峙して生きる”ことが不条理を生きることだとすれば、それこそ「自己を生きる」ことなのだと思う。
 若い頃、世の中の「不平等」「不公平」を嘆きつつ、手にした折には掴み得なかった主題が、人生とは「不条理を生きることだ」と、気づくのになんと長い歳月を要したことか、と苦笑するばかり。

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2018/12/31

「紅白の南天」のお正月」

<紅白の南天>

20190101_3 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。我が家の紅白の南天がたわわに実っています。南天は我が家に10本ほどありますが、すべて野鳥が運んできたものです。この紅白の南天も例外ではありません。庭で大きくなり実ったものは、野鳥の越冬の食になります。住居から遠いところから実がなくなっていくので、この紅白の南天もこれから春にかけて野鳥が食べにくるのでしょう。そして落とした糞からまた新しい芽が伸びてきます。鳥類は恐竜の進化したものだそうですが、この循環が鳥類の「いのちの活き」の循環であり、繁栄の道なのでしょうね。
2019

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