2020/05/16

書名「エンデの遺言」河邑厚徳+グループ現代著」<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>
書 名 「エンデの遺言」ー根源からお金を問うことー
著 者 河邑厚徳+グループ現代
出版社 NHK出版
初 版 2000年2月
Jpeg_20200516142001  聖書MMTの預言にはこうあります。「各国の中央銀行は自国民が自国通貨を受け取る限りにおいて、無限に自国通貨を発行することができる」と。それは、経済学者岩井克人が「貨幣は貨幣だから貨幣である」と喝破した定義と同じ意味です。「自国通貨(お金)は他者(自国民)が受け取る限り自国通貨(お金)である」という意味において。
 そしてMMTでは「自国通貨は政府の借用書である」とも預言しています。国民個々人が資産だと思って保有している虎の子の現・預金残高は、政府の借用書の残高だと。それを無限に受け取ってくれるのですから、受け取ってくれるうちに増刷しておきたいと思うのは人情ですね。
 本当に借用書でしょうか。僕は徴税済領収書だと思っています。だって古今東西、時の権力者は国家債務を返済したことはないのですから。沢山持っている人が多額納税者なのかもしれません。
 この本は、童話「時間泥棒」の著者ミヒャエル・エンデが日本人に託した遺言をもとにNHKのドキュメント番組として放映されたものです。
 M・エンデは童話「時間泥棒」の中で人間たちが時間を盗まれ生活空間が暗闇になっていく様子を描いています。
 時間節約銀行の紳士(灰色の男たち)が街の中を「時間」を集めて回るのです。「時間節約こそ幸福への道!」、「時間節約をしてこそ未来がある!、「時間を節約しよう!」「時は金なり!」「時間を貯蓄しよう!」と称えながら。
 紳士はこっそりいいます。「人間に・・・知られないでいるあいだしか、仕事ができない・・・むずかしい仕事だ、人間から生きる時間を一時間、一分、一秒とむしり取るんだからな・・・人間が節約した時間は、人間の手には残らない・・・われわれがうばってしまうのだ・・・貯めておいて、こちらのために使うのだ・・・われわれは時間に飢えている・・・ああ、きみたち人間ときたら、じぶんたちの時間のなんたるかを知らない!」
 若い頃僕が「生産性」「効率」「コストダウン」と称えていた姿はこの灰色の男と同じだったのです。(苦笑)
 童話では、預金が増えれば増えるほど街に暗闇が拡がっていきます。主人公モモの活躍で街の人々も気がつき、街に光が戻ってきて、めでたしめでたしと。
 現行の通貨制度(変動相場制)下では、世界の片隅でつくりだしたささやかな価値(経済価値)も自国通貨(お金)と換えること、そして米ドルという基軸通貨(世界通貨)と繋がっていくことで、地域から中央へ、中央へ、世界の中心へと吸い上げられていき、価値をつくった地域にはなにも残らないのです。たとえ預金通帳残高に残ってはいても。
 M・エンデは本書の中でシルビオ・ゲゼルの貨幣の仕組みを詳細に紹介しています。あのケインズも自著「雇用、利子、および貨幣の一般理論」の中で絶賛した仕組みです。
 出版当時ベストセラーになりゲゼルの貨幣論を地域通貨の仕組みに生かそうと国内各地でブームになりました。いまでも飛騨の「さるぽぽ」、高田の馬場の「アトム通貨」といくつか成功例もあるようですが雨後の筍のように出ては消えていっているようです。
 本書を通してサブタイトルにもある「根源からお金を問い直して」みてはいかがだろうか。ポスト・コロナの社会に本格的に格差が拡大していくとすれば、M・エンデが日本人に残した遺言は、「地域おこし」「地域活性化」といった大きな旗印ではなく、人々の生活を支え「いのちの活き」を支えていく互助の聖書として活かしていく可能性を秘めているのではないかと思います。
 AI,IOT,ロボットと情報通信技術が一層発展していくこれから、梅棹忠夫のいう「内胚葉産業の外肺葉化」を地域通貨で下支えすることもできるように思います。
 己れ自身にとっては残り僅かではありますが、ポスト・新型コロナ社会を明るいペシミストとして、生き抜いこうと誓いつつ「セブンデイズチャレンジ」を終わることといたします。
 現在の日本社会の惨状を憂うあまり一つ一つが長いものになりました。ご容赦ください。どなたかバトンを受け継いでくれる方が出てくれることを祈りつつ。
【目的】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
●参加方法は好きな本を1日1冊、7日間連続投稿する
【チャレンジのルール】
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

