2020/06/15

<経済の「実」と「虚」(2)-オオカミは来るか、来ないか->

経済教室「物価高騰で収束シナリオも 危機時の財政金融政策」斎藤誠名古屋大教授

2020年6月12日日本経済新聞の経済教室に掲載された斎藤誠名古屋大学教授の論文です。論文の最後にこう著されています。
  「『ハイパーインフレが来る!』は羊飼いの少年の嘘かもしれない。だが『ハイパーインフレは来ないけれども.....……』という村の老人のためらいには耳を傾け、羊たちを守る必要がある。」と。
 「・・・・」の部分がタイトルの「物価高騰で収束」であり、50%程度の物価調整を覚悟しておくという老婆心です。
 50%の物価調整は1971年8月の「ニクソン宣言-米ドル金兌換一時停止」によって始まった物価高騰と同じです。会社は30%、30%、20%と三年間で賃金を2倍に調整してくれました。通貨円からみればちょうど物価調整50%です。賃金が上がったのではなく、通貨円の価値が半分になったのです。
 童話は子供のために書かれていますが、大人のためのたとえ話でもあります。イソップ童話「オオカミ少年」は、嘘から出たまこと(実)、来ないはずのオオカミが来て、大切な羊が襲われてしまう結末です。
 「虚」に口がつくと「嘘」になります。少年は嘘をついていたわけではなくオオカミというブラックスワンの出現を警告していたのかもしれません。村人は少年の「虚」に己れに都合よく口篇をつけて「嘘」だと思ったのかもしれません。そしてオオカミに喰われた羊は、村人たちのことを喩えているのかもしれません。
 MMT(現代貨幣理論)が巷間に流布されて多くの方々が「自国民が自国通貨を受け取る限り、国は自国通貨を発行し続けることができる」、「インフレはコントロール可能だ」というようになりました。
 コロナパンデミックの実体経済の損傷を修復するために、世界中の中央銀行が大量の通貨を増発し始めています。日本の財政赤字はコロナ以前、既にGDPの2.2倍、ポストコロナにはどこまで増えるのでしょうか。斎藤誠教授の警告に耳を傾けて、そのための備えを心掛けておくのも一考かもしれません。
 ブラックスワンの著者N・N・タレブは著書「身銭を切れ」の中でブラックスワンを考慮の内におくことを「身銭を切る」「リスクを取る」と表現しています。
 そして、「合理性とは、言葉ではっきりと説明できる要因によって決まるのではない。生存に役立つもの、破滅を防ぐものだけが、合理的なのだ。」、「起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものすべて、理由があって生き残る」と著しています。なぜなら「『生き残ること』がすべてに優先する」のですから。
 人間は論理的であること、己れに都合の良いことを合理的だと勘違いしがちです。「インフレはコントロールできる」は論理的なのか、タレブのいう合理的なことなのか、さてさて。
 考えておきたいもう一つの視点があります。借金(負債・借入金)の本質とは何か?ということです。借金は他者の未来の「いのちの活き」を借りて、己れの現在の「いのちの活き」として用いるものです。個人ならそれは己れの明日の「いのちの活き」で贖うことになります。用いたときすでに、身銭を切っているのです。不況期に中小企業の経営者の自殺が増えるといわれるのも、また然りです。
 国家の赤字国債は未来(次代)の国民の「いのちの活き」を現在の国民の「いのちの活き」のために用いることになります。それは主権在民の民主主義国家では、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うことになります。
 財政赤字を出す現在の為政者は、それを個人のように己れのいのちの活きで贖うことはできません。ですから、明日(次代)の国民の「いのちの活き」で贖うものであるという視点で慎重であらねばならないと思うのです。タレブのいう「身銭を切って」いないのですから。
  ここでは、明日(次代)は「虚」(みえないもの)、現在は「実」(みえるもの)ということになります。現在と明日を切断して思考する二元論的価値観ではなく、「虚と実」の即非の論理という価値観で明日(虚)の視点から現在(実)をみることが重要ではないかと思うのです。「身銭を切る」とは「虚」から「実」を見る視点をもって生きることでもあるのではないでしょうか。斎藤誠教授の視点から”今ここ”をみることも。
書 名「身銭を切れ」
著 者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2020/01/post-f08095.html

