2019/06/21

女心も絶対矛盾的自己同一?

<図1.女心の詩>

201906222019年5月6日GW最終日北ア燕岳に登るべく、JR大糸線穂高駅に降り立った。今日は登山口の中房温泉に宿泊するだけだから、バスを待つ間時間はたっぷりある。駅前の風変りなお店「スプーンカフェ」のドアを押した。この駅頭に立つたびに、変わったお店と首を傾げたが、ドアを押すまでにはいたらなかった。店内は想像を超える驚きのPOPだらけだった。その一つを紹介しよう。
1.絶対矛盾的自己同一そして即非の論理
 図.1は女心を詩っている。男にとって右から読むと天国、左から読むと地獄ともとれる詩だ。コーヒーを飲みながら、これが西田哲学の絶対矛盾的自己同一のことではないかと思った。難解といわれ、論理的に解説することの難しいこの言葉もこの詩を鏡にして映してみると少しは近づけるかもしれないと思った。注釈を加えて「図.2女心も絶対矛盾的自己同一?」と描いてみた。
 絶対矛盾的自己同一は、ヘーゲルのいう「正・反・合」の世界、アウフヘーベンする相対弁証法の世界のことではない、「正・反」のまま、矛盾的自己同一のまま動き行く世界のことだ。
 大乗仏教を欧米に広めた鈴木大拙は、晩年大乗仏教の究極の理として「即非の論理」を造語した。鈴木大拙と西田幾多郎の二人は、若い頃からの生涯の友、その二人が共に、かたや大乗仏教の境地から「即非の論理」、かたや日本的哲学の境地から絶対矛盾的自己同一と造語した。若い世代はともかく、プレもポストもひっくるめて我々団塊の世代の日本人なら誰でも耳に覚えのある般若心経「色即空・空即色」の世界でもある。

<図2.女心も絶対矛盾的自己同一?>

20190621_20190622145901 この詩をまずは右から詠み、次いで左から詠んでみる。さて右か左か「建前と本音」「本音と建前」男はどちらを信じたらいいのだろう。出会った頃は右から、何時のころから左からと変化するのか。そうではない。単純に二元論で分けることのできない、人間の心だ。この様相を鈴木大拙は「即非の論地」という。「A=非A」、AはAのまま、そのままでAではない」と、いう。「一つではないが二つでもない」とも。
2.「と」と「即」 
 日常は当然のことで気にも留めていない「時間と空間」も「時即空」の絶対矛盾的自己同一、気軽に使っている言葉“今ここ”という言葉も現在の居場所として使ってはいるが、現在という時は実在しない。現在(今)とは、過去と未来とを、空間の一点(ここ)で分断する刹那のことなのだ。西田哲学では非連続の連続、過去即未来といっている。現在とは過去と未来が非連続の連続として、過去を包みながら、未来をも包んでいる絶対矛盾的自己同一である、といっている。そして死は過去、生は未来、だから現在とは「死即生」「生即死」死と生のあいだ、生死一如の場のことだ。
 「地獄と極楽」も、「娑婆と浄土」、「此岸と彼岸」も、“今ここ”の現在の絶対矛盾的自己同一であり、二つにして一つ、一つにして二つのこと、言葉で分断して直線的に並べたものではない。
 ヴェルディの歌劇「リゴレット」では「風の中の羽のようにいつも変わる女心・・・・・」と歌っている。これは女心を二元論で分断した一面を歌っているに過ぎない。「幸せになりたいの」だけが女心の真実なのであろう。同じ「女心の唄」でも日本の古い演歌には「貴方だけはと信じつつ恋に溺れてしまったの心変わりが切なくて・・・・・」と女心を歌っている。女心も男心も右と左の間を彷徨っているのだろうか。
 さて後期高齢者の我々世代には、「一緒の墓には入りたくない」「こんな亭主とは今生限り」と宣言する奥様もおられると聞いたことがある。まあ仕事と遊びで家庭を顧みなかった我々世代の男どもは、生死の「あいだ」だけでも添い遂げてくれるというのだから、それはそれで十分感謝しなくてはならないのだろう。
 僕は「散骨してくれ」、と家内と娘に希望を伝えてある。娘は「承知しました。でも死んでしまえば、どうしようとこっちの勝手だから!」と捨て台詞。そうなんだ、己れの死も己れは知ることはできないのだ、己れにとって、己れの死はないのだから、ないものを心配しても始まらないのだ。
  日本語では「と」という一文字が重要な意味をもっている。AとBの「あいだ」のことだ。物事も「物」は空間的かつ過去的であり、「事」は時間的かつ未来的であり、その「あいだ」が「と」である。だから「物事」は「ものこと」、「もの『と』こと」と、「と」をあいだに挟んで「と」を思考することが肝心だ。近年流行りの言葉「ものづくり」「ことづくり」も「もの」「こと」の二元論で分断して考えるから、「こと」はうまく運ばない。「もの」は過去だから作ることはできない。また「こと」は未来だからこれも作ることはできない。西田哲学では、過去と未来の「あいだ」の現在をいのちの活く場、「作られたものから作るものへ」という。現在は過去を抱き、未来を抱いている絶対矛盾の場、だから「ものからことへ」であって、「ものづくり、ことづくり」ではなく、軸足を現在が抱く未来に移しながら過去と未来の差異を埋めていく、「ことのもの化」と思考するといいのではなかろうか?
 「女心の詩」というと女性から「セクシュアル・ハラスメント」と叱られそうだが、「男と女」も絶対矛盾的自己同一、言葉から生じる二元論的意識の仕業、生きものとしての人間の遺伝子もX、Y二つの染色体の絶対矛盾的自己同一なのだ。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」、鈴木大拙の「即非の論理」、そして「色即是空」も、この宇宙の理を言葉にしたものではないかと思う。