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書名「資本主義から市民主義へ」岩井克人著<7日間ブックカバーチャレンジ第六日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第七日>
書 名 「資本主義から市民主義へ」
著 者 岩井克人
出版社 ちくま学芸文庫
初 版 2014年4月
Jpeg_20200516140901  昨今の新型コロナウィルスパンデミックへの対策では、だれしも「経済よりも命が大事」といいます。ではその直前まで東京五輪金メダルのためにマラソンの記録たった0.1秒に一億円を賭けてテレビの前で固唾を呑んだ日本人の姿は何だったのでしょうか?。そして一人一人の身体の中をお金が変態しつつ流れていることを知らないはずはない、知らずに済ますことはできないのですから。
 二元論で一瞬のうちに右左に振りきってしまわないで「経済とは何か?」「命とは何か?」と経済と命の「あいだ」を考えておくことはポスト・新型コロナ社会を生き抜くよすがになるのではないでしょうか。
 世界の中央銀行は、リーマンショック対策をはるかに越える通貨(お金)を大増発しています。「いくら増発しても財政破綻することはない」と、日本でも政治家、官僚、企業人の間に、俄かにMMT信者が増えています。本当でしょうか?、自分自身の眼で確かめておく必要がありそうです。後々聖書MMTの「せい(責任)」にしないために。
 経済学者にして哲学の人岩井克人さんの明快な語りに耳を傾けてみてください。経済のベースは貨幣(お金)です。
 著者の貨幣論はいたってシンプル、貨幣それ自体に価値があるわけではない、「貨幣は貨幣だから貨幣である」といいます。神の存在「信じるから存在する、存在するから信じる」と同じ論法、自己循環論法の産物だというのです。労働価値説を信じたい人間の純な心もバッサリ一刀両断。
 著者の貨幣論を知ったとき「そうか貨幣とは浮遊霊なんだ」、ひたすら自己増殖し、ひとやものに取り憑き、精気を吸い尽くしていきます。それなら己れも安倍晴明になるか、耳なし芳一に倣って般若心経を全身に書き込んでおかなければ、と思ったものでした。心なし芳一にならないように、心にも書き忘れないようにしなければ、と。
 労働価値説も佐々木閑のいう「神の視点の痕跡」かもしれませんね。神が造った人間の労働によって造られたものですから価値があるはず、と信じたい。ところがその神すらも、信じなければ、存在しない存在なのですから。貨幣は他人が受け取らなくなったら一瞬にして紙切れになってしまうのです。このことは聖書MMTには預言されているのでしょうか。
 バブル崩壊のたびに「資本主義は崩壊する」という人が沢山でてきます。著者は、「資本主義とは差異を見つけて均していく、世界を均一化することで生きている」といいます。昔流行った任天堂パックマンのような存在なのかもしれません。「世界の国々からなけなしの微かな差異までも吐き出させ、喰い尽くしていく」と。
 その差異を媒介するものが貨幣の存在ということなのでしょう。コロンブスによるシルクロードの交易からベニスの商人のイスラムとの交易、果ては西欧帝国主義国家による、植民地からの収奪さえも「空間的差異」「労働時間差異」の収奪なのだ、と。
 リーマンショック、新型コロナショックとショックのたびにショック療法として世界の中央銀行から通貨(貨幣)が大増発され、それが世界の隅々まで差異を食い尽くしていくとなると、ポスト新型コロナ社会は国家と国家、人と人の「あいだ」の差異を漏れなく食い尽くし、とめどなく格差を拡大し、格差社会を深化していくことになるのでしょう。
 言葉によって貨幣を創り出し、言葉によって欲望を意識化し、意識化したものを食い尽くしていく永遠のパックマンが人間という「生きもの」。否、宇宙創世以来の「いのちの活き」そのものが自己増殖(デリバティブ)という方向性をもったものなのですから。
 幸い哲学者でもある著者は「市民主義」という処方箋を用意してくれています。欲望の自己増殖を制御する倫理としてカントの定言命題を市民憲章とする市民主義です。
 是非著者の慈愛の経済学に触れてポスト・コロナ社会を考える一助にしてはいかがでしょう。しかしこの倫理さえ言葉という自己循環論法の産物であることを忘れるわけにはいきません。
 アウシュビッツ絶滅収容所から奇跡的に生還したV・E・フランクルも著書「それでも人生にイエスと言う」の冒頭にカントの定言命題をおいています。「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している。けっして目的のための手段として扱ってはならない」と。
 しかしその尊厳を有している人間の安定を求める実体経済。人間はその根底でもある貨幣を通して永遠の自由を求めるが故に、実体経済を不安定にし、日々地獄の落とし穴を掘っているという矛盾に気づかねばならないのでしょう。