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2020/06/08

<経済の実と虚-1971年8月米ドル金兌換一時停止以前と以後ー>

<経済の虚と実-1971年8月15日(米ドル金兌換停止)以前と以後―>
1.「経済(お金)もいのちも!」と強欲に
 「経済よりいのちが大切!」と、安倍首相と小池都知事は張り切って「自粛」、「自粛」と事実上の都市封鎖に踏み切りました。直前まで東京五輪が中止にならないように裏で奔走していたことはおくびにも出さず、誰も知らないと思っているかの如くに、です。
東京五輪の目的だってスポーツの祭典でもなく、税金を投入しての経済成長狙いであって、人のいのちではなかったのです。それが証拠にマラソン競技の五輪出場選手を決めるために、たった0.1秒のために一億円を投じています。これがスポーツは建前の「お金」志向でなくて何といえばよいのでしょうか。
 20200605mmt 「いのち」と「経済」を都合よく二元論で切り分けて、己れ自身を騙しているのが、われわれ日本人の“今ここ”の姿なのではないでしょうか。現在の日本人の自粛による経済の萎縮も同じ二元論の真逆な現象の現れにほかならないと思うのです。
  今日、人間の生きる世界は、二元論で切り張りするほど単純ではない、経済無くして現代人の「いのち」は保てない、率直に「経済も『いのち』も」と強欲に叫んでみてはいかがでしょうか。もし東京五輪招致以前に叫んでいたら、今どうなっていたか。もし小泉・竹中政権の経済(目先の金)のための構造改革に対しても、「『お金(経済)』のために『いのち』を犠牲(いけにえ)にするのか!」と叫んでいたら、現在の格差社会もそしてポストコロナの日本を襲うであろうさらなる格差拡大も幾分は和らぐのではないか、と想像することもできるのではないでしょうか。お金、経済といっても、本当に人々の生活に必要なものは「モアモアマネー」ではなくて「サムマネー」なのですから。
2.1971年815日以前
  
