2020/03/21

<ポスト新型コロナウィルスの日本は、そして世界は?>

書  名「中国化する日本」-日中「文明の衝突」一千年史―
著  者 與那覇潤
出版社 文春文庫
初版 20144月10日(単行本初版2011年11月文藝春秋刊)
Photo_20200321132601 新型コロナウィルスのパンデミックでパニック下にある世界、とりわけ日本列島では東京五輪開催の去就もともなって、経済の先も見えない状況が続いています。その見えないという「先」は、目先の「先」、目先の切所は足元を用心深く一歩一歩歩いていく以外にないのでしょう。
  山を歩いていても、時に己れの未熟さゆえか、足元が震え、恐れおののく切所に遭遇します。しかし、その折も時に立ちどまって遠くを見、方向を確かめておかないと、気がついたら二進も三進もいかない進退窮まるところに身を置いてしまうことがあります。そんなわけで、ちょっと「ポスト・新型コロナ」の日本及び世界の様相を想像しておくのも一興かもしれません。
 1979年生まれという若い歴史(哲学)学者與那覇潤さんの「中国化する日本」論に耳を傾けてみるというのはいかがでしょう。タイトルが中国嫌いの方の心情を逆なでするかもしれませんが、決して中国に支配されるとか、宗主国がアメリカから中国に代わるという話ではありません。一度、嫌中観を脇において。
 人間社会の過去の復元力から想像しても、新型コロナのパンデミックを封じ込めるにはそれほど時間を要することはないのでしょう。しかし新型コロナ禍の原因は新自由主義による経済の世界化でもあり、それは又中国という国家が世界経済の主役級の一人として加わったことによるものでもあります。新型コロナウィルスが武漢発といわれることとも符合します。
 著者は「中国史を一か所で区切るなら唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と唱えた戦前の東洋史家内藤湖南の「宋代以降近世説」を視点にしています。紀元10世紀宋代に皇帝一人と官僚制による中央集権の専制国家の仕組みができあがり、貨幣経済が中国全土へ広がったと。そして以後中国の国家体制は現在の習近平政権まで、変わらぬ皇帝一人専制国家なのだ、と著しています。
 そのころ、日本では源平の政変で貨幣経済志向の平家が敗れ鎌倉武家政権が誕生しました。以来徳川幕府終焉まで12世紀から19世紀半ばまで封建制が続くことになりました。もし平家が勝っていたら、日本の近世は、明治維新を待つまでもなく天皇制専制国家がこのとき成立していたかもしれないと想像すると、「歴史のIF」は限りなく面白い。足利尊氏と争った後醍醐帝の目指していたものも、後鳥羽上皇の承久の変も、宋の政体を目指した政権構想だったのかもしれません。
 多くの日本人が信じて疑わない(己ももちろんその一人)、封建制と近世の切断面、明治維新を契機とする西欧化近代国家化へと歩んだ道は、同時に、象徴天皇制の専制独裁国家への道、中国化への道だった、そして、戦後の日本は再江戸化の道だった、と著者は語っています。「歴史は繰り返す形を変えて」、とすれば、この先の未来は。
 さて現在の安倍政権の国家運営の経緯を日々傍観していると、民主主義の終焉を想像させ、戦前への回帰を彷彿とさせるものがあります。専制独裁国家への道といえるのかもしれません。
 しかしこれは日本だけのことではなく、ロシアもプーチンによる独裁政権であり、現在のアメリカの二党政治も民主主義というにはほど遠いものがあります。新型コロナのパンデミックによる経済危機への対策として、各国の政府は今度ばかりは、供給(生産者)側だけでなく、需要(生活者)側へ直接現金を配ることをも考えているようです。それは、非正規雇用が定着し所得の不安定な格差社会へ移行しつつある日本の今こそ、低所得層の救済は喫緊の主題です。
 しかし仮にこの延長上にベーシックインカム政策が取り上げられるようになると、それはまさに日本国家の中国化、一党独裁専制国家の総仕上げになるのではないかと想像します。
 リーマンショックのとき、グリーンスパンFRB議長は議会証言で「100年に一度・・・・」と語ったと聞きかじっていました。あの時の議会証言は「We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami」だったそうです。「credit tsunami」とあります。「バブル崩壊」ではなく、「津波」です。
 「100年に一度の津波の真っただ中」だったとすれば、未だ10年余、今回の経済対策として主要国政府の通貨大増発の分も加わって、第二波の大津波はさらに巨大なものになって押し寄せてくるのかもしれません。さてそのとき己はどうすればいいのでしょうか。既に老人ホームでブツブツぼやいているのでしょうか。「That is a question」(苦笑)