<そこはかとない不安はどこから>

<資本主義から市民主義へ>
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書名「新装版 場の思想」清水博著<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第五日>
書 名 「新装版 場の思想」
著 者 清水博
出版社 東京大学出版会
初 版 2003年7月(新装版2014年9月)
Jpeg_20200516134901  著者は「場の理論」を提唱しています。「生物の世界」で、今西錦司は「生物は空間的に構造的、時間的に継起的存在である」といい、生物を「生きもの」「生きているもの」と捉えています。一方で著者は「生きているものを生命の活きという観点から見ることが私の場の理論の立場である。」と。「いのちの活き」という視点で今西錦司と響き合っています。
 「いのちの活く『ところ』」を「場」と定義しているのです。そしてその「いのちの活き」は局在的活き(局在的生命)という個という側面と、遍在的活き(遍在的生命)という生命相互の繋がりと空間的な広がりをもった二重性をもった存在だというのです。
 著者は例えばなしに卵を使っています。二個の卵を殻のまま器に入れても個のままでなにもおこりません。二つを割ると、黄身と白身になり、黄身は黄身のまま盛り上がっていますが、白身どうしは広がって繋がります。個々の黄身のいのちの活きが局在的いのちの活き、拡がった白身のところが遍在的いのちの活き。その拡がった白身を黄身がいのちとして「活く場」というわけです。白身と黄身それぞれのいのちの活きは局在と遍在の二重性、同じではないけれど分けることのできない絶対矛盾的自己同一を生きているというわけです。
 卵を夫と妻とすると、黄身は夫、妻、個々の(局在的)いのちの活きであり、またその関係性の空間的時間的につながった、白身としての家族(遍在的)といういのちの活きの二重性ということになります。卵が一つ増えると、夫、妻、子供三つの白身の溶けあった関係性が家族という固有のいのちの活きです。器が家族なのではなく、三つの黄身のいのちの活く場としての白身が家族のいのちの活きなのです。この「器か?、いのちの活きか?」が映画「万引き家族」のテーマでもありました。
 企業も従業員、経営者、株主、顧客、仕入先等々関係者すべての個(黄身)のいのちの活く「場」が白身としての企業のいのちなのです。
 すべては、個と全体のいのちの活きの二重性を生きている存在なのです。昨年の流行語「One Team」も個々の選手のいのちの活く場がチームのいのち、チームとチーム互いのいのちの活く場がピッチそしてスタンドを埋め尽くす観客のいのちの活きもそのピッチに同在している、そしてテレビの前の観客のいのちの活きも。その全体が「One Team」という一つの場のいのちとしてあったが故に熱狂したのでしょう。
 宇宙は無限大の器であり、その器の中に森羅万象様々な黄身と白身が重層的に、局在(個)的ないのち、遍在(全体)的ないのちとして活く場でもあると著者はいっています。
 新型コロナパンデミックで個人、家庭、企業、個々それぞれの「いのちの活き」が危機に瀕している今、国家も個人、家庭、企業のいのちの活く「場」なのですから、その場のいのちの活きを全きものに統べることを政治に願わずにはおれません。
 西田幾多郎は著書「善の研究」の第十三章に「完全なる善行」を立て、「善とは一言にていえば、人格の実現である。・・・・その極は自他相忘れ、主客相没する所・・・」と著しています。著者清水博のいう「場」における「いのちの活き」の「全機現している状態」のことをいっているのです。
<家族のいのちの活く場>
最奥の宇宙→人間界(言葉の世界)夫、妻、子供の重層的に重なった「場」のいのちの活きが家族のいのちの活きという遍在的生命であり、関係する個々の局在的いのちがそこで活いている。
<いのちの居場所、居場所のいのち>
「居場所つくり」書名「もしイノ」岩崎夏海著を読む
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書名「情報の文明学」梅棹忠夫著<7日間ブックカバーチャレンジ第四日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第四日>
書 名 「情報の文明学」
著 者 梅棹忠夫
出版社 中公文庫
初 版 1999年4月(初出1988年6月中公叢書)
2jpeg_20200516134401  我々世代では「知的生産の技術」の著者としても知られています。文庫化される11年前に中公叢書として出版されています。
 1963年に発表された論文「情報産業論」が世に出て以来センセーショナルな話題になり、様々に引用され続け四半世紀もの間、書籍化が待望され続けた稀有の論文です。1980年A・トフラーの「第三の波」が話題をさらった折も、すでにこの論文を知っている人たちは、「なんだ梅棹さんの二番煎じか?20年遅れの!」と思ったものでした。とはいえやはり、A・トフラーのものは西欧的な直線的時間観、進歩史観から抜け出てはいませんでした。
 1988年に書名の「情報の文明学」「情報の考現学」が加筆され一冊にまとまったといういわくつきの一冊、それからさらに32年が経ってしまいました。既に半世紀です。
 しかしいささかも古びていないのです。今、新型コロナパンデミックの現在を超えて、ポスト・コロナ社会に生きる価値観への進化(変態)の契機も隠されているかもしれません。
 日本人の多くが今でも脳みその隅に刷り込まれている、コーリン・クラークの第一次産業(農業社会)、第二次産業(工業社会)第三次産業(サービス・運輸・情報社会)という産業発展段階説。
 著者はこれが進歩史観(進化とは進歩である)であり、直線的時間観の表出だといいます。佐々木閑的にいえば、「神の視点の痕跡」ではないでしょうか。
 著者は生きもの進化(変態・展開)にたとえて内胚葉産業、中胚葉産業、外肺葉産業と著しています。
 内胚葉産業とは、ナ マコやミミズのように身体の真ん中を貫いた管になっている生きもの(人間も同じ)、農業の普及で胃袋や腸を満たすことができるようになった時代のことです。
 中胚葉産業とは生きものが骨格や筋肉を鍛え、陸上へ上がってきた時代、農業は遅れた産業ではなく、トラクター、コンバインと筋肉を強化して少人数で可能になった時代のこと、カロリーベースの自給率が死語になるはずの時代です。(農水省のお役人、自民党の政治家の頭は今もこの時代にとどまっています。)
 外胚葉産業とは皮膚・脳神経系の発達する時代、農業、工業が遅れていて、不要な時代ではなく、それらが情報化していく時代だというのです。すでに1963年にです。
 人間が生きものとして過去から現在へと進歩している存在ではなく、生命誕生以来微生物からウィルスまで”今ここ”の地球上に存在し、人間の身体の細胞の隅々まで”今ここ”の絶対現在に存在しているのと同じです。
 1969年にこう著しています。「現在、農業人口は20%をわっている。やがて工業人口も十数%台に落ちるだろう。理由はかんたんである。それでじゅうぶんささえられるからだ。そしてのこりの大部分は情報産業に吸収されることになる。おそらく二一世紀までには、日本もほぼこの水準に達するだろう。それは革命という名にふさわしい変化といえる。ただそれがバラ色の未来につながるかどうかは別問題である。たとえば、工業時代の前期にはいろんな社会悪が発生している。日本には「女工哀史」の例がある。あたらしい生産システムに人間が適合できなかったからだ。おなじことがニ一世紀の初期におこるかもしれない。それはかっての物質の暴威に対する情報の暴威ともいうべきものである。情報はうまくつかわれれば人類に革命的な力をあたえるにちがいない。だが、それは個人の幸福とは無関係である。わたしのいっているのは、歴史的な、一般理論であって、ユートピア思想ではないのだ。」と。
 ポスト・新型コロナの日本そして世界は、テレワークが進むともいわれています。ですが、5G、AI、ロボット、etc、個々の情報技術の進化の影響を微視的にとらえるのではなく、38億年の「いのちの活き」の不可逆的な流れ(展開)の方向を著者の造語、外肺葉の時代の進展ととらえて考えてみてはいかがでしょうか。
 大事なことは「バラ色の未来につながるかどうかは別問題」、そして終わりの一言「ユートピア思想ではない」というところ、未來はユートピアとは限らない、ディストピアかもしれないのです。
 晩年ご自身は「わたしは老荘の徒やから、ニヒリズムがある。自分は明るいペシミストや」と語っています。著者に倣ってポスト・コロナの日本列島を明るいペシミストで生き抜きたいですね。
【目的】
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書名「時間と自己」木村敏著<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>