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2019/03/17

<「ものづくり」から「ことづくり」へ>-「もの」と「こと」の“あいだ”-

1.時は未来から過去へ流れている

  近年、見聞きすることの多いキャッチコピーです。誰が、「何のために」掲げたのでしょうか。「もの」と「こと」の間の「から」そして末尾の「へ」が気になります。「『もの』から『こと』へ」と聞こえこないでしょうか。失われた30年、とりわけこの20年、日本の企業から新しいものが生まれてこない、というより「もの」が売れないという焦りや苛立ちが背景にあるように思うのですが、いかがでしょう。焦りや苛立ちからは「こと」は作れないのではないかと思うのです。焦りや苛立ちは“今ここ”の心の有り様ですから。

  ひとの意識は、とかく時は過去から未来へ流れていると思いがちです。己れの立っている位置を中心に「ものこと」を眺めると確かにそう思えるのです。目が覚めると夜は朝になっています。ですが、今日が明日になること、過去が未来になることはないのです。今日は昨日になっても明日になることはない。明日は今日になり、今日は昨日になるのですから、時は未来から過去へ向かって流れているのです。

  このキャッチコピーに危うさを感じるのは、どこかに「ものづくり」は古い、これからは「ことづくり」という「過去から未来へ」という意識の流れを感じるのです。どこか過去に軸足を残している、プロダクトアウトのにおいを感じるのです。

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2019/03/10

「カードは時間の表象」ー他者の存在に気づく契機ー」

  <図1.カードは時間の表象>

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1.お客様という他者(客体)
お客様カード」、「意思決定カード」、「リスクカードを引く」の三種のカードは、時を表している。会社盤が「ここ(空)」であり、カード(時・今)が回ってきたとき、「『今』と『ここ』」という時空が口を開ける。時空が開いたときが己れという主体性が刹那に立ち上がるのです。
 
「お客様カード」が存在しない、自ら販売の意思決定をするスタイルの経営体験(図2)では、六角形の盤上をマーケット、市場と呼び盤を取り巻く6人の参加者には他者の存在は見えない、6人は互いに敵同士、自我と自我、主体と主体がぶつかり合う闘争の世界になってしまいます。「より良いものをより安く」「売り込む」という姿勢になってしまうからです。
 
ところがお客様カードは、己れ自身は何も意思表示はしないのですが、突然6人の間に他者として割り込んできます。お客様という共通の他者の存在を介して6人の参加者がお互いを他者として意識するようになります。お客様との場(時空)を介して6人も「場」(関係性)を共有するからです。(図3.-関係性を生きる-)

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「なぜチャート3.は『株主資本額』なのか?