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2020/03/04

今読む「世界史の針が巻き戻るとき」

書 名「世界史の針が巻き戻るとき」
-「新しい実在論」は世界をどう見ているか-
著 者 マルクス・ガブリエル
出版社 PHP新書
初 版 2020228
Img_2510thumb1 NHKドキュメント「欲望の資本主義」シリーズにも毎々登場する、若いドイツ人哲学者M・ガブリエルさんの新著です。日本でもとても人気のある哲学者です。著者自ら、「自分の哲学は京都学派に近い」と語るくらいですから、日本人とは相性がいいようです。今激変する世界に起きている危機として五つを挙げています。
①価値の危機、
②民主主義の危機、
③資本主義の危機、
④テクノロジーの危機、この四つの危機に横たわる、
⑤「表象の危機」。 
 NHKドキュメント「欲望の時代の哲学2020-M・ガブリエル『NY思索ドキュメント』-」が昨週から五夜放映されています。昨夜(33日)は第二回「自由が善と悪を取り違えるとき」、先週の第一回が「欲望の奴隷からの脱出」、来週第三回は「闘争の資本主義を越えて」、毎々のタイトルも魅力的、残り三回が楽しみです。
 五つの危機を乗り越えるには哲学が必須だと著者はいいます。その哲学が「新実在論」だと。そしてその「新実在論」が京都学派(根底は西田哲学)に近いと著者本人が語っているのですから、日本人の一人としては傾聴しないわけにはいきません。
 本書P95には「日本が果たす役割―新しい実在論と禅の役割-」の一項を設けて「『今』に集中し、欲望のレベルを下げるということは、実は『新しい実在論』の形でもあるのです」と瞑想の境地が著者自身の哲学の近接にあることを著しています。
 「仏教(禅宗)に代表される日本の価値観は、欲望を極力切り捨てて、大きな変化を求めるよりも今目の前にあるものを大事にする思想だ」と日本人編集者が教えてくれた、と。
 ちょっと気になるところは同じページに「仏教が結局のところはニヒリストであることを忘れてはなりません。」とあります。仏教を西欧的ニヒリズム(虚無主義)と理解しているのならそれは西欧人らしい浅い理解ではないかと、ちょっと真意を質したくなるところもあります。
 「新実在論」では主客未分の「意味の場」からの視点を説いていて、西田幾多郎が晩年言葉を紡いだ「絶対無の場」とも近接しているように思いますが、西田の“絶対”弁証法には届いていないように僕には思えます。だから仏教をニヒリズムと語るのでしょうか。人間の欲望を哲学で制御しようと意欲的に取り組む著者も、西欧人として神を宇宙の外において実在とする一神教の概念から抜けきれていないのかもしれません。
 仏教とりわけ大乗仏教は心の虚無の底に”仏性”をおいて自己の内に置き、神仏の概念を外に切り出すことをしていないので西欧的な”虚無”にはならないと思うのです。そして西田哲学でも言語由来の人間世界の相対界(岩井克人のいう「社会的実体」)の底に「絶対」を置くことで哲学の世界の土俵際に踏み留まったのではないかと思います。岩井克人さんが「カントの定言命題を真理としよう」と提唱しているのと同じ立ち位置にあります。
 「欲望」「欲望」と声高に語ると、欲望が諸悪の根源のように思えてきますが、生きものは、エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)に抗うことで生きている存在です。それが宇宙の始原から137億年の今日まで続く「いのちの活き」の方向性であり、その「いのちの活き」を生きもの(人間を含む)一般には生命力と呼称するのでしょう。 
 人間は、言語をもつことで、その生命力を欲望と呼称する社会的実体を作り上げてきています。著者の語る五つの危機はすべて、この言語由来の相対界(社会的実体=現世)の危機、それはまた言語由来の哲学を通して“欲望”という名の生命力を制御することで生き続けていく以外に方法論はないのでしょう。
 五つの危機は他人事ではなく、ドイツ人哲学者が日本を含む世界の危機として語っているのです。今、忖度に満ち満ちた日本列島、「日本は優しい独裁国家」とも著されています。民主主義も言語由来の概念ですから、民主主義とは何なのか?己れの概念を「意味の場」から問い直しておく機会にも好著です。