<7日間ブックカバーチャレンジ第三日>
書 名 「時間と自己」
著 者 木村敏
出版社 中公新書
初 版 1982年11月
Jpeg_20200516133101  精神病理の臨床医であり哲学者の著者は西欧の精神病理学を臨床しながら、西欧由来の精神病理学だけでは日本人に適合しないところがあるのではないかと考え、西田哲学を取り入れたら日本人ひいては東洋人ひいては人類に共通する東西融合の精神病理学ができるのではないかという仮説から西田哲学を取り入れた方です。 
 いつの頃からだろうか、それほど過去のことでもないと思うのですが、「ものからことへ」。だから「ものづくり」から「ことづくりへ」と語る方がとても多いように感じます。
 しかし「もの」とか「こと」と二元論の言葉の連発からはなにも見えてこないのではないでしょうか。一度”ものとは””こととは”と一つ一つ言葉の意味を吟味しないと本質はなにも見えてこないように思います。どこか、成長を止めた日本の行き詰まり感が日本の成功は「ものづくり」だった、だから、成功体験を捨てて「ことづくり」といっているように聞こえます。1985年(プラザ合意)以前の日本企業は本当に「ものづくり」で成功したのだろうか。
 2018年に上映された映画「KU-KAI」の原作者夢枕獏は原作「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の中、妖怪との問答を通して、空海に語らせています。「この世で一番大きなもの、それは言葉」「この世で一番小さいもの、それも器」と。そして「いかなる大きさのものも言葉で名づけることのよって言葉という器の中におさまってしまう」というのです。
 美醜も、大小も、剛柔から善悪もすべては人間に属性を有つ言葉だから、この宇宙にはない、と。人間の世界、現世は言葉でできている世界だといっています。だからこそ、救うたびに器からこぼれてしまう「何か」があることを自戒しなければいけないのだろう。しかし、いかに自戒しようとも永遠に掬えない何かがあるのです。
 「ものとは?」「こととは?」を問い直すことは「言葉とは?」を問い直すことでもあります。
 本書の第一ページが「第一部こととしての時間」そして「1.”もの”への問いから”こと”への問いへ」です。
 そして「”もの”が空間を満たしているということは、われわれの外部の世界についていわれうるだけではない。意識と呼ばれているわれわれの内部空間もやはり”もの”によって満たされている」と著されています。
 さて空間を満たす「もの」と意識の内部を満たす「もの」とはどこが同じで、どこが違いうのでしょうか?
 多くの識者がポスト・新型ウィルスの社会は価値観の変容が必須だと語っています。とすれば本書も価値観変容のための価値ある一冊になるのではないかと思います。
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書名「科学するブッダ」佐々木閑著 <7日間ブックカバーチャレンジ第二日目>