       <図1.会社の二重性>
201903101.経営も「もの」と「こと」の間
BST講座の経営体験の場で壁に貼る、チャート3.自己資本額を「株主資本」に変えたとき、親しい縁者から「ブルータス、お前もか!」と詰られました。僕がステークフォルダ型思考からストックフォルダ型思思考に変節したのではないかと誤解されたのです。そうではなく、まったくその反対の理由です。結論を先に言うと、株式会社の存在は法律的には「所有と経営の分離」というのですが、果たしてその二元論で考えてよいのか、多発する企業の不祥事(合法的と称するものも含めて)も中小企業の後継者問題、株式の相続問題も、「所有と経営」を二元論として考えているところに起きているのではないか?「所有『即』経営」の絶対矛盾的自己同一(即非)、経営は「もの」と「こと」との間、「と」として捉える必要があるのではなかと思ったからなのです。

 

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2018/12/31

「お金の『いのちの活き』を資本と仮名した」

   <図1.干支の循環>
20190101_2  明けましておめでとうございます。毎々の循環の賀状です。2019年の年頭に「お金と資本」を「いのちの活き」という視点で考えてみました。昨年末の株式市場の暴落をみて、すわリーマンショック再来かと胸騒ぎ、これも干支の循環と同じマネーの循環なのでしょう。21世紀の資本主義の風潮を「マネーゲームだ!」「資本主義の終焉だ!」「拝金主義だ!」と切って捨ててもその循環の流れを断ち切ることはできないことは明々白々。さてさて如何せん。
 
昨年は夢枕獏さんが著書「沙門空海唐にて鬼と宴す」の中で空海の口寄せをして「言葉は器だ。この世で最も大きなものもこの器に盛ることができる。どんな小さなものもこの器に盛ることができる。」無限大の宇宙から極小の素粒子まで現世はすべて言葉の世界だと語っているのを見つけて思わず「これだ!」と膝を打って納得。

                    <図2-1.米ドルに刻まれた「神」の存在>
                     20181218_2

 

 

 
 
 

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2018/12/03

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一から見る日産の今日的問題(2)

20181203

1. 1.資本も「いのちの活き」

「資本もいのちの活き」の視点から図(1)(2)を図(1-2)(2-2)に書き直してみた。貸借対照表の借方(左)に企業を成り立たせている資産が計上されている。生きものに譬えれば身体だ。その身体を成り立たせている「何か」が貸方(右側)に計上されている。生きものに譬えれば「いのち」だ。そのいのちを資本と名づけている。しかし経営用語としては、なにげなく、「資金調達」と云う。資金とは貸借対照表の借方の項目のことだから“こと”の本質からいうと、正確には「資本(いのちの)調達」というほうがその役割に気づきやすいと思う。そして他人資本とは「他者のいのち」のことであり、己れの未来のいのちの活きによって贖うものだ。株主資本は株主という「他者のいのち」のことだ。かつて株主資本を過去の内部留保も含めて自己資本と名づけていた。企業固有のいのちと錯覚していたのだ。本来企業という存在も、“今ここ”の関係性を生きている存在だから、自己自身として所有するものはなにもない。人間と同じ企業という自己(主体)も、虚無(からっぽ)の器だ。日本の株式市場に上場している企業人の多くが未だにこの変化を確かなものとして受け止めていないのではないだろうか。