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2020/03/02

「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」

書 名 「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」
著 者 丸谷俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
出版社 東洋経済新報社
Image_20200302095901thumb12020年3月5日時宜を得た一冊がでました。リーマンショックから12年、久々の世界同時株安がやってきた、今この時に。今回の暴落は「新型コロナショック」とでも命名されることになるのでしょうか、それにはしばらく日時を要するのでしょうが、そうなっては、新型コロナにしてみれば迷惑至極なことでしょうね。「因」はお前たち人間の内にあり、俺は「縁」にすぎないと。
 貨幣論というとちょっと手元から離れて冷めて眺めてしまいますが、「欲望の"お金"論」と身近に引き寄せて読むと、個々人のこれからの生き方にも関わる意義ある一冊になるのではないでしょうか。2017年から続くNHKドキュメント「欲望の資本主義」今年は四年目、年頭に「欲望の資本主義2020」が放映されています。毎々登場する経済学者にして哲学の人岩井克人さんの発言が確かな語りで耳目に残ります。ここから生まれたのが本書です。
 岩井克人さんの貨幣論の本質は、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」にあります。デカルトの「我思う故に我あり」そして「神は、信じるから存在する」とも通じる、自己循環論法です。米ドル紙幣の裏面に「IN GOD WE TRUST」と印字されている所以にも繋がっています。
 岩井克人さんは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスはすでに資本主義の今日を予言していたといいます。アリストテレスは人と人との間の交換の手段として生まれた貨幣、「善く生きるという『目的』のための『手段』」として生まれた貨幣がそのまま「手段」と「目的」との逆転が起きるというのです。「手段の目的化」の自己循環の始まりです。言葉を操る人間は未来の存在を知り、未来に生きようと欲して夢を見る、夢とは欲望の姿形でもあります。
 「夢は実現する!」と姿形のないもの、永遠の逃げ水を夢と名付けて追い求め、さらにその手段として貨幣を欲し、終には貨幣そのものを目的化してしまいます。
 個人の欲望には限度があります。それは死があるからです。それは貧しい農民から身を起こし天下を取った太閤秀吉の辞世の短歌「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも明らかです。ですが人間という普遍の存在の欲望は個の死を乗り越え、乗り越えて人類ある限り無限に自己循環的に増殖していきます。
 その貨幣に仮託された人間の欲望の自己循環的増殖の行き着くところはハイパーインフレーションという破局でしかない、と岩井克人さんはいいます。その言語由来の自己循環的増殖の破局を制御できるとすればそれは、同じ言語由来の倫理、カントの倫理を真理とする市民社会の構築が必要だと説いています。カント哲学(定言命題)には「汝自身、そして他者をも、同時目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならない」「人間は尊厳を有している決して目的のための手段としてはならない」とあります。「汝自身をも!」です。
 「お金を獲得することを目的として、他者はもちろん、己れ自身をもそのための手段として供してはならない」といっているのではないでしょうか。歯に衣を着せずにいえば「お金を目的に働くな!」「利潤を目的に経営するな!」、「お金」も「利潤」も、「より善く生きる」ための”手段”であって”目的”ではないのだと。
 西田哲学の初めの一書「善の研究」には「『善』とは、自他相忘れ、主客相没する境地」とあります。己れと他者の分別を忘れる境地、カントの定言命題と通じるところ大です。
 今横浜港に係留されている大型クルーズ船そのものがグローバリゼーションの象徴的存在であり、そこに封じ込められることを拒む新型コロナウィルスの蠢動もグローバリゼーションの象徴であり、いのちの活きの象徴といえるのではないでしょうか。そしてマスクの買い溜め、トイレットペーパーの買い溜めに列をなす人間の形相もまた、グローバリゼーションの現れなのでしょう。そして経済のグローバリゼーションこそ人間の欲望の形相ですから。「因」は己れの欲望の内にあり、と。
 「貨幣はモノとして価値があるわけではない。貨幣とは、それが貨幣として使われているから貨幣としての価値をもつ。法が強制力をもつのも、言語が意味をもつのも、同様です。それだからこそ、貨幣も法も言語も物理法則にも遺伝子情報にも根拠をもたない社会的な実在性をもつことができる。そして貨幣の上に資本主義があり、法の上に国家があり、言語の上に人間の文化のすべてがある。それらを支える根拠は純粋に形式的な自己循環論法でしかない。自らの根拠を自ら作り出しているだけなのです。」岩井克人さんは、著書「資本主義から市民主義へ」の中でこう語っています。
 人間の存在は、生物的実体と社会的実体の絶対矛盾的自己同一ではないか、だからそのど真ん中にカントの定言命題を絶対の真理とせよ、と語っているのではないでしょうか。
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<今読む「資本主義から市民主義へ」岩井克人著」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2014/12/post-9c3f.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(1)「純粋紙切れは信頼が命」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_8446.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(2)「日本への奇襲攻撃」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_4348.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(3)「ものの側からの反乱」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_ecb1.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(4)「第二の敗戦記念日」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_a625.html
<岩井克人著「貨幣論」を読む(5)「ヨーロッパの自立」>
http://net-ksk.cocolog-nifty.com/keiei/2007/05/post_736b.html