<7日間ブックカバーチャレンジ第二日目>
書 名 「科学するブッダ」-犀の角たちー
著 者 佐々木閑
出版社 角川ソフィア文庫
初 版  2013年10月
Photo_20200516132401  帯には「仏教と科学にまつわる固定観念をくつがえす」とあります。著者は科学を修めた後、仏教、哲学の道を探求された方、それだけに数々の著書は、仏教や哲学への偏見を丁寧に解きほぐしてくれています。
 サブタイトルの「犀の角たち」の意味が最後のページに著されています。仏典「スッタニパーター」から。
 「究極の真理へと到達するために精励努力し、心、怯むことなく、行い、怠ることなく、足取り堅固に、体力、智力を身につけて、犀の角の如くただ独り歩め」と。
 著者は「科学のパラダイムシフトが・・・神の視点から人間の視点への下降」といっています。ニュートン力学に残る”神の視点”を”人間の視点”にシフトしたアインシュタインの相対性理論、そして量子論。ダーウィンの進化論に残る”神の視点”を”人間の視点”にシフトした日本人木村資生の「進化の方向は偶然に大きく左右される。進化とは決してよりよい一方向に進む運動ではなく、出たとこ勝負のでたらめな稼業なのだ。」などなど。
 物理学、進化論、数学、といった科学の分野で「犀の角の如く独り歩んだ」科学者たちの歩みを描いています。そして釈尊の仏教へと。
 なぜ三大宗教の一つといわれる仏教の開祖、釈尊の視点が「神の視点からの下降」なのでしょうか?、仏教は”人間の視点”?、宗教嫌いから仏教をも遠ざける方々にも是非お薦めの一冊です。
 日本人の日本人による日本の哲学を究めた西田幾多郎も、そして生物学にそれを敷衍した今西錦司も犀の角の如く歩んだお一人なのでしょう。
  そうそう犀の角は骨でできているのではなく、毛束が固くなったもので闘うためのものではないのだそうです。新型コロナウィルスとも「闘いだ!」「駆逐しろ!」と声高に叫ぶ元気のいい方も多いのですが、ヒトゲノムの8%はウィルス由来のものだそうですから、過去の生きものが、新型のウィルスと出会うたびに闘っていたら、人間という生きものは存在していなかったのです。もちろん己れ自身さえ。
 生きものはひたすら共生の道を歩んできたからこそ微生物から人類まで無限というしかないほどに多様化してきたのです。共生といったからといって、いつも仲良くしていたわけではなく、苦し紛れに一緒になったり、木村資生の論にあるように偶然だったりするのです。新型コロナウィルスもそんな機会を提供してくれているのかもしれません。「変わろうよ」「変わろうよ」と。
 またまたこのムーヴメントのルールに反して長くなってしまいました。ご容赦ください。
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書名「生物の世界」今西錦司著 <7日間ブックカバーチャレンジ第一日>

<7日間ブックカバーチャレンジ1日目>
 15年前に山口県下の後継者育成講座で縁のできた若い中小企業の後継者、35歳で事業を承継して10年を過ぎようとしています。10年の経験がこの難局を乗り切るのに生きています。その次代を担う青年経営者古田陽介さんから回ってきたバトンを引き継ぎました。
書 名「生物の世界」
著 者 今西錦司
出版社 講談社文庫
初 版 1972年1月       
Jpeg  1941年、日米開戦前夜、著者にとっては召集を覚悟しての遺書のような書です。僕が手にしたのは、1973年ニクソンショックから石油ショックへの流れ、日本人に価値観の転換を迫る激動の時でした。まさに”今ここ”のよに。 当時30才、中小企業の原価管理担当、論理的、合理的思考の石頭で社内で「生産性!」「効率!」「コストダウンこれあるのみ!」と声高に叫んでいました。ある時研究所の管理職に呼び出されて、お説教を食らいました。「何を馬鹿なことばかり叫んでいるのだ!」「これを読め!」と。昔の日本企業は組織に関係なく先輩が後輩を積極的に教育してくれていました。
 生命の発生進化についてこう著されています。「生物は空間的に構造的であり、時間的に継起的な存在である」と。「もの『と』こと」の間を生きていると。そしてさらに驚いたのは以下の下り。
 「生物の起源は次の二つの内のどちらかを選ぶより他に考えようはないのである。一つは無生物の世界に生物が偶発した、したがって生命もそのときに偶発したとするものであって、それは無が有に変換した、たった一度でよいが、この世界の歴史においてそのときには無が有に変換するようなことが起こったという考え方である。いま一つの考え方というのは無から有は生じない、無生物と生物というから無と有ということになるが、無生物だってこの世界の構成要素である以上構造的即機能的な存在である。その無生物的構造が生物的構造に変わり、無生物的機能が生物的機能に変わるということが無生物から生物への進化であった。これと同じように解釈するならば生命だって無から偶発したものではなくて、やはり無生物的生命が生物的生命へ進化したものだということになる。」と。
 宇宙創成143億年、地球誕生以来46億年、生命誕生から38億年と連綿と途切れることなく「いのちの活き」が、空間的(構造的)時間的(継起的)に繋がっているとあります。
 宗教的には、縄文的に「森羅万象に神宿る」、仏教的に「山川草木悉有仏性」と、科学と宗教も薄皮一枚の違いしかないというのですから驚きです。
 それまでのダーウィンの進歩史観、二元論史観、直線的時間観をかなぐり捨てて、棲み分け進化論、共生史観、生態史観、循環的時間観へと己れ自身が進化(変態)を遂げる契機となった貴重な一冊です。
 ポスト・新型コロナ社会を如何に生きるか、日本人も今度こそ進化(変態)を遂げたいものです。
 このムーブメントのルールを無視した長い解説になってしまいました。ご容赦ください。
<棲み分け進化論で考える>
【目的】
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2020/03/21