いつのころからか、実体経済、金融経済と経済を二元論的に分けて語るようになりました。生物学者今西錦司さんは著書「生物の世界」のなかで「生物(生きもの)とは空間的に構造的、時間的に継起的な存在である」と著しています。空間と時間は二元論ではなく、「生きもののいのち」は、「構造的『即』継起的」、「身体『即』いのち」の絶対矛盾的自己同一を生きているのだ、生物を西欧的物質主義的側面ではなく、「生きていること」「いのちが活いている」こと、の側面から捉えようとしていたのです。
  経済を実体経済と金融経済と分けるようになった、その起源は1971年8月15日のニクソン宣言「米ドル金兌換一時停止」にあるのではないかと僕は思っているのです。第二次世界大戦終了後、圧倒的な軍事力、圧倒的な経済力を背景にアメリカは自国通貨米ドルを世界の基軸通貨とする、と宣言したのです。金一トロイオンス(31.1㌘)と35米ドルとの交換を約束し、世界各国の通貨はその米ドルとリンクすることで各国通貨の安定を図る仕組み、いわゆるブレトンウッズ体制のはじまりです。「アメリカの約束」という前提で米ドルが、そしてその傘下で各国の通貨が信じられ、誰もが受け取るようになった瞬間でした。
  経済学者岩井克人さんのいう「貨幣は自己循環論法」が「アメリカの約束」によって成立したのです。通貨そのものは紙切れですが、約束が守られている限り、それは金(ゴールド)と同じだ、と。
  図1.にみるように経済は物的資産(もの・実)と通貨(こと・流動性)で循環していました。人と人との間を循環し、その通貨が間接的ではあれ、金(ゴールド)という物的資産と繋がっていた時代です。アメリカの保有する金(ゴールド)によって通貨発行に限度があり、たとえ基軸通貨といっても、通貨発行量(流動性)を上回る経済成長はできない時代でした。人間の「いのちの活き」の経済(お金)的側面も「金(ゴールド)との約束」に縛られていた時代です。たとえば株式上場企業の増資は既存株主割り当ての額面増資であり、株価と企業実態が大きく乖離することはありえなかったのです。20200605mmt_20200608142401
3.米ドル金兌換停止以後
  1971年8月15日突然アメリカは「米ドルと金の兌換一時停止」を宣言しました。それまでの約束を反故にしたのです。その瞬間まで後生大事にいつかは金(ゴールド)と交換できると信じて保有していた現預金、米ドルのみならず世界各国通貨、すべての通貨が反故紙になったのですから世界中の人々は大混乱です。
  それはそうですね。存在すると信じていた神が突然いなくなったのですから。拠り所をうしなった人間はどうしたらよいのか。皮肉なことに815日、それは日本人には忘れることのできない、記憶に刻み込まれた日付です。現人神、天皇陛下がご自身で「朕も人間だ!」と宣言された日付けと同じだったのです。アメリカはご丁寧にもその一か月前7月15日キッシンジャーは電撃的に中国を訪問し、日本の頭越しに米中和解の握手をしていたのです。
  その直後オイルショックといわれる紙切れになった通貨に対する「もの」からの反撃、ハイパーインフレが起こりました。われわれ労働者の賃金も3年で2倍に引き上げられ、かろうじていのちを繋ぐことができました。通貨が純粋紙切れになったとき、通貨が信じられないもの、怪しげなもの、「虚」になったとき、経済を改めて実体経済と金融経済と分けて語るようになったのだと思います。
  むしろ実体経済の対語として虚性経済と名づけたほうが、二元論的に別々のものにならないでよかったのではないかと思います。人間の生活(いのちの活き)を支えている経済も実体経済と金融経済、実と虚の絶対矛盾的自己同一なのですから。軽々に「経済よりいのち」と相対的なものとして語ることはできない「ものこと」なのです。(注.「実」と「虚」の二重性を「図2.即非の論理」としてまとめてあります)
3.通貨は政府の発行する債務証書
  
新型コロナショックの経済対策として米ドル、元、ユーロ、円と世界の中央銀行(国家)は通貨を大増発しはじめました。それ以前から日本はGDPの2倍を超える財政赤字を抱える借金大国です。2012年秋以来日銀の黒田総裁は物価上昇2%を掲げ、通貨円を増発していますが、しかし物価はピクリとも動きません。通貨の増発と物価上昇が結び付かなくなってしまったのです。
  昨秋L・ランダル・レイ著MMT(現代貨幣理論入門)が出版され俄かに、通貨はいくら発行しても国家は破綻しないという論者が増えています。「自国民が自国通貨を受け取る限り」という括弧つきです。括弧の部分を小声でいうのです。「受け取る限り」とは「信じている限り」ですから、神と同じことです。
  そしてMMTは本音で「通貨は政府が発行する債務証書だ」といっているのです。債務証書なら幾らでも発行できて当然です。現在、人びとが後生大事に貯めこんでいる現預金は政府の発行する借金の証文なのです。そして古今東西、国家が己れの借金を返済した試しは残念ながらありません。
  複式簿記的に表現すればB/S借方に権利として記載されている現預金の貸方(裏面)は義務を果たすつもりのない、怪しげなものと対になっているのです。通貨の本来は実体経済を円滑にさせる流動性を確保する道具です。ですから図3にあるように中央銀行が市中銀行を通じて実体経済の場へと注入するものです。物的資産(実)や人間(実)の「いのちの活き」(虚)を支えるものなのです。実体経済はこの流動性という「虚」と物的資産という「実」の二重性で生かされているといえます。それ以上でも以下でもないとMMTでもいっていますが、それが事実なのです。
  通貨は発行者にはシニョレッジ(通貨発行益)がついて回ります。紙切れを刷るだけで、ものが買えてしまうのです。図3.に記したように1971年815日以前は、金1㌘は1.13米ドル、日本円では405円で交換する約束でした。今では金1㌘56米ドル、日本円では6000円です。米ドルでは50倍、日本円では15倍ですから、アメリカは日本より3倍以上シニョレッジで得をしていることになります。長年の日本の貿易収支の黒字、余剰米ドルを金(ゴールド)に換えていたら、さてさて。もちろんそんなことアメリカが許すはずはないのです。今もって外貨準備に金(ゴールド)を保有していないのは日本政府くらいのものですから。
4.物的資産の金融商品化
  