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2020/02/01

<時間は実在しない(1)存在と実在と>

書 名 「時間は存在しない」
著 者 カルロ・ロヴェッリ出版社
NHK出版
51ailjuhvjl_sx346_bo1204203200__202002021621011.存在と実在
 著者カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者です。その物理学者が「時間は存在しない」と言っています。帯には「時間とは人間の生み出すものだと、言ったらどう思いますか?」とあります。このところ書店の店頭でこの「存在」なる言葉が、気になって買い求めてしまいます。日本でも人気のドイツ人哲学者M・ガブリエルは「世界は存在しない」と著し、若い日本の哲学者與那覇潤は「なぜ日本人は存在するのか」と著しています。
 ここにいう「存在」とは「being」の「有る」のことです。人間が時間、世界、日本人という言葉(概念)で意識上につくりだすものです。一方同じ「有る」でも「実在」という言葉、「reality」の「有る」もあります。人間の意識とは別に独立的に不変のものとして、変化しないものとして「有る」、相対的な「有無」を超えたところにあるというものです。
 ですからこれらの書名は正確には「時間は実在しない」「世界は実在しない」「日本人はなぜ存在するのか」と解して読むと格段に読みやすく分かり易くなるように思います。我々は何故日々分刻みに運行される満員電車に乗り、ちらちら腕時計を見ながら通勤しているのだろうか。あたかも時間が独立不変のものとしてあるかのように縛られています。M・ガブリエルも日本に滞在中に新幹線、山手線に乗り、渋谷の交差点の人混みの中を泳ぎ、こう語っています。「日本ではすでにシンギュラリティは起きているのかもしれない。分刻みの列車を走らせるために存在しているのではないか」と。
 定年は60歳、65歳と時計年齢で区切られています。時計年齢の75歳になると、自動的に役所から後期高齢者というお墨付きのハガキが届きます。同じ75歳でも人それぞれ老い方は違っているのに、あたかも時間が実在するかのように、老化が一様に進行しているがごとくに、です。
2.時間と空間
 紀元前5世紀の人、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、「すべては『空』である」と悟りを開いたといわれています。「空」とは森羅万象すべては変化して止まないということですから、この宇宙のすべては存在ではあっても実在ではないといっているのです。
禅仏教の曹洞宗を開いた道元禅師は著書「正法眼蔵」に一章を「有時」として時間論を説いています。ここでは「我は時であり、我は有(存在)である」という。道元のいう時間とは主体的時間のことです。鈴木大拙の「即非の論理」でいえば、「自我-即-有―即―時」という表現になるのでしょう。己れとは時そのものであり人生とは時の流れのことであると。
 20世紀に入ってアインシュタインは科学(物理学)の視点から時間と空間は一つのものでわけることはできないと解き明かしました。「時即空」です。
3.機能と構造
 生物学者今西錦司は著書「生物の世界」(1941年)のなかで「生物は空間的時間的存在である。空間的には構造的存在であり、時間的には機能的存在である」と。生きものは身体をもつことで構造的であり空間(静)的存在ですが、一方でPhoto_20200201135502「生きている」存在ですから継起的であり時間(動)的存在です。ここでも「自我―即―有―即―時」が成立しています。
4.飛んでいる矢は止まっている
 古代ギリシャの哲学者ゼノンが後世に「飛んでいる矢は止まっている」という問いを残しています。いわゆるゼノンのパラドックスです。このパラドックスをたとえ話として、今西錦司流に飛んでいる矢を構造的機能的存在と見れば、構造的存在としての矢は刹那に空間的存在であり「止まっている」、継起的に非連続の連続として矢(主体)は「飛んでいる」存在でもあるのです。
 競馬に喩えてみましょう。鞍上の騎手と馬の関係では、疾駆する馬は流れている時の有り様であり、時の流れとともにある鞍は“今ここ”の刹那の場(空間)その上に騎乗している騎手が我(主体・自我)という存在と云えるのではないでしょうか。人馬一体の疾駆はそのまま、道元のいう「有⇔我⇔時」の現れ(相)といえます。人間も誕生からゴールまで「人生は競馬」、「生死一如」、時間とは鞍上の主体の人生そのもののことでもあります。
 今西錦司の師であり京都学派の祖、西田幾多郎の言葉を借りれば「時間即空間・空間即時間」、時間と空間は絶対矛盾的自己同一なのです。ゼノンのパラドックスの「飛んでいる矢」こそ、宇宙創成137億年爾来の「いのちの活き」のことであり、その矢の飛んでいる方向こそ「いのちの活き」の不可逆な方向性なのです。
5.エントロピー増大の法則
 C・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」のなかで人間が時間という概念でとらえているものはエントロピー増大の流れだといっています。「エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ。」と。 分子生物学者福岡伸一は著書「動的平衡」に「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」そして「エントロピー増大の法則によって細胞が破壊される前に自ら細胞を破壊し再生することで個体を維持している」と著しています。「サステナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」と。この動的平衡の流れを人間は、「時間」という言葉にしたのでしょう。
 樹木(図1)は幹から枝へ枝から葉へ明瞭な区切りはなく天空に向かって伸びていて、その姿を丸ごとすっぽり空気が包んでいます。そして幹は地中に潜り、どこまでも深くそして広く根を伸ばしています。幹と根の区切りも明瞭ではなく、根は土との境目も不明瞭なままにそのまますっぽり土に包まれています。樹木をすっぽり包んでPhoto_20200201135501いる空気と土、それはそのまま大自然であり、宇宙そのものであり、樹木は丸ごとそのまま大自然に包まれつつ、大自然と一体の存在なのです。
 葉を通して炭酸ガス(CO2)を吸収し、大地からは根を通して水(H2O)や養分を吸収して幹を、枝葉を構成していきます。構成されたものは有機物(炭素化合物)であり、それはそのまま高エントロピーそのものです。樹木と大自然の接している接面の外の大自然が相対的に低エントロピーであり、そのエントロピーを吸収し構造(身体)化していく過程そのものが、樹木が「生きていること」なのです。
 この樹木の切断面(図2)を見ると切断面を巻き尺で計っています。それはそのまま一年に一輪ずつ、拡がっている年輪でもあります。「時間=空間」を証明しています。樹木は大自然に包まれつつ大自然を内に包み込んで年輪(構造・身体・過去)化しているのです。
 図(3)にみるように、樹木と大自然と接している接触面が“今ここ”の絶対現在です。その接触面の内が“今ここ”の刹那の過去であり、外が“今ここ”の刹那の未来です。樹木の身体は未来の過去化、低エントロピーから高エントロピーへの流れ、この「流れ」を時と名付けたのです。Photo_20200201142601だから「時間は概念として存在しても独立した不変の実在ではない」ということです。
  生きとし生けるものはすべてこの樹木のように大自然(宇宙)に包まれつつ、大自然(宇宙)を包み込んで生きている(流れている)存在なのです。だから、すべては流れている時であり、すべては変化して止まない、不変の実在はないということなのでしょう。
6.行く川の流れ
 方丈記の冒頭の一節は川の流れにたとえて、世の中も人も住処も水の流れと同じだ、と詩っています。 空間的存在としては川、時間的存在としては水の流れ、「川即水」を詩っているのではないでしょうか。
 「行く“時”の流れは絶えずして、しかも元の“時”にあらず。“時”の流れに浮かぶ、うたかたは、浮かびかつ消え久しくとどまりたるためしなし」と、そして「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と詩っています。
 人は時であり、川は人生だといっているようにも思えます。こんなことを考えるのも、潮騒の音も微かに聞こえてくる年回りになった徴なのでしょうか、己れも存在ではあっても実在ではない 、ということですね。