<ポスト新型コロナウィルスの日本は、そして世界は?>

書  名「中国化する日本」-日中「文明の衝突」一千年史―
著  者 與那覇潤
出版社 文春文庫
初版 20144月10日(単行本初版2011年11月文藝春秋刊)
Photo_20200321132601 新型コロナウィルスのパンデミックでパニック下にある世界、とりわけ日本列島では東京五輪開催の去就もともなって、経済の先も見えない状況が続いています。その見えないという「先」は、目先の「先」、目先の切所は足元を用心深く一歩一歩歩いていく以外にないのでしょう。
  山を歩いていても、時に己れの未熟さゆえか、足元が震え、恐れおののく切所に遭遇します。しかし、その折も時に立ちどまって遠くを見、方向を確かめておかないと、気がついたら二進も三進もいかない進退窮まるところに身を置いてしまうことがあります。そんなわけで、ちょっと「ポスト・新型コロナ」の日本及び世界の様相を想像しておくのも一興かもしれません。
 1979年生まれという若い歴史(哲学)学者與那覇潤さんの「中国化する日本」論に耳を傾けてみるというのはいかがでしょう。タイトルが中国嫌いの方の心情を逆なでするかもしれませんが、決して中国に支配されるとか、宗主国がアメリカから中国に代わるという話ではありません。一度、嫌中観を脇において。
 人間社会の過去の復元力から想像しても、新型コロナのパンデミックを封じ込めるにはそれほど時間を要することはないのでしょう。しかし新型コロナ禍の原因は新自由主義による経済の世界化でもあり、それは又中国という国家が世界経済の主役級の一人として加わったことによるものでもあります。新型コロナウィルスが武漢発といわれることとも符合します。
 著者は「中国史を一か所で区切るなら唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と唱えた戦前の東洋史家内藤湖南の「宋代以降近世説」を視点にしています。紀元10世紀宋代に皇帝一人と官僚制による中央集権の専制国家の仕組みができあがり、貨幣経済が中国全土へ広がったと。そして以後中国の国家体制は現在の習近平政権まで、変わらぬ皇帝一人専制国家なのだ、と著しています。
 そのころ、日本では源平の政変で貨幣経済志向の平家が敗れ鎌倉武家政権が誕生しました。以来徳川幕府終焉まで12世紀から19世紀半ばまで封建制が続くことになりました。もし平家が勝っていたら、日本の近世は、明治維新を待つまでもなく天皇制専制国家がこのとき成立していたかもしれないと想像すると、「歴史のIF」は限りなく面白い。足利尊氏と争った後醍醐帝の目指していたものも、後鳥羽上皇の承久の変も、宋の政体を目指した政権構想だったのかもしれません。
 多くの日本人が信じて疑わない(己ももちろんその一人)、封建制と近世の切断面、明治維新を契機とする西欧化近代国家化へと歩んだ道は、同時に、象徴天皇制の専制独裁国家への道、中国化への道だった、そして、戦後の日本は再江戸化の道だった、と著者は語っています。「歴史は繰り返す形を変えて」、とすれば、この先の未来は。
 さて現在の安倍政権の国家運営の経緯を日々傍観していると、民主主義の終焉を想像させ、戦前への回帰を彷彿とさせるものがあります。専制独裁国家への道といえるのかもしれません。
 しかしこれは日本だけのことではなく、ロシアもプーチンによる独裁政権であり、現在のアメリカの二党政治も民主主義というにはほど遠いものがあります。新型コロナのパンデミックによる経済危機への対策として、各国の政府は今度ばかりは、供給(生産者)側だけでなく、需要(生活者)側へ直接現金を配ることをも考えているようです。それは、非正規雇用が定着し所得の不安定な格差社会へ移行しつつある日本の今こそ、低所得層の救済は喫緊の主題です。
 しかし仮にこの延長上にベーシックインカム政策が取り上げられるようになると、それはまさに日本国家の中国化、一党独裁専制国家の総仕上げになるのではないかと想像します。
 リーマンショックのとき、グリーンスパンFRB議長は議会証言で「100年に一度・・・・」と語ったと聞きかじっていました。あの時の議会証言は「We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami」だったそうです。「credit tsunami」とあります。「バブル崩壊」ではなく、「津波」です。
 「100年に一度の津波の真っただ中」だったとすれば、未だ10年余、今回の経済対策として主要国政府の通貨大増発の分も加わって、第二波の大津波はさらに巨大なものになって押し寄せてくるのかもしれません。さてそのとき己はどうすればいいのでしょうか。既に老人ホームでブツブツぼやいているのでしょうか。「That is a question」(苦笑)