金(ゴールド)から解き放たれた純粋通貨は以後基軸通貨米ドルを筆頭に大増発されていきます。それを吸収していったのが「実体経済の場」「、実」と「虚」の二重性の「場」である虚性経済(金融経済の場)です。物的資産を金融商品として金融市場(マーケット)に並べることにしたのです。
  株式会社も、実体経済の場の存在ですが、株式を上場すると、企業の所有権として、虚の場に陳列されてしまいます。そして賃貸ビル、ホテル等々「実の場」にあった物的資産も近年ではREITと称して金融商品化されその権利(資産)は「虚の場」に陳列されていきます。企業や不動産の経営で得た利益は本来「実の場」を循環するはずのものですが配当として、そこから抜けていきます。自社株買いに至っては、実の場の企業の内部留保がそっくり「虚の場」へ流出してしまうのです。生産性向上、賃金引き下げ、法人税引き下げ等々の利益増もことごとく「虚の場」へ流出していまいます。人間の生活を支えるはずの実体経済の場で創造した経済価値(粗利益=mPQ)が通貨の増発により虚体経済の場へ吸いあげられていくという様相です。
  構造改革の名のもとの民営化も見方を変えれば株式会社化であり、本来国民の物的資産であるはずのものが金融商品として通貨(債務証書)に置き換えられていったと考えると辻褄が合います。
  実体経済の「実の場」と「虚性経済」の「虚の場」は通貨(債務証書)の循環を媒介に目に見えないところで繋がっています。物的資産の金融商品化によって「虚の場」へ移った通貨は、そのまま「虚の場」で循環し、居心地がいいのでしょう「実の場」へ出てこないのです。
  2012年末から安倍・黒田マジックと称して、それまで禁じ手だった日銀の国債直接買い入れ、株式の直接買い入れをはじめました。日銀がそれらを買うことは、「虚の場」で通貨(債務証書)を増発することですから、以後日経平均はコロナパンデミック直前の20202月末まで8年余りで10,400円から23,800円と上昇しました。安倍・黒田マジックの目標インフレターゲット2%は「実の場」の目標ですが、増発した通貨は「実の場」へ出ることはなく「虚の場」を循環し続けていたのですから、目標を達成できないのは当然といえば当然のことです。
5.ポストコロナの実体経済
  