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2020/01/02

書名「身銭を切れ」

書名「身銭を切れ」
著者 ナシーム・ニコラス・タレブ
出版社 ダイヤモンド社

Photo_20200102113201 原題は「SKIN IN THE GAME」そして日本語の書名は「身銭を切れ」とても語感がいい。そして帯には「『リスクを生きる』人だけが知っている人生の本質」とあります。著者は「ブラックスワン」のタレブです。これだけでもうレジへ直行です。
「犬も歩けば棒に当たる」、これだから都心の大型書店で店頭を当てもなく歩くのは面白い、アマゾンの店頭では味わえない醍醐味です。
 原題を拙い己れの英語力で直訳すると「ゲーム(人生)に肌を晒す」でしょうか。雪山を歩いているとき露出した頬を刺す風、凍える指先の感覚でしょうか。確かにこのときは「生きている!」と実感する刹那です。さてそれを「身銭を切れ」と訳すとは。
 経営用語としても「リスクテイキング」という言葉が気軽に企業人の口から放たれるのを耳にします。「リスクを取る」というときの「リスク」とは何なのでしょうか。一方で「責任を取る」ともいいます。しかし「取る」というのは現在の行為、現在の行為の結果は未来が来ないとわかりません。未来の結果を”今ここ”で取るというのはどういうこのなのでしょうか。この現在と未来の間に不確実性という想像を超える非対称があります。この想像を超える非対称な未来へ向かって”今ここ”生きる心構えを「身銭を切れ」というのでしょうか。
 童話「星の王子様」にもこの「身銭を切れ」の寓意があります。王子様が自分の星を離れ「何か?」を求めて地球にやってきて、砂漠で狐に出遭うシーンです。王子様が「友達を探している」というと狐は「それなら僕を懐かせればいいんだ」といいます。懐かせるとは、絆を結ぶこと、自分にとって世界にたった一匹のかけがえのない狐にすることだというのです。それなら自分の星に残してきた我がままで高慢ちきな一輪の赤いバラの花は既に友達だったのだと気づきます。
 たまたま飛来した種子に水をやり風を防ぎ大切に育てて、やっと咲いた一輪の赤いバラ。王子様は己れが「身銭を切って」いたことを狐に出逢って気づくのです。
 童話「100万回生きたねこ」にもタレブのいう「身銭を切る」生き方が描かれています。その書き出しには「100万年も死なないねこがいました。100万回も死んで、100万回も生きたのです。りっぱなとらねこでした。100万人の人が、そのねこをかわいがり、100万人の人が、そのねこが死んだとき泣きました。ねこは、一回も泣きませんでした。」とあります。
 輪廻転生を100万回繰り返しても一回も悲しいと思ったことがないのです。悲しいと思ったことがないということは、100万回愛されても一回もうれしいとも幸せだとも思ったことがなかったのでしょう。
 100万と1回目に生まれ変わったとき、愛してくれる人はいませんでした。しばらくして、自分が愛する白ねこを見つけ、とらねこはその「白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。」でも今度はその白いねこが先に死んでしまいます。とらねこは100万回も泣いて悲しんでそして死ぬのですが、二度と転生することはなかった、という結末です。
 「愛されるねこから愛するねこ」へ、「身銭を切らない生き方」から主体的に「自ずから愛する生き方」へ、という「身銭を切る生き方」への転換が「不確実で予測不可能な世界で私たちがとるべき『生き方』」ではないか、と著者タレブは読者に問いかけています。
 本文中には「特定の種類の爆発的リスクを隠して安定した儲けをあげ、教科書のなかでしか成り立たない学術的なリスク・モデルを使い(学者はリスクについて無知も同然なので)、いざ銀行が吹っ飛ぶと急に不確実性(目に見えない予測不能なブラック・スワンと、例のものすごく頑固な作家)の話を持ち出してきて、過去の収入はちゃっかりそのまま懐に収める。これこそが私のいうローバート・ルービン取引だ。」(本文P35)ロバート・ルービンとはご存知のゴールドマン・サックスの元会長にして、第70代(1995年~1999年)USA財務長官のことです。
 さらに「身銭を切っていない人間の代表格ともいえる人物・・・・その名も元連邦準備制度理事会議長のベン・バーナンキだ。」(本文P45)。そして第5部には「生きるとはある種のリスクを冒すこと」ともあります。
 「身銭を切れ」、安倍・黒田マジックの賞味期限切れが囁かれ、新しい時代への対応が喫緊の課題になっている日本企業、日本人には令和初の新春に好適なキーワードかもしれません。