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2020/03/04

今読む「世界史の針が巻き戻るとき」

書 名「世界史の針が巻き戻るとき」
-「新しい実在論」は世界をどう見ているか-
著 者 マルクス・ガブリエル
出版社 PHP新書
初 版 2020228
Img_2510thumb1 NHKドキュメント「欲望の資本主義」シリーズにも毎々登場する、若いドイツ人哲学者M・ガブリエルさんの新著です。日本でもとても人気のある哲学者です。著者自ら、「自分の哲学は京都学派に近い」と語るくらいですから、日本人とは相性がいいようです。今激変する世界に起きている危機として五つを挙げています。
①価値の危機、
②民主主義の危機、
③資本主義の危機、
④テクノロジーの危機、この四つの危機に横たわる、
⑤「表象の危機」。 
 NHKドキュメント「欲望の時代の哲学2020-M・ガブリエル『NY思索ドキュメント』-」が昨週から五夜放映されています。昨夜(33日)は第二回「自由が善と悪を取り違えるとき」、先週の第一回が「欲望の奴隷からの脱出」、来週第三回は「闘争の資本主義を越えて」、毎々のタイトルも魅力的、残り三回が楽しみです。
 五つの危機を乗り越えるには哲学が必須だと著者はいいます。その哲学が「新実在論」だと。そしてその「新実在論」が京都学派(根底は西田哲学)に近いと著者本人が語っているのですから、日本人の一人としては傾聴しないわけにはいきません。
 本書P95には「日本が果たす役割―新しい実在論と禅の役割-」の一項を設けて「『今』に集中し、欲望のレベルを下げるということは、実は『新しい実在論』の形でもあるのです」と瞑想の境地が著者自身の哲学の近接にあることを著しています。
 「仏教(禅宗)に代表される日本の価値観は、欲望を極力切り捨てて、大きな変化を求めるよりも今目の前にあるものを大事にする思想だ」と日本人編集者が教えてくれた、と。
 ちょっと気になるところは同じページに「仏教が結局のところはニヒリストであることを忘れてはなりません。」とあります。仏教を西欧的ニヒリズム(虚無主義)と理解しているのならそれは西欧人らしい浅い理解ではないかと、ちょっと真意を質したくなるところもあります。
 「新実在論」では主客未分の「意味の場」からの視点を説いていて、西田幾多郎が晩年言葉を紡いだ「絶対無の場」とも近接しているように思いますが、西田の“絶対”弁証法には届いていないように僕には思えます。だから仏教をニヒリズムと語るのでしょうか。人間の欲望を哲学で制御しようと意欲的に取り組む著者も、西欧人として神を宇宙の外において実在とする一神教の概念から抜けきれていないのかもしれません。
 仏教とりわけ大乗仏教は心の虚無の底に”仏性”をおいて自己の内に置き、神仏の概念を外に切り出すことをしていないので西欧的な”虚無”にはならないと思うのです。そして西田哲学でも言語由来の人間世界の相対界(岩井克人のいう「社会的実体」)の底に「絶対」を置くことで哲学の世界の土俵際に踏み留まったのではないかと思います。岩井克人さんが「カントの定言命題を真理としよう」と提唱しているのと同じ立ち位置にあります。
 「欲望」「欲望」と声高に語ると、欲望が諸悪の根源のように思えてきますが、生きものは、エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)に抗うことで生きている存在です。それが宇宙の始原から137億年の今日まで続く「いのちの活き」の方向性であり、その「いのちの活き」を生きもの(人間を含む)一般には生命力と呼称するのでしょう。 
 人間は、言語をもつことで、その生命力を欲望と呼称する社会的実体を作り上げてきています。著者の語る五つの危機はすべて、この言語由来の相対界(社会的実体=現世)の危機、それはまた言語由来の哲学を通して“欲望”という名の生命力を制御することで生き続けていく以外に方法論はないのでしょう。
 五つの危機は他人事ではなく、ドイツ人哲学者が日本を含む世界の危機として語っているのです。今、忖度に満ち満ちた日本列島、「日本は優しい独裁国家」とも著されています。民主主義も言語由来の概念ですから、民主主義とは何なのか?己れの概念を「意味の場」から問い直しておく機会にも好著です。