コロナショックで日経平均は2020年3月半ば一瞬16,400まで下げたものの2か月足らず過ぎた6月上旬にはほぼ2月末水準に戻っているのです。虚体経済(金融経済)虚の場は、あたかもコロナパンデミックの傷は癒えたかのようです。世界を襲ったコロナパンデミックの都市封鎖、日本も自粛とはいうものの事実上の都市封鎖です。その実体経済への影響はまだこれからだというのに。
  それにしても世界の中央銀行の通貨増刷はリーマンショックをはるかに超えています。リーマンショックのときと異なり、いきなりの実体経済の需要収縮の危機、労働者の失業の危機ですから、当然増刷した通貨は人々の生活の場である実体経済の場に投入されるはずです。株式上場していない企業の支援、労働者の生活の支援として使われるものは実体経済の中で需要を増加させ、循環していくはずです。
  しかし現実には増刷されたものの大半は既に金融商品化された株式上場企業への資本注入、運転資金支援として投入されることになりそうです。これらの通貨もしばし実体経済の場で事業支援として循環するでしょうが、株式上場企業の事業の復元は、株価の上昇を通して虚性経済(金融経済)の場へ吸収されていくのではないでしょうか。
  こんな様相を、異色の物理学者長沼伸一郎さんは著書「現代経済学の直観的方法」のなかで、物理学者らしい量子物理から譬えを引いてコラプサー(縮退)と表現しています。まさに直観的方法に相応しいたとえです。
  コラプサーとは「恒星の中心部が固着して温度調節機能が麻痺し、熱が際限なく中心部に溜まってしまう状態」のこと、日本語では縮退というのだそうです。恒星がブラックホールになっていく様相、恒星が死へ向かう様相のことのようです。
  図3.の実体経済の場にあるはずの物的資産が金融商品化して、虚体経済の場に吸収されていく様相と同じイメージではないでしょうか。実体経済の場で通貨が流動性(キャッシュフロー)として循環はしても物的資産として残らない状態です。だから人間の生活の場であるはずの、実体経済の場がシェアエコノミー、ギグエコノミーさらにはサブスクリプションとフロー化していくのではないでしょうか。これらのビジネス手法がイノベーションと語られることすら、みみちい仕業にみえませんか。ビジネスには違いないのですが、いかにも「掠め取る」といったイメージに僕には見えるのですが。
  実体経済の場と虚性経済(金融経済)の場は実と虚の絶対矛盾的自己同一の場であり、かつそれぞれ実体経済の場も、虚(通貨)と「実」(物的資産)の絶対矛盾的自己同一のあり方をしています。さらにその虚体経済(金融経済)の場も、「虚」(通貨)と「実」(金融商品)との絶対矛盾的自己同一の場になっています。二つの場を結び往来しているものが、純粋であるがゆえにつねに不安定で何か「実」と結びつきたい、なにものにも縛られない、金(ゴールド)の呪縛から解き放たれた通貨Bだということではないでしょうか。僕は浮遊霊と名づけています。
  危機の度に大増殖し、実体経済が生み出した経済価値(粗利益・mPQ)をその「実」の場にとどめ置くことなく、虚性経済(金融経済)の場へ吸い込んでいく通貨Bはポストコロナ社会の日本そして世界をどうしようとしているのでしょうか。今日の日経平均23,178円そしてNYダウ27,111円。
  ちょっとの間、善悪、好悪、美醜などなど二元論的価値観の眼鏡をはずして図2.即非の論理の眼鏡をかけてポストコロナ社会を眺めて、「さて、己れはいかに生きるか」考えてみるのも一興ではないでしょうか。かくいう己れは「愚や愚や己れを如何せん」と思案するばかりです。(苦笑)

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2019/06/21

女心も絶対矛盾的自己同一?

<図1.女心の詩>

201906222019年5月6日GW最終日北ア燕岳に登るべく、JR大糸線穂高駅に降り立った。今日は登山口の中房温泉に宿泊するだけだから、バスを待つ間時間はたっぷりある。駅前の風変りなお店「スプーンカフェ」のドアを押した。この駅頭に立つたびに、変わったお店と首を傾げたが、ドアを押すまでにはいたらなかった。店内は想像を超える驚きのPOPだらけだった。その一つを紹介しよう。
1.絶対矛盾的自己同一そして即非の論理
 図.1は女心を詩っている。男にとって右から読むと天国、左から読むと地獄ともとれる詩だ。コーヒーを飲みながら、これが西田哲学の絶対矛盾的自己同一のことではないかと思った。難解といわれ、論理的に解説することの難しいこの言葉もこの詩を鏡にして映してみると少しは近づけるかもしれないと思った。注釈を加えて「図.2女心も絶対矛盾的自己同一?」と描いてみた。
 絶対矛盾的自己同一は、ヘーゲルのいう「正・反・合」の世界、アウフヘーベンする相対弁証法の世界のことではない、「正・反」のまま、矛盾的自己同一のまま動き行く世界のことだ。
 大乗仏教を欧米に広めた鈴木大拙は、晩年大乗仏教の究極の理として「即非の論理」を造語した。鈴木大拙と西田幾多郎の二人は、若い頃からの生涯の友、その二人が共に、かたや大乗仏教の境地から「即非の論理」、かたや日本的哲学の境地から絶対矛盾的自己同一と造語した。若い世代はともかく、プレもポストもひっくるめて我々団塊の世代の日本人なら誰でも耳に覚えのある般若心経「色即空・空即色」の世界でもある。