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2018/11/24

「全体と個」の絶対矛盾的自己同一からみる日産の今日的問題

201811224 「経営とは何か?」を学ぶ若い方々にとって、今日の日産の経営問題は、格好のそしてなにより生々しい生きた教材だ。それだけに、カルロス・ゴーンさんの金銭に関わる個人的なことがらを善悪や好嫌といった二元論的視点に囚われない俯瞰的な視点が必要に思う。


1.「いのちの活き」

 「いのちの活き」は生物固有のものではなく、家族、部族、民族、国家といった人間が集う集団にも、集団を構成する個の命とは別の、集団固有の「いのちの活き」がある。だから企業には企業固有の「いのちの活き」がある。日産の今日的問題も「日産のいのちの活き」という視点から凝視する必要があるし、そこが経営的課題ではないかと思う。

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2018/05/03

今読む「新・生産性立国論」デービツド・アトキンソン著

書名「新・生産性立国論」

 

著者デービッド・アトキンソン著

 

出版社 東洋経済新報社
Img_1218_2 近頃多くの企業経営者や政府(官僚)が「生産性」「生産性」と声高に語っています。しかし「生産性」なる言葉を声高に掲げる方々の多くが「生産性とはなんぞや?」と、その意味をまともに捉えていないように思うのですが、いかがでしょうか。その現れが国会の「働き方改革」法案に現れています。政府(官僚)はデータを偽ってまで「働き方改革」法案を通そうとし、経済界もそれを歓迎しています。しかし「生産性とはなんぞや?」と真面目に問い直せば、この法案はどう贔屓目に見ても「働かせ方改革」法案にしか見えないのです。
 イギリス人の著者デービッド・アトキンソンは元ゴールドマン・サックスの金融人。そしていま現在は、なんと神社仏閣、国宝・重要文化財の修復を専門に手がける小西美術工藝社代表取締役社長というから驚きです。この本の帯に「『労働者の質』はトップレベル「『無能な経営者』こそ問題だ」と著しています。

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2018/02/04

北極星は動かない-瞑想の薦め-

   <北極星は動かない>
20180204 1.コトバから生じる自我
 人間が猿と袂をわかった生物的由来は二足歩行にあるといわれている。しかし決定的な別れ、現代人への別れの由来は5万年前に現在の言語発声の始まりとなった突然変異にあるといわれている。経済学者にして哲学者岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中に「人間は言葉を使う猿である」と書いている。人間はコトバを使うようになって、主体と客体、自他の分別が生じ、空間認識をするようになった。と同時に、“今ここ”を中心に過去と未来を分別するようになった。この主体が意識的自己であり、自我の目覚めである。意識的自己は、自利(自己中心的価値観)を育て、未来の己れ(自我)のイメージを様々描くようになる。いわゆる夢だ。そして、その夢を実現するための目標を設定し「P→D→C→A」のサイクルを回すようになる。しかしその夢の多くは叶わない。その理由は簡単だ、意識的自己(自我)が描く夢は極めて自己中心的なイメージであり、他者の存在に思いが及んでいない。そこに常に不確実性が待っているからだ。

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2018/01/10

そこはかといない不安はどこから、?

<「生物的実体」と「社会的実体」の絶対矛盾を生きる存在>
20180110

1.生物的実体
 宇宙誕生の初めビックバンから138億年が経ち、地球が誕生して46億年が経つという、そして微生物が誕生して38億年経ち、人類の祖先が誕生して600万年が経っている。しかしニコラス・ウェイド著「5万年前」によれば、現代人の祖先は5万年前に出アフリカを果たした150人の集団から始まったという。5万年で72億人にまでに増えたのだ。またリチャード・クラインは著書「5万円前に人類に何が起きたか」の中で、で西アフリカで人類の言語をつかさどる遺伝子に突然変異が起きたのも5万年前だと書いているから、ひょっとすると、あたかもモーゼの出エジプトの逸話のように、その人々が紅海を渡った150人なのかもしれない。150人の遺伝子は72億人にまで増殖したことになる。この遺伝子は個体の世代交代を繰り返しながら情報を伝えていく、生物的遺伝子だ。  

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