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2020/03/02

「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」

書 名 「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
Image_20200302095901thumb12020年3月5日時宜を得た一冊がでました。リーマンショックから12年、久々の世界同時株安がやってきた、今この時に。今回の暴落は「新型コロナショック」とでも命名されることになるのでしょうか、それにはしばらく日時を要するのでしょうが、そうなっては、新型コロナにしてみれば迷惑至極なことでしょうね。「因」はお前たち人間の内にあり、俺は「縁」にすぎないと。
 貨幣論というとちょっと手元から離れて冷めて眺めてしまいますが、「欲望の"お金"論」と身近に引き寄せて読むと、個々人のこれからの生き方にも関わる意義ある一冊になるのではないでしょうか。2017年から続くNHKドキュメント「欲望の資本主義」今年は四年目、年頭に「欲望の資本主義2020」が放映されています。毎々登場する経済学者にして哲学の人岩井克人さんの発言が確かな語りで耳目に残ります。ここから生まれたのが本書です。
 岩井克人さんの貨幣論の本質は、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」にあります。デカルトの「我思う故に我あり」そして「神は、信じるから存在する」とも通じる、自己循環論法です。米ドル紙幣の裏面に「IN GOD WE TRUST」と印字されている所以にも繋がっています。
 岩井克人さんは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはすでに資本主義の今日を予言していたといいます。アリストテレスは人と人との間の交換の手段として生まれた貨幣、「善く生きるという『目的』のための『手段』」として生まれた貨幣がそのまま「手段」と「目的」との逆転が起きるというのです。「手段の目的化」の自己循環の始まりです。言葉を操る人間は未来の存在を知り、未来に生きようと欲して夢を見る、夢とは欲望の姿形でもあります。
 「夢は実現する!」と姿形のないもの、永遠の逃げ水を夢と名付けて追い求め、さらにその手段として貨幣を欲し、終には貨幣そのものを目的化してしまいます。
 個人の欲望には限度があります。それは死があるからです。それは貧しい農民から身を起こし天下を取った太閤秀吉の辞世の短歌「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも明らかです。ですが人間という普遍の存在の欲望は個の死を乗り越え、乗り越えて人類ある限り無限に自己循環的に増殖していきます。
 その貨幣に仮託された人間の欲望の自己循環的増殖の行き着くところはハイパーインフレーションという破局でしかない、と岩井克人さんはいいます。その言語由来の自己循環的増殖の破局を制御できるとすればそれは、同じ言語由来の倫理、カントの倫理を真理とする市民社会の構築が必要だと説いています。カント哲学(定言命題)には「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段としてはならない」とあります。「汝自身をも!」です。
 「お金を獲得することを目的として、他者はもちろん、己れ自身をもそのための手段として供してはならない」といっているのではないでしょうか。歯に衣を着せずにいえば「お金を目的に働くな!」「利潤を目的に経営するな!」、「お金」も「利潤」も、「より善く生きる」ための”手段”であって”目的”ではないのだと。
 西田哲学の初めの一書「善の研究」には「『善』とは、自他相忘れ、主客相没する境地」とあります。己れと他者の分別を忘れる境地、カントの定言命題と通じるところ大です。
 今横浜港に係留されている大型クルーズ船そのものがグローバリゼーションの象徴的存在であり、そこに封じ込められることを拒む新型コロナウィルスの蠢動もグローバリゼーションの象徴であり、いのちの活きの象徴といえるのではないでしょうか。そしてマスクの買い溜め、トイレットペーパーの買い溜めに列をなす人間の形相もまた、グローバリゼーションの現れなのでしょう。そして経済のグローバリゼーションこそ人間の欲望の形相ですから。「因」は己れの欲望の内にあり、と。
 「貨幣はモノとして価値があるわけではない。貨幣とは、それが貨幣として使われているから貨幣としての価値をもつ。法が強制力をもつのも、言語が意味をもつのも、同様です。それだからこそ、貨幣も法も言語も物理法則にも遺伝子情報にも根拠をもたない社会的な実在性をもつことができる。そして貨幣の上に資本主義があり、法の上に国家があり、言語の上に人間の文化のすべてがある。それらを支える根拠は純粋に形式的な自己循環論法でしかない。自らの根拠を自ら作り出しているだけなのです。」岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中でこう語っています。
 人間の存在は、生物的実体と社会的実体の絶対矛盾的自己同一ではないか、だからそのど真ん中にカントの定言命題を絶対の真理とせよ、と語っているのではないでしょうか。
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<今読む「資本主義から市民主義へ」岩井克人著」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2014/12/post-9c3f.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_8446.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(2)「日本への奇襲攻撃」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_4348.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(3)「ものの側からの反乱」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_ecb1.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(4)「第二の敗戦記念日」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_a625.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(5)「ヨーロッパの自立」>
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