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2019/11/21

書名「負債の網」エレン・H・ブラウン著を読む

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書名「負債の網」
著者 エレン・H・ブラウン
出版社 那須里山舎
 MMTのTは「Theory」のT、当然ながら極めて論理的に語られています。だから大部のわりにとても分かり易い、分かりやすいがゆえに著者が書き込めていない「こと」、読者が読み落としてしまう「もの」もあるのかもしれません。
 昨春公開された映画「KUUKAI」の原作者夢枕獏さんは空海に口寄せしてこう語っています。「この世で最も大きいものそれは言葉、最も小さいものそれも言葉だ」そして「言葉は器だ」と。この世のすべては言葉の器に盛ることができると。人間の生きる現世とは言葉の世界だといっているのでしょう。だからこそ言葉の器に盛れない五官で捉えることができない「何か」があるといっているのだと思います。今日企業でも多様性とかダイバーシティとか声高に語っていますが、器そのものは空っぽの虚の空間、さて多様性、ダイバーシティという器に何を盛るのでしょうか、経営者の価値観がそして経営哲学が問われています。 
 この「現代貨幣論入門」の中ほどに「『悪』に課税せよ、『善』ではなく」とあります。読者が見落としてしまいがちな大事なフレーズです。所得税の累進税率を上げるのは所得再分配の原資を得るためではなく、企業の経営幹部の悪行を減らすことだとあります。いくら稼いでも徴税されてしまうなら、程よく止めておこうと考えるかもしれない。竹中平蔵さんが声高に叫んだトリクルダウンが起きないことは始めから分かっていたことなのですから。
 平家の怨霊に取り憑かれないように耳なし芳一の身体に書いたお経のようなものなのでしょう。通貨は債務証明書と視点を移動したようにです。
 政府が雇用創出のために財政支出せよ、といったテーマにも多くのページを割いています。けっして福祉政策とか社会主義というステレオタイプの視点ではないのです。
 この「現代貨幣論入門」の器から漏れているのではなかと思われることを掬い上げている器と思われる書物が今年3月に出版された「負債の網」(エレン・H・ブラウン著)です。
 MMT理論の理解に深みをもたらし、今日の世界情勢を通貨の視点から見直す好著です。現代の不換通貨を成り立たせている、眼に見えない貸方は「何か」、その「何か」を浮遊霊にするか「いのちの活き」にするかも己れの価値観次第なのかもしれませんね。通貨も言葉から派生した器の一つですから。

 