<図2.女心も絶対矛盾的自己同一?>

20190621_20190622145901 この詩をまずは右から詠み、次いで左から詠んでみる。さて右か左か「建前と本音」「本音と建前」男はどちらを信じたらいいのだろう。出会った頃は右から、何時のころから左からと変化するのか。そうではない。単純に二元論で分けることのできない、人間の心だ。この様相を鈴木大拙は「即非の論地」という。「A=非A」、AはAのまま、そのままでAではない」と、いう。「一つではないが二つでもない」とも。
2.「と」と「即」 
 日常は当然のことで気にも留めていない「時間と空間」も「時即空」の絶対矛盾的自己同一、気軽に使っている言葉“今ここ”という言葉も現在の居場所として使ってはいるが、現在という時は実在しない。現在(今)とは、過去と未来とを、空間の一点(ここ)で分断する刹那のことなのだ。西田哲学では非連続の連続、過去即未来といっている。現在とは過去と未来が非連続の連続として、過去を包みながら、未来をも包んでいる絶対矛盾的自己同一である、といっている。そして死は過去、生は未来、だから現在とは「死即生」「生即死」死と生のあいだ、生死一如の場のことだ。
 「地獄と極楽」も、「娑婆と浄土」、「此岸と彼岸」も、“今ここ”の現在の絶対矛盾的自己同一であり、二つにして一つ、一つにして二つのこと、言葉で分断して直線的に並べたものではない。
 ヴェルディの歌劇「リゴレット」では「風の中の羽のようにいつも変わる女心・・・・・」と歌っている。これは女心を二元論で分断した一面を歌っているに過ぎない。「幸せになりたいの」だけが女心の真実なのであろう。同じ「女心の唄」でも日本の古い演歌には「貴方だけはと信じつつ恋に溺れてしまったの心変わりが切なくて・・・・・」と女心を歌っている。女心も男心も右と左の間を彷徨っているのだろうか。
 さて後期高齢者の我々世代には、「一緒の墓には入りたくない」「こんな亭主とは今生限り」と宣言する奥様もおられると聞いたことがある。まあ仕事と遊びで家庭を顧みなかった我々世代の男どもは、生死の「あいだ」だけでも添い遂げてくれるというのだから、それはそれで十分感謝しなくてはならないのだろう。
 僕は「散骨してくれ」、と家内と娘に希望を伝えてある。娘は「承知しました。でも死んでしまえば、どうしようとこっちの勝手だから!」と捨て台詞。そうなんだ、己れの死も己れは知ることはできないのだ、己れにとって、己れの死はないのだから、ないものを心配しても始まらないのだ。
  日本語では「と」という一文字が重要な意味をもっている。AとBの「あいだ」のことだ。物事も「物」は空間的かつ過去的であり、「事」は時間的かつ未来的であり、その「あいだ」が「と」である。だから「物事」は「ものこと」、「もの『と』こと」と、「と」をあいだに挟んで「と」を思考することが肝心だ。近年流行りの言葉「ものづくり」「ことづくり」も「もの」「こと」の二元論で分断して考えるから、「こと」はうまく運ばない。「もの」は過去だから作ることはできない。また「こと」は未来だからこれも作ることはできない。西田哲学では、過去と未来の「あいだ」の現在をいのちの活く場、「作られたものから作るものへ」という。現在は過去を抱き、未来を抱いている絶対矛盾の場、だから「ものからことへ」であって、「ものづくり、ことづくり」ではなく、軸足を現在が抱く未来に移しながら過去と未来の差異を埋めていく、「ことのもの化」と思考するといいのではなかろうか?
 「女心の詩」というと女性から「セクシュアル・ハラスメント」と叱られそうだが、「男と女」も絶対矛盾的自己同一、言葉から生じる二元論的意識の仕業、生きものとしての人間の遺伝子もX、Y二つの染色体の絶対矛盾的自己同一なのだ。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」、鈴木大拙の「即非の論理」、そして「色即是空」も、この宇宙の理を言葉にしたものではないかと思う。