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書名「MMT-現代貨幣理論入門ー」を読む

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書名「MMT-現代貨幣理論入門」
著者 L・ランダル・レイ
出版社 東洋経済新報社
 話題の書を読みました。現代のドル、ユーロ、元、円といった通貨はご存知の通り不換紙幣といわれいます「もの」としての価値はまったくありません。近年コンピュータ内の記号になっりつつあって、紙や金属でもなくなりつつあります。
 僕は密かに浮遊霊と名付けてきました。耳なし芳一に取り憑いた平家の落ち武者の怨霊のように、「もの」とか「人」とか「何か」に取り憑いていないと安定しないからです。紙や金属や記号が取り憑くはずはないので、それを成り立たせている「何か」眼に見えないものが取り憑くのだと思っているのです。その何かを僕は浮遊霊と名付けてみたのです。1971年8月15日のニクソンショック以後の通貨ですね。なぜ8月15日だったのでしょうか、謎ですね、今もって僕には。
 浮遊霊はしばらく取り憑いて取り憑かれたものが有頂天になると、あっという間に離れていきます。今年になって金価格が1980年以来の高値を付けたとにぎわっています。金一㌘は古代から一㌘なのにおかしいですね。
1971年8月は一㌘  405円( 1.13米ドル)
2019年8月は一㌘5,000円(48.23米ドル)
 金の本質は同じ一㌘なのに48年前と今とでは、円では12倍、米ドルでは43倍になっています。円高、米ドル高ではなく計る物差しが動いている証しです。今でも日本は輸出立国(貿易立国ではなく)と思っておられる方が多いのですが、さてこの金という視点からみれば、48年間の日本の貿易黒字(米ドルと交換した労働力や資源)の累積は米ドル(紙切れ)と交換することで、単純にいうと3分の一に目減りしたともいえるのです。浮遊霊といわずして何というか。金がいいというわけではなく、視点をどこに置くかで見え方が変わってくるといいたいのです。
 このMMT理論では一国の視点でみれば「輸入は便益であり、輸出は費用である」とあります。紙切れで他国の「もの(労働力・資源)」を買うのですから視点を変えれば、どちらが得しているのかはあきらかです。
 又MMT理論では「自国で通貨を発行している主権国で変動相場制を採用している国なら自国通貨をいくらでも発行できる」ともいっています。プライマリーバランスと言い募っての消費税2%増税の大騒ぎが馬鹿に思えてきます。
 現代の通貨は政府の債務証明書にすぎないともいいます。そうなんです。個人が現預金を資産と思って持っていると複式簿記では、個人の貸借対照表(以下B/S)の借方(左)に記載されています。同時に同額が発行した政府のB/Sには貸方(右)に記載されているはずです。
 だって左と右が必ず一致する複式簿記の恒等式が当てはまるのですから。個人が現預金で納税すると個人のB/Sの借方(左)が減り、政府のB/Sの貸方(右)が減るのです。政府は徴税したお金を事後的に政府支出として使うのではなく、あらかじめ債務証明書としての通貨を発行しておいて、後から徴税して債務を消すのだとMMTはいいます。
 ですから幾ら通貨を発行してもハイパーインフレにはならないと。そしてその債務に本来金利を払う必要もないと。国民は現預金を資産と思って大事にしていても、国家の負債を後生大事に抱えているだけだ、ともいえます。黒田マジックのインフレターゲットも、国家の負債を減らすための旗印、ゼロ金利は国民の預貯金に利子をつけないための旗印なのかもしれません。これでは国民の1、000兆円余りの預貯金は踏んだり蹴ったりです。
 「世界は一家、人類はみな兄弟」と高らかに語ったのは故笹川良一氏でしたが複式簿記的にも必ず誰かの借方(左手)は誰かの貸方(右手)と繋がっています。人類70億人がそして国家はもちろん、企業の、家庭のB/Sも全部右手と左手で手を繋ぎ、その網の上を現代通貨(不換紙幣)が流れているのだと思います。流れているものは紙や金属といった形のあるものではなく、眼に見えない浮遊霊でもあり、「いのちの活き」でもあります。
 複式簿記の借方(左)貸方(右)のイメージを膨らませて読むとこの500ページの大著もとても読みやすくなります。不換紙幣である現預金を借方(左)からみるか貸方(右)からみるかの視点(始点)の移動ができるか、そして借方貸方という西欧的二元論から、東洋的循環論へと視点を移せるか否かではないかと思います。
 読了して引っかかる点が二つ残りました。一つは、政府の貸方と繋がっているさらに奥(始原)の眼に見えない借方(左)は、誰の借方(左)か?、大自然か?、神なのか?。MMT理論では国民の納税義務だ、といっています。ですが、義務は「空」で貸方(右)のはずですから、政府の貸方(右)とは直接つながることはできません。徴税権として繋がっているはずです。通貨発行は徴税権の先行行使なんです。とするとその権利行使(借方)のその奥に控えている貸方(右)は「何か?」、民主主義国家の原理では徴税権を与えているのは国民、さすれば、奥の貸方は国民全体の生活に対する国家が負っている義務ということになるのではないでしょうか。封建国家では国王、専制国家では皇帝の貸方(右)に絶対権力が神のようにあったのでしょう。
 もう一つの疑問は、MMT理論では前提条件を三つ挙げています。
①主権国家で自国の通貨を発行している
②変動相場制を実施している
③政府と中央銀行が一体である。それは政府のB/Sと中央銀行のB/Sを100%連結できること。 
 EU加盟国でユーロを使用している国では、欧州中央銀行(ECB)が加盟国から独立して主権の及ばない上位にあるので、MMTは当てはまらないことになります。今の中国は為替管理をしているとすれば②のところで当てはまるのか否か疑問符が付きます。日本の政府と日銀の関係はどうか?アメリカの中央銀行である連邦準備制度(FRS)とアメリカ政府の関係はどうか?MMT理論では問題にしていませんが、気がかりなところです。
 いずれにしろ国家を統べるリーダー達が視点を変えることができるかどうかにかかってますし、いかなる経済理論も運用を間違えれば、今日のような格差拡大を惹き起こしたり、バブルを起こしたり、紛争戦争といった憎しみの連鎖、果てはハイパーインフレーションといった災危から逃れることが出来ないことには変わりありません。すべては色即是空なのですから。