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2019/03/17

<「ものづくり」から「ことづくり」へ>-「もの」と「こと」の“あいだ”-

1.時は未来から過去へ流れている

  近年、見聞きすることの多いキャッチコピーです。誰が、「何のために」掲げたのでしょうか。「もの」と「こと」の間の「から」そして末尾の「へ」が気になります。「『もの』から『こと』へ」と聞こえこないでしょうか。失われた30年、とりわけこの20年、日本の企業から新しいものが生まれてこない、というより「もの」が売れないという焦りや苛立ちが背景にあるように思うのですが、いかがでしょう。焦りや苛立ちからは「こと」は作れないのではないかと思うのです。焦りや苛立ちは“今ここ”の心の有り様ですから。

  ひとの意識は、とかく時は過去から未来へ流れていると思いがちです。己れの立っている位置を中心に「ものこと」を眺めると確かにそう思えるのです。目が覚めると夜は朝になっています。ですが、今日が明日になること、過去が未来になることはないのです。今日は昨日になっても明日になることはない。明日は今日になり、今日は昨日になるのですから、時は未来から過去へ向かって流れているのです。

  このキャッチコピーに危うさを感じるのは、どこかに「ものづくり」は古い、これからは「ことづくり」という「過去から未来へ」という意識の流れを感じるのです。どこか過去に軸足を残している、プロダクトアウトのにおいを感じるのです。

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2019/03/10

「カードは時間の表象」ー他者の存在に気づく契機ー」

  <図1.カードは時間の表象>

20190310_5
1.お客様という他者(客体)
お客様カード」、「意思決定カード」、「リスクカードを引く」の三種のカードは、時を表している。会社盤が「ここ(空)」であり、カード(時・今)が回ってきたとき、「『今』と『ここ』」という時空が口を開ける。時空が開いたときが己れという主体性が刹那に立ち上がるのです。
 
「お客様カード」が存在しない、自ら販売の意思決定をするスタイルの経営体験(図2)では、六角形の盤上をマーケット、市場と呼び盤を取り巻く6人の参加者には他者の存在は見えない、6人は互いに敵同士、自我と自我、主体と主体がぶつかり合う闘争の世界になってしまいます。「より良いものをより安く」「売り込む」という姿勢になってしまうからです。
 
ところがお客様カードは、己れ自身は何も意思表示はしないのですが、突然6人の間に他者として割り込んできます。お客様という共通の他者の存在を介して6人の参加者がお互いを他者として意識するようになります。お客様との場(時空)を介して6人も「場」(関係性)を共有するからです。(図3.-関係性を生きる-)

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「なぜチャート3.は『株主資本額』なのか?

       <図1.会社の二重性>
201903101.経営も「もの」と「こと」の間
BST講座の経営体験の場で壁に貼る、チャート3.自己資本額を「株主資本」に変えたとき、親しい縁者から「ブルータス、お前もか!」と詰られました。僕がステークフォルダ型思考からストックフォルダ型思思考に変節したのではないかと誤解されたのです。そうではなく、まったくその反対の理由です。結論を先に言うと、株式会社の存在は法律的には「所有と経営の分離」というのですが、果たしてその二元論で考えてよいのか、多発する企業の不祥事(合法的と称するものも含めて)も中小企業の後継者問題、株式の相続問題も、「所有と経営」を二元論として考えているところに起きているのではないか?「所有『即』経営」の絶対矛盾的自己同一(即非)、経営は「もの」と「こと」との間、「と」として捉える必要があるのではなかと思ったからなのです。

 