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2018/10/01

今読む!書名「未来を読む」著者ジャレド・ダイアモンド他

書名「未来を読む」-AIと格差は世界を滅ぼすか-
インタービュー・編-大野和基
著者 ジャレド・ダイアモンド/ユヴァル・ノア・ハラリ/リンダ・グラットン/ダニエル・コーエン
出版社 PHP新書(2018年6月23日初版)
書名「情報の文明学」 
著者 梅棹忠夫
出版社 中公文庫(文庫版1999年初版)
20181001_3 トランプ政権の誕生で分断されつつあるアメリカ社会のその分断が露わになってきたように思う。同じように日本社会でも安倍政権の誕生以来分断されつつある日本社会の分断が露わになりつつある。しかしこの露わになった多様な分断線は、第二次世界大戦の混沌(廃墟)から70年余の帰結なのかもしれない。さらに遡るアメリカ建国以来、日本では明治維新以来の様々な線引きの帰結なのかもしれないとも思う。とすると、”今ここ”の分断線に眼を奪われていても解決策は浮かばない、解決策なんてあるわけがないのかもしれない、唯一の解決策は再びの混沌に戻ることなのか?と思いつつそれでも「よい処方箋はないものか?」と書店の店頭を渉猟してみた。「犬も歩けば棒に当たる」の格言通り本書に当たったのだ。「しめた!」と思った。
 新書であり、インタビューをまとめたものではあるが、著者は、「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンド、「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ、「LIFE SHIFT」のリンダ・グラットン、「経済成長という呪い」のダニエル・コーエン、といったすでに日本でも著名な方々、既にこれらの著作を読まれた方も多いことと思う。西欧の碩学の読む「未来とは?」。立ち止まって耳を傾けて、少し遠くの未来を見ておくことは己れ自身の未来の処方箋を考えるうえでも貴重なことではなかろうか。
 サブタイトルには「AI,格差、滅ぼす」気になる漢字も踊っている。AI、人工知能の高度化、IPS細胞、ゲノム編集といった医学分野の高度化は人間社会の未来に何をもたらすのか。

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2018/05/03

今読む「新・生産性立国論」デービツド・アトキンソン著

書名「新・生産性立国論」

 

著者デービッド・アトキンソン著

 

出版社 東洋経済新報社
Img_1218_2 近頃多くの企業経営者や政府(官僚)が「生産性」「生産性」と声高に語っています。しかし「生産性」なる言葉を声高に掲げる方々の多くが「生産性とはなんぞや?」と、その意味をまともに捉えていないように思うのですが、いかがでしょうか。その現れが国会の「働き方改革」法案に現れています。政府(官僚)はデータを偽ってまで「働き方改革」法案を通そうとし、経済界もそれを歓迎しています。しかし「生産性とはなんぞや?」と真面目に問い直せば、この法案はどう贔屓目に見ても「働かせ方改革」法案にしか見えないのです。
 イギリス人の著者デービッド・アトキンソンは元ゴールドマン・サックスの金融人。そしていま現在は、なんと神社仏閣、国宝・重要文化財の修復を専門に手がける小西美術工藝社代表取締役社長というから驚きです。この本の帯に「『労働者の質』はトップレベル「『無能な経営者』こそ問題だ」と著しています。

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2018/01/04

明けましておめでとうございます(2018年元旦)

20180101明けましておめでとうございます。
 毎々のの賀状です。
 年末に塩野七生さんの「ギリシャ人の物語Ⅲ」が出版され、古代ギリシャの歴史物語が完結しました。今何故ギリシャなのだろうか?、民主政の勃興と成熟そして衰退、それに重なる都市国家アテネの盛衰の様を活き活きと描いています。
 民主政の盛衰と国家の盛衰、その過程で政治家は如何に行動し、有権者は如何に対応したのか。昨年の日本の政治の有り様も写し絵のようにもみえます。最終巻は古代ギリシャの辺境で王政を敷いていたマケドニア王国に現れた青年アレキサンダーの物語。「ローマ人の物語」以来欠かすことなく、年末に一巻ずつ上梓し続けてきた塩野七生さんの持続力は、パワー、エネルギーという表現より以上に我々読者への律儀さというに相応しいようにも思えます。律儀を貫くにも強いエネルギーが必要なのですね。

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