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2018/12/31

「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」

   <図1.干支の循環>
20190101_2  明けましておめでとうございます。毎々の循環の賀状です。2019年の年頭に「お金と資本」を「いのちの活き」という視点で考えてみました。昨年末の株式市場の暴落をみて、すわリーマンショック再来かと胸騒ぎ、これも干支の循環と同じマネーの循環なのでしょう。21世紀の資本主義の風潮を「マネーゲームだ!」「資本主義の終焉だ!」「拝金主義だ!」と切って捨ててもその循環の流れを断ち切ることはできないことは明々白々。さてさて如何せん。
 
昨年は夢枕獏さんが著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」の中で空海の口寄せをして「言葉は器だ。この世で最も大きなものもこの器に盛ることができる。どんな小さなものもこの器に盛ることができる。」無限大の宇宙から極小の素粒子まで現世はすべて言葉の世界だと語っているのを見つけて思わず「これだ!」と膝を打って納得。

                    <図2-1.米ドルに刻まれた「神」の存在>
                     20181218_2

 

 

 
 
 

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2018/12/03

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2)

20181203

1. 1.資本も「いのちの活き」

「資本もいのちの活き」の視点から図(1)(2)を図(1-2)(2-2)に書き直してみた。貸借対照表の借方(左)に企業を成り立たせている資産が計上されている。生きものに譬えれば身体だ。その身体を成り立たせている「何か」が貸方(右側)に計上されている。生きものに譬えれば「いのち」だ。そのいのちを資本と名づけている。しかし経営用語としては、なにげなく、「資金調達」と云う。資金とは貸借対照表の借方の項目のことだから“こと”の本質からいうと、正確には「資本(いのちの)調達」というほうがその役割に気づきやすいと思う。そして他人資本とは「他者のいのち」のことであり、己れの未来のいのちの活きによって贖うものだ。株主資本は株主という「他者のいのち」のことだ。かつて株主資本を過去の内部留保も含めて自己資本と名づけていた。企業固有のいのちと錯覚していたのだ。本来企業という存在も、“今ここ”の関係性を生きている存在だから、自己自身として所有するものはなにもない。人間と同じ企業という自己(主体)も、虚無(からっぽ)の器だ。日本の株式市場に上場している企業人の多くが未だにこの変化を確かなものとして受け止めていないのではないだろうか。

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2018/11/24

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題

201811224 「経営とは何か?」を学ぶ若い方々にとって、今日の日産の経営問題は、格好のそしてなにより生々しい生きた教材だ。それだけに、カルロス・ゴーンさんの金銭に関わる個人的なことがらを善悪や好嫌といった二元論的視点に囚われない俯瞰的な視点が必要に思う。


1.「いのちの活き」

 「いのちの活き」は生物固有のものではなく、家族、部族、民族、国家といった人間が集う集団にも、集団を構成する個の命とは別の、集団固有の「いのちの活き」がある。だから企業には企業固有の「いのちの活き」がある。日産の今日的問題も「日産のいのちの活き」という視点から凝視する必要があるし、そこが経営的課題ではないかと思う。

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2018/05/03

今読む「新・生産性立国論」デービツド・アトキンソン著

書名「新・生産性立国論」

 

著者デービッド・アトキンソン著

 

出版社 東洋経済新報社
Img_1218_2 近頃多くの企業経営者や政府(官僚)が「生産性」「生産性」と声高に語っています。しかし「生産性」なる言葉を声高に掲げる方々の多くが「生産性とはなんぞや?」と、その意味をまともに捉えていないように思うのですが、いかがでしょうか。その現れが国会の「働き方改革」法案に現れています。政府(官僚)はデータを偽ってまで「働き方改革」法案を通そうとし、経済界もそれを歓迎しています。しかし「生産性とはなんぞや?」と真面目に問い直せば、この法案はどう贔屓目に見ても「働かせ方改革」法案にしか見えないのです。
 イギリス人の著者デービッド・アトキンソンは元ゴールドマン・サックスの金融人。そしていま現在は、なんと神社仏閣、国宝・重要文化財の修復を専門に手がける小西美術工藝社代表取締役社長というから驚きです。この本の帯に「『労働者の質』はトップレベル「『無能な経営者』こそ問題だ」と著しています